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2017年5月

教師をかき乱して隠居しようといる大学教授,退職後に匿名でボランティア活動に参加している前事務次官

 教育の実践者たちを苦悩のどん底に落とし込んだ後,自分は隠居すると宣言している人がいる。

 最も恵まれた世代の人間が,最も不幸な世代の人間を見下しながら,安穏とした生活を送ろうとしているようだ。

 他人の人生の選択に「正解」も「不正解」もないが,私はこういう態度を「不誠実の極み」と感じる。

 こういうのは全く対照的な人がいる。

 「前川の乱」の首謀者である,文部科学省前事務次官である。

 夜間中学の先生や低所得の子どもの学習支援などのボランティア活動に参加しているらしい。

 教育の世界にも及んでいた政治の圧力を語り始めているようだが,

 教育現場にとって最も迷惑なのは,目の前の子どもを不幸にする可能性のある教育理念の流布である。

 「切り込み隊長」は,即,討ち死にするかもしれない。

 「私の屍を乗り越えていけ」なら,まだわかる。

 「あとは頼むぞ」で何も見ない,聞かないぞ,という態度が許されるのか?

 日本は1940年代に滅びかける過程で,大きな空想の世界の風呂敷を広げていった。

 当時の日本と同じ,末期的な症状が出ている人がいる。

 「子どもの主体性に任せる」という態度をもった教師の最もおぞましい姿がそこになる。


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安倍政権に訪れる正真正銘の危機

 学校をめぐる問題は,政権を覆すほどのものではないと私は感じています。

 もちろん,見る人から見れば,「終わったな」という印象ですが,代役が不在なので「終わらない」のです。

 たとえ,「行政の常識」「権力者の周辺の忖度」が明らかになったとしても,それは大昔からそうだったわけで,安倍政権が開き直って「昔からそうだったじゃないか!」とキレても,「そうだよね」と共感してしまう人までいる可能性があります。

 「前川の乱」についても,残念ながら「決勝点」にはならないでしょう。

 教育への政治の影響が大きくなっているのは,みんな知っていることですし,今回の学習指導要領改訂は,2006年の第一次安倍内閣のときの教育基本法改正の流れをくんだものですから・・・。

 ただ,新たに報道されたある事件は,今までとは比較にならないくらいの問題を抱えていると思われます。

 代役なしでも痛手になる問題です。

 ですから,よく考えると,今朝は報道されるでしょうが,その続報が続くかどうかは疑問です。

 女性票を一気に失うようなこの問題は,

 人気に陰りが見え始めていた小池さん側にとっては台風並みの「追い風」になる可能性があります。

 総理に最も近いとされる人物のスキャンダルが,命取りになるという私の予想は当たるかどうか。

 霞ヶ関への信頼が失墜しても,何とかなるかもしれませんが,

 警察への信頼が失墜するような事態は,決して国民が許さないでしょう。

 「お友達から攻めるしかないのは情けない」という「対抗勢力」のやり方への批判はごもっともですが,

 警察権力と首相官邸との関係に対する疑念の広がりは,軽視できないのではないでしょうか。

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自分で批判を受け止める気がない「親分」を戴く「子分」ほど,気の毒なものはない

 人から胡散臭く見られる宗教であっても,その宗教を信じる人を妨害してはならない。

 なんだそれ?といぶかられる言動をしている人でも,決して口をふさいではいけない。

 ただ,周囲の不満が大きくなったとき,だれが責任をとるべきなのか。

 本人がもし,「親分」の言う通り,「親分」が書いた本の通りにしているとする。

 周囲の不満は,すべて「子分」が受け止めないといけないのだろうか。

 悩んだとき,「本を読め」と言われても,問題が解消しないときはどうしたらいいのか。

 世の中には,自分の言いたいことだけ言って周囲を動かし,

 自身は「安全圏」にいるという自分勝手な人間がいる。

 「子分」からの信用を失わないように,ますます言うことが大きくなっていく。

 私から見ると,これは破滅の一歩手前のように感じてしまう。

 大きな話ばかりして立場の弱い人間たちを扇動し,あたかも

 お前は理想に沿った教育をしていると信じ込ませる姿は,

 とても危うく見える。私の杞憂にすぎないのなら,それでよいのだが。


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「アカデミアの世界」からこのブログへ投げかけられた言葉とは?

 読書編の各記事をお読みいただいた方はすでにご存じかと思いますが,次の言葉はつい最近,教員養成系の国立大学という「アカデミアの世界」の方から私宛のメールやブログのコメントでいただいたものです。私の側は匿名で記事を公開しておりますので,先方のお名前も伏せておきます。

>貴公のような「犬クソ」教師

>貴公があまり頭が良くないことは十分に承知

>学問的な作法に成(ママ)れていない素人さん

>貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

>国語力を鍛えなおしてはいかが

>アカデミアの世界に慣れてらっしゃらない

>(雑誌に原稿を書くのは)ブログで自慰行為するのとは違う
  (以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

 「貴公」という言葉をあまり聞いたことがなかったので,調べてみたら,「貴様(キサマ)」という言葉のニュアンスに近いのでしょうか。同輩か下の人間に向かって使う言葉のようです。

 また,「犬クソ」教師とは,どういう意味なのでしょうか。

 ただの「クソ」教師ではなく,「犬」の「クソ」にすることで,さらに下のランクに位置付けられるということでしょうか。

 学習指導要領の趣旨に沿って=国の言いなりになって,カリキュラムを編成する教師だから「犬」なのでしょうか?(そう解釈するとちょっとだけほっとできますね・・・)

 ただ残念ながら,文部科学省(国立教育政策研究所)の仕事に10年以上携わってきたものの,今回の指導要領に関するご協力の依頼は校務に支障があったためお断りしておりますので,「犬」とは呼べないでしょうね。

 「頭があまり良くない」とのご指摘ですが,その根拠が,ご自分が原稿に引用した他人の授業への批判は,自分への批判の材料には当たらない,というものでした。これ,本当に正しい主張でしょうか。原稿に引用したのは,ご自分の主張を述べるためであり,選択して引用した時点で,引用した側にも責任が生じるという私の主張は当然のことではないでしょうか。

 別に「私の頭は良くないわけではない」と言いたいわけではありませんが・・・。

 アカデミズムの世界の慣習はわかりませんが,私が学校の授業で扱う教材(たとえば新聞記事)とその内容に対して,「どうしてこんな教材を使ったのだ」と問われたら,私自身が責任をもってお答えしたいと考えています。

 私が「アカデミアの世界に慣れていない」と主張することの根拠は,

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になる

 とのことでしたが,「書きたい別のこと」のために,「室町時代のこと」がいい加減になってもかまわない,それに対する批判は極めてどうでも良いこと,というのがもしアカデミアの世界の常識だとしてら,そんな世界は私たち現場の教師たちには全く縁がなくてけっこうですし,教師の価値観を押しつけられる子どもたちにとっても迷惑なだけの存在に思えてしまいます。

 この先生の主張は,要するに「歴史認識」のうち,大事なのは「事実認識」や「関係認識」より「価値認識」である,ということに尽きるのではないでしょうか。

 ご自身のHPで,訳書について,次のように述べていらっしゃいます。

>共感理解も、新聞づくりのような活動主義も、文脈次第では意味のある歴史の学びを子どもたちに保証するし、歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習であっても、文脈やアプローチの仕方次第では、思ったほどの効果を持たない。

