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2017年2月

現場での教育という仕事は,「攻撃」の対象になった時点でアウトです

 教育現場ではない「遊び場」では,教育に関するどんな主張をしようが,自由です。

 「遊び場」での自己主張や,一日だけ現場を借りて行う「お遊び」は,

 たいした実害もないでしょうから。

 しかし,実際の「修羅場」=教育現場は違います。

 現場は,「攻撃」にはとても弱い場所です。

 だから,多くの管理職は「守備」重視で,そういう能力が高い人のもとでないと,危なくて仕事もしていられません。

 「指導力不足」を理由にした「攻撃」ほど扱いが難しいものはありません。

 授業規律の意義を知らない小学校の先生が,中学校に異動してきて,たいへんな苦労をしていることを直接相談されたことがありました。

 できることなら,早く小学校に戻してもらえるように,管理職にお願いした方がいいでしょう。
 
 ただ,私の学校に研修に来られる先生は,将来の管理職候補でしょうから,こういう苦労をどう乗り越えるかが大事,という見方もできますが・・・。

 地域によっては,東京都内ですら,小学生のような中学生がいる学校もあります。

 小学7年生から8年生に上がり,最後の一年で中学生になって,高校に進学していくような学校も。

 一方で,中学校に入ったときから気合いの入った「中学生」になっていく学校もある。

 極度の人間不信集団がいて,授業規律が保てない学校で,やりがいのある教育をするのは難しい,というタイプの人は,教師をやめるか,小学校の方が向いているでしょう。

 小学校でも,担任教師がある宗教の信者で,明らかにそれとわかる教育をしていたために,「攻撃」を受ける前に管理職が手を打ったこともありました。

 多くの小学生には,「抵抗能力」はあっても,「批判能力」はありません。
 
 だから,問題がばれないことも多いのですが,

 ばれたとたんに「担任を変えろ」の大合唱が始まりますから,管理職は気が気でないのです。

 公立学校には,「異動」という「最終兵器」があるので,結局,攻撃対象になる学校はローテーションする。

 「不幸な管理職」にならないことを望む一方で,そんな仕事を引き受けたくない,という人も増えるのです。

 教員の世界は狭いので,悪い噂は一瞬で広まります。

 「昔はこうだった」と陰口を言われるくらいなら,管理職なんてならない方がいい。

 小学校も中学校も,いずれ,管理職を外注する時代が来るのではないでしょうか。

 
 「攻撃」への対応のプロの養成も求められる時代です。


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昭和を生きた「厚かましき」人々

 昭和20年=1945年は,日本にとって,とてもとても大きな区切れ目となった。

 海外からは,「戦後」という時期区分の異常さを指摘する向きもあるようだが,

 それでも「戦後」は「戦後」であろう。

 太宰治の『走れメロス』が発表されたのは,いつのことか,ご存じだろうか。

 中学校の教科書に掲載されているから,あらすじを聞くだけで,内容をすぐに思い浮かべられる人も多いだろう。

 1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,

 国民には,「国家への奉仕」が強く要請されていた。

 (『公共』という科目が生まれそうな,これからの社会と似たような時代である)

 こういう情勢下でものを書かなければならなかった時期と,

 戦後の自由で縛りのない社会の中で何でも書ける時期とを比べると,
 
 どちらの方がつらかったのだろうか。

 人間には,縛られること=一定の自由を奪われることで,

 適度な居心地の良さを感じてしまう部分がないだろうか。

 自由に耐えうる力というのは,決して軽いものではないはずである。

 自由に耐えうるたくましさを発揮した人を「厚かましい」と表現すると,

 「厚かましい」生き方をしてきた昭和の人たちが,

 「厚かましい」まま生きられる社会であった方が,

 平和が保たれるのではないか,と思う一方で,

 この「厚かましさ」のせいで,日本から子どもがいなくなるのではないか?

