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2017年6月

「一人も見捨てない」などという大風呂敷の教員よりも,「今,そこで困っている一人が救える」教員が求められる

 タイトルで言いたいことは言い尽くしている。

 目の前の一人を見捨てない人間でないと,一人も見捨てない教師にはなれない。

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教員でも「稼ぐ」人間が大事にされる時代が来るのか?

 私が指導主事だったころ,文科省にいた知り合いの先生が,出版やら講演やら何やらで儲けまくって,問題視されたことがあった。内部から刺されたのだろう。

 週刊誌に「副業」のあがりの金額をすっぱ抜かれて,その先生は結局大学に行ってしまうことになったが,そっちの方が堂々と仕事ができて,幸せだったに違いない。

 あるラジオ番組で,これからのサラリーマンは年収が上がらないから,自ら主体的に「稼ぐ」意思をもって,起業したり,副業で収入を増やそうとしたりする「マインド」を子どものころから培っていかなければならない・・・とだれかが主張していた。

 最大のネックは,12年間くらい教育を受ける場では,「稼ぐ」マインドをもった人と接することができないことだ,とも。先生は「稼ぐ」人ではなく,ただ給料を「もらう」人だと。

 とすると,自分のクラスの児童には自習をさせて,どこか他の学校に講師としてせっせと出かけてしまうような先生が大勢いた方がよい,という話になっていくのだろうか。

 「今日もうちの担任は出張だ。お土産のお菓子が待ち遠しいなあ」

 これはこれで,世も末,という感じである。

 子どもを見る時間が減ることによる「ツケ」は,決して小さくはない。

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アメリカの反知性主義を輸入した人たち

 教育を自分が理解したいように理解し,反対の意見に聞く耳を持たず,自分だけが正しいと主張したがる人間が,やけに増えてきたと思えるようになったのはなぜだろうか。

 学習指導要領のように,ごった煮にしすぎて,内部が矛盾だらけ,という問題のある国家指針も問題だが,それが誤っていることと,自分の考えが正しいこととは関係がないのに,「オレの言うことが正しい」ことを威張るためにこの話を持ち出す人がいる。

 こういう人の出現の背景にあるのは,アメリカの反知性主義である。

 過去を否定するのが大好きな連中が,過去にあった議論と全く同じような主張をして調子に乗っている。

 何か新しいことを言っているつもりになっているのだが,どこにも新しさが感じられない人が大勢存在することが理解できないのだろう。自分が知っていること,経験していることがとても少ないからである。

 日本にこういう人たちがうようよし出す前に,真面目に教育のことを考えてくれる人が絶滅しないよう,願っていたい。

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胡散臭さに気づける大学生がいて安心しましたが・・・

 ある国立大学のセンセイの教え子のことが心配で,知り合いの何人かの方に状況をお聞きしたところ,さすがに国立大学に合格できる人たちはそれなりの見識をもっていることがわかり,ほっとしました。

 自分がお世話になった先生方との比較ができる年齢であることの意味も大きいのでしょう。

 現場ではできそうにもないこと,教育学部以外の人からは笑われそうなことを延々と主張されることに嫌気がさしている大学生が多いそうで,アカハラを避けるために従順なふりをしている大学生も含めれば,「支持者」がわずかであってくれるのは,とても喜ばしいことです。

 ある先生は,「最近の学生の中には,嫌に自信だけはあって,中身のないのが目立ってきている」と教えてくれましたが,それは大学のセンセイの中に,そういうタイプの人が紛れ込んでいるからなのかもしれません。

 先日,ある研究会に参加された初任者の先生は,「私は教育学部出身で,専門と言えるものがありません」と頼りなさそうにぼそっと話されていましたが,私のように現場の叩き上げの教員を見てもらって,どこを出ようが勉強するのは教員になってからでも十分,という空気を感じてもらうだけでも,参加していただいた価値があったのではないかと思っています。

 大学では,謙虚な人間と,傲慢な人間のうち,どちらの割合がどれくらい多いのでしょうか。

 傲慢な人間が語る教育は,「国産」のものではなく,「舶来品」に目がくらんでいることが多いようですが,私のように「国史」という「純国産」の学問に触れてきた身としては,どうしても胡散臭い印象がして仕方がありません。

 英語の本を日本語に訳すとき,自分の都合のいいように解釈し,自分の主張を展開するための材料として「利用」することもできるため,「捏造」とまではいかなくても,「本物」であるかどうかの判断をするためには原著を読まないとならない(けれど暇がないからできない)という限界があり,いちいち相手にしていられない,というのが論争相手の考えなのでしょうが,現場の教師にしてみれば,一読しただけで,本物かどうか,ありふれたものかどうかくらい判断がつきます。

 胡散臭い人たちに共通するのが,「論理の飛躍」というか,「目的と手段の強引な結びつき」というか,・・・一言でイメージを表現すれば,「傲慢さ」に尽きるのです。そんな方法で子どもたちを騙すなよ,と言いたくなる。

 騙されないで正気が保てる大学生たちを応援します。

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教育を「売りもの」にする卑しき「教育者」たち

 ほぼ言葉だけを中心に伝えられる「現場の教師の役に立つこと」を,「商いもの」にしたがる「教育者」がいるのが許せない自分がいる。

 だれのおかげで「教育を語る言葉」を手にすることができたのか。

 子どもを「商売道具」に使う人間がとても多い校種がある。

 みんな同じような目つきをしているのが気になる。

 昨日はある学会で発表させていただいたが,

 参加者からお金はとらない会だったので,気兼ねなくその場にいられた。

 会場を準備していただいた大学の先生のゼミの学生さんたちは,

 休日出勤?で大変だったかもしれないが,訳の分からない

 仕事を強制されるよりは,よほどましな発表会だったと思われる。

 もちろん会場費がいらない背景には,入試やら入学金やらで大学に大金を納めてくれている多数の家庭があるわけだが。

 「商売人」ではなく,現場の「教育者」らしい言葉は届いただろうか。

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「倫理」「モラル」軽視の「商売重視志向(嗜好?)」が教育の世界にも定着している

 原子力発電の割合を20%程度まで引き上げたい政府に対し,「倫理」を盾にして反対している人たちの説得力は,今ひとつパワーに欠けている印象がある。

 神社の御朱印帳がネットオークションで転売されたことに対して,神社側が怒っている,というニュースを目にすることができた。

 「商売の倫理」という言葉があるのかどうか知らないが,「自由な取引」と「モラル」の価値を対比させて考えさせることができるよい題材(題材にすること自体は,神様にも許してもらえると思うが・・・)である。

 中学生からは,「足が不自由で神社に参拝できない人にとって,ネットで入手できる仕組みは必要だ」という声が聞こえてきそうである。

 神社参拝に対して個人が抱く「ありがたみ」の違いは,大人と子どもを比べても,あるいは子どもだけでも受験の前とそうでない時期を比べても,個人差がとても大きいだろうが,「ありがたみ」を感じる人が少なくなればなるほど,「自由な取引」の方が大切な価値として認識されやすくなりそうである。

 教育の世界でも,「なんでこんな程度の研究会に3000円とか4000円とか払う必要があるのか」と憤慨したくなる中学校,高校の教員がいる一方,大学や小学校の教員はむしろ「こんなに安いお金でいい話が聞けるんだからありがたく思え」なんていう態度でふんぞり返っている。