 これは,裏返すと,

>新聞づくりのような活動主義では,共感理解はできるかもしれないが,ほとんど意味のない歴史の丸写しで終わってしまうおそれがある。歴史学のディシプリンに即した分析型の歴史学習は,共感理解を促すような文脈やアプローチの仕方によって,より効果的に意味のある歴史の学びとなる。

 要は,文脈やアプローチ次第でどうにでもなるわけですね。

 後者は,少なくとも,共通の「事実認識」や「関係認識」を育てることになりますが,前者では,下手をすると誤った「事実認識」や「関係認識」のもとに,とんでもない「価値認識」を導く結果になりかねません。

 今のある国の政治家が,まさにその「とんでもない」本道を行っているかのような気がします。「経済がよくなればそれでよい」「自国に利益があればそれでよい」という価値認識などは,まさに教育の成果かもしれませんね。


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SAPIXの先生が教えてくれた,「通っても意味がないレベルのクラス」

 私の子どもが通っている塾(SAPIX)から,ときどき電話がかかってきます。

 今までは,「よくやっている」という内容の連絡でしたが,今日は「正答率が50%以上なのに間違えた問題を,自宅で勉強させろ」という指示の電話でした。

 「今のままだと,どこかに合格しても,進学した学校で,他の子はこんなにできるんだとショックを受けることになる」という脅し文句つきでした。

 もともとできる子が集まっている進学塾というところは,教えている人の競争も激しいのかもしれません。

 こいつが教えたクラスはテストの結果が悪くなる,というデータもはっきりと存在するのでしょう。

 進学塾には,塾の子どもたちの「正答率」という,問題の難易度や子どもの理解度を測るための絶対的な数値データが蓄積しています。

 「正答率が高い問題を間違えるのはおかしい」という論理はわからないでもありませんが,そうやって子どもにプレッシャーをかける教師に疑問を抱いたので,

 「どのくらいのクラスから下の子が塾をやめていくのですか?」

 と聞いたところ,答えたのは私の子どもの所属しているところよりは下のクラスでした。

 「そのクラスまで下がると,塾に通う意味はないのですね」と聞くと,

 「いい学校に合格することが難しくなることに気づくからでしょう」という趣旨のことを言っていました。

 進学塾には,子どもの側からすると,「いても意味がない」子どもがたくさん通わせられているわけですね。

 進学塾の方から辞めさせるという選択肢をとらない理由は,言うまでもないでしょう。

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教育管理職試験の面接はどうなっているのか?

 前事務次官の告発を聞いて,ふと,あることの現状はどうなっているか興味を持ったことがある。

 教育管理職試験の面接である。

 15年以上前に,私が教育管理職試験を受けたころ,事前に区の校長会の先生方に模擬面接をしていただいたことがあった。そのとき,

 「もし校長から,とても納得できない指示を下されたときは,どうするか?」

 という趣旨の質問があった。

 「上司の命に忠実に従う」ことが地方公務員法第32条に規定されている。

 そのことを踏まえ,私は,「納得できないような指示が下されることはないと信じるが,向いている方向が基本的に同じなら,別の方法を提案する可能性がある」と答えた。

 面接練習が終わった後の評価で,「指示に従いますと答えるのが基本だ」と言われた記憶がある。

 一方で,「指導主事に向いているかもしれない」との評価ももらった。

 実際に試験にパスして指導主事になってしまったわけだが,教育管理職試験には校長会からの推薦の影響もあるらしいから,あのときの言葉で決まった可能性もゼロとは言えないだろう。

 私の「心配」は,今も似たような質問が行われているかどうか,ということである。

 「法律は軽視してでも,首相官邸や総理の意向に背いてはいけないのだ」という「空気」が霞ヶ関にはあるに違いない。

 実効性のある圧力を加えるときの常套文句だったことが想像できる。

 似たようなことが,国だけでなく,自治体でもまかり通っているところがあるのではないか。

 東京都の場合も,似たような問題による影響がまだ尾を引いている。

 私が指導主事を辞めた理由は単純で,現在赴任中の学校にうつるためだったが,もう少し長くいたら,本当に「辞めたいから辞める」結果になったかもしれない。


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他人事ではない通学路暴走動画

 学校の通学路におけるトラブルは多い。

 通行人から学校に苦情が寄せられるケースも多いだろう。

 「広がって歩くのはやめなさい」と全校集会などで注意を呼びかけても,なかなか改善しにくい。

 自転車に乗っている人に対しては,

 「歩道を自転車が通行することの方が悪い」と堂々と反発する生徒もいる。

 自転車の方も,車道の左側のスペースがほとんどない道では,

 「自動車への迷惑」を考えて,歩道を行くことなる。

 だから,今度は私の「自転車への迷惑」を考えて,歩行者は道のどちらかに寄るべきだ,と考えてしまうのだろう。

 

 道路を利用する人の不満が,思いがけないかたちでネットに登場した。

 道路をかなりのスピードで走る(暴走する)車と,よけていく生徒たち。

 生徒はしっかり前を向いて歩いていたから,よける動きもスムーズだったが,

 もしふざけ合って歩いている生徒たちがいたとしたら・・・。

 死亡事故にもつながりかねない状況のように見える。


 小学校の学区域では,歩道にカラーのペンキを塗って,歩行者ゾーンと車道を分けているところもあるが,

 住宅街の中すべてにペンキを塗るのもいかがなものかと思うので,

 どうにか「お互い様」の関係を築けないものか。

 
 今回の「暴走」とネットへの投稿は,学校全体,社会全体への問題提起としても受け止めるべきだろう。

 生徒の集団に突っ込まないでくれたことに感謝するのも,おかしな話かもしれないが・・・。


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「任せながら鍛える」のではなく「鍛えながら任せる」?

