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2017年4月

進学塾と進学塾についていけない子どもが通う進学塾

 たかが小学校の教育内容と侮っていると,扱われている教材の奥の深さに気づけない教師が行っている学校の手抜き授業を見逃してしまう。

 学習指導要領に示された内容を十分に身につけるためには,学習の「量」と「質」の両方が必要になる。

 この「量」と「質」の両面において,学校教育のはるか上をいくのが進学塾のカリキュラムである。

 「はるか上」のカリキュラムであることから,当然,「落ちこぼれ」が発生する。

 以下に紹介するのは,進学塾に通う子どもための進学塾の広告に使われている,勧誘のための「子どもの現状」である。

・授業が理解できない
・授業についていけない
・体力的に進学塾のカリキュラムがきつい
・授業内容を忘れてしまっている
・質問ができていない
・分かったつもりで終わっている
・宿題が多すぎて,こなしきれない
・親が教えられない
・親が教えるとケンカになってしまう
・宿題に追われて,復習に手が回らない
・苦手分野がそのままになっている
・家庭学習のやり方が分からない。
・机には長時間向かっているが,成果が出ない
・何を優先すればいいのか分からない。
・どこが分からないのかも,分からなくなっている
・ケアレスミスがなくならない
・時間配分がうまくできない

 これ以外にも「チェック項目」があり,5個以上当てはまっている子どもは「危険信号」がともっているという。

 「危険」というのは「志望校に不合格になる」という意味なのかどうかはわからないが,

 普通の子どもは5個どころではなく,「みんなあてはまる」状態になってしまうから,

 「予備校の予備校」に通わされるというたいへんな運命が待っている。

 「そこまで手厚いことができる経済力のある親の子どもは幸せだ」と思う人もいるだろうが,

 子どもの身にもなってほしい。

 「体力的に進学塾のカリキュラムがこなせない子ども」は,

 進学塾の内容の復習をさせるための進学塾に通わせられることになりかねないのだ。

 私の場合,小6のころ,週3回,国語と算数のテストとその解説だけを行う塾に通わせられた。
 
 家に帰るのは夜の10時になる。

 塾の近くのマクドナルドでハンバーガーを食べるのは楽しみだったが,

 きついのは塾のあった翌日の朝である。

 子どもたちは,大人でいう「残業」にあたる「残勉強」を週何十時間やらされているのか。

 私の娘は,毎日ノートのマス目を全部埋めるだけの漢字練習をさせられていた。

 「過労死」にあたる「過勉強死」などはだれも認めてくれないだろうが,

 「肉体的・精神的な苦痛」の大きさは計り知れないものがある子どももいるだろう。

 対子どもだけに限定される「いじめ」以外にも,たくさん自死に結びつく要因があることを,社会は見過ごしてはならない。

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悪いのは「失言」ではなく,「認識」

 問題なのは,「失言」ではなく,大臣としてあるまじき「認識」や「思想」である。

 これは,「政権の緩み」などではない。

 「大臣の認識は,政権の認識である」と明言するわけにいかない政権の問題である。

 もちろん,「認識」を「表明」したことも問題である。

 この国には「言霊」が生きているという「認識」があり,

 古代から続くものを大切にしている「文化」がある。

 大地震はいつどこで起きるかわからない。

 責任追及も大事だが,震災対応,防災のレベルを引き上げることを優先すべきである。
 

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ニューヨークの公立中学校事情

 産経新聞のニューヨーク駐在編集委員の方が週刊ダイヤモンドに寄せている

 「小学生はつらいよ」の記事を読んだ。

 日本でも全国学力調査がいまだに行われているが,

 ニューヨークの場合は,小学生の「統一テスト」の結果が進路を大きく左右するらしい。

 日本もいずれ,同じようなことになるのだろうか。

 評判の良い学校に入るのに,学校選択自由制の地域では定員を超えると抽選が行われるが,やがて「能力次第」という仕組みに変わる可能性もある。