 大学のセンセイを講師に呼んだ場合,安くても2万円くらいはかかり,人によっては5万円くれないと行かない,などと公言しているのもいて,そういう人間の財布を潤すために主催者は金額を決めなければならなくなっているのである。

 お金を出したくない人は行かなければよいわけだから,「自由な取引」はいつでもどこでも成立する。

 「商売の倫理」が「教育の倫理」に勝つ時代に即した「教育方法」を熱心に広めてようとしている人がいるのも,致し方ないことなのだろうか。

 「こんな教育を続けていたら,お前の教え子達の大部分は将来,仕事につけないぞ」という脅迫を受けるために,どうして大切なお金と時間を手放していくのか,私には全く理解できないのだが。

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すでに「深い学び」への関心が高まっている

 「主体的・協働的な学び」に関する実践や研究は,これまで数十年かけて積み上げられていました。

 一方,「深い学び」の方は,そもそも英語で表現できる概念なのか?という疑問が湧くほど,欧米教育制度輸入専門学者には説明不可能なものになっており,現場では戸惑いがあります。

 学習指導要領解説が公開されていますので,「改訂の基本方針」の

>③「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の推進

 の項目を読んでもらえれば,「深い学び」を登場させている理由がわかります。

深い学び(ここにはカギ括弧が必要でしょう。出版されるときは訂正されると思います。)の鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は,「どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり,教科等の学習と社会をつなぐものであることから,児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ,教師の専門性が発揮されることが求められていること。

 要は,「深い学び」はできない,としている学習の方法,考え方が生き残れない時代になった,ということです。

 研修に見えたある先生から,「深い学びとはどんなものだと思われますか」と問われたときに,

 文部科学省的には,上の内容ですよ,とお示ししたあと,

 私の本心は,「そもそも深くなければ学びではない」「人間そのものが深い存在だ」という趣旨のことをお伝えいたしました。

 10冊とか20冊程度の本を読んだだけで教育ができるのであれば,資格試験など必要ありません。

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現場の教師にしかできない仕事

 先日,学校公開週間に私の最初の勤務校を訪問する機会があった。

 21年ぶりの訪問である。校舎はほとんど変わっておらず,校長先生は廊下のタイルが剥がれまくっていることを気にされていた。

 各教室とも,30人くらいの教室で,これでも少人数とは言えないはずだが,

 40人学級で10年以上仕事をしている身からすると,

 「いろいろなことができそうだな」という感触も得られたが,

 「少し寂しそうだな」という印象を強く受けた。

 私の妹の長女の学級をのぞくことはできなかったが,廊下を歩いていると,昔とあまり変わらない挨拶の習慣は定着していてよい印象だった。

 初任者として6年間お世話になったこの学校の周辺には,いろいろな意味で本当にお世話になった方々がいる。

 正門から歩いて50mくらいのところにある花屋さんに挨拶にうかがった。

 ご夫婦はお元気で,私の顔も覚えていて下さった。

 さすがにこのお店まで私の大きな声が届いていたとは思えないが,地域を歩くと恥ずかしい気にさせられたことも思い出した。

 当時は,伝統があり,一定の評判がある地域の学校は,「○○区の学習院」と呼ばれていた。

 高校に進学し,出身中学校名を自己紹介ですると,それだけで一目置かれる経験をして,初めて中学校に誇りを持てた,という卒業生もいるらしいが,多くの在校生は胸を張って日々を過ごしていた気がする。それは,教師たちも同じであった。もちろん,それをプレッシャーに感じる人がいたり,生活指導で苦労しないですむ,と手を抜いたりする人もいた。とにかくありとあらゆる教師のタイプ(管理職も含めて)をそこで知ることができた経験は行政に入ったときにも役に立ったと思う。

 とてもよい環境で仕事ができたからか,たった2年で教育の仕事を放棄した人の気持ちはわからない。

 いわゆる「良い学校」の勤務中に辞めるのであれば,まだ「本当の志が別にあるのだな」という気にもなるのだが,

 「暴走族を相手に私は頑張った」などと粋がっても,結局は底辺校に嫌気がさしたんだな,と思われても仕方がない辞め方をした人の気持ちはわからない。やる気のある人の採用枠を1つ増やしてくれたことの意義は大きいけれど。

 授業の評価をあれこれとすることは,簡単なことである。

 100時間分くらいの40人の子どもの言葉をすべて拾い出して,それぞれの子どもの成長を考える作業は,研究だけで飯が食える暇な人にしかできない。

 現場の教師は,授業はもちろん,休み時間や放課後の時間も含めて,教室の40人に限らず,ありとあらゆる場面で子どもたちの言葉に晒され続ける。人間のコミュニケーションは,録音可能な「音声言語」に限ったものではないことはだれでもわかることだろう。その言葉を口にしたときの表情,周囲にだれがいたか,どのくらいの大きさの声か,普段の話し方とどう違っていたか,それらすべてが大切な情報である。

 教育の現場に年間200日くらい居続けなければ,そういう情報は手に入らないのである。

 もちろん,絶対に聞き逃してはいけない言葉,見過ごしてはならない表情というものがある。

 それを聞き逃さない,見過ごさないのはセンスも必要かもしれないが,

 センスがなければ経験でカバーするしかない。

 「一人も見捨てない」という表現は,人によって捉え方がまちまちな言葉である。

 親ならまだしも,不特定多数の人のために尽くす医師や教師,政治家などが,軽々しく口にするべきではない言葉だと私は考えている。

 どうしても,「私が担当している患者に限って」「私が担任しているクラスの子どもに限って」「私を支持してくれる人に限って」という条件が必要になってきたり,実際にそうなってしまったりする言葉である。

 でも,そうであるならば,文字通りの「一人も見捨てない」状態にはなっていない。

 では,「少人数に限った集団の人間を一人も見捨てない」と言い換えたときはどうだろう。

 私は,「見捨てられない対象になった子ども」の身になってみると,

 「そいつを見捨てると自分たちが損するから」という論理で世話になり続けることに耐えられるのだろうか,という疑問がわいてくる。

 「この課題,あの子にはできないだろうな。だから,私が教えてあげないと・・・」という発想で,ちらちら見られ続けることになる。

 「全員ができるようになる課題」に意味があるかどうかは別として,子どもは容易に「わかったふり」「できたふり」をするようになることが予想される。

 「深い学びをするつもりはない」そうだから,「わかったつもり」のまま,全生徒が放置される教室では,学習指導要領の総則に反する教育をしていることになる。

 本当の意味での「一人も見捨てない」を成就したいのであれば,当然のことだが,文科省に対して反旗を翻さなければならないはずである。それをしないで「一人も見捨てない」は絵に描いた餅に過ぎないだろう。


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東京都教育委員会の傘下に入る?東京学芸大学と附属学校

 国立大学の附属学校をつぶしていこうという動きは,すでに30年以上前からあったものだが,そう簡単にできることではなかった。行政が規定する存在意義と,実社会での存在意義が乖離しているのは何も国立大学の附属学校に限ったものではないからである。

 ただ,現状のような官邸主導の「恐怖政治」が続けば,「消されにかかっている」ことを肌で実感できるようになるだろう。現に,公立学校の採用試験に合格できない人を採用している附属学校が増えて,一般の公立学校よりも指導力に課題がある教員が増えていけば,附属学校の存在意義は一切説明がつかなくなるだろう。