 教育の世界には,「言葉遊び」で戯れ合う暇な人たちがいる。

 「任せながら鍛える」のではなく,これからは「鍛えながら任せる」ことが大切だ,などと主張している人がいた。

 両者の違いは何だろうか。後者は「任せる」ことに主眼をおく,という意味だろうか。

 教師が課題を与えておいて,「任せる」も何もない。子どもは「やらされている」だけである。
 
 「任せながら鍛える」ときの「鍛える」方法とは何だろう。結局「任せてはいない」のではないか。

 「任せる」も「鍛える」も,教師の側の姿勢・態度である。

 「任せる」ことの価値が,何となく「鍛える」ことの価値よりも高く思える。

 ただそれだけのことでは,何の意味もない。だから「言葉遊び」だと言っている。

 事実や関係性を読み解く能力がついていないのに,自分がいいなと思う姿を子どもが見せただけで安心してしまう教師が増えるのだけは阻止すべきだろう。

 子ども自身が重要な課題を見つけ出すまで試行錯誤させることには意義がある。

 これが「任せている」状態というのだろうか。見方を変えれば,課題発見力を「鍛えている」状態になる。

 こういう「言葉遊び」や, 

 「子どもの誰一人も不幸にしない」などという自分勝手な願いではなく,

 「子どもの思考力・表現力を高める授業をしたい」という具体的な願いをもった教師がいるとする。

 「思考力」が数値化できるとしたら,10もっていた子どもを12にしたり,
 
 3もっていた子どもを4にしたりすることが「高める」という言葉の意味である。

 ただ,残念ながら,「思考力」の数値化は難しい。

 「表現力」はある程度,測定することができるかもしれないが,「思考力」は「量」的なものではなく,「質」が問われる能力である。

 言葉では表現できない子どもに,イメージできていることを絵で表現させたことがあるが,

 そこで初めて「かなりの思考力がもっていた」ことがわかったことがある。

 「思考」したことを「表現」する方法は様々であるが,子どもの特質に応じた方法を考えておかなければならない。

 教師が子どもに課題を与えるときは,その解決の方法を「任せる」のではなく,

 選択肢を与えて「選ばせる」ことが必要な場面がある。

 「思考」させるときに,教師がどこまで具体的な指示を出すかも,様々な要因によって変わってくる。

 時間に余裕がないときは,「~が~であることを発見するために,2つの資料を比べてみなさい」

 というところを,子ども自身に発見すべきことを気づかせるために,
 
 単純に「比べてみなさい」と言ったり,「2つの資料を見てみなさい」と言ったりする。

 では,「~が~であることを発見した」生徒は「思考力が高まった」と言えるかというと,そう簡単には判断できない。

 もともともっていた思考力を活用しただけなのかもしれないから。

 一斉授業はテクニック次第でどうにでもなる,とほざいている連中がいるが,

 教育はそんなに簡単な仕事ではない。

 教師は学習状況を授業の中で把握して,子どもの活動の種類を調整することが求められる。

 当たり前のことだが,個々の学習状況を把握するためには,個々の生徒の学習状況が把握できる場面をつくらなければならない。

 教師の中には,生徒が話し合いをしている場面を「学習状況」として把握しようとする人がいるが,

 「協働性を高める」ことがねらいならそれでよいとしても,

 「個々の思考力を高める」ためには,個々が今どのような状況にあるかが把握できないといけない。

 だからテストのときはもちろん,「だれともかかわらないで一人で活動する場面」が授業では絶対に必要なのである。

 子どもが4人1組で教え合わされて,わかったつもりにさせられるような授業をしてはならない。

 これほど当たり前のことが理解できない指導者がついてしまう教師や教育実習生と子どもたちは本当の気の毒である。 

 価値認識を重視するあまりに,事実認識や関係認識がおろそかにされている学校現場は,要するに「思考力を奪う」場所になっているのである。

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動いたり話したりしていないと「学んでいない」と考える人たちがつくる落とし穴

 人間は,自分の頭脳を本当にしっかりと使っているとき,どんな状態になると思いますか?

 ものを考えているときに,だれかが無神経に話しかけてきたら,どう感じるでしょうか?

 「話しをしながら考える」ことができる人間など,ごくわずかです。

 残念ながら,教育の世界には,もともと「座学」が大嫌いな人がいて,子どもが歩き回ったり話したりしているだけで,嬉しくなってしまう人がいます。

 小学校だけかと思いきや,高校の授業ですら,見当外れの意見が出ても,「ああ,自分の考えをもつことができていて素晴しい」と感動してしまう人がいる。

 事実認識も関係認識も誤っているのに,たまたま評価者(学校では教師)がもっている価値認識と重なっただけで,よしとされてしまう仕組みが世の中にはあるのです。

 だから,多くの人間が「騙される側」「利用される側」に陥っていく。

 子どもが勝手に動くことも話すことも放置して,結局何もわかっていない状態に子どもが陥っていくのを気にせずにすませられてしまう人が教師になったら,学校はどうなっていくのでしょう。

 価値認識を最優先させて,事実認識や関係認識をしっかり育てない国だから,先の戦争が防げなかったのではないでしょうか。

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前事務次官の「武士の一分」

 日本の政治は明治維新や占領期の変革を経ても,結局江戸時代と何も変わっていないような気がしています。

 国民がだめだから,こうなっているという見方もできるでしょうが,

 批判的精神が「うざいもの」とされる流れは,これからも変わっていかないかもしれません。

 日本の政治に最も必要なのは,正しいものは正しい,間違っているものは間違っていると堂々と言える人間の存在です。

 前事務次官は,辞めたことで言えるようになったようですが,

 きっと現職のときも,言いたいことはたくさんあったのでしょう。

 現職のときに言わなければ意味がないわけですが,

 私の場合も,行政にいたときは,「トップにかける迷惑」ではなく,「関係する多くの人々にかかる迷惑」を気にして,言いたいことは言えませんでした。

 「上の意向だから」・・・政治にかかわらず,どこの世界でも反論を認めない決まり文句が使われています。

 文書の存在がはっきりしたわけで,ここまで化けの皮が剥がれても,誤魔化し続けようとする姿を忘れてはなりません。

 同じことが何度繰り返されれば,国民の目は覚めるのでしょう。

 今回のことに限らず・・・ここ,重要なので繰り返します・・・今回のことに限らず,

 行政のあり方は,ゆがめられていたのです。

 前事務次官が会見で述べたように,

>これ以上、行政のあり方をゆがめてはいけない

 この意味を考えるヒントは,戦前にあります。

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学校内での「生き方」を本で学んでいる同僚がいるのは「気持ち悪い」ことではないか?

 「オレが教えた方法で上手くいかないのは,お前たちのコミュニケーション能力が足りないからだ」という本音がそのまま本になって出版されているらしい。

 そこには,校長のタイプ別対処法とか,保護者への説明法とかが書いてあるようだが,こういうノウハウ本を読んで「職場での生き方」を考えている教員を信用しようとする人がいるものだろうか。

 かつて,想定外で区長に当選してしまった人間が,政治上の判断をつねに政党に問い合わせていたことが暴露されたことがあった。その政党は,天皇制の廃止や自衛隊の解消をめざしているところといえばわかるだろうが,民主主義の恐ろしい側面が垣間見える。議会とうまくやっていくには,どうしたらいいか?議会の支持者は少数だから,うまくいかないことは最初からわかっていた。


 衝突を避けることを考えろ,という教えと,

 衝突が起こっても,正しい道を貫け,という教えはどちらが大切か?

 教師が誤った道をいっているのに衝突が起こらない学校ほど危険なところはない。

 

 コミュケーション能力がない教員にタイプを見定められる校長も気の毒だが,何よりもやるせないのは同僚たちだろう。横のつながりがない学校にいる教師は本当に不幸ではあるが,その解決策が「本に頼る」世界は終わっている。

