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「任せながら鍛える」のではなく「鍛えながら任せる」?

 教育の世界には,「言葉遊び」で戯れ合う暇な人たちがいる。

 「任せながら鍛える」のではなく,これからは「鍛えながら任せる」ことが大切だ,などと主張している人がいた。

 両者の違いは何だろうか。後者は「任せる」ことに主眼をおく,という意味だろうか。

 教師が課題を与えておいて,「任せる」も何もない。子どもは「やらされている」だけである。
 
 「任せながら鍛える」ときの「鍛える」方法とは何だろう。結局「任せてはいない」のではないか。

 「任せる」も「鍛える」も,教師の側の姿勢・態度である。

 「任せる」ことの価値が,何となく「鍛える」ことの価値よりも高く思える。

 ただそれだけのことでは,何の意味もない。だから「言葉遊び」だと言っている。

 事実や関係性を読み解く能力がついていないのに,自分がいいなと思う姿を子どもが見せただけで安心してしまう教師が増えるのだけは阻止すべきだろう。

 子ども自身が重要な課題を見つけ出すまで試行錯誤させることには意義がある。

 これが「任せている」状態というのだろうか。見方を変えれば,課題発見力を「鍛えている」状態になる。

 こういう「言葉遊び」や, 

 「子どもの誰一人も不幸にしない」などという自分勝手な願いではなく,

 「子どもの思考力・表現力を高める授業をしたい」という具体的な願いをもった教師がいるとする。

 「思考力」が数値化できるとしたら,10もっていた子どもを12にしたり,
 
 3もっていた子どもを4にしたりすることが「高める」という言葉の意味である。

 ただ,残念ながら,「思考力」の数値化は難しい。

 「表現力」はある程度,測定することができるかもしれないが,「思考力」は「量」的なものではなく,「質」が問われる能力である。

 言葉では表現できない子どもに,イメージできていることを絵で表現させたことがあるが,

 そこで初めて「かなりの思考力がもっていた」ことがわかったことがある。

 「思考」したことを「表現」する方法は様々であるが,子どもの特質に応じた方法を考えておかなければならない。

 教師が子どもに課題を与えるときは,その解決の方法を「任せる」のではなく,

 選択肢を与えて「選ばせる」ことが必要な場面がある。

 「思考」させるときに,教師がどこまで具体的な指示を出すかも,様々な要因によって変わってくる。

 時間に余裕がないときは,「~が~であることを発見するために,2つの資料を比べてみなさい」

 というところを,子ども自身に発見すべきことを気づかせるために,
 
 単純に「比べてみなさい」と言ったり,「2つの資料を見てみなさい」と言ったりする。

 では,「~が~であることを発見した」生徒は「思考力が高まった」と言えるかというと,そう簡単には判断できない。

 もともともっていた思考力を活用しただけなのかもしれないから。

 一斉授業はテクニック次第でどうにでもなる,とほざいている連中がいるが,

 教育はそんなに簡単な仕事ではない。

 教師は学習状況を授業の中で把握して,子どもの活動の種類を調整することが求められる。

 当たり前のことだが,個々の学習状況を把握するためには,個々の生徒の学習状況が把握できる場面をつくらなければならない。

 教師の中には,生徒が話し合いをしている場面を「学習状況」として把握しようとする人がいるが,

 「協働性を高める」ことがねらいならそれでよいとしても,

 「個々の思考力を高める」ためには,個々が今どのような状況にあるかが把握できないといけない。

 だからテストのときはもちろん,「だれともかかわらないで一人で活動する場面」が授業では絶対に必要なのである。

 子どもが4人1組で教え合わされて,わかったつもりにさせられるような授業をしてはならない。

 これほど当たり前のことが理解できない指導者がついてしまう教師や教育実習生と子どもたちは本当の気の毒である。 

 価値認識を重視するあまりに,事実認識や関係認識がおろそかにされている学校現場は,要するに「思考力を奪う」場所になっているのである。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より