 という心配もある。

 孫の世話ができる段階の世代の人たちは,どれくらいいるのだろう。

 孫世代の面倒を見ようとする人,面倒を見る余裕がある人,その幸せを願える人たちが

 いなくなり,「厚かましい老人」ばかりの国になってしまったら・・・。

 佐藤愛子著『それでもこの世は悪くなかった』(文春新書)への佐藤優のレビューを読んで,頭に思い浮かんだことを書かせてもらった。


 価値観の一変を経験した世代が,この社会に残してくれるものは何だろう。

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他人への要求ばかりが大好きな人たち

 学校では,「モンスター」と呼びたくなるのは,夜中の2時に苦情電話をかけてくるような保護者だけとは限らない。

 どうしてこうも,要求ばかりが好きな人がいるのだろう。

 よくそんな要求を次々に思い浮かべることができるのだろう。

 自分でやればいいのに。

 無理なのはわかっているのに。

 「民主的な話し合いの場」では,様々な要求に対して,ああでもない,こうでもないと始まるが,時間ばかりがいたずらに過ぎていく。

 今の国会と同じである。

 テレビ中継されている国会では,中学校や高校の授業でも紹介できる,もっともましな話は聞けないのだろうか。

 私も,行政にいるときには,とにかく人々の要求を叶えるために活動するのが主な仕事だったように思える。

 あまりに無茶な要求には,どうしてその要求が通らないのかを切々と訴えるのだが,

 全く耳を貸さずに,同じ要求ばかりを同じ論理で繰り返す人たちがいた。

 「公正さ」「公平さ」の基準が異なるので,話がかみ合わない。

 その論理はどこがおかしいかを説明してあげても,同じことを繰り返すだけなので,

 やたらと時間ばかりが過ぎる。

 時間が来ると,大人しく去って行かれる姿を見ると,

 無駄なのはわかっているのに無駄な要求をしないといけない人たちがいる様子がよくわかってくる。

 「少しは自分のメンツは立った」と得意げに帰っていった方の表情は忘れない。

 議員さんたちも似たようなものなのだろう。


 経済の世界での「効率」の話はおそろしいものである。

 経済の世界で生きてきた大統領が,政治を始めている。

 民主主義の政治ほど,「効率」の悪い仕組みはない。

 まだ,人々は,民主主義の原則を捨てようとしていないようだが,

 いずれは,「要求を通してくれる人がすべて」みたいな社会になっていかないか,心配である。

 より「効率」のよい独裁政治を・・・と。

 
 教育現場では,もう少し,自分の頭で考えたり,自分の力で問題を解決したりすることができる子どもを育てたいが,そういうことができない教員も何とかしたい。


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「温水洗浄便座」の国別・県別普及率

 ある記事を読んでいたら,「温水洗浄便座」の普及率が示されていた。

 中国は1%未満だが,日本は79%もあるそうだ。

 私の手元にある資料では,71%とか,64%になっているが。

 韓国は50%,台湾は25%だとか。

 日本人の多くは「ウォシュレット」と呼んでいるのではないかと思われるが,これはTOTOという会社の製品の商品名である。

 発売からもう37年も経っているそうだが,1980年代に使用した記憶はなかった。

 温水洗浄便座の県別普及率が最も低いのは,

 沖縄,高知,長崎,岩手,青森の順となっている。

 なお,トイレットペーパーの使用量が最も多いのは,長崎県。沖縄は4位,高知は9位。

 何か関係があるのか?と思ったが,岩手は46位だった。

 ここから,何が読み取れるだろうか?