 わかったつもりになっている人間の言葉を読んで,自分もわかったつもりになるのが,教育の世界では最も危険なことである。

 それほど学校では教師たちの横のつながりが失われているのだろうか。

 昔も書いたことだが,教員の多くは「できるだけ評判のいい学校」に異動したがる。

 「いい学校に異動させてくれる校長がいい校長だ」なんていう校長評価が蔓延している。

 残念ながら,人事を決めているのは校長ではない。

 校長がもっている人事権は,ダメな教員を外に出すことだけである。

 そんな当たり前のことも知らない教員が,校長を評価できるわけがない。

 
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義務感を持たせて死亡率が2倍に

 政治家の中には,自分の命を狙われることなど何とも思わず,言うべきことを言ってきた人がたくさんいる。

 人の命がどうなろうとお構いなし,という政治家も,もちろんいた。

 自分の信念を貫くために,平気で嘘をつく政治家もいるが,神様と個人が直接対峙しにくい日本には,そういう人間を許容する緩い文化がある。

 ただ,子どもの将来にかかわることについては,いたずらに危機感を煽り,「おれたちの仲間だけが救世主だ」みたいな言動は慎んでいただきたい。


 貴族という特権や階級社会そのものを認めさせるために考え出された「高貴なる者の義務」という用語。

 第一次世界大戦でイギリス貴族の多くの若者が犠牲になり,イギリス貴族を没落させる結果になったことは,歴史の皮肉である。

 子どもの教育に熱意をもって仕事をさせようとすれば,1日24時間では足りなくなる。

 48時間くらいかかることを効率を上げて,毎日16時間くらいで終わらせる努力している教師たちにとっては,間近に迫っているかもしれない「死」を意識するゆとりもない。

 自分自身の子どもがいない若いうちは,いくらでも時間があるから,とにかく自分ができることはすべてやり尽くす,という姿勢が続く教師も少なくない。

 一方で,「自分の時間が大事」と10時間足らずで帰宅していく幸せな若者たちもいるが,そういう教師を恨むつもりは毛頭ない。

 なぜそういう教師を許せるのかというと,子どもたちに「いろいろな大人がいる」ことを知ってもらいたいという願いがあるからである。

 机にかじりついて,子どもの作品にコメントを書き続けている教師もいれば,子どもが帰った放課後のテニスコートで汗を流している教師たちもいる。さっさと学校を出てパチンコにいく教師もいる。

 義務感なり責任感でいっぱいになった大人ほど,子どもたちにとって頼りがいのある対象はいないが,同時に,鬱陶しい存在でもある。

 社会では,本当の使命感をもって仕事に臨んでいる人は,そんなに多くはない,ということを知ることも大切だ。

 自分が責任をとらされたくないために,部下に義務感を高めるようなプレッシャーをかける人間がいるのを知ることも大切である。

 義務感や責任感を強めさせるために,プレッシャーをかけるだけの人間は気楽なものである。

 戦地に若い兵士を送り出すとき,自分が上官だったら,どんな言葉が適切だろうか。

 
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義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的

 学習指導要領の改訂によって,「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められているが,

 これは従来,観点別で評価していた関心・意欲・態度,資料活用の技能と思考・判断・表現,知識・理解という学力の3つの面について,

 「量」はそのままで「質」を高めよ,という話である。

 今まで「量」をこなしても,それが身についていなかった。

 だから,学習の「質」を高め,身につく「量」も増やせ,という方が趣旨に近いかもしれない。

 学習の「質」が高まってこなかった背景には,「観点別学習状況の評価」の存在があった。

 私がこれまでこのブログで何度も指摘してきたように,

 「観点別の評価」というのは,学力の総体を見るものではないために,

 「関心・意欲・態度」を授業中に発言した回数や提出物を出した回数で評価するなど,目標とは無縁のいい加減な評価がまかり通っていた現状があった。

 今後,4観点が3観点に変わるのだろうが,同じ過ちが繰り返されるおそれがある。

 センター試験のように,穴埋め問題ができたことをもって「知識・理解」がなされているという恐ろしく適当な評価をしてきた教員にとって,アクティブ・ラーニングがどんな学習か想像もつかないかもしれないが,

 あることがらをこれらの資料を使って2~3の観点から説明せよ,という「目標に照らして本来そうあるべき学習内容と方法」を課題として与えてきて,1つの課題に対する解答を各観点から評価できていた教員にとっては,「今まで通り」で何の問題もないのである。

 「深い学び」についてイメージできない人は,まずは自分の大学での卒業論文を想定してみる。

 卒論で「深い学び」をした経験させてもらえなかった大学の卒業生は,教員として採用するべきではないだろう。

 もちろん,教育実習に毛が生えた程度の実践をして,単純に「みんなで正解できました」「これでみんな理解できました」などという報告をしただけの大学生も,教員にしてはならない。

 義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的は,

 一言で表現すれば,「わかっていない,という自分の状況がわかるようにしてあげること」である。

 成果至上主義は教育の世界にも蔓延しているから,

 「わかったつもりの人間」が隅から隅まであふれ出している。

 「わかったつもりの人間」を大量生産しているのは,A4用紙たかだか数十枚程度の文字数で,「これで授業は劇的に変わる」などと宣伝している暇人たちのせいでもある。

 現状のどこが問題かがわかっていないような人間も増えているが,それは

 「アクティブ・ラーニング」がこの国の教育の常識ではなかったからである。

 「本を読めばできるようになる」などと考えている人間がいるとしたら,まさに

 「アクティブ・ラーニングとは縁がなかった」という証拠になる。

 主体的・対話的で深い学びを子どもにさせてあげようとするならば,

 まずは校内研修でそういう「学び」を経験してみるべきだろう。

 呼んだ講師を評価するときの大事な視点は,

 「わかったつもりになった自分がバカだった」と思えるかどうかである。

 「よくわかった」などと「わかったふり人間」を増やしただけだったら,研修は意味がなかったと考えてよい。

 いきなり隣の教員と握手させたり,肩をたたき合うような暇つぶしをする講師が来たら,まずは怪しいと思った方がよい。

 データをたくさん示し始めて,「科学的ですよ」なんていう雰囲気を充満させる講師も同様である。

 将来の子どもの危機を煽るような人間も同様である。

 「似非アクティブ・ラーニング」は,必ずこうした「目くらまし」から始まる。

 歴史や伝統がない国のアクティブ・ラーニングが,

 歴史も伝統もある国のアクティブ・ラーニングのパクリでは,

 どう考えてもアクティブ・ラーニングにはなり得ない。

 自分たちで工夫すること。

 教師が工夫すること。子どもが工夫できる余地を与えること。

 それが義務教育でアクティブ・ラーニングに取り組ませる目的である。


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結果至上主義の部活動と「全員に正解させる」教育の共通点

 目標だけを最優先させる精神は,多くの問題を生む。

 結果至上主義の部活動と,「全員に正解させる」授業には,全く同じ共通点がある。

 「できない」という状態や「失敗」を認めないということである。 

 「できていない状態」「わかっていない状態」=悪という単純な発想が,いかに子どもたちの健全な成長を阻害するか,教育現場に長くいる教師だったらわかるはずだ。

 「全員ができること」「一人も置いてきぼりにしないこと」を目標にする精神至上主義の教育をすると,どういうことが起きるのか。

 子どもたちにとっては,表面上の成果とは裏腹に,激しいストレスが蓄積していく。

 このストレスは「反抗」や「不満」といったものを根っことしない分,とてもやっかいなものである。

 人間は,内面の葛藤を抱えながら,成長する生き物であり,

 その葛藤は,年齢とともに変化する。たとえば教師だったら,単純な子どもとの関係から,上司との葛藤,学年の教員との葛藤,保護者との葛藤,地域の人々との葛藤へと「移行」していく。

 いつまで経っても子どもとの関係づくりが苦手な教師がいるが,子どもの方から「戦力外通告」されている教師は,もはや無理をする必要はなく,「助けてくれる大人」との関係を良好にするように努めるべきである。

