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どうしていい加減な教育方法にたどり着いたか,よくわかった

 私のブログもそうかもしれないが,読めば読むほど,なぜある人が,特定の教育観にこだわっているのかがわかるということがある。

 多くの教師たちから相手にされていないものの,アクティブ・ラーニングというバズワードが登場したことで脚光を浴びることができた人がいる。

 この人の教育観の背景には,自分自身が抱えている問題があることがよくわかった。

 この人は,「公平でありたい」という強烈な欲求から,名簿にチェックを入れてまで,かける必要もないのにすべての子どもに声をかけていたことがあるという。そして,それは無理であることに気づいたのだと。

 「公平である」ためには,一部の子どもに声をたくさんかけて,大多数にあまり声をかけないという状況は許されない。
 
 だから,教師と子どもとの間の距離感を子どもから全くつかませないようにする授業方法にたどり着いたのだろう。

 それは教師の子どもに対するほとんどすべての働きかけを放棄することで可能になった。

 この人は,教育者として,いくつもの理由で間違っている。

 まず,「公平でなければならない」という理由から,すべての子どもに不必要な声をかけまくるという動機自体が間違っている。

 「公平でなければならない」ことを最優先することで,声をかけられることを必要としている子どもとそうでない子どもが区別できなくなる。学習能力の高い子どもも,低い子どもも,「同じ数だけ発表する」「同じ点数をとる」ことが必要になってきてしまう。

 「人に対して公平に接する」というのは,用もないのに同じ数だけただ声をかける,なんていうものではないことは,道徳の教材を用いなくても容易に理解できるはずである。

 教師との子どもとの距離感のことを,この人は「間合い」と表現しているが,武道の試合のことを例に挙げるまでもなく,「間合い」は相手がどういう特徴をもっているかで変わってくる。

 すべての相手との「間合い」を同じような距離にするということは,相手の特性を理解しようとしないという態度の現れなのである。


 ここからは,私の想像だが,この人は,実は特定の子どもに声をかけたくてしかたながい人間だったのだ。

 そういう教育熱心なところが,自分が教師に向いている理由だと信じていた。

 しかし,声をかけられることを望まない人間もいることを現場で初めて知ったのではないか。

 まさか子どもの方も,「公平さを守る」という教師個人の信念のみが理由で声をかけられていたなんて思いもしなかっただろう。

 すぐに教師を辞めたのは本人にとっても子どもにとっても大正解だったと思うが,その後に行っていた研究が,自分をただ正当化するためだけのものになっていないかどうか,検証してくれる人はいないだろうか。材料はご自身がたくさん発信してくれている。

 自分自身のコミュニケーション能力不足を理由とした教育方法は,「後付けの論理」で生まれたものではないのか。

 教育における人間関係は,自分と相手の長所・短所をお互いにわかり合えることで成り立っていくものである。

 自分の短所を堂々と全面に出すのはかまわないが,すべての教師が同じ短所をもっているとは限らない。

 また,相手のつながりの中で,自分の短所は長所に変わりうる。

 この点が全く分かっていない人が学校現場でも少なくない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「歴史の活力」より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より