 国立大学の附属学校には,一般の学校にとっての「教育委員会」と同等の機能を果たすための事務局がない。

 そこが最大の弱点だと定義できる立場からは,格好の攻撃対象になる。

 東京学芸大学の大学院の先生を見てみたら,驚いた。

 東京都教育委員会の「重鎮」だった方々が並んでいらっしゃる。

 これで,東京学芸大学の附属学校は,「安泰」だと思われた。

 都立高校のような「改革」がどんどん進められるだろう。

 国立大学の附属学校に,「ガバナンス」(=管理・支配)が働く時代になったのである。

 これではもはや,国立大学の附属学校に存在意義は見いだせなくなるだろう。

 もうお気づきの方が多いと思われるが,今の政治のもとでは,そもそも国立大学に存在意義はないのである。

 
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文科省への「指示」の実態が明らかになると・・・

 私は文科省のある内部情報を根拠に,学習指導要領関係の仕事をお断りしたが,

 これは文科省が悪いわけではない。

 とうとう,前川氏が「最も重大な問題群」にふれだしている。

 「安保法に反対する学者」はずし。

 「政権への批判的なことを口にする人間」はずし。

 だが,まだ,「最も重大な問題」にはふれていない。

 これは,彼が今までに受けてきた「揺さぶり」の倍返しであるように見える。

 「最も重大な問題」が明らかになると,

 教育の世界には激震が走るだろう。

 さすがに教育現場にも迷惑がかかる「最も重大な問題」だから,

 前川氏にとっても公開することは憚られるだろうが,

 「恨み骨髄に徹す」状況にもっていったのは「あちら側」である。

 警察庁出身で,官邸の危機管理担当をしている人物が,どういう仕事をしているのか。

 前川氏が述べたことが事実だとすると,

 「政府の危機管理」の具体的な方針がはっきりと見えてくる。

 「恐怖政府」とはどういうものか。歴史にはっきりと刻み込まれることになるためには,

 さらなる数の「正義」の側の被害者が必要なのだろうか。


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「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」

 私は指導主事を経験して,自分がとても恵まれた環境にいられたことに感謝している。

 まだ十数年前は,指導主事を「教育委員会の犬」として露骨に嫌悪できる教員たちがいた。

 指導主事というものは,「お上」の考えをただ伝達したり押しつけてきたりするような人間であり,自分たち教員のことなどこれっぽっちもわかっていない,という印象を持たれていた。

 人間というのは,嫌われた状態から入り,相手の誤解を解くことで,一気に距離を縮めることができる。

 そのおかげで,小学校の研修会に継続的に参加させてもらう機会を得ることもできた。とても貴重な経験だった。

 今の指導主事さんたちはどうだろう。

 呼ばれなくなったら終わりだが,ただ呼んでもらうだけでもダメである。

 私は,文科省の教科調査官とか,大学のセンセイたちは気の毒だと思う。

 おそらく,研究会や研修会で厳しい質問攻めに合う経験など,ほとんどできないのではないか。

 一方的な伝達や講演と,当たり障りのない質疑応答では,お互いの距離が縮まることは難しい。

 私はある全国大会で「質問しないで」と会長さんから命じられたことがある。

 タテ社会では,偉い人のメンツをつぶすと,偉い人を呼んだ人のメンツもつぶすことになる。

 だから意見を言いたい相手以外の人に配慮しなければならないような場では,私も発言は控えるつもりだった。

 しかし,教育に関する大きな研究会の場では,「できないものはできない」

 「むしろこっちをできるようにするべきだ」などといった議論ができるようにならないといけない。

 「ああそうですか」「はいはい,善処いたします」・・・結局何もできませんでした・・・ではダメなのだ。

 指導主事の場合は,恨みを買っている教育委員会がバックにあり,

 欲求不満が全部こっちにまわってくる。

 だから,指導主事は,立場で物を言ってくる人間ではなく,子どもの成長を基本において物を言ってくる人間だということを,自分自身の教員生活の経験を1割,答申や法令等からの言葉を8割,そしてその場にいる子どもや教師にとって何が最善かを自分なりに考えたことを1割,といった割合で話すことが求められる。

 「あんたは本当にそれができるようになると思っているのか?」
 
 という投げかけに対して,「今も昔も,できてますよ」と答えられる立場こそが「最強」なのである。

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「お前なんかは同志じゃない」

 大学のサークルのようなノリの研究会に,現場の教師が参加するのはとてもいいことだと思います。

 人間の承認欲求を簡単に満たしてくれるのは,やはり多くても十数人程度の寄合でしょうから。

 私はこういう研究会の人たちに,ぜひとも他の研究会の「道場荒らし」をしてほしいと思っています。

 小学校の学級王国連合みたいな趣味のサークルものがただ数だけ増えていっても,全国の教育の水準は決して向上しないからです。

 「道場荒らし」を負かせることができて,初めて,研究会の存在意義が出てくるわけで,

 「お前は考え方が違う人間だ」

 「お前は仲間じゃない」

 などと思考停止してしまっては,外部から見れば「だから趣味集団ではダメなんだよ」で終わってしまいます。

 サークル内で慰めて合っているだけでは,子どもたちは救えません。

 学校の教師として「一人も見捨てない」と豪語するからには,自分の教室だけではダメで,

 その学校の子どもたち全員,いやいや,すべての子どもたちに目が向けられていないといけないのです。

 「信念」や「方法」はいくらでも語れるのに,「内容」が語れない人間が増えてきています。

 行政にいた私の感覚だと,現場の教師というより,事務方が増えてきている印象です。

 教師の現場感覚から最も遠い位置にいるのは,事務方でもなく,大学のセンセイかもしれません。

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「バレたところだけ,小出しに謝る」ことの意味を道徳教育の目から考えてみよう