 内面の葛藤は,「科学」では容易に解消できない。

 スクールカウンセラーに相談するだけで,問題が解決できるわけではない。

 だから,人によっては,「宗教」に救いを求めるようになる。

 「宗教」の特徴は,「絶対的に正しい何か」に信頼を寄せることから始まる。

 言い換えれば,「忘れること」「何もなかったことにすること」から始めるようなものだから,

 儀式的,儀礼的な同じことの繰り返しくらいなら問題ないとしても

 (ただここを最大の問題だと考える人がいるのも当然のこと),

 教育と宗教は決して接近してはならないものだということは常識だ。

 子どもたちに対し,まだ感覚的に理解不可能な「大原則」「約束」を押しつけて,

 自分は眺めているだけできょろきょろ,うろうろしているだけの教師を見かけたら,

 どんな本を読んでいるか確かめてみるとよい。

 
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頼る相手を間違うと子どもが不幸になる

 公立小学校に子どもを通わせている経験からすると,隣のクラスに警察官が入ったとか,ときに物騒なニュースを耳にすることもあるが,親としては淡々と日々の生活をこなしてくれている子どもと教師たちに感謝したい。

 多くの教師たちが,思うように子どもの学力が伸びないこと,子どもが言うことを聞いてくれないことに悩んでいる。

 その処方箋を与えているつもりの人間がいるから,仕方のないことではあるが,だれかに頼ろうと思ってしまう心が働いてしまう教師がいるのはいたしかたない。

 しかし,頼る相手を間違うことで,かえって孤立を深めて子どもたちにも悪影響を及ぼしかねない状況に陥る教師がいることが容易に想像できる。

 教育を変える処方箋など,どこを探してみたところで,見当たりはしない。

 目の前に問題があるのなら,そこでしっかり立ち止まって,同僚の力を借りながら解決すべきである。

 本を読んだら自分の教育が変わるなんて安易な姿勢は捨てるべきである。

 実証的なデータに基づく理論だ何だと言ってみたところで,

 使ってみようとするのは,実験とは全く異なる生育歴をもった人間ばかりの,異なった環境で過ごす集団である。

 教育とは,「理科」のように実験をする程度のレベルで全員同じ正解が出せる仕事ではない。

 高校の教師など,子どもが過ごしてきた15年間の重みを支えきることなど不可能だし,

 それは中学校の教師だけでなく,小学校の教師ですら同じである。

 教育学部の人間が実験室で考える,「だれでもできる」なんていう安直な教育方法は,

 子どもに多大なストレスをかける結果になることを忠告しておきたい。

 もし,ストレスをかけるのが目的だというのなら,私はそれも教育の一環としてありだと思うが,

 全く逆のねらいをもっているのに,ねらいに反した結果が出て悩むことほど間抜けなことはない。

 教師が本当の覚悟をもつようになるには,そもそも何でも言うことを聞いてしまう素直な子どもを相手にしているだけではダメなのである。

 自分が教員に向いていないのではないか,やめた方がよいのではないか,などと思い詰めるくらいでないと,本当の覚悟はできない(もちろん,本当にヤメたら終わり)。

 読解力のない子どもに,本を読めばわかる,と強要する教師も最低である。


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人のコンプレックスを利用した商売

 だれもがコンプレックスを抱いて生活を送っている。

 容姿について,仕事の能力について,人間関係に作り方について・・・

 商売をする人から見れば,とてもおいしいマーケットである。

 こうした「コンプレックス市場」は,教育業界においても存在する。

 その勧誘の言葉がえげつない。

 コンプレックスを何かの商品で覆い隠そうとしても,

 教育の場合はすぐに馬脚を現すことになる。

 人と人とがぶつかり合うことが,成長の糧になるのであって,

 仲良しこよしでコンプレックスが解消されるわけではない。

 安易な教育観や,「データに基づく」などとされる教育方法のいい加減さを暴く方法は簡単である。

 自らのコンプレックスに自分の力で立ち向かっていく勇気のない人間には,成長はない。

 そういうことを教師は子どもに伝えなければならないのに,

 自分の方から進んで逃げているような人間は,

 必ず周囲に同じことを指向させるような悪影響を及ぼす。

 授業がうまくいかないから,

 生活指導がうまくいかないから,

 ああ,これに頼れば何とかなりそうだ・・・

 こういうコンプレックスビジネスに騙されている暇があったら,

 とことん子どもたちと格闘すべきである。

 教育実習のたった3週間は,「自分との戦い」であって,

 「逃げ道」づくりの場ではない。

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子どもは教師を選べないが,教師は子どもを選び直せる

 学級経営や授業づくりに行き詰まって,自称・成功者たちが開く,3000円くらいが相場の有料のセミナーに参加したことがある教師は多いかもしれない。

 小学生たちは,学校教育の求めるレベルに照らしてみると,基本的に優秀で,真面目で,向上心にあふれているから,教師が自分の方に問題があるのではないか,と疑ってかかる姿勢は非常に正しい。

 教育の世界でいう「七五三」とは,小中高における子どもの平均的な学習到達度を指す。

 私が知っているデータに基づいて言えば,中の「五割」は当たっているが,小においては「八割以上」を達成している学級も少なくない。その程度のレベルしか想定されていないのが今の小学校である。(だから学力上位層・・・最近は,公立の中高一貫校を目指す子どもが一定数いるために,裾野が広がり始めている・・・は競って進学塾に通い,中学受験を目指すわけである。)

 中高に比べて,小学生に達成感を持たせることは容易いことである。

 百マス計算をやらせるだけで,生き生きしてしまう子どもはいくらでもいた(今もやっているのだろうか?)。

 そんな時間はもったいない,ということに気づき始めると,今度はアクティブ・ラーニングだ,と目先を変える。

 何を試してみても,どうもしっくりこない。流行の先端ばかりを追い求めて,結局は単純に自分が勉強不足であり経験不足であって,同じ学校の教師たちから学ぶ姿勢がないばかりでなく,子どもを見ることすらできていなかった自分に気づく。

 学校という建物の中で間借りをしているヨソモノに過ぎない自分から担任が交代するだけで,子どもたちががらっと変わる,学級崩壊がぴたっと止まる様子を目前にした教師たちは,とりあえず異動させてもらって,次なるチャンスに備える,という選択が可能である。

 子どもは,教師を選べないが,教師は,子どもを選び直すことができる。

 親と教師の違いがここにある。

 教師たちは,いったいどれくらいの子どもたちを見捨ててきたのだろう。


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「わからない人」「批判的な人」を排除する人間が語る「だれも見捨てない」教育とは

 お友達連中で成功体験を喜び合うことは,決して悪いことではない。

 小学校という教育現場では,教師一人一人の孤立傾向が強いため,「自分は研究熱心」と自画自賛したい教師たちは,同僚との結びつきよりも,学校外の教師たちとのつながりを大切にする。

 学校内では浮いた存在でも,仲間と一緒なら頼りにされる満足感も得られる。

 もちろん小学校の中には,力のある教師が若い教師たちを育てる環境が整っているところもあるだろう。

 そういう学校の教師なら,放課後にいそいそと外部に出かけていく時間などないはずである。校内に指導対象となる教師はいくらでもいるから。

 中学校のように,学年全体・学校全体で共通理解をもつために情報のすり合わせをしなければならないところは,横だけでなく縦のつながりも軽視できなくなる。

 だから,「わからない人」「批判的な人」を仲間はずれにしている余裕はない。

 そういう教師を放置しておくと,不利益を被るのは学校全体=子どもたちと自分たちということになる。

 「あいつらに,俺たちの言っていることの意味なんかわかりゃしないだろう」という話法は,たまたま組合活動の中心部の教師たちに,総合的な学習の時間の動かし方をレクチャーしに行ったときに耳にしたものである。

