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国立大学がとうとう附属学校の管理に乗り出すか

 国立大学の附属学校というと,いかにもエリートの養成というイメージがつきまとうかもしれないが,

 それができていた最大の理由は,「自由な教育」が確保されていたからである。

 偏差値が高い附属学校ほど,「自由度が高い」ことは世間の常識だろう。

 読売新聞のニュースによれば,文部科学省の国立大学法人評価委員会が公表した評価結果で,群馬大と東京学芸大が「業務運営の改善と効率化」という項目で最低評価を受け,これが来年度以降に配分される運営交付金にも反映される見通しだという。東京学芸大の場合は,いじめで重傷を負った附属高校の生徒の訴えに対し,事実確認が不十分で重大事態として認識するのが遅れたことが問題視されたようである。

 東京学芸大にとってみれば,「とんだ迷惑」といったところだろう。

 これをきっかけに,いよいよ河野太郎議員が指摘した「文部科学省による国立大学の植民地化」が,附属学校にまで及んでくる可能性が考えられる。

 なぜなら,都道府県や市区町村の「教育委員会」のような組織も人材もいない国立大学に,附属学校の管理を行う能力などないからである。

 ザ・リバティWebというサイトで,小林真由美さんという方が,次のような「図式」を書かれている。

*********************

 そもそも国立大学が法人化されたのは,自立した環境の下,個性豊かで特色ある研究,教育に取り組むことが目的。各大学が国の統制下から外れて,独自性を強めて特色のある研究を促すことを目指していた。

 しかし,実態はまるで逆。

 大学は,文科省のOBの天下りを受け入れることで,補助金を得たり,新学部設置の際などに文科省の嫌がらせを受けずに交渉を進められたりするというメリットにあずかる。

 文科省の官僚としては,天下り先の大学に補助金をバラまき,天下り後は自らの給料や退職金として懐に回収できる。

 これが文科省の一部の官僚と大学との間の「持ちつ持たれつ」の癒着関係。

 文科省の現役の官僚が国立大学法人に出向するのは「現役出向」と呼ばれる。

 政府はこれを大学などに再就職する「天下り」とは区別している。

 しかし,現役出向も天下りと同様に,癒着の温床になる懸念がある。

 受け入れ側の大学の運営に省庁の意向が過剰に反映されたりするという懸念もある。

 そうであれば,憲法で定められている「学問の自由」を文科省自らが破るということになりかねない。

********************

 ある教科書を採択した国立大学の附属学校に,文科省から「採択理由の聞き取り」に来たことは,もちろん違法ではないが,自分のところで検定を通しておきながら,その教科書が気に入らなかったことは明々白々である。

 河野太郎議員は,与党議員である。議員の頑張りに期待したい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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