 地理の学習の発問である。


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学習意欲向上のためにドーパミンをどうやって放出させるか

 教師が小さい問いを授業で発するとき,小学校ではすぐに答えられる子どもが答えられない子どもより多く,

 中学校ではその逆で,答えられる子どもは答えられない子どもより少なくなる。

 いずれにせよ,答えられない子どもがいる問いを出すのが教師の仕事の一つである。

 脳科学のことを勉強したことがない教師でも,

 自分では解けない,わからないに違いない,と思っていたことが,

 解けるようになったり,わかったりした瞬間の悦びは,その後の学習にとてもよい影響を与えることに気づいているはずである。

 だから,教師というのは,授業の中で,「わかる瞬間の悦びをうまく引き出す」ことが重要な技能となる。

 逆に,その瞬間をはずす教師は,子どもの意欲を高めにくく,指導力が不足していることを実感しなければならない。

 子どもの「わからない」状態を苦にせず,むしろ「今がチャンス」という余裕をもつことが大切である。

 安易なヒントは出さない。

 プレゼントというのは,中身がわからないように包装紙に包まれている方が,相手は楽しみにしてくれる。

 子どもに学習を丸投げしている教師でも,実は何もできないわけではないが,やはり,

 グループや個人など,子どものペースで学習をさせると,

 わかる子どもが答えを教えてしまったりして「悦びの瞬間」が味わいにくくなる。

 なぜ,教師の一斉授業の形態が最も一般的なのかというと,

 教師の側が,子どもの理解度を常に把握しながら,少しでもレベルの高いところまで連れて行く機会を確保するためである。

 子どもの中には,この「悦びの瞬間」を他の子どもに与えるスキルをもっているのがいるかもしれない。

 教師の大事な悦びの一つは,子どもの悦びの瞬間をとらえたときにやってくる。

 さらによいのは,子どもが他の子どもにその悦びの瞬間をもたらしてくれたときである。

 教師自身,悦びを感じながら,授業のスキルを磨くことによって成長することができる。

 易しすぎる問いでもだめだし,難しすぎる問いでもだめ。

 私が教育実習生の指導で最もこだわっているのが,「問い」によって生まれる空気の扱い方である。

 「わからない」ことに抵抗感がありすぎる実習生は,なかなかほどよいレベルの問いが発せられない。

 「わからない」状態を少しでも子どもと共有することに抵抗感がない人の方が,教師には向いていると思われる。
 
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人よりも言葉を愛する人にしないために

 心を育てる教育というのは,重要なのだが,「教える」のは難しい。
 
 うまい具合に「育ってくる」ことを望みたいところである。

 「私は,忘れられた人たちのことを忘れない」

 とてもいい言葉である。今,放映中の池上彰さんの番組で紹介されている。

 だれが語った言葉だろう。

 「忘れられた人々」とは,

 鉄鋼業や自動車産業の不振で工業が「錆びついた地域」=ラストベルトの労働者のことである。

 この言葉によって,「忘れられた」と表現した人々から指示を集めることができたのが新大統領である。

 人は,当然のことだが,人から大切に扱われることを望んでいる。

 たった一つの言葉でも,感動したり満足したりできるのが人間だから,

 人を大切にしていることを示したければ,そういう「言葉」を使うようにする,というのが一つの方法である。

 グローバル化が進む社会では,やはりこういう「言葉」が使えるようになることは大切である。

 ただ・・・。

 日本には,「軽々しい言葉」を「軽率」に語ることを慎む文化がある。

 目の前にいない人への優しい言葉を語ることより,

 目の前にいる人に対する優しい行動をとれることを重視したい。

 教員になろうとする人が,教員に向いているかどうかを判断できるのはだれだろう。

 目の前にいない子どものことをどんな言葉で語ろうとも,

 目の前に子どもがいる場で何もできない人を現場においていても意味はない。

 「人よりも言葉を大事にしようとしている」教育をめざしている人はいないだろうか。


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新学習指導要領でいわゆる「学力」の格差はさらに拡大する

 すでにこんなことはわかりきったことかもしれませんが,新学習指導要領が実施されてしばらくたつと,学力の格差はどんどん広がっていきます。

 好き勝手に席を移動して穴埋めプリントを完成するというレベルの「知識」や「理解」すら生まれる見込みのない授業が増える危惧も一方ではありながら,できる子どもはよりできるようになり,できない子どもはなぜできないのかを自分なりに納得させられるようになるのが,新しい学習指導要領の趣旨です。

 キーワードは「自己責任」。

 学力が低いのは,センセイのせいではありません。

 あなたのせいです。

 なぜなら,あなたには,主体的に学ぼうとする意欲がない。

 対話を重視しながら,問題を解決する努力をしていない。

 活用できる知識をもっていない。

 ・・・センセイ,どうしたらいいの?

 主体的に学びなさい。

 対話を重視して,何人かの友達と一緒に問題の解決をはかりなさい。

 活用できる知識を身につけなさい。

 ・・・どうやって?