 「おいおい,私も『あいつら』の一部なんだけど・・・」とは言わなかったが。

 排除指向が強い人間ほど,口では「生徒のため」「子どものため」などと言っておきながら,

 実質的には「自分たちと同じ考えをもっている教師のため」にしか動いていないという姿を嫌と言うほど見てきた。

 総合的な学習の時間がなぜ大切になってくるのか,移行期間の実践からの成果をいくら説いても,「負担が増える」の一言で聞く耳を持たない教師もいた。「すべての子どものために」という看板は,ただの飾りでしかなかったのである。

 そもそも「生徒のため」なんていう言葉は,教育に携わる人間だったらわざわざ口に出すまでもなく,当たり前すぎる前提の姿勢である。

 そういう言葉をわざわざ口にするタイプの人間ほど怪しい奴はいない。

 言葉に酔いやすい人間が集まっている教育のグループでは,「感動話」に花が咲く。

 そこで同じように花が咲いている「敵集団の失敗話」が表に出ることはないだろう。


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人を見捨てる余裕のある人にはわからない話

 子どもたちは,教師の想像以上に自分たちのことがわかっている。

 また,教師の想像以上に教師のことがわかっている。

 そういう子どもたちのことを信頼できない教師に限って,どんなことを言い出すのか。

 「だれも見捨てるな」

 これほど傲慢な言葉はない。お前は,何様なんだ?

 「私はだれも見捨てない」

 おいおい,お前に何ができるっていうんだ?

 うちの家族の喧嘩も止められるのか?

 家を出ていったオヤジを連れ戻せるのかよ。

 お前,俺たちのことがどのくらいわかってるんだ?

 できるやつには高い成績をあげて,

 できないやつには低い成績を刻み込んでいく。

 できないやつに花を持たせて,調子に乗せて,

 「おれは見捨てていなかった」と胸をはるのか?

 お前の手柄話のために,俺たちは利用されているのか?
 
 俺たちの間には,お前ごときが「見捨てる」も「見捨てない」もないんだよ。

 そもそもお前たちは,俺たちなんかに関心のない連中の言いなりになっているんじゃないか?

 関心があるつもりになって,「見捨てないよ」なんて,わざとらしいにもほどがある。

 浮かれた話に飛びついて,そのときだけ「その気」になっているのが見え見えなんだよ。


 子どもから見える「無責任な大人」の姿とは,どのようなものだろうか。

 最も胡散臭く見えるのは,「わかったような顔」をしている人間である。

 
 自信満々の姿で子どもを引っ張っていける時期は長くない。

 「不安でいっぱいの大人」がいても,一向にかまわない。

 教師の中には,自分自身を「見捨てる」ことを避けるだけで精一杯の人もいる。

 「人を見捨てる」ことができるほど余裕のある人間にはわからない話かもしれないが。

 そういう教師が,「あなた自身のことだけは,決して見捨てることのないように」と子どもに向かって願う姿に,冷水を浴びせるようなお節介な「同志連中」が邪魔なのである。

 
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見えていないものがそこにある

 子どもっぽい集団のいじめと,そうでない集団のいじめの区別を見誤ると,とんでもないことになる。

 子どもたちの世界では,リアルのミサイル発射よりも,見えない消耗戦が続いているものである。

 教師が一生懸命になって「見よう」「見届けよう」としているものに対して,

 子どもたちは敏感である。

 それがプラスに働くのは,中学生といってもほとんど小学生に近い子ども集団に限られるだろう。

 教師が一生懸命になっても「見えない」ものを子どもたちは共有しており,

 そこで騙されている教師が多いことを肌で感じている。

 くれぐれも,調子にのって「いじめられっ子の活躍」を表に出されないように。

 成功体験が一人の人生を変えることは大いにあり得るが,

 それが教師の力によるものであっては,子どもはいずれ路頭に迷うことになるだろう。

 初任者研修で,小学校の教師たちによる,いじめ解決に向けてのロールプレイングの指導をしたことがある。

 「平和ボケ」したストーリーをぶった切りにしたことの意味が,経験を通してわかった教師はどのくらいいるだろう。


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教育と政治的「排除」

 自分に対して「悪口」を言うような人間は,どんどん「排除」する。

 「排除」というキーワードが最もわかりやすいタイムリーの国は,アメリカである。

 政治と教育の関係は,韓国に関するニュースを見ているととてもわかりやすい。

 日本については,教育基本法が改正されたのは,どの内閣のときだったか。

 学習指導要領の質が大きく変わろうとしているのは,現内閣である。

 どういうつながりがあるのか。

 それをわからずに,次の学習指導要領の性格を語ることはできない。

 この現内閣のもとで「編集」される学習指導要領にかかわっている人がどういう人を確かめると,

 どういう人が「排除」されているか,なぜ「排除」されたのかに気づけるだろう。

 「見捨てる」という話法は,そもそも「拾ってやる」「助けてやる」という意識がある対象に使うものである。

 「地面に落ちているもの」ではなく,自分の足で立っている対象は,

 「見捨てる」ではなく,「排除する」という行動様式になる。

 教育が政治の道具になっている国の「民主化レベル」の世界ランキングはどのくらいなのだろうか。


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「あいつは自分のことしか考えていないやつだ」は「悪口」か?

 「先生,相談があります。××くんが,僕の悪口ばかり言うんですよ」

 「どんな?」

 「自分のことしか考えていない」

 「人の話を聞かない」

 「自分と違う考えを認めない」

 「証拠を示さないくせに証拠があるんだと言い張る」

 「高圧的な話し方だ」

 「それから・・」

 「みんな正しいことですか」
 
 「そうですね」

 「どうしてそういうことを言ってくるんでしょう」

 「自分のことではなく,他人のことを考えて,ときにはクラスの仕事を優先してほしいから?」

 「人の話を聞いてほしいから?」

 「自分と違う考えも,検討してほしいから?」

 「証拠を示してほしいから?」

 「穏やかな話し方をしてほしいから?」

 「なるほど,そうなんじゃない?」

 「はあ・・・」

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「自負」の塊たちとの確執

 「自負」をもっていない人間が生き残れない世界があるというのは理解できる。

 しかし,教育の世界こそ,「自負」を脱ぎ捨てられる人間でないと,見るべきものが視界に入らないまま終わってしまう。

 自分が見たいものしか見ず,聞きたいことしか聞かないようにする人間に,教育を語る資格はない。

 自分に都合のいいように,言うことを聞かない人間や言うことをきく人間の話を持ち出して,お山の大将ぶる醜悪な姿は,必ず教え子たちに伝染する。物理的な距離の近い遠いが重要なのではない。

 実は私自身は,こういう「自負」の塊のような上司と直に接したことはほとんどない。

 本で読んでその薄っぺらな教育観にあきれる人たちは多いが,そのおかげで,直に会って話を聞こうと思う気になることはない。

 ここ数年,何を学んできたのかわからない大学院生たちの面倒を見ることがあって,「自負」の塊が伝染したかのような,教員採用試験には決して合格できないであろう,「教育の研究者」たちに辟易とさせられている。

