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「自分のクラスの子どもだけ,一人も見捨てない」でいられるセンセイたち

 『学び合い』が失敗する原因の一つは対人関係であるという表現は,不適切であるように思います。

 原因と結果の関係が逆なのではないでしょうか。 

 教師間の対人関係を悪化させる原因が,『学び合い』である,という方が正確でしょう。

 教育の失敗を「他人のせいにする」癖がつくのが『学び合い』なのかもしれませんが・・・。

  『学び合い』では,従来型の授業をしてきて「出世」した人間を「敵」扱いしているだけでなく,従来型の授業をして「出世」しようとしている同僚も「仲間」「同志」ではないのですから,当然,職場の対人関係が悪くなる学校が出てきます。

 他校の「同志」とのつながりの方が,自校の「同僚」とのつながりより大事。これでも小学校では生きられる。

 そもそも小学校の教師のように,自分のクラスだけ,自分の思うように教育できる職業では,対人関係の悪化は容易に起こりえます。「学級王国」から成り立つ連合国家のような場所が小学校だから,対人関係が悪くても,教育が成立してしまうというのが小学校の利点とも言えます。ある小学校などは,学級間の競争意識が強く,教師の対人関係の悪さをバネにした教育が行われているくらいです。

 小学校は,自分のクラスの子どもだけ,「一人も見捨てないぞ」と粋がることが可能な職場です。

 中学校のように,学年集団のまとまりがないと協働生活が成立しにくい環境では,たとえば,学年会,担任会で,不登校や問題行動を起こす生徒をはじめとした「見捨てられない子ども」の日常を,すべての教員で把握できるよう,とても長い時間をかけて情報を共有しあいます(もちろん,不登校の子どもと,その子を支えている子どもたちのために2時間,3時間でも他のクラスの担任の言葉に耳を傾けられる小学校の先生もいるでしょうが)。

 こういう職場の先生方が,「あなたたちは授業で子どもたちを見捨てているんですよ」と言われたらどんな気持ちになるでしょうか。

 「一斉授業をしているやつらより,オレはマシな教育をしている」なんていう目をもっている教員が近くにいたら,どんな気持ちがするでしょう。 

 小学生のほとんどは,担任の先生に対して「思いやり」をもちます。

 「見捨てる」とか「見捨てない」などという見方で人間を見るのは,心の卑しい大人だけです。

 子どもはどんな授業をする先生でも,決して「見捨てる」ことはないでしょう。

 だから,『学び合い』は問題なのです。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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