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「自負」の塊たちとの確執

 「自負」をもっていない人間が生き残れない世界があるというのは理解できる。

 しかし,教育の世界こそ,「自負」を脱ぎ捨てられる人間でないと,見るべきものが視界に入らないまま終わってしまう。

 自分が見たいものしか見ず,聞きたいことしか聞かないようにする人間に,教育を語る資格はない。

 自分に都合のいいように,言うことを聞かない人間や言うことをきく人間の話を持ち出して,お山の大将ぶる醜悪な姿は,必ず教え子たちに伝染する。物理的な距離の近い遠いが重要なのではない。

 実は私自身は,こういう「自負」の塊のような上司と直に接したことはほとんどない。

 本で読んでその薄っぺらな教育観にあきれる人たちは多いが,そのおかげで,直に会って話を聞こうと思う気になることはない。

 ここ数年,何を学んできたのかわからない大学院生たちの面倒を見ることがあって,「自負」の塊が伝染したかのような,教員採用試験には決して合格できないであろう,「教育の研究者」たちに辟易とさせられている。

 人間が人間を育てるのが教育である。その影響は計り知れない。

 大学院生たちが見ようとしているのは,はじめから,自分たちの成果だけである。

 教育で見るべきものとは,子どもたちの表面的でだれの目にもうつっている活動ではない。

 黙っているときに伝わってくる願いであり,離れたところにいて伝わってくる思いである。

 子離れできない親が,最も子どもが自分を必要とするときに限ってそばにいないのと同じように,教師が子どもを困らせるのはその距離感である。

 自分たちの成果しか頭にないような人間たちに,子どもは変えられないし,最も私が危惧するのは,子どもにそういう利己的な人間たちの精神が伝染することである。

 「私の言う通りにすれば,みんな得ができる」という話法で丸め込む,商人すら小馬鹿にしたような私共(わたくしども)空間の主に,教育の世界が汚染されるのは忍びない。

 私の仕事はそういう人間の「自負」を打ち砕くことにある。

 学校や子ども,家庭のありとあらゆる実態に迫っている教師たちにとって,そことの距離が完全に離れてしまっている人間たちの「実証」だの「研究」だのはお荷物でしかない。

 自分に都合のよいデータだけで語るのはまだしも,議論をするときに最も核心的な問題点を論じる自由を与えないことこそが,「教育の研究者」を代表するいい加減な姿勢である。

 お荷物がもっと重たいお荷物を育てて学校現場に送り込んできてくれることで,やりがいのある仕事がまた増える。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より