 人間が人間を育てるのが教育である。その影響は計り知れない。

 大学院生たちが見ようとしているのは,はじめから,自分たちの成果だけである。

 教育で見るべきものとは,子どもたちの表面的でだれの目にもうつっている活動ではない。

 黙っているときに伝わってくる願いであり,離れたところにいて伝わってくる思いである。

 子離れできない親が,最も子どもが自分を必要とするときに限ってそばにいないのと同じように,教師が子どもを困らせるのはその距離感である。

 自分たちの成果しか頭にないような人間たちに,子どもは変えられないし,最も私が危惧するのは,子どもにそういう利己的な人間たちの精神が伝染することである。

 「私の言う通りにすれば,みんな得ができる」という話法で丸め込む,商人すら小馬鹿にしたような私共(わたくしども)空間の主に,教育の世界が汚染されるのは忍びない。

 私の仕事はそういう人間の「自負」を打ち砕くことにある。

 学校や子ども,家庭のありとあらゆる実態に迫っている教師たちにとって,そことの距離が完全に離れてしまっている人間たちの「実証」だの「研究」だのはお荷物でしかない。

 自分に都合のよいデータだけで語るのはまだしも,議論をするときに最も核心的な問題点を論じる自由を与えないことこそが,「教育の研究者」を代表するいい加減な姿勢である。

 お荷物がもっと重たいお荷物を育てて学校現場に送り込んできてくれることで,やりがいのある仕事がまた増える。

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小学校の教師たちが築いている財産とは何か

 小学校の教師を希望する人の中には,

 英語が苦手だから・できないから

 部活動の指導をしたくないから・できないから

 家族との時間を大切にしたいから

 などといった,自分の特性が理解できている人が多くいるそうです。

 中学校や高校でも,部活動から距離を置いて生きていくことは不可能ではありませんし,

 教師集団や子どもたちから「この学校では必要とされない人」というプレッシャーを強く受けた場合は,

 2~3年周期で学校を転々と異動していく生き方もできなくはありません。

 そもそも能力も熱意もない部活動を指導するために教員になるわけではない,というのは正しい見解でしょうし,土日がつぶされるようなら,教員をしたくない,という人には,小学校の教師は向いていると思います。

 小学校は,中高と違い,子どもが6年間もかかわる場所です。

 家庭とのつながりも深くなりますし,兄弟がいれば,10年以上,保護者が学校とかかわることもあります。

 私は中学校の教師ですが,小学校のPTAのソフトボールに長い期間参加していました。

 その間,一緒に参加してくれた教員は,副校長先生だけでした。校庭を開放する管理上の責任もあったからでしょう。

 勤務している中学校のPTAソフトボールにも自ら参加していましたが,3年で子どもが卒業してしまう中学校より,小学校の方が保護者同士のつながりも深くなります。

 もし日本の教育が,小学校3~4年間,中学校5~6年間になれば,どれだけスポーツなど生涯教育の分野で学校と家庭が深く結びつき,子どもに好影響を及ぼすか,計り知れない気がするのは,こういう経験によってです。

 話を元に戻しますが,小学校の教師は,純粋に,授業だけをしていれば成立する仕事です。

 私はそれでかまわないと思っています。私自身が小学校でお世話になった3人の担任の先生方は,ある程度高齢で,だれも運動をなさっていませんでした。

 すべての教科の授業を面白くするために工夫する努力は並大抵ではできないでしょうから,授業の準備を真面目にしている人は,中学校の教師くらい,勤務時間が長くなっているはずです。

 できるだけ「仕事」の範囲を極小化して,広い意味での教育にあまりかかわらないようにする傾向は,

 過酷な労働によって起きるさまざまな弊害を是正する風潮を追い風として,今後も広がっていくことでしょう。

 小学校の教師が築いているものは何なのでしょうか。

 6年間も同じようなスタイルで授業を受け続けた子どもたちは,集団として,多くの優れた特性を身につけて中学校に入ってきます。中には,「慣れ」と「あきらめ」を習得し,「格差」を実感できている子どももいます。

 基本的にほとんどの子どもは純朴で従順な性質を身につけ,反抗的な面はもちながらも批判的精神を持たないまま,中学校に進学してきます。

 新入生にとって,中学校は,最上級生が自分には遠く及ばない全く別の大人に見えるほどの別世界です。

 「部活動」という異次元空間への入口が,まるで大人の世界の入口のように感じさせてくれるのは,小学校のおかげです。

 部活動の指導者が,教科指導を行っている先生,自分のクラスの担任の先生であったりもする。

 小学校とはまた別の意味で,「何でもできる大人」がそこにいる。

 いずれ,小学校と中学校の区別ができない時代になったときが,子どもにとっては出口のない不幸の入口になるでしょう。

 「部活動」を憎む一部の人間たちが邪魔をしたい気持ちはわからないでもありません。

 日本の教育は常に非常事態をしいていたのです。

 これを解除した瞬間に訪れるものを予想できる人間は少なくないはずですが。

 小中一貫校には,その不幸をなくす働きが期待できるのと同時に,絶望的な場所になる恐れがあることを予言しておきます。

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「徳」より「得」に訴えかけて「政治」をする人間

 現在の代議制は,本当の民主制ではなく,選挙で選ばれた寡頭制にすぎない,という考え方がある。

 だから,直接民主制を取り入れる部分を増やすことが,本当の民主制を守るためには必要なのだと。

 実際に,コストを度外視して,直接民主制の機会を増やしている国がある。

 国民自らがそれを望んでいることが必要である。

 日本は大丈夫なのか。

 国レベルではなく,地方レベルで見たらどうか。

 トップにいる人間が,ただ「お上」の指示に従うのが得意なだけの,「政治屋」だったら。

 「徳」よりお「得」感が大事,なんていう人間だったら。

 封建社会と全く同じになってしまう。

 封建制のもとでは,「徳治政治」が行われて,それなりに評価できる時代があったかもしれない。

 しかし,「徳」を「お上」が押しつけてくるようでは,本当の「徳治政治」にはなっていかない。

 選挙をする人間たちが自分自身の「得」だけを求めて行動する社会をつくったのは,

 「お上」か,自分たち自身なのか。

 ある大学では「自治」機能が全く働かない仕組みになってしまった理由がよくわかった。

 汚れ役やお上への上納を進んで買って出る人間が上の立場になってしまったときが,その組織の終わりのときだろう。

 次に「苦労する」立場の押し付け合いが始まるのである。

 「だれが得させてやったんだ」という恫喝も始まるかもしれない。


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どうしていい加減な教育方法にたどり着いたか,よくわかった

 私のブログもそうかもしれないが,読めば読むほど,なぜある人が,特定の教育観にこだわっているのかがわかるということがある。

 多くの教師たちから相手にされていないものの,アクティブ・ラーニングというバズワードが登場したことで脚光を浴びることができた人がいる。

 この人の教育観の背景には,自分自身が抱えている問題があることがよくわかった。

 この人は,「公平でありたい」という強烈な欲求から,名簿にチェックを入れてまで,かける必要もないのにすべての子どもに声をかけていたことがあるという。そして,それは無理であることに気づいたのだと。