 私の娘は,今年も,何の「コピー」か知らないが,全国学力調査の「練習問題」を解かされた上で,本番を迎えていた。

 日本では,小学生の学力調査の結果は,進路には直接影響せず,教員の方の評価に影響を及ぼしている。

 子どもが餌食になる日も遠くないような気がする。

 モノ真似が大好きな日本人が多いおかげで,就職先のない高学歴アルバイターの出番が増えてくるのだろう。

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理想に走り,現実を軽視するか,現実を最優先し,理想を忘れるか

 労働の見直しにしろ,教育の改革にしろ,理想を求めていって,必ずぶつかるのが「現実の壁」である。

 教育の理想は,結局似たり寄ったりである。 

 現実を軽視したり,無視したりして,無理矢理に理想を通そうとすると,恐ろしい結果を招くことになる。

 1,2年間くらい,子どもを犠牲にして,やってまともな教育ができるようになったら,異動になる。

 これを繰り返していても,学校現場には犠牲者しか残らない。

 逆に,現実問題を優先しすぎると,いつの間にか理想などは忘れ去られる。

 教科書にある程度の内容を,全員でおおむね理解した,と言えるレベルに定着させたいなどという「理想」を掲げる人間に,「教育の理想」があるとは到底思えない。

 「働き方改革」についても,日本は生産性を向上させることがまだ理想のイメージになっていないようである。

 「事故を防ぐこと」「苦情を言われないこと」「失敗の責任をとらされないこと」が理想像になっている人間たちから,仕事を奪い返すことが最も重要なことだと思われる。


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アメリカ・中国・韓国と日本

 現大統領を支持しているアメリカの人々の子どもたちは,大統領の発言をどのように受け止めているのだろうか。

 Aさんは,BさんがCさんたちのことをこう言っていた,と語った。

 こういう話法が原因で,学校現場でも多くのトラブルが発生している。

 Cさんたちは,Bさんに確かめることをせず,あるいは確かめることができず,

 Bさんへの嫌悪を強めていく。

 Bさんは,Aさんへの嫌悪を高める。

 Aさんは,もともとCさんのことを何とも思っていない。

 振り回される周囲の人たち。

 人間は,人を振り回したり,人に振り回されたりするのが好きな生き物かとも思ってしまう。

 さて,舞台は学校ではなく,国際社会である。

 発言の影響は,すぐに出るものと,少しだけ後に出るものと,しばらくたってから出るものがある。

 私が心配しているのは,発言を耳にした子どもが大人になる時期の話である。

 日清・日露戦争に勝ったとき,まだ幼かった子どもたちが起こしたのは何だったか。

 日本も決して「部外者」ではあり得ない。


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走っていると見えないものが,歩いてみると見えてくる

 「走る教育」,「歩く教育」という2つの言葉を並べてみると,どのような対比が見えてくるだろうか。

 一人の教師に目を向けてみると,私の場合は,40歳代までは「走る教師」だった。

 今は,「歩く教師」になっている。

 大きな怪我をして,あるいは,体重が重くなりすぎて,物理的に走れなくなったという意味も含んでいるが,「走れなくなった」というより「走らなくなった」と表現する方がよいかもしれない。

 もちろん超短期で考えると,「走る」こともある。

 ただ,かつてはいつも「走り続け」ていて,時々「猛ダッシュする」という感じだった。

 今では,基本的に「歩き続けて」いる。

 もしかしたら,生徒が「見える」ようになったことで「歩いている」ように感じているのかもしれないが・・・。

 「一緒に走らない仲間」や「ついてこれない子ども」が増えていることが,「歩く」姿勢を重視させているという気もする。

 とても単純に考えると,「歩く」ときは視野が広くなり,よそ見もしやすくなるが,「走る」ときは,視野が狭くなり,よそ見もしにくい状況で,急には止まれない,などいった欠点が多かった。