 KAKE,KAKE,と報道で連呼されているお名前だが,

 そもそもこの問題は,だれとだれの問題なのか。

 総理とその友人との間の問題ではない。

 ようやく,「当事者の顔」がはっきりと見えてきた。

 小中学生にも「隠蔽」という言葉の意味が理解できるようになったと考えてよい。

 バレたところまでは,謝る。

 謝るべきポイントを,「文書があったこと」だけにしぼる様子などは,

 いじめや問題行動の事情を聞き取りしているときの,ずるがしこい中学生と姿が重なって見える。

 道徳教育の全く逆をひた走っている人たちが痛々しいほどである。

 「圧力」の分かりやすい構図を示した文書も出てきた。

 内閣府に文科省が牙をむいた形になったが,これも前事務次官のおかげだろう。

 官僚側ではなく,政権側の人間の攻撃がことごとく不発に終わっているのは,

 正義が見極められる国民の質の高さのおかげだろう。

 
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足に鎖でつながれた重りの捉え方

 子どもがわくわくしながら本当の乗り気で取り組む課題を評価する方法がある。

 同じ設定の作業を,人の力を借りないでやらせること。

 「人の力を借りながらやるべきこと」と,

 「人の力を借りずにやるべきこと」の区別を『学び合い』はどのようにしているのだろう。

 その選択も子どもを信頼して任せているのだろうか。

 『学び合い』が楽しいだけなのか,

 楽しみながら学習をして様々な能力を習得しているのかがわかるテストをどんどん開発してほしい。

 「子どもだまし」の指導案をたくさん見せられて,辟易している『学び合い』である。

 子どもをだませるのも,せいぜい小3くらいまでか。

 指導力のない教師が行う一斉授業を参観していると,

 子どもたちの足に鎖でつながれた重りが見えてくる。

 やはり同じように,「子どもだましの課題」に「全体主義的精神」で取り組まされている子どもたちの足にも,同じようなものが見えてくる。

 教師の仕事は,子どもの足から重りをはずしてあげることではないか。

 もちろん,それは「自由に立ち歩かせる」ことに限った話ではない。

 「開放感にあふれた一斉授業」というものに,一生出会うことなく学校を去らなければならない人がいるのは本当に気の毒なことである。

 たった1年で挫折して,「本を読んで学んだ」と紹介している人たちの言葉が,ほとんどみんな同じである。

 まるでだれかのなりすましブログのように。

 本当に現場を知っている人間と,現場を想像して書いている人間が語る現場は全く違うことがわかっていないらしい。

 重りを鎖でとりつけられた人たちが苦しみから解放されている姿が逆にとても痛々しい。


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教育の「損失」は測定しにくい

 教育のように公共性の高い仕事については,第三者がその効果や成果を厳密に測定し,評価しようとする動機に欠けている面があった。

 唯一,わかりやすい「テスト」の得点については,教育上ほとんど意味をなさないとも言えるドリルばかりを繰り返すだけの学習を続けているだけでも,向上させることができる。

 対話も深い学びも自主性も問われず,ただひたすらプリントの問題を解かせ続けさせられる子どもたちが,高い成果を残したといえるようになり,教師が感謝されるようになれば,そのような安易な仕事に切り換える教師が増えるかもしれない。

 このような教育(?)を受けて育った子どもがどれだけの「損失」を被ったかを実証的に示すのは難しい。

 多くの教育実習生を受け入れている立場からすると,「損失」というより「壊滅的な負の遺産」を背負った大学生が教師となり,授業をすることなど,不可能に見える機会が増えてくる。

 教師が真の意味で苦労している姿を見たことがない大学生に,実習とはいえど教育など務まりようがないのである。

 大学での学習でも,どれだけの「損失」を算出することができるか,だれか研究してみてほしい。

 まじめな人ほど,たくさんの「単位」をとって卒業しようとしているらしい。

 このことがいかにダメなことか,ある私立大学の学長はわかっていらっしゃって,改革にのぞむとおっしゃっていたが,その趣旨が,大学のセンセイたちに伝わるかどうか・・・。


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「自由」を強制する目的とは?

 ひめゆり隊だった女性が,米軍の攻撃中に,日本軍から突然「自由」を指示されたという話を伝えているそうだ。

 社会学者の見田宗介さんが,現代思想2016年9月号で「これを本当に自由のいうのか」「どこに行ってもよい,と指示されるだけでは,現実的には自由であることにはならない」「希望がないところに現実的,実際的な自由はない」と指摘していることも紹介されている。

 教室で子どもたちに課題を与えた後,動き回ったり人と協力したりして,自由に解決・達成できるチャンスを与え,その教育効果に期待を寄せる人たちがいる(なぜか,10人以下の学級では成果がでないそうである)。

 無責任な日本軍との違いはどこにあるのだろうか。

 「すべての子どもがわかるようになる」という現実的な希望があることだろうか。

 「教師が教えるより,子どもが教え合う方が効果が高い」という実際の成果があることだろうか。

 希望が見えることはよいことではあるが,実際の教育現場には,とても大きな「壁」がある。

 それは「時間が限られていること」であり,「習得すべき内容がとても多いこと」である。

 「自由」を与えるということは,「自己責任」を追わせるということとイコールである。

 「保護」しているように見えないのは,「保護すること」が目的ではなく,

 「だれか一人ができない責任を自分たち全員で背負えるようにすること」が目的なのであって,

 「自分たち」の中に「教師」が入ってこないところがミソである。

 「跳び箱」をたくさん跳ばせたい。

 教師が一人しかいない一斉授業では,なかなか子どもが回数をこなせない。

 だから,子どもに子どもを監督させる。

 もし,「全員が跳べるようになること」を課題とし,

 無理をして跳び箱から落下して首の骨を折る事故を起こしたら,

 無理をした子どもや補助していた子どもはどうなるのだろうか。

 当然だが,精神的に「重い責任」を負わせられることになるだろう。

 『学び合い』では,「先生,ここは教えて下さい」という子どもの希望にはどのように対処するのだろう。

 「教えて下さい」と言ってきた子どもにだけ教えて,他のことをしていた子どもには教えないのだろうか。

 一端「自由」を認めた集団に対して,教師が統制しにかかるのは難しいし,統制するのであれば,はじめから「自由」には何の意味があるのか,という疑問を子どもが持ちかねないという問題もある。

 檻の中での「自由」に反旗を翻すことは,小学生はおろか,大人でも難しいだろう。


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「これだから,今の指導主事はダメなんだよね」

 東京都の場合,指導主事になるには「教育管理職選考」にパスしなければならない。

 平成28年度は,受験者数450人,最終合格者数418人。

 倍率1.1倍。四捨五入しないと,1.07655・・・倍となる。

 私のように,自ら希望したわけではないのに受験させられて,合格した人も少なくないだろう。

 「これだから,今の指導主事はダメ」と言いたいわけではない。

 418人すべてが指導主事になるわけではもちろんない。

 制度が始まったときは,「ジョブローテーション」をしながら,

 教育の「ゼネラリスト」を育成する,というお題目だった。

 しかし,10数年前,私もそうだったが,指導主事しか経験できない人もいたし,

 行政を経験できない人もいた。

 「指導主事は,講師として学校に呼ぶ価値がなくなった」という声は,10年以上前から言われていたことである。

 教科指導の実績がないことだけでなく,やはり「専門性」が高くないことがネックになっていたようだ。

 小学校では,指導主事より「カリスマ教師」の方が需要が高い。

 どうして自分の学級がある平日なのに,講師として外に出続けられるのか不思議なくらい,人気のある人もいる。

 「専門性」の高さで言えば,大学のセンセイがよいか,となると,これが全くそうでもない。

 大学のセンセイの中には浮き世離れしすぎている人がいて,役に立たない大学の授業を思い出させられて嫌な気持ちになるだけで終わる研修会もある。

 また,大学のセンセイがとても実践的な内容を示しても,それを教師が理解できるレベルにないという問題も深刻になっている。

 教員免許更新講習はなくてもよいという人もいるが,なければ困る,という人が増えている現状も知っておくべきだろう。

 最近,教育学部出身の若い教師や,大学の教育学部のセンセイが,教育内容ではなく教育方法にこだわり,現場を混乱させているのも気がかりではある。「アクティブ・ラーニングをやらなければならない」と焦らされているのは,「それでしか活躍できない人たち」が熱心に仕事をしているからである。

 文科省は,わざわざ「慌てふためくな」と通達してきているが,そもそも学習指導要領が示す内容は高度すぎて,それを実現させる教育を受けてこないで教師になった人が増えている中,「やってこなかったこと」を「やれていることにしなければならない」と焦る学校が増えるのもいたしかたない。

