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社会に出てもすぐにドロップアウトしてしまう才能ある若者たちを救うために

 「打たれ強い人」という評価がある。

 こういう人たちに共通した「過去の経験」を抽出した調査結果もあるのだろう。

 成功体験があることは大切だが,失敗体験,挫折の体験があることも,「打たれ強い人」になるためにはとても重要なのではないか。

 では,「失敗体験」「挫折の体験」ができる,最も適切な場所はどこだろうか。

 多くの人にとってその経験をした場は,学校なのではないか。

 しかし,現在の学校教育では,「失敗」「挫折」をかなり恐れる傾向にある。

 不登校レベルではすまず,自殺に結びついてしまう可能性もあるからである。

 だから,多くの学校では「過保護」になり,ほとんど「失敗経験」のない子どもが育っていく。

 このうち,学力が高く,生徒会などの自治活動にも積極的な活躍をし,

 偏差値の高い大学を出たのに,仕事上のミスや失敗,想定外の場面に出くわしたことがショックで,鬱になったり,会社を辞めてしまったりする人が増えているという。

 日本は世界的に見てかなり「生産性が低い国」に分類されるが,こうした能力や才能があるのに,それがしっかりと発揮できないでいる人が多いことも原因の一つになっているのではないだろうか。

 「失敗,挫折によるショックを乗り越えるという成功体験」を義務教育や高等教育でさせてあげることが,日本の生産性向上にも寄与するのではないか。

 1億人以上の人口をもつことに甘えることなく,

 1人1人の能力を最大限に引き出すための役割を教育は果たさなければならない。

 義務教育というと,すぐに「底上げ」「底辺を救う」という発想になってしまうが,

 そういう発想でいるうちは,生産性向上など望めない。

 むしろ,才能があるのにそれが十分に発揮できない子どもの成長を助けることの方が,将来の日本にとってはよほど大切なのではないか。

 そういう主張をすると,すぐに「底辺層が厚い日本になってもいいのか」という反論がくるかもしれないが,中間層を厚くしたところで,せいぜい高度経済成長期の日本のようにしかならないだろう。

 社会に出られないでくすぶっている若者は,今より増えるかもしれない。

 しかし,社会に出ているのにくすぶっている若者をなくす方が先決なのではないか。

 新学習指導要領に基づく教育では,このような視点を大切にしてほしいと願う。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より