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悪徳商法と全く同じ手法を使う大学のセンセイ

 電通が叩かれる理由として,過労死問題とは別の心当たりがある人は少なくないだろう。

 高収入の背景には,高い成果と膨大な仕事量が求められる過酷な能力主義があることについては,納得がいくことである。

 「広告」に対しては,どこかに「だまされてはならない」という自制心が働くのが正常な受け止め方だろう。

 ネットの時代になっても,私も含め,紙(新聞や雑誌本体も含めて)の「広告」やテレビのコマーシャルのお世話になっている人が多いから,「広告」という仕事への忌避感が背景にあるとは考えないのが普通かもしれない。

 アンケートに答えたら,自分の年収に合った広告が入ってきたときに,「もう関係をもつのをやめよう」と思った会社があったが,一度答えたデータはもう消しようがないかもしれない。

 電通に社員向けの格言があったように,広告業界には,「消費者をだますためのテクニック」が当たり前のように存在する。

 ここでの「だます」の意味は,法律に触れる範囲のことではない。

 たとえば女性が化粧して「すっぴん状態」をわからないようにすることも「だます」に入ると考えていただきたい。

 本来,買うつもりがなかったもの,買う必要がなかったものを買わせるのが広告の仕事である。

 もちろん純粋に,定期的に買っていただいているのに,今月はまだだから,きらしてしまって不自由しているのではないですか,という趣旨の「広告」もあるかもしれない。

 ただ,夏の終わりに冬の着物は必要ないし,独身男性に高額な生命保険などは必要ないから,それをすすめるような「広告」は「いかにだますか」が力の見せ所といったことになっている。

 年収300万円の人が,ローンでベンツを買って乗りまわすことを,「悪いこと」だとは言わない。

 ただ,そのお金のもっと大事な使い途はないですか,と自問してもらいたくはなる。

 前置きが長くなったが,

 「モノを買わせる」「人を騙す」ための広告業界のテクニックには,
 
 「じらし(ティーザー広告)=大事な部分を隠しておく」,「不安を煽る」,「理想や夢を実現したいという欲望につけこむ」,「稀少性を訴える」,「権威を利用」などがある。

 この手法を見事にすべて利用している大学のセンセイがいる。

 どうでもいいものを公開する一方,大事なことは内緒にしている。それは,絶対にバレてはいけないことがあるからである。

 もちろん,違法性があるという趣旨の指摘をしているわけではない。

 「不安を煽る」手法を使っていることは,教育者というより宗教家としての資質の方が高いことを示している。

 宗教は,人の心の弱みにつけ込める「強さ」を持っている一方で,

 人から強い反発を受け,孤立しやすく,迫害されやすいという「弱さ」を持っている。

 教育は,人の「弱さ」を認めつつ,人の絆の「強さ」をつくる取り組みである。

 教育が宗教的に利用されると,ごく一部の人間の絆だけが強くなり,社会との絆が弱くなっていく。

 「賢い」子どもを育てるために,教育が譲ってはならない部分がどこにあるのか。

 教師としては,常に問い続けておきたい点である。

 
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コメント

コメントありがとうございます。

医者の娘の上野千鶴子東大名誉教授の言葉とも共通性がありますね。

「平等に貧しくなろう」ですから。

中流ならまだいいですが,餓死しない程度の世帯所得を手に入れるために,小学校や中学校で結婚相手を見つけ,地元で生きてろという主張をN氏はどこかでしていました。

「一人も見捨てない」という発想は,「ほとんどの人を見殺しにする」こととイコールになってしまうことを,歴史が証明していることをご存じないのでしょう。

内容に共感しました。

確かに,知識をスムーズに伝達するだけならば,教員ひとりよりも複数の子供達が教えた方がよいでしょう。
しかし,このシステムの構造的問題は,「イノベーションを起こしにくい」という点にあります。つまり,「ひとりも見捨てない」というお題目のもと,教える側に負荷がかかると,「教える側の伸び悩み」と「教えてもらう側の依存感(誰かに助けてもらえる)」につながってしまいます。

そもそも,『学び合い』の背景には,いわゆる「一億総中流」思考があります。
西川氏は,「一般人が稼げるだけで充分」,「東京大学に入りたいと思っている人がいたら、『へ~、頑張ってね。そんなにまで勉強したいんだ、あはははは』と思えるような状態になればいい。」と述べていますから,西川氏のキャリア観は,「一億総中流」思考が強く読み取れます。この点を踏まえると,「ひとりも見捨てない」という『学び合い』の考え方もよく理解できます。

ただ,この「一億総中流」思考の一番の問題は,縮小再生産の形でしか運用できない点にあります。西川氏は,「一億総中流」になることで全員がハッピーになれると考えているようですが,現実的には「一億総中流」社会は,1970年以降の日本を見ても分かる通り,格差の拡大につながります。
現実の社会では,資本主義のもと,イノベーションが起こり雇用がうまれるわけですから,縮小再生産ではなく,革新的なアイデアやイノベーションを生み出せる人物を育てる必要があります。
ここの現実社会とのミスマッチ(現実社会:イノベーションが必要,『学び合い』:一億総中流)が,『学び合い』の問題点だと思います。

あくまで『学び合い』は,底上げという目的で利用すべきであり,すべてが『学び合い』で解決することはありえません。
むしろ,旧来の「一億総中流」思考を押し付けられ,革新的なアイデアやイノベーションを生み出せる人物を育てられない点においては,現状の教育の方が「まし」であると言えるでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より