 実際の学校がどうなっているのか,調査によって実態を把握している国立教育政策研究所は,公開すべきデータをすべて公開しているのか,その責任を問われるべき立場にいる。

 さて,指導主事の話が脱線してしまっているが,

 「これだから,今の指導主事はダメなんだよね」という声が大きくなっているのは,

 「指導主事が萎縮していること」にも原因があると考えられる。

 それは,文科省の教科調査官も同じである。

 ある道徳の調査官が,「道徳の22の項目をすべてやっている,と言っている学校は怪しい」と発言していたそうだが,そういうことが言える人が非常に少なくなっているのではないか。

 何事にも,「トップの意向を忖度して動く」という行動原理が染み付いてきている気がする。

 「この人は,本心でこれを言っているのだろうか」

 「自分が言っていることの意味が本当に理解できているのだろうか」

 と疑われないように強がる指導主事の姿だけは,目にしたくはない。


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ほくそ笑む人を想像して安心している人へ

 「ほくそ笑む」という言葉は,悪巧みをしている人が「してやったり」と思っているような姿を想像してしまいますが,その語源をたどると,ただの「笑み」ではないことに気づかされます。

 「ほくそ」は「北叟(ほくそう)」のことで,「北叟」とは「人間万事塞翁が馬」の「塞翁」のこと。

 不幸だと思っていたことが幸福をもたらし,幸福だと思っていたことが不幸をもたらす。

 そういう「予言」は,人間の心の隙を戒めたり,失望から人を救ったりすることができます。

 良い話を聞いたときは,素直に微笑む。

 良くない話を聞いたときは,考えをめぐらせて,良い方向への変化を願い,やはり,微笑む。

 こういう余裕のある人間になりたいと思いますが,現実社会は厳しいことばかりで,

 楽観的ではいられない。 

 教育現場では,よく「結果オーライ」という現象が起こります。

 「失敗に終わるはずの状況で,成功に終わる」

 「目標に達成できないはずの状況で,達成して終わる」

 たとえば野球を例にとると,ピッチャーからの牽制球で飛び出したランナーをさそうとした守備側が暴投して進塁してしまう,というようなケース,バントを2回失敗して2ストライクになったので打たせたらヒットになった,などなど。

 視野が狭く,子どもに関する情報交換を行う機会が少ない(か,ない)学校では,取り返しのつかないところまで事態が進展してから,みんなが知る,ということがよく起こります。

 こういう学校の教師が,自分の視野だけでなく,子どもたちの視野をも狭めることになるような「失敗」とは,「見えないはずのものを見た気になっている」という状況です。

 宗教と同じです。「信じ込ませること」で人を動かそうとする。

 自分が「信じ込んでいること」が,ものを見えなくしているということに気づけない人は,

 ほくそ笑んでいる教祖の姿を見て,きっと安心感を抱いていることでしょう。

 それでよいのですか。

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規制緩和がもたらした地獄の世界

 TBSの報道特集で「運送屋さん」の大変な事情を知りました。

 草野球で一緒のチームにいた元自衛官や,二校目の学校で強い思い出に残る生徒の保護者が長距離トラック運転手さんだったことを思い出しました。

 「送料無料」につられてついついネットで買い物をしてしまう自分を戒めたくなるような内容でもありました。

 規制緩和は,国土交通省から言えば,「安くて便利になったんだから,いいじゃないか。国民のためになっている」という話になりますが,

 お互いに首を絞め合う結果になっている「運送屋さん」たちの立場で考えてみたら・・・。

 私は社会科の教材集めのために,車の長距離運転をすることがありますが,高速道路でもやはり神経を使って疲れます。
 
 激しい価格競争にさらされている運送業界では,運転手に高速料金の制限を設けて,一般道を走らざるを得ない状況をつくっているところもあることを知りました。

 長時間労働は「死」「事故」と隣り合わせの状況も生み出します。

 今日の報道特集では,「水屋さん」と呼ばれる,中間業者というか,「帰りの荷物を探してくれる人」の存在を知りました。「事故が怖いから,運転をやめ,水屋になったのかもしれない」という人もいました。

 運び手がいなくて困っている人と,荷物なしで運転する無駄を避けたい人をつなぎ「Win-WinーWin」の関係をつくるのが「水屋さん」ですが,この仕事の存在が配送料金のさらなる低下を招いているとも言えます。

 中学校の教師の私は,「水屋さん」というと教務部の時間割担当の仕事を思い出します。

 だれかの出張がわかっているときは,時間割を事前に変更できますが,当日の朝になって欠勤になるのがわかると,空き時間の先生から順番に当たっていき,「自習」にならないように時間割を急いで組み替えるのです。

 空き時間がある中学校の教師でも,たいていの時間は「予定」が入っています。

 生徒のノートや日記のチェックとコメント記入,次の授業のプリントの印刷,報告書の作成,会議の資料づくり,欠席の生徒への連絡,保健室にいる生徒の様子のチェック,などなど。

 だからお願いする側は,人から嫌われないタイプの教員でないとできません。

 調整能力が高い教員でないと,「いけません」「ダメです」と断れ続けて終わってしまう。

 もちろん,こういうときは同じ教科の教員や,同じ学年の教員がフォローするのも普通のことなのですが。

 話を戻します。

 「便利な世の中になった」ことを知ることも大切。

 ただ,「それは,何と引き替えに?」と問う姿勢を育てることも大切でしょう。

 運送業だけの問題ではないはずです。

 「一人も見捨てない」なんて抽象的な信念ではなく,

 「重要な問題は一つも見逃さない」という実践的な態度が必要なのが教育現場です。


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「自分のクラスの子どもだけ,一人も見捨てない」でいられるセンセイたち

 『学び合い』が失敗する原因の一つは対人関係であるという表現は,不適切であるように思います。

 原因と結果の関係が逆なのではないでしょうか。 

 教師間の対人関係を悪化させる原因が,『学び合い』である,という方が正確でしょう。

 教育の失敗を「他人のせいにする」癖がつくのが『学び合い』なのかもしれませんが・・・。

  『学び合い』では,従来型の授業をしてきて「出世」した人間を「敵」扱いしているだけでなく,従来型の授業をして「出世」しようとしている同僚も「仲間」「同志」ではないのですから,当然,職場の対人関係が悪くなる学校が出てきます。

 他校の「同志」とのつながりの方が,自校の「同僚」とのつながりより大事。これでも小学校では生きられる。

 そもそも小学校の教師のように,自分のクラスだけ,自分の思うように教育できる職業では,対人関係の悪化は容易に起こりえます。「学級王国」から成り立つ連合国家のような場所が小学校だから,対人関係が悪くても,教育が成立してしまうというのが小学校の利点とも言えます。ある小学校などは,学級間の競争意識が強く,教師の対人関係の悪さをバネにした教育が行われているくらいです。

 小学校は,自分のクラスの子どもだけ,「一人も見捨てないぞ」と粋がることが可能な職場です。

 中学校のように,学年集団のまとまりがないと協働生活が成立しにくい環境では,たとえば,学年会,担任会で,不登校や問題行動を起こす生徒をはじめとした「見捨てられない子ども」の日常を,すべての教員で把握できるよう,とても長い時間をかけて情報を共有しあいます(もちろん,不登校の子どもと,その子を支えている子どもたちのために2時間,3時間でも他のクラスの担任の言葉に耳を傾けられる小学校の先生もいるでしょうが)。