 「歩く」と,「走る教師」もよく見えてくる。

 それが危なっかしく見えるようになると,教師としては「晩年」を迎えるということだろうか。

 行政にいたころは,基本的に「立ち止まっている」状態だった。

 「立ち止まっている人」や「後ろ向きに走っている人」を見る機会も行政では多かった。

 「見える」ということが,いかにつらいものであるかということもよくわかった。

 もしかしたら,嫌なものを見ないですむために「走り続けた」のかもしれない。

 それでも,行政に比べれば,学校現場は,いたって健全なところである。


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自分への執着<他者への関心

 「自意識過剰」というときの「自意識」の中には,自己愛に基づく「自己満足」が占めているものをすぐに思い浮かべてしまいますが,「自己嫌悪」がほとんどを占めている人もいます。

 自分に自信がある人は行動を示すことで,自己の欲求を満たすことができますが,

 自分に自信がない人は,行動に移せないという悩みをもっているものです。

 アドラー心理学では,後者のタイプの人に,次のようなアドバイスが用意されているそうです。

 無理に自己肯定する必要はない。

 人は,与えられているものを活用していくしかない。

 人にとって大切なのは,何が与えられているかではなく,

 与えられたものをどう活用するかである。

 活用しなければ何にもならないわけだし,

 いきなり「完全」を求めても無理な相談である。

 だから,「肯定的なあきらめ」が必要だ。

 今はできないことがある。それを受け入れろ。

 「自己受容」が第一段階である。

 今与えられているもので,できることをしろ。

 自分に足りないのは能力ではなく,

 今できることをしようとする勇気である。

 ・・・・という話を聞いても,「私にはその勇気がない」という人は多いはず。

 自分のことだけに目を向けていては,進まないのが人間関係です。

 「勇気がわかない」最大の原因は何でしょうか?

 それは,相手が自分を受け入れてくれるかどうか,懐疑的であることです。

 言い換えると,相手を信頼していないのです。

 行動に移せない最大の原因は,「自己嫌悪」ではなく,「他者嫌悪」である可能性もかなりあります。

 悩みは尽きない。

 でも,こういう悩みを抱いているということは,

 他人との「深い」関係を築こうとしている証拠なのかもしれません。

 他人との「深い」関係を築くには,相手を信頼すること,

 相手のために自分の力を尽くすこと,この2つが大きな武器になることは理解できるでしょう。

 自分への執着がなくなったときには,悩んでいたことも忘れてしまっているかもしれません。


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生徒指導部と教務部の違い

 学校の先生は,「分掌」と呼ばれる組織にも所属する。

 生徒指導部,生活指導部とよばれるところには,

 生徒が快適な学校生活を送るために力を尽くす仕事をする人がつく。

 教務部とよばれるところは,

 生徒だけではなく,先生方にとっても快適な学校にするための仕事をするところである。

 責任の軽重を論じても意味はないと思うが,

 より「経験」と「大人とのコミュニケーション能力」が求められるのは,教務部の方である。

 指導主事のころ,それぞれの主任を集めての研修会を実施していたが,

 教務主任は,やがて管理職になるといった先生方ばかりだった。

 もちろん,自ら管理職にはならない道を選んで教師としての研鑽を積んでいる教務主任もいる。

 教務主任がどんな人かがわかると,だいたい,管理職の人柄も想像がつくようになった。

 「事務的」な仕事をただ「事務的」に進めさせる管理職だと,教務主任にも「事務職臭」が漂ってくる。

 教育現場では,「事務的」なことがらに,いかに「意味」や「価値」を持たせるかが大事になる。

 最悪なのが,「法律で決まっているから」とか,「教育委員会に出せと言われているから」という「事務的」な説明の仕方で,これではまるで

 「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という質問に「法律で罰せられるから」などと答える子どものようである。

