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小学校の教師たちが築いている財産とは何か

 小学校の教師を希望する人の中には,

 英語が苦手だから・できないから

 部活動の指導をしたくないから・できないから

 家族との時間を大切にしたいから

 などといった,自分の特性が理解できている人が多くいるそうです。

 中学校や高校でも,部活動から距離を置いて生きていくことは不可能ではありませんし,

 教師集団や子どもたちから「この学校では必要とされない人」というプレッシャーを強く受けた場合は,

 2~3年周期で学校を転々と異動していく生き方もできなくはありません。

 そもそも能力も熱意もない部活動を指導するために教員になるわけではない,というのは正しい見解でしょうし,土日がつぶされるようなら,教員をしたくない,という人には,小学校の教師は向いていると思います。

 小学校は,中高と違い,子どもが6年間もかかわる場所です。

 家庭とのつながりも深くなりますし,兄弟がいれば,10年以上,保護者が学校とかかわることもあります。

 私は中学校の教師ですが,小学校のPTAのソフトボールに長い期間参加していました。

 その間,一緒に参加してくれた教員は,副校長先生だけでした。校庭を開放する管理上の責任もあったからでしょう。

 勤務している中学校のPTAソフトボールにも自ら参加していましたが,3年で子どもが卒業してしまう中学校より,小学校の方が保護者同士のつながりも深くなります。

 もし日本の教育が,小学校3~4年間,中学校5~6年間になれば,どれだけスポーツなど生涯教育の分野で学校と家庭が深く結びつき,子どもに好影響を及ぼすか,計り知れない気がするのは,こういう経験によってです。

 話を元に戻しますが,小学校の教師は,純粋に,授業だけをしていれば成立する仕事です。

 私はそれでかまわないと思っています。私自身が小学校でお世話になった3人の担任の先生方は,ある程度高齢で,だれも運動をなさっていませんでした。

 すべての教科の授業を面白くするために工夫する努力は並大抵ではできないでしょうから,授業の準備を真面目にしている人は,中学校の教師くらい,勤務時間が長くなっているはずです。

 できるだけ「仕事」の範囲を極小化して,広い意味での教育にあまりかかわらないようにする傾向は,

 過酷な労働によって起きるさまざまな弊害を是正する風潮を追い風として,今後も広がっていくことでしょう。

 小学校の教師が築いているものは何なのでしょうか。

 6年間も同じようなスタイルで授業を受け続けた子どもたちは,集団として,多くの優れた特性を身につけて中学校に入ってきます。中には,「慣れ」と「あきらめ」を習得し,「格差」を実感できている子どももいます。

 基本的にほとんどの子どもは純朴で従順な性質を身につけ,反抗的な面はもちながらも批判的精神を持たないまま,中学校に進学してきます。

 新入生にとって,中学校は,最上級生が自分には遠く及ばない全く別の大人に見えるほどの別世界です。

 「部活動」という異次元空間への入口が,まるで大人の世界の入口のように感じさせてくれるのは,小学校のおかげです。

 部活動の指導者が,教科指導を行っている先生,自分のクラスの担任の先生であったりもする。

 小学校とはまた別の意味で,「何でもできる大人」がそこにいる。

 いずれ,小学校と中学校の区別ができない時代になったときが,子どもにとっては出口のない不幸の入口になるでしょう。

 「部活動」を憎む一部の人間たちが邪魔をしたい気持ちはわからないでもありません。

 日本の教育は常に非常事態をしいていたのです。

 これを解除した瞬間に訪れるものを予想できる人間は少なくないはずですが。

 小中一貫校には,その不幸をなくす働きが期待できるのと同時に,絶望的な場所になる恐れがあることを予言しておきます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より