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現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より