 生活指導畑や教務畑といった,警察でいう「現場の刑事」と「デスクワークの署員」に分けてしまうような学校であってはならない。

 生活指導はときに教務の仕事のように,教務の仕事はときに生活指導のように,

 子どものためを思って進めていきたいものである。


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家庭訪問が楽しみ

 小学生の娘の家庭訪問の日程が知らされたのだが,妻の方は仕事があり,今年は私が家にいなければならないことになった。時間割を変更して,休暇をとる必要がある。

 中学校教師の私にとって,家庭訪問する側だったのは,20年前にいた学校でのことである。

 その頃,「教師が家に上がり込む必要があるのか」「教師が家に上がる権利はあるのか」などといった議論があり,「窓口訪問」に変わった記憶がある。

 娘の小学校では,まだ「上がり込み訪問」を続けているようだ。

 さて,家庭訪問を「される側」は初めてであるので,少し楽しみなところがある。
 
 新しい担任は若い男性の先生だそうで,ちょっといじわるな質問をこちらからしてみようかとも考えている。

 「うちの娘は,道徳の授業が本当に苦痛のようですが,先生は道徳の授業が好きですか?」

 正直に答えてくれるかどうかで,その先生を信用するか,しないかが決まる気がする。

 そのときの気分にもよるだろうが・・・。

 ぜひ,巨人の連敗中の訪問にはならないでほしい。

 私が行った家庭訪問の思い出を,過去に記事にした記憶がおぼろげに残っている。

 一番感激したのは,女子の生徒がお茶を入れてくれたことだろうか。

 一番長かったのは,野球が好きなお父さんと,生徒や学校のこととは全く関係のない話をしたときだろうか。

 昔は,教師と保護者が信頼関係を築くことが容易だった気がする。

 家庭訪問は本当は嫌だった親も少なくなかったと思うが,保護者の趣味の話が最も指導の参考になっただろうか。

 綺麗な部屋の装飾を手作りで行っていたお母さんの子どもは,歴史博物館に勤めている。

 「つながり」が,とてもよくわかるので,記憶にも残る。

 嫌な印象を残されないようにしなくてはと,今から緊張もし出してきた。


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学校現場という「甘えん坊」たちの巣窟

 こんなタイトル,管理職ではない学校の一教員だから書けるものかもしれない。

 学校の教員が,「締め切りに追われる」というのは,どういう場合か想像つくだろうか。

 私は6つくらいの出版社の原稿を抱えて,死にそうになっていたころがあったが,そんな話ではない。

 締め切りを過ぎるのが複数出てくると,本当に寝る時間がなくなる。

 部活の指導をして,授業の準備をした後に原稿を書くと,もう次の日の授業が始まる,なんていう生活になる。

 今でも夢に「締め切りに追われる自分」が出てくるのは困ったものである。

 学校には,準備しなければならない様々な「計画」がある。

 「道徳の年間計画・全体計画」「総合的な学習の・・・」「安全指導の・・・」などなど。

 「各教科の評価規準と評価基準」なども。「計画」の一種である。

 こういう「計画」は,年度当初か,教育課程届けを受理してもらうために,必要なものである。

 これ以外にも,指導主事に任用されて,私は初めて「学校はこんなにたくさん調査書類を提出しているんだ」ということがわかった。

 依頼文書の写しをつくり,教育長名で各学校長に依頼する。

 中には,自分のところに届いた時点で,すでに締め切りがかなり迫ってしまっている調査もあった。

 困るのは現場の教頭である。

 郵送では間に合わないから,FAXで先に送っておき,準備しておいてもらう。

 国→都道府県→区市町村→学校→区市町村→都道府県→国

 というルートで依頼される調査の結果が上がっていく。

 一カ所でも締め切りを守らないと,後に迷惑をかける。

 こういうプレッシャーのかかる経験をすると,

