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傲慢な人間が変われる機会~誹謗中傷をして何とも思わない人間に「価値学習」の価値を語る資格などない

 大学のセンセイにプライドがあるのはわかる。

 中学校の教師の私にだって,プライドはある。

 教え子の中学生にだって,プライドはある。

 その保護者たちのプライドもすさまじいものがある。

 こういうプライドは,ときに傷つけられる場合がある。

 プライドというものは,人から傷つけられるものだ,と一面的にとらえてはいけない。

 自分のプライドを自分が傷つけていることに気づけない人がいるのは悲しい。

 他人の言動によってプライドが傷つけられたときに,自分から不適切な反応をとることによって,自分の首を絞める結果になることがある。

 著書を貶された元都知事がとった反応が,逆に「どの口が言うか」という反感を買う結果になったらしい。

 ブログ村には,他人から噛みつかれると,異常な反応を示す人がいた。

 防衛反応というより,「攻撃は最大の防御なり」みたいな感覚で,激しい攻撃をしてくるのが常であった。

 私はそのエネルギーを別の方向に・・・よりよい教育の創造に向けることが,何より教育への情熱の望ましい姿だという信念から,いかに攻撃している自分の方が損しているかを説き続けたのだが,結果は無駄だった。

 どれだけ論理的に語ろうとしても,感情面の高ぶりが思考力を低下させてしまったようで,出てくる言葉は下品・下劣・罵詈雑言の類のものだった。そして統合失調症の解説が定期的に繰り返されるのが痛々しかった。よほどつらい人生を送ってきたのだろうと同情した。

 私に対して

>貴公のような「犬クソ」教師
>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知
>国語力を鍛えなおしてはいかが
>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う

 などと誹謗中傷を行った現役の大学のセンセイも似たようなものである。

 私なりに,情報を集めさせてもらった。

 私には,怒りの感情はない。どちらかというと,戸惑いの感情である。

 「どうしてこういう人が大学に存在するのか?」という戸惑いである。

 退職が間際に迫っており,「辞めたらすべてのことから足を洗う」と言い放っているセンセイにはその無責任さに心底辟易し,憤っているが,若い人には「変われる機会」がきっと訪れるはずと信じたい。自分もそうだったから。

 「無視した方が相手にはこたえる」というご忠告を下さった方もあったが,

 「もったいない」という言葉を口にされていた先生もいた。

 その性格で,とても損をしているように思える。

 どうしたら変われるのだろう?

 倉橋竜哉さんの「毎朝1分!天才のヒント」を購読させていただいているが,今日のヒント #3391 「プライドはありますか?」では,

>今まで自分や他人に対して厳しかった人が、急に優しくなったりして、まるで仏のように人間が丸くなるケース

 が紹介されていた。それは「大病を患ったとき」である。

>入院していなかったら、自分の中にある「怒りの業火」で自分や周りを焼き尽くしていた

>「自分ひとりのチカラでここまでやってきた」というつもりになっていたけど、実際のところ自分のチカラはちっぽけなものだと気づいた

>自分や他人に対して「これが正しい」「こうあるべき」と押し付けていたこと、そこから外れると「それは間違っている!」とか「ゆるさない!」と責め続けていたことに気づき、そのストレスが澱のように積み重なって、大病の原因になったんじゃないか

 何も,「大病にかかれ」と言いたいわけではない。むしろ,「大病の原因をつくっている」ことの危険性を認識すべきであると言いたい。

 せっかく苦労してつくった訳書名を検索すると,上から2番目に「参考にしたい内容がない」という感想が書かれた記事へのリンクが示されている「事実」が不本意であることはよくわかるが,その記述が「事実」であることは否定できない。

 「価値学習」の結果,自分とは異なる価値観を認めない,という人間を生み出すのはおかしいと思うし,誹謗中傷をして何とも思わないような人間に,「価値学習」の価値を語る資格などないと私は考えている。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より