 こういう職場の先生方が,「あなたたちは授業で子どもたちを見捨てているんですよ」と言われたらどんな気持ちになるでしょうか。

 「一斉授業をしているやつらより,オレはマシな教育をしている」なんていう目をもっている教員が近くにいたら,どんな気持ちがするでしょう。 

 小学生のほとんどは,担任の先生に対して「思いやり」をもちます。

 「見捨てる」とか「見捨てない」などという見方で人間を見るのは,心の卑しい大人だけです。

 子どもはどんな授業をする先生でも,決して「見捨てる」ことはないでしょう。

 だから,『学び合い』は問題なのです。


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世間の狭さを感じた浦島太郎

 私より1年早く指導主事になって,昨年度まである区の教育委員会の指導室長だった方が,私の姪っ子が通っている中学校の校長として着任されていたことを知りました。

 私の娘が進学する可能性もあるので,来週の学校公開の期間に訪問してご挨拶しようと思っています。

 同じ区の初任者研修で一緒だった先生が赴任していることも知りました。

 懐かしい方々にお会いするのが楽しみです。

 人事のことに関心が向いたので,久しぶりに元同僚の動向を調べてみようとしたら,

 何と,私と一緒にある中学校に着任した,当時初任者だった若い先生が,校長試験に合格していることを知りました。おめでとうございます。ずいぶんといけないことをしでかした話は,墓場までもっていってあげましょう。

 おまけに,私が指導主事時代に「指導講評の練習台」にさせられていた,当時やはり採用2年目くらいの方も,校長試験に合格しているようです。

 二人とも現役の指導主事で,任用されるまで時間がかかるかもしれませんが,早い時期に任用されたら,若い校長先生として注目が集まるはずです。

 気がついたら,すごいことになっていることに当惑している浦島太郎でした。

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国立大学が附属学校を潰せるチャンス

 運営交付金をどんどん削られている国立大学が熱心になっているのは,「金儲け」である。

 ただ,私立大学化が進んでしまうと,人気の下落が心配になる。

 大学での人員削減が限界までいけば,あとは「附属学校」を捨てるという選択肢もある。

 東京学芸大は教員養成系大学だから,附属高校を切るのは難しいだろうが,

 「予算を削られたのはお前のせいだからな」といじめることは可能だし,「その下」をねらうこともできるだろう。

 筑駒のように,筑波大学などには目もくれず,東京大学をねらう子どもが多い学校の未来はどうなるのか。

 筑駒は国会でも「標的」に上がるくらいだから,いつ「餌食」になってもおかしくはない。

 とうとう,この国から本当に消えて無くなるものが出てきそうである。


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国立大学がとうとう附属学校の管理に乗り出すか

 国立大学の附属学校というと,いかにもエリートの養成というイメージがつきまとうかもしれないが,

 それができていた最大の理由は,「自由な教育」が確保されていたからである。

 偏差値が高い附属学校ほど,「自由度が高い」ことは世間の常識だろう。

 読売新聞のニュースによれば,文部科学省の国立大学法人評価委員会が公表した評価結果で,群馬大と東京学芸大が「業務運営の改善と効率化」という項目で最低評価を受け,これが来年度以降に配分される運営交付金にも反映される見通しだという。東京学芸大の場合は,いじめで重傷を負った附属高校の生徒の訴えに対し,事実確認が不十分で重大事態として認識するのが遅れたことが問題視されたようである。

 東京学芸大にとってみれば,「とんだ迷惑」といったところだろう。

 これをきっかけに,いよいよ河野太郎議員が指摘した「文部科学省による国立大学の植民地化」が,附属学校にまで及んでくる可能性が考えられる。

 なぜなら,都道府県や市区町村の「教育委員会」のような組織も人材もいない国立大学に,附属学校の管理を行う能力などないからである。

 ザ・リバティWebというサイトで,小林真由美さんという方が,次のような「図式」を書かれている。

*********************

 そもそも国立大学が法人化されたのは,自立した環境の下,個性豊かで特色ある研究,教育に取り組むことが目的。各大学が国の統制下から外れて,独自性を強めて特色のある研究を促すことを目指していた。

 しかし,実態はまるで逆。

 大学は,文科省のOBの天下りを受け入れることで,補助金を得たり,新学部設置の際などに文科省の嫌がらせを受けずに交渉を進められたりするというメリットにあずかる。

 文科省の官僚としては,天下り先の大学に補助金をバラまき,天下り後は自らの給料や退職金として懐に回収できる。

 これが文科省の一部の官僚と大学との間の「持ちつ持たれつ」の癒着関係。

 文科省の現役の官僚が国立大学法人に出向するのは「現役出向」と呼ばれる。

 政府はこれを大学などに再就職する「天下り」とは区別している。

 しかし,現役出向も天下りと同様に,癒着の温床になる懸念がある。

 受け入れ側の大学の運営に省庁の意向が過剰に反映されたりするという懸念もある。

 そうであれば,憲法で定められている「学問の自由」を文科省自らが破るということになりかねない。

********************

 ある教科書を採択した国立大学の附属学校に,文科省から「採択理由の聞き取り」に来たことは,もちろん違法ではないが,自分のところで検定を通しておきながら,その教科書が気に入らなかったことは明々白々である。

 河野太郎議員は,与党議員である。議員の頑張りに期待したい。


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「良心」を守ったおかげで得られたもの

 ときどき優しいコメントを下される方(「元戦友」と表現して意味が通じるのは,このぶろぐ村に長く生きている方だけでしょうが)の記事に対して,どういうかたちでお答えしようか考えていたら,かなり時間がたってしまいました。

 理想だけ語っていればすむ人間とは違って,社会に出ると,「一人も見捨てない」なんてことはできなくなります。

 文科省の仕事を切ることは簡単なことです。

 これから先も,声をかけないでくれれば,土日が有効に使えるようになります。

 代わりに活躍のチャンスをもらえる人が出たのはよいことでしょう。

 「犬クソ教師」と呼んでもらえる栄光や,

 官邸のご機嫌とりをいじめる楽しさはなくなってしまいますが・・・。

 上の言いなりになっている人たちをいじめる「良心の呵責」はありました。

 実は,文科省からの「離脱」が明確にできた背景には,もう一つの「大きな選択」がありました。

 今の学校からある場所へと「離脱」しなかったという選択です。

 この選択による「良心」の痛みは非常に大きいものでしたが,同時に,

 守られた「良心」の価値もはかりきれないものでした。

 私が「蹴った」かたちになってしまった場所の名前を聞いたら,多くの人が驚くでしょう。

 私が勤め先を変えることで,受け入れ側は,長年抱いていた構想に着手することができる。

 私を送り出す側は,日々訪れる課題,やがて訪れる大きな課題への対応が苦しくなる。

 選択肢は,Aを切ってBを守るか,Bを切ってAを守るかしかない。

 どちらにしても,私がする仕事は似たようなものですが,

 勤め先を変えることで,教育の世界に面白い現象が起こったかもしれないと想像すると,もったいない気もしますが,たぶんその勤め先に迷惑がかからないように,本物の「犬クソ教師」になっていたかもしれません。

 「離脱」しなかったことで,この「潜伏生活」もさらに長く続くことが予想されますが,ここに来て,「新しい異物」が一斉に芽吹きだしている危機感を強く感じています。

 その異物に共通した特徴は,傲慢で,自意識過剰で,知性が感じられないというものですが,そのイメージは,『進撃の巨人』と重なります。

 壁を一生懸命壊しにかかっている人たちは,弱い人間をどれだけ食べていけば気がすむのか。

 私たちが壊さなければならない壁は,別のところにあるのです。

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人を散々苦しませておいて,「私には相談しないで」と訴える人