 締め切りを守らない人間は「悪魔」に見えてくる。

 もちろん,すべての教員がこういう「調査もの」にかかわるとは限らない。

 ただ,いつも「締め切り」など守ろうとしない人のところに,
 
 よくその人を知らなかった管理職が書類をまわしてしまうと,大変なことになる。

 「締め切りを守る」とかいうレベルではなく,

 「書類を紛失する」というレベルも存在する。

 「多分この辺に埋もれていると思うんですが・・・」

 真っ青になっている管理職の顔が目に浮かぶ。

 人によっては,書類をなくしておいて,

 「忙しいのに,こんな仕事をふりやがって!」と逆ギレする。

 そんな学校現場を見てきたが,子どもレベルの「甘えん坊」でも生きていける世界だったことを思うと,今では逆に微笑ましくもなる。

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英語達者な先生に習っても英語の成績が向上しない理由

 「平成28年度 英語教育実施状況調査の結果」が公開されている。

 報道で注目されているのは,「英語達者な先生に習っても,英語の成績が高くなるとは限らない」というごくごく当たり前の結果だが,公開されているデータから読み取れるのは,それだけではない。

 調査では,以下のような数値の推移が公表されているが,これらは「英語力向上」の原動力となりうると考えられているはずの内容である。

>「CAN-DOリスト」形式よる学習到達目標を設定している学校の割合

>授業における生徒の英語による言語活動時間の割合が高い学校の割合

>「話すこと」や「書くこと」における「外国語表現の能力」を評価するためのスピーキングやライティング等のパフォーマンステストを実施している学校の割合

>英語担当教員のうち、英検、TOEFL、TOEICなどの英語能力に関する資格・検定試験により、CEFR B2レベル相当以上のスコア等を取得している者の割合

>海外にある学校や研修施設等へ通った留学経験がある英語担当教員の割合

>授業において、教員が発話の半分以上を英語で行っている」学校の割合

 これらのデータと,生徒の英語能力向上との間に相関関係が見られない,というのが分析結果なのである。

 ▼平成28年度 英語教育実施状況調査(中学校)の結果より

Eigo01

Eigo02

Eigo03

 3つのグラフのうち,視覚でだまそうとしているのが3番目であることはわかるだろうか。

 3番目のデータを,1番目か2番目のグラフ上で表現すれば,ほとんど変化していないことがわかる。

 「もっとALTの時間を増やさなければ」と思わせたいのである。

 様々なデータの中で「痛い」のは,2番目の「CAN-DOリスト」形式による学習到達目標の設定等の状況だろう。

 これだけ大幅な改善・・・というより,「行政指導の結果」だろうが・・・が見えているのに,「英語力の向上」にはほとんど結びついていない。


 まさか,日本の英語教育の質が,英語教師の「英語力の低さ」や「英語の教え方のまずさ」が原因だと本気で信じている人はいないだろう。

 日本人は英語を「話す」「聞く」能力で,国際標準とは言えないから,特に「話す」「聞く」能力の高い英語教師を増やそうとしたい気持ちはわからないでもない。

 しかし,ALTを活用した授業を中心にしてしまえば,「話す」「聞く」能力が本当に高まるのかと言えば,限界があることくらい,教員でなくてもわかることだろう。

 ICT機器の活用状況もおまけのように調査に付け加えられているが,たとえばiPadの無料アプリを使って発音のチェックを行っていくなどの個別学習による効果は出てくると考えられるが,テストという場でしか評価されない,あるいはテストの場でしか使わない,そういう能力を本気で高めようとする生徒がどれくらい確保できるかが疑問であることに気づかなければならない。

 小学校の英語教科化によって,「英語が嫌いな子ども」が増えるとも予想される中,今後も日本の「英語教育」は迷走するばかりだろう。行政が手を打っても,効果がついてこないのが露骨に示されてしまっているから。

