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「自由」を強制する目的とは?

 ひめゆり隊だった女性が,米軍の攻撃中に,日本軍から突然「自由」を指示されたという話を伝えているそうだ。

 社会学者の見田宗介さんが,現代思想2016年9月号で「これを本当に自由のいうのか」「どこに行ってもよい,と指示されるだけでは,現実的には自由であることにはならない」「希望がないところに現実的,実際的な自由はない」と指摘していることも紹介されている。

 教室で子どもたちに課題を与えた後,動き回ったり人と協力したりして,自由に解決・達成できるチャンスを与え,その教育効果に期待を寄せる人たちがいる(なぜか,10人以下の学級では成果がでないそうである)。

 無責任な日本軍との違いはどこにあるのだろうか。

 「すべての子どもがわかるようになる」という現実的な希望があることだろうか。

 「教師が教えるより,子どもが教え合う方が効果が高い」という実際の成果があることだろうか。

 希望が見えることはよいことではあるが,実際の教育現場には,とても大きな「壁」がある。

 それは「時間が限られていること」であり,「習得すべき内容がとても多いこと」である。

 「自由」を与えるということは,「自己責任」を追わせるということとイコールである。

 「保護」しているように見えないのは,「保護すること」が目的ではなく,

 「だれか一人ができない責任を自分たち全員で背負えるようにすること」が目的なのであって,

 「自分たち」の中に「教師」が入ってこないところがミソである。

 「跳び箱」をたくさん跳ばせたい。

 教師が一人しかいない一斉授業では,なかなか子どもが回数をこなせない。

 だから,子どもに子どもを監督させる。

 もし,「全員が跳べるようになること」を課題とし,

 無理をして跳び箱から落下して首の骨を折る事故を起こしたら,

 無理をした子どもや補助していた子どもはどうなるのだろうか。

 当然だが,精神的に「重い責任」を負わせられることになるだろう。

 『学び合い』では,「先生,ここは教えて下さい」という子どもの希望にはどのように対処するのだろう。

 「教えて下さい」と言ってきた子どもにだけ教えて,他のことをしていた子どもには教えないのだろうか。

 一端「自由」を認めた集団に対して,教師が統制しにかかるのは難しいし,統制するのであれば,はじめから「自由」には何の意味があるのか,という疑問を子どもが持ちかねないという問題もある。

 檻の中での「自由」に反旗を翻すことは,小学生はおろか,大人でも難しいだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より