 教師が一番苦しませたくないのは,子どもである。

 残念ながら,一番苦しませたくないのは,自分だ,という教師も少なくない。

 ある人が酔っ払って書いている文章を読んでみると,

 大学時代のさまざまな授業の講義で知った本に書いてあることが,

 なぜかたくさん思い出された。

 教育が失敗する原因の大部分は教師にある。

 いかに失敗させ,そこからどれだけ身になることを学ばせることができるかが勝負だが,

 子どもや教師自身の自尊感情を傷つけて終わるだけというタイプの失敗を
 
 平気で繰り返す人がいる。

 30年前に学んだ心理学から言語学,社会学などとことごとく「つながっていく」のは,

 私が気の毒に思える人が多いからだろう。


 多くの教師が,混乱させられ,悩まされている。

 そんな教師の問題を,1冊や2冊の本が解決できるわけがない。

 具体的な解決策が書いてあるわけではなく,

 「解決した気になる」ことが書いてあるだけだから,

 本人に確かめたくなる。しかしそれでも問題は解決しない。

 教育という仕事は,「人間関係」「対人関係」そのものだと考えてよい。

 「本を読めばわかる」なんていう態度は,そもそも「人間関係」を築く教育自体を否定していることになる。

 「本(教科書)を読めばわかる」なんていう態度だから,『学び合い』が成立することになってしまうのだ。

 大学の研究論文が,同じ職業の人間か学位をとるための学生にしか読まれない理由を語るまでもないだろう。

 「人間関係」の悪化自体が食べていくためのエサになる仕事があることを忘れてはならない。
 
 「現実の」教育の世界では,自分の都合のよいことは表に出すが,

 都合の悪いことは出しにくい。

 なぜなら,現実に被害にあっている子どもを公開するわけにはいかないからである。

 元大学教員の先生がお灸を据えてくれたのだが,

 「酔っ払って大きなことを書いてすみません」といいながら,

 ちゃっかり本の宣伝をしているところがこのセンセイらしいところである。

 「私は苦しい思いをしている」と書けば,「思いやりのある人」は,

 相談しにくくなるのである。「人間関係のことは相談しないで!」と訴えていることが伝わっていく。

 この大学のセンセイが担任の先生だと,心優しい子どもは,本当に可哀想なことになる。

 教師としてやってはいけないことを堂々とご開陳しながらの「最強」宣言なのだから,

 ある意味では本当に「最強」である。
 
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伝える技術に溺れるよりも,真摯な話しベタであれ

 このタイトルは,NIKKEI STYLEの出世ナビ「スタンフォード 最強の授業」というシリーズで,ある先生が語っている言葉である。

 「真摯な態度」は教えられないが,「伝える技術」ならある程度は教えることができる。

 だから教育の世界でも,「伝える技術」を伝えようとする人たちが少なくない。

 しかし,日本には,「伝える技術」を超えて,「伝わる」ものがある。

 「教師が教えなくてすむ教育理念」に飛びつく「教材研究をしたくない教師」「教えることが下手な教師」が近くにいれば,すぐにわかるだろう。

 主語だけでなく,目的語までが省けてしまう日本語の特性を持ち出すまでもなく,

 本来は「伝わってほしくないもの」までが「伝わってしまう」のが日本におけるコミュニケーションの特徴である。

 もちろん,日本以外の国に「以心伝心」などあり得ない,と言いたいわけではない。

 日本に長くいなくても,帰国子女が日本の学校の居づらさを感じることができるのは,特定の感情が容易に「伝わってしまう」ほど,言葉以上の「空気」が人間関係を支配できる国だからである。

 日本人が外国で暮らすときは,この「空気」の呪縛から解き放たれるが,逆に,「空気」は読むものではなく,「つくる」ものになっていく。「伝えないと始まらない」のがコミュニケーションの基本だから,「伝える技術」を学ばないと困る人も多いだろう。

 しかし,その技術がいかに優れていようと,本心から「伝えたいもの」「伝える価値があると信じているもの」がなければ意味はないわけである。

 タイトルに示した記事は,そういう趣旨の内容だった。

 一方で,真摯な態度でも「話しベタ」では全く通用しない職業もある。

 政治家や行政マンなどである。

 「本心で話しているわけではないな」と強く感じる政治家が増えてきた。

 私が経験した指導主事という職業もそうだが,決して「本心」を明かしてはならない場面も少なくない。

 しかし,「本心」から語らない人間を信用できる人はいないわけである。

 だからいかにも「本心」から語っているように見せかけられるかが,政治家や行政マンの才能と判断される。

 地獄に落ちて舌を引っこ抜かれる因果な商売だが,「秩序を守るための嘘」がまかり通る社会を変えるためにはどうしたらよいのだろうか。

 地位を失ってでも,「本当のことを言う」ことの素晴らしさに感銘できるのが,ドラマなどフィクションの場に限られていることが悲しい。どれだけ多くの人が,こういうドラマを見て,自分を慰めているのだろうか。

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新聞による「印象操作」の逆効果

 首相と昵懇の間柄にある人物が起こした問題への関心は低く,敵対する人物への関心は高い。

 「政治の透明化」を果たそうとすると,「守秘義務違反」に問われて処罰されてしまう国を民主化するためにはどうしたらよいのか。

 首相が国会で「この新聞を読めばわかる」と名指しした特定の新聞社のおかげで,「印象操作」と相手を非難する人間を支持している側の方が,よほど「印象操作」をしている「印象」が国民の間に広がろうとしている。

 新聞社のこうしたとてもわかりやすい態度が,強すぎる政権の「流れ」を変えるきっかけになるかどうか。

 大金を使って選手を集めても全く成果が出せない弱すぎる巨人のように,報道機関が見切られる日は来るだろうか。

 新聞社内でも,「忖度」の問題を報道する側が「忖度」の主体となってどうするのか?という疑問を持っている人がいるに違いないし,

 「前川の乱」が「文科省の乱」に,そして「反内閣府連合」に発展しそうな雰囲気も感じられる。

 日本がいつの間にかどこかの国にそっくりになっていることに多くの国民が気づいたときには,手遅れになっているかもしれない。

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ヘビににらまれたカエルが語る「~できない」の意味

 文書を存在を「確認できない」という言葉の意味がよくわかった。

 「確認できてはいけない」状況下で,カエルはじっと耐えていなければならないわけである。

 同様に,カエルににらまれたハエ(大学)がおり,ハエににらまれた学校が存在する。

 「印象操作」とは,自分にとって都合の悪い相手の評判を貶めたり,逆に自分の方が正しい雰囲気を高めたりするためのものだが,

 「相手が印象操作をしている」と公言してしまうと,「印象操作」が存在することを認めることにもなるので,墓穴を掘ってしまった形になる。組織の外に出た人間に対する「印象操作」に失敗したことで,後は報道機関への圧力しか選択肢に残らなくなってしまった。

 威勢のいいハエが飛び回っているうちに,人間がどこかで立ち上がらないといけない。


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傲慢な人間が変われる機会~誹謗中傷をして何とも思わない人間に「価値学習」の価値を語る資格などない