 かなりの数の子どもたちにとって,「テスト以外に英語能力を活用できる場がない」ことが能力を高めにくい原因であり,現在のように教員の能力や教え方ではなく,子どもがもともともっている能力・・・こつこつ学習に取り組む真面目さなど・・・との相関が高い教科の切なさが垣間見えるニュースであった。

 「英語は筋トレだ!」と説く人もいる。

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静岡市の人口減少に見る地方都市の未来像

 読売新聞が昨日配信したニュースによれば,

>静岡市の今月1日時点の推計人口が69万9421人となり、政令市の指定の目安「人口70万人」を割り込んだことがわかった

 とのこと。

 静岡県の県庁所在地・静岡市の印象は,

 「静岡駅周辺の道路が混み過ぎて不便である」くらいのものだったが,

 東京や名古屋に人をとられている状況を知ると,この地盤沈下の流れは止められないだろうという感じがしている。

 全国の「城下町」には,同じような「衰退」の運命が待ち受けていることだろう。

 静岡市には,大企業が少ない,という特徴があるらしい。

 不便なところにある静岡大学の存在意義とか,もろもろの課題が追い打ちをかけるように襲ってくるだろう。

 「東京」や「名古屋」の生産性を向上させることに貢献することで,

 「おこぼれ」をもらう運命を選択するのか,どうか。

 肝腎の「東京」や「名古屋」の現状すら,満足できる状況にはない,というアナリストもいる。

 静岡市がとってくるであろう対策に注目しておきたい。


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3年間の行政経験をふり返って

 行政に身を置いていたのはもう10年以上も前のことだが,

 新しいことを始める難しさを2つの意味から実感することができた。

 一つは,前例のないことに取り組むための準備の大変さ。

 もう一つは,反対意見を押し切って強引に進めることの非情さ。

 これらには,共通した「背骨」がある。

 隙のない「文書」の山である。

 非効率の象徴のようなお役所には,

 効率などといったものに全く価値を置かない山のような「想定問答の紙」がある。

 何人もの目を通してつくられた「想定問答集」は,

 だれからも質問が出ないでそのまま机にしまわれる運命のものもあるが,

 ここに様々な「英知」が詰め込まれているものだと思ってもよい。

 どうせなら,問答集をそのまま公開すべきだと思うタイプの人間が私だった。

 非効率,杓子定規,縦割り,などと揶揄されるお役所仕事だが,

 最近,「お役所仕事気取り」で行政の真似事をしようとする人が増えている気がする。

 とんでもないことである。

 「文書」がどのような意味をもっているか,それがつくられるまでにどのような法令や答申や審議中の意見の山に目が通されているか,経験のない人には想像もできないかもしれないが,それがわからない人が「なんちゃって文書」を作っても,何の意味もないことを実感していただきたい。

 「文書」のための「文書」という嫌な言い方もあるが,

 そこには2つの意味がある。

 カッコをつけたいだけの場合。

 「背骨」の位置を忘れないためにある場合。

 背骨のない魚がうようよ泳ぎ出して流されていく先にあるものは,何だろう。


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日本が守るべきものは何だろうか

 日本は何を,誰のために,守っていくべきなのだろう。

 テロの標的として自ら進んで名乗り出なければならないほど,関係を守りたい国があるのだろうか。

 世界では,さまざまな理由で命の危険に晒されている人たちがいる。

 日本丸ごとその「仲間入り」を果たしていくことが,政府の役割ではないはずである。

 新聞も報じなくなったとき,その次に起こる出来事を,歴史は例示してくれている。

 オブラートに包んだ中に入った情報まで,ちょっかいを出される時代になったのだろうか。


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導入からでは本題がわからない授業が面白い

 本時のめあて・・・なんていう内容を板書してしまい,「今日,やることはこんなことか」とがっかりさせた経験がある先生はいませんか?