 「公平である」ためには,一部の子どもに声をたくさんかけて,大多数にあまり声をかけないという状況は許されない。
 
 だから,教師と子どもとの間の距離感を子どもから全くつかませないようにする授業方法にたどり着いたのだろう。

 それは教師の子どもに対するほとんどすべての働きかけを放棄することで可能になった。

 この人は,教育者として,いくつもの理由で間違っている。

 まず,「公平でなければならない」という理由から,すべての子どもに不必要な声をかけまくるという動機自体が間違っている。

 「公平でなければならない」ことを最優先することで,声をかけられることを必要としている子どもとそうでない子どもが区別できなくなる。学習能力の高い子どもも,低い子どもも,「同じ数だけ発表する」「同じ点数をとる」ことが必要になってきてしまう。

 「人に対して公平に接する」というのは,用もないのに同じ数だけただ声をかける,なんていうものではないことは,道徳の教材を用いなくても容易に理解できるはずである。

 教師との子どもとの距離感のことを,この人は「間合い」と表現しているが,武道の試合のことを例に挙げるまでもなく,「間合い」は相手がどういう特徴をもっているかで変わってくる。

 すべての相手との「間合い」を同じような距離にするということは,相手の特性を理解しようとしないという態度の現れなのである。


 ここからは,私の想像だが,この人は,実は特定の子どもに声をかけたくてしかたながい人間だったのだ。

 そういう教育熱心なところが,自分が教師に向いている理由だと信じていた。

 しかし,声をかけられることを望まない人間もいることを現場で初めて知ったのではないか。

 まさか子どもの方も,「公平さを守る」という教師個人の信念のみが理由で声をかけられていたなんて思いもしなかっただろう。

 すぐに教師を辞めたのは本人にとっても子どもにとっても大正解だったと思うが,その後に行っていた研究が,自分をただ正当化するためだけのものになっていないかどうか,検証してくれる人はいないだろうか。材料はご自身がたくさん発信してくれている。

 自分自身のコミュニケーション能力不足を理由とした教育方法は,「後付けの論理」で生まれたものではないのか。

 教育における人間関係は,自分と相手の長所・短所をお互いにわかり合えることで成り立っていくものである。

 自分の短所を堂々と全面に出すのはかまわないが,すべての教師が同じ短所をもっているとは限らない。

 また,相手のつながりの中で,自分の短所は長所に変わりうる。

 この点が全く分かっていない人が学校現場でも少なくない。


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社会に出てもすぐにドロップアウトしてしまう才能ある若者たちを救うために

 「打たれ強い人」という評価がある。

 こういう人たちに共通した「過去の経験」を抽出した調査結果もあるのだろう。

 成功体験があることは大切だが,失敗体験,挫折の体験があることも,「打たれ強い人」になるためにはとても重要なのではないか。

 では,「失敗体験」「挫折の体験」ができる,最も適切な場所はどこだろうか。

 多くの人にとってその経験をした場は,学校なのではないか。

 しかし,現在の学校教育では,「失敗」「挫折」をかなり恐れる傾向にある。

 不登校レベルではすまず,自殺に結びついてしまう可能性もあるからである。

 だから,多くの学校では「過保護」になり,ほとんど「失敗経験」のない子どもが育っていく。

 このうち,学力が高く,生徒会などの自治活動にも積極的な活躍をし,

 偏差値の高い大学を出たのに,仕事上のミスや失敗,想定外の場面に出くわしたことがショックで,鬱になったり,会社を辞めてしまったりする人が増えているという。

 日本は世界的に見てかなり「生産性が低い国」に分類されるが,こうした能力や才能があるのに,それがしっかりと発揮できないでいる人が多いことも原因の一つになっているのではないだろうか。

 「失敗,挫折によるショックを乗り越えるという成功体験」を義務教育や高等教育でさせてあげることが,日本の生産性向上にも寄与するのではないか。

 1億人以上の人口をもつことに甘えることなく,

 1人1人の能力を最大限に引き出すための役割を教育は果たさなければならない。

 義務教育というと,すぐに「底上げ」「底辺を救う」という発想になってしまうが,

 そういう発想でいるうちは,生産性向上など望めない。

 むしろ,才能があるのにそれが十分に発揮できない子どもの成長を助けることの方が,将来の日本にとってはよほど大切なのではないか。

 そういう主張をすると,すぐに「底辺層が厚い日本になってもいいのか」という反論がくるかもしれないが,中間層を厚くしたところで,せいぜい高度経済成長期の日本のようにしかならないだろう。

 社会に出られないでくすぶっている若者は,今より増えるかもしれない。

 しかし,社会に出ているのにくすぶっている若者をなくす方が先決なのではないか。

 新学習指導要領に基づく教育では,このような視点を大切にしてほしいと願う。

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中学校の先生は,同時にいくつの仕事を進めているか

 学校の先生には,給料にわずかですが調整手当がついてしまっているために,日常的な「残業」という概念は存在しません。

 だから長時間勤務が常態化する,という考え方があるのはうなずけます。

 ごくわずかな調整手当分も「労働なしでもらえる」ように,必死に勤務時間内で仕事を終えて帰ろうとするツワモノが出てくるのはその反動でしょうか。

 教師の「責任」が重いのは当たり前で,公務員=全体の奉仕者としての自覚と能力がない人は,採用されていないはずですので,大部分の教師は「使命感」「責任感」をもって勤務時間が過ぎても「やるべきこと」をやり終えるために学校に残っているのです。だれかの体調が悪いときは,その仕事を喜んで肩代わりし,だれかが心に変調をきたした場合は,一度学校の外で食事をしながら励ましたりしてから,また職場に戻って仕事を続けるのです。

 「責任」は重いけど,学校内でしなければならない「仕事」は少ない,というのは校長だけに限ったことで,副校長を頂点に,とにかくたくさん「仕事」があります。一般的な教師が4月に行っている仕事を書き出すと,どれくらいの量になるでしょうか。

 仕事の種類だけを書き出してみても,次のようなジャンルがあります。どれか1つだけやっていればよい,というわけではなく,基本的にはすべての教師がかかわらなければならない仕事です。

○教務関係(防災,安全指導を含む)

○生活指導関係(いじめ対策,ネチケット関係を含む)

○研修・研究関係(研究発表,初任者研修,免許更新講習などを含む)

○学校行事(宿泊行事も含む)関係

○部活動関係

○教科指導関係

○道徳指導関係

○総合的な学習の時間の指導関係

○学年経営関係

○学級経営関係

○保護者会関係

 4月には,これらすべての年間計画が頭に入った状態で仕事を始めなければなりませんが,新しいメンバーが加わってから決められる内容もあるので,「プラン」づくりと「アクション」が同時に進められる状態にあるのが4月です。

 始業式と入学式が始まるまでの5日間くらいで,すべての準備を整えるのは至難の業です。4月当初に,今年度のように土日が入ってしまうと地獄になります。

 学校の先生にあてはまる「5月病」は,怒濤のような4月過ぎて,連休を迎え,少し気が緩んだあとに再び「仕事の山」に襲われる恐怖心が原因になることも考えられます。

 ある程度,経験年数を重ねてくると,外部の委員を引き受ける機会も多くなるでしょう。

 仕事はさらに増えるわけですが,学校の外の仕事をする方が逆に息抜きになっていい,という考え方もできます。

 仕事量の「見える化」の研究をしてみようと思ったこともありますが,恐ろしい個人差が表面化してしまうと,新たな給与体系の創出につながりかねず,やめました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より