 大学のセンセイにプライドがあるのはわかる。

 中学校の教師の私にだって,プライドはある。

 教え子の中学生にだって,プライドはある。

 その保護者たちのプライドもすさまじいものがある。

 こういうプライドは,ときに傷つけられる場合がある。

 プライドというものは,人から傷つけられるものだ,と一面的にとらえてはいけない。

 自分のプライドを自分が傷つけていることに気づけない人がいるのは悲しい。

 他人の言動によってプライドが傷つけられたときに,自分から不適切な反応をとることによって,自分の首を絞める結果になることがある。

 著書を貶された元都知事がとった反応が,逆に「どの口が言うか」という反感を買う結果になったらしい。

 ブログ村には,他人から噛みつかれると,異常な反応を示す人がいた。

 防衛反応というより,「攻撃は最大の防御なり」みたいな感覚で,激しい攻撃をしてくるのが常であった。

 私はそのエネルギーを別の方向に・・・よりよい教育の創造に向けることが,何より教育への情熱の望ましい姿だという信念から,いかに攻撃している自分の方が損しているかを説き続けたのだが,結果は無駄だった。

 どれだけ論理的に語ろうとしても,感情面の高ぶりが思考力を低下させてしまったようで,出てくる言葉は下品・下劣・罵詈雑言の類のものだった。そして統合失調症の解説が定期的に繰り返されるのが痛々しかった。よほどつらい人生を送ってきたのだろうと同情した。

 私に対して

>貴公のような「犬クソ」教師
>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知
>国語力を鍛えなおしてはいかが
>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う

 などと誹謗中傷を行った現役の大学のセンセイも似たようなものである。

 私なりに,情報を集めさせてもらった。

 私には,怒りの感情はない。どちらかというと,戸惑いの感情である。

 「どうしてこういう人が大学に存在するのか?」という戸惑いである。

 退職が間際に迫っており,「辞めたらすべてのことから足を洗う」と言い放っているセンセイにはその無責任さに心底辟易し,憤っているが,若い人には「変われる機会」がきっと訪れるはずと信じたい。自分もそうだったから。

 「無視した方が相手にはこたえる」というご忠告を下さった方もあったが,

 「もったいない」という言葉を口にされていた先生もいた。

 その性格で,とても損をしているように思える。

 どうしたら変われるのだろう?

 倉橋竜哉さんの「毎朝1分!天才のヒント」を購読させていただいているが,今日のヒント #3391 「プライドはありますか?」では,

>今まで自分や他人に対して厳しかった人が、急に優しくなったりして、まるで仏のように人間が丸くなるケース

 が紹介されていた。それは「大病を患ったとき」である。

>入院していなかったら、自分の中にある「怒りの業火」で自分や周りを焼き尽くしていた

>「自分ひとりのチカラでここまでやってきた」というつもりになっていたけど、実際のところ自分のチカラはちっぽけなものだと気づいた

>自分や他人に対して「これが正しい」「こうあるべき」と押し付けていたこと、そこから外れると「それは間違っている!」とか「ゆるさない!」と責め続けていたことに気づき、そのストレスが澱のように積み重なって、大病の原因になったんじゃないか

 何も,「大病にかかれ」と言いたいわけではない。むしろ,「大病の原因をつくっている」ことの危険性を認識すべきであると言いたい。

 せっかく苦労してつくった訳書名を検索すると,上から2番目に「参考にしたい内容がない」という感想が書かれた記事へのリンクが示されている「事実」が不本意であることはよくわかるが,その記述が「事実」であることは否定できない。

 「価値学習」の結果,自分とは異なる価値観を認めない,という人間を生み出すのはおかしいと思うし,誹謗中傷をして何とも思わないような人間に,「価値学習」の価値を語る資格などないと私は考えている。

 
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「離脱」が「離脱」を生む

 私は文部科学省が進める教育政策への協力から「離脱」しました。

 「離脱」の本当の理由はここでは書けません。

 私がある事実を知ったのはなぜか,だれから知ったのかがわかってしまうからです。

 学習指導要領の解説が公表されれば,わかることかもしれませんが。

 「文部科学省からの依頼が断れるのはあなたの学校だけだ」とも言われましたが,私の学校にはもうそんな力はありません。表向きの理由は,「校務に支障が出るから」ですが,平日毎日16時間働けば,支障は防げました。

 また,私が加わろうが加わらずにいようが,たいした貢献もできないことがわかっているからでもあります。

 「離脱」することで「良心」が守られるという満足感も得られます。

 
 パリ協定「離脱」を表明したトランプ政権から「離脱」した助言者たちは,今,どのような思いでいるのだろうか。

 私とは違って,「離脱」の意味が非常に大きい人たちだったのではないだろうか。

 
 国際社会に背を向け始めたアメリカと同じように「危ない」状態になっている国があります。

 報道の自由が脅かされているのは,他国の話ではありません。

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選挙が違憲だと,国民審査が機能しなくなる?

 教育出版から出されている冊子に,意味不明な社会科の授業の実践が掲載されていた。

 「選挙が違憲だと何が問題なのか?」

 という問いを立て,子どもがこう答えていく授業が,「批判的思考力を高める」ことになるという。

 「国会議員を選ぶ過程に,憲法違反があったとしたらどうなるか?」

 「選ばれた国会議員が違憲状態で選ばれたことになってしまう」

 「この影響は,立法だけだろうか?」

 「国会は,内閣総理大臣を指名するので,指名された国会議員も違憲状態で選ばれたことになってしまう」(???)

 「内閣は,最高裁判所長官を指名するので,そこにも問題が拡大する。」(????)

 「裁判所は違憲審査ができるが,国会や内閣が機能しなくなることも問題である。」(?????)

 「国民は,国民審査で最高裁判所の裁判官を審査する権利を持っているが,それが十分に機能しているかわからないことも問題である」(??????)

 こうして,

 「一票の格差」は,「三権すべてに関わる問題であり,さらには現代の民主政治を揺るがす問題であるという認識に変容させることができる」という。

 国会や内閣までは理解できなくはないが,なぜ違憲判決を出した裁判所や,最高裁判所の裁判官を審査する国民までが「問題視」されなければならないのか,全くわからない。

 よくこんな文章が原稿になって公開されているなと驚いてしまう。

 教育出版という会社は,教科書をつくっているところであるが,こういう原稿のチェック機能は働かないのだろうか?

 「選挙が違憲だと何が問題か」を考えるとき,たとえば安保法制に反対していた人々が,「そもそも違憲状態で選ばれた国会議員に立法資格なし」と主張していたことを思い出させる。こういう主張を生徒がするならまだわからないでもない。

 一方で,「一票の格差」を本当になくしてしまった選挙区になったら,どんな課題があるのかも考えさせるべきだろう。

 「きちんとした選挙制度」とは,単純に一票の格差が規定以下の選挙のことであって,地方の議員はどんどん少なくなってよい,という捉え方でよいのかどうか。

 教室内でだれからも疑問や反対意見が出されるわけでもなく,論理的なつながりや実際の政治の諸問題にふれることなく,AがだめならBもだめ,BがだめならCもだめ・・・などと生徒の発言を誘導するかのような授業では,「生徒自らが,よりよい社会を築くために考えていけるようにする」ことは不可能である。

 あまりに酷すぎて,悲しい気持ちになる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より