 えっ・・・私はまず学習のめあてを書くことから始めなさい,と教わったのですが・・・。

 ・・・もちろん,私も本時のテーマをいきなり書くところから始める授業も行っています。

 私が聞いているのは,「がっかりさせた経験があるか,ないか」ということです。

 たとえば,算数の授業で,「小数の足し算」と板書されて,気持ちが盛り上がる子どもっていますかね?

 私はもう50も過ぎていますが,完全なるテレビ世代です。

 これから学校に通う子どもは,親がテレビ世代であるだけでなく,生まれたときからスマホやタブレットがあるような世代です。

 こういう世代の人間に,いきなり「小数の足し算」を学びますよ,なんて言っても,「めんどくせーなー」なんて思われてしまいかねません。

 授業でいえば,タイトルの付け方を工夫して,ある程度進んだところで,ああ,このタイトルは,こんな意味があったんだと気づくような,そんな「遊び」が必要です。

 だから,小数の足し算では,「ずれたら大変!」なんていう板書から始めても,いいのではないでしょうか?

 戦前の教育を受けた人でも,「之字運動」なんて言われても,何の意味かわからないと思いますが,

 授業の導入の仕方の参考になるものですよ,と言われたら,どういう想像ができるでしょうか。

 「つい入ってしまいたくなるようなお店のような導入」とは,どのような工夫がなされた授業のことでしょうか。

 『書く力』(朝日新書)を参考に,考えてみました。

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北陸地方では常識的な?「防災教育」

 ある高校生が,「雷の多い年は豊作になる」と言い伝えを実証するための実験を行ったことがニュースになっています(産経新聞)。

 私の勤務している中学校では,1年生の一部が必ず田植え体験をしている関係で,よく次のような話をします。 

 以下の文章は,JAみな穂のHPからの引用です。

****************

 雷は稲妻とも呼びます。雷は稲が結実し始める夏の時期に多く発生することから、古来より稲は雷によって結実すると信じられていました。雷が稲を孕(はら)ませると考えられ、雷を稲の夫(つま)稲夫(いなずま)と呼ぶようになりました。昔は「夫」も「妻」も夫婦や恋人が相手を呼ぶ言葉で、「つま」に妻が当てられたことから稲夫→稲妻と呼ぶようになりました。

 そのため雷が多い年は豊作になると信じられてきたのです。
 
 また雷を「神鳴り」とも書くように昔から雷は神の仕業と考えられてきました。雷を「いかづち」とも読むのは荒々しい様子を表す「厳(いか)し」に大蛇(おろち)や蛟(みずち)などで神や霊を表す「ち」を「づ」現代かなづかいの「の」で繋げたものです。

****************

 このHPには,北陸地方が雷多発地帯であることも示されていました。

 北陸各県では,「雷が発生したときの安全対策」の教育もしっかりと行われているのかもしれません。

 
 実際に田んぼに雷が落ちると,どんな現象が起こっているのでしょうか。

 高校生が行った実験によれば,放電した水は,通常の水よりも窒素を多く含んでいたとのこと。

 そうすると,人為的に放電を起こしていき,水分中の窒素量を増やすことで,収穫量の増加が見込めるようになるのでしょうか。

 ただ,長く放電しすぎるのもいけないようです。

 
 各地に残されている様々な伝承は,経験則を示しているものも多いのでしょうが,現在では,それらの科学的根拠を解明している人たちも多いはずです(そういう本を昔読んだ記憶があります)。

