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進学塾と進学塾についていけない子どもが通う進学塾

 たかが小学校の教育内容と侮っていると,扱われている教材の奥の深さに気づけない教師が行っている学校の手抜き授業を見逃してしまう。

 学習指導要領に示された内容を十分に身につけるためには,学習の「量」と「質」の両方が必要になる。

 この「量」と「質」の両面において,学校教育のはるか上をいくのが進学塾のカリキュラムである。

 「はるか上」のカリキュラムであることから,当然,「落ちこぼれ」が発生する。

 以下に紹介するのは,進学塾に通う子どもための進学塾の広告に使われている,勧誘のための「子どもの現状」である。

・授業が理解できない
・授業についていけない
・体力的に進学塾のカリキュラムがきつい
・授業内容を忘れてしまっている
・質問ができていない
・分かったつもりで終わっている
・宿題が多すぎて,こなしきれない
・親が教えられない
・親が教えるとケンカになってしまう
・宿題に追われて,復習に手が回らない
・苦手分野がそのままになっている
・家庭学習のやり方が分からない。
・机には長時間向かっているが,成果が出ない
・何を優先すればいいのか分からない。
・どこが分からないのかも,分からなくなっている
・ケアレスミスがなくならない
・時間配分がうまくできない

 これ以外にも「チェック項目」があり,5個以上当てはまっている子どもは「危険信号」がともっているという。

 「危険」というのは「志望校に不合格になる」という意味なのかどうかはわからないが,

 普通の子どもは5個どころではなく,「みんなあてはまる」状態になってしまうから,

 「予備校の予備校」に通わされるというたいへんな運命が待っている。

 「そこまで手厚いことができる経済力のある親の子どもは幸せだ」と思う人もいるだろうが,

 子どもの身にもなってほしい。

 「体力的に進学塾のカリキュラムがこなせない子ども」は,

 進学塾の内容の復習をさせるための進学塾に通わせられることになりかねないのだ。

 私の場合,小6のころ,週3回,国語と算数のテストとその解説だけを行う塾に通わせられた。
 
 家に帰るのは夜の10時になる。

 塾の近くのマクドナルドでハンバーガーを食べるのは楽しみだったが,

 きついのは塾のあった翌日の朝である。

 子どもたちは,大人でいう「残業」にあたる「残勉強」を週何十時間やらされているのか。

 私の娘は,毎日ノートのマス目を全部埋めるだけの漢字練習をさせられていた。

 「過労死」にあたる「過勉強死」などはだれも認めてくれないだろうが,

 「肉体的・精神的な苦痛」の大きさは計り知れないものがある子どももいるだろう。

 対子どもだけに限定される「いじめ」以外にも,たくさん自死に結びつく要因があることを,社会は見過ごしてはならない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より