 今回の高校生のような実験・検証を行う研究が,「総合的な学習の時間」の基本スタイルになっていくことを期待したいものです。

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「一斉授業」の展開のバリエーション

 なぜ45分とか50分の一斉授業において,一定時間,教師が話をしなければならないのか。

 それは,生徒に「学習」をさせるためである。

 生徒が「学習」に取り組むためには,頭の中を「アクティブ」な状態にしなければならない。

 生徒の頭の中が「アクティブ」な状態になるためには,「なぜこの問題を考える必要があるのか」「なぜこの問題を考える価値があるのか」を実感させないといけない。

 「そんなことは無理だ」と諦めているのは,「子どもを見捨てている」教師である。

 「一人も見捨てない」などという綺麗事を言いながら,「大勢を見捨てている」罪悪感に駆られない人間は教師ではない。

 「主体的に学ぶ」姿勢を持たせるためには,教師主導の「導入」や「展開」が必要なのである。

 「展開」の仕方は様々である。

 指導案では,「展開1」「展開2」「展開3」などと,発問や理解の深まりとともに,学習のスタイルも変化する場合がある。

 ペアで議論したり,4人1組で話し合ったりする場面もあるだろうし,1人の発言をもとに,多くの生徒が意見交換をする場面もあるだろう。

 いつの間にか,「学級自治会」みたいになることもある。

 これも「一斉授業」である。

 理解が不十分な子どもに寄ってたかって理解させようとする子どもたちに,「それでお前たちが得ができるんだ」なんて「説得」している教師が実在するとすれば,恐ろしい限りである。

 文科省は,「自分で考えればもう少しで答えが出たのに,他の子に解き方を教えられて悲しい思いをした」というケースも,「いじめ」と認定するという見解を出していることを覚えておいてほしい。

 「一斉授業」に対する理解も技能も不十分なまま,子どもたちを「放し飼い」にする教師を断罪できるのはだれだろう。

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大学評価・学位授与機構からの訪問

 大学評価・学位授与機構という組織からこのブログへのアクセスがあった。
 
 何をどう間違えて迷い込んでしまったのかと思ってみたが,私のブログは,教員の評価に関することも記事にしている。
 
 教員の評価について,最も厳しい基準を設けているのは,私が自分自身に対して使っているコンピテンシーモデルである。これを他人に押しつけようとは思わないが,私がもし管理職になってしまっていたら,泣く人がたくさん生まれたかもしれない。

 大学評価・学位授与機構とは,どういうものなのか,確かめてみたら,平成25年度には人件費だけで数億円が使われている組織だということがわかった。

 
 Aという大学とZという大学があったとする。

 Aは偏差値65以上でないと入学できない。

 Zは偏差値40以下でも入れる。

 この2つの大学が出している「学位」の質が,同じものであると考える人はいないだろう。

 もちろん,Z大学の質が低いと断言しているわけではないが,「卒論」を読んでチェックするだけでわかるはずである。

 ある地方大学のセンセイは,Zなんていう大学は潰せと主張しているが,そもそも大学進学率の高さを見れば,日本の大学の「学位」がいかにチープなものかは容易に想像がつくというものである。

 理系ではデータ改竄とかコピペとかいろいろな不正な論文が見つけやすいかもしれないが,文系ではそもそも私のような人間でも論文の査読をしているくらいだから,・・・・これくらいにしておこう。

 評価というのは,いくらでも「作文」で良く見せたり悪い部分を隠したりができるものである。

 だから,「ここを見られるのが一番キツイ」という部分を大学ごとにしっかりと見破って,「事前の準備を一切させない抜き打ち評価」を行うのがベストではないかと思われる。

 事前に情報が漏れないように,「再就職」は一切禁止とするか,情報漏洩の罪を強烈に重くしておく。

 かつて,T大臣がある大学の認可を取り消そうとしたことがあったが,これからは,1つ増やすときには2つ潰すとか,「交付金・補助金を減らす努力」をしてみるのも大事だろう。

 さて,機構の本来の業務とは無関係かもしれないが,私は教員免許取得の条件が,大学によって違いすぎることは大きな問題だと考えている。

 大学の授業やテストも問題かもしれないが,最大の問題は,教育実習校で,現場の教師が評価の責任を持っていることである。

 評価は本当に難しい。評価が適正に行われているかどうかを確かめるための,

 「大学評価・学位授与機構」評価機構も必要なのかもしれない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より