 本当に主体性のない子どもだな・・・。

 センセイって,何のためにいるの?

 小学校のセンセイって,英語を教えるようになるんだよね。

 センセイの発音を真似していいんだよね。

 帰国子女だった隣のクラスの担任の先生の授業とかなり違うんだけど・・・。

 「学力」の格差が広がる理由は,子どものせいだけとは限らない。


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教員になれない人のための教員養成課程

 教員採用試験の合格者がそれなりに多い教員養成系大学がある一方で,合格者がほとんどいない大学がある。

 合格する見込みのない大学生に,教員養成のための時間を設けることに意味はあるのか?

 こういう疑問をもつ人も,いるにはいるでしょう。

 私の答えは,「意味はある」です。

 一生の思い出に残る教育実習を体験できるかどうかが,教員養成課程の最大のポイントだと思っています。

 そして,充実した教育実習を体験できるかどうかは,現場の指導教諭と生徒たちにすべてかかっていると考えてよいでしょう。

 指導教諭(の勤務する学校)が,教育実習の指導のための綿密なプログラムをもっているかどうかが成功の鍵です。

 「何も起こらない」学校や学級では,実習になりません。

 「いつでも何かを起こせる」学校や学級は魅力的です。

 教育実習は,指導教諭から学ぶための場ではなく,子どもから何かを学ぶ場です。

 「最高の指導者」としての子どもがいる学校とは,どういうところでしょうか。

 「教員養成の専門家」が,そういうところに関心を持てるようになるのはまだまだ先のことかもしれませんが・・・。
 
 教育実習の再チャレンジができる仕組みを整えようとしてくれる事務方が出てきてくれることを望みます。

 
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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その1 地理的分野の目標(2)

 では,2月14日に公開された甘くない贈り物の分析を真面目にしていきたい。

 まずは社会の地理的分野の目標(2)の内容から。

 ポイントは太字の部分。

>地理に関わる事象の意味や意義,特色や相互の関連を,位置や分布場所人間と自然環境との相互依存関係空間的相互依存作用地域などに着目して,多面的・多角的に考察したり,地理的な課題の解決に向けて公正に選択・判断したりする力,思考・判断したことを説明したり,それらを基に議論したりする力を養う。

 地理の専門家でなければ,「空間」と「場所」と「地域」の違いを説明できない。

 文部科学省は,13歳と14歳の子どもたちに,地理学の中心的概念を習得させる教育をさせたいようだ。

 1 位置や分布(「位置と分布」にしなかったのは,何か意味があるのだろうか)

 2 場所

 3 人間と自然環境との相互依存関係

 4 空間的相互依存作用

 5 地域

 この5つは,国際地理学連合の地理教育委員会が1992年に出した「地理教育国際憲章」から引用されたものである。

 英文の「地理教育国際憲章」をIGUのホームページからダウンロードして読んだところ,いくつか気になった点があった。

 Some of the central concepts of geographical studies として挙げられているのが上の5つだが,英語では,次のように表現される。

 1 Location and distribution

 2 Place

 3 People-Environment Relationships

 4 Spatial Interaction

 5 Region

 お気づきになると思うが,日本語訳が気になるのは,

 「Relationship」が「相互依存関係」,「Spatial Interaction」が「空間的相互依存作用」になっていることである。

 中山修一さんという地理教育委員会委員の翻訳が,公式文書として扱われているので仕方がないかもしれないが,「相互依存関係」は「相互の関係のうちの主なもの」とは言えるだろうが,依存関係以外の関係もある。「影響を及ぼし合う」ことを「依存」と呼ぶのが地理の世界なのだろうか。

 「インタラクティブ」という言葉が「双方向の」とか「対話的な」いう意味で少しずつ日本語化していることもあって,「インタラクション」を相互依存作用と訳するのは適切ではないと思われる。

 学習指導要領で示す用語にするためには,地理学者に今一度,再考をしてもらった方がよいのではないか。

 公式文書では,たとえば「地域」の部分で,

>Regions are dynamic in both space and time.

 の1文が「地域は,空間的にも時間的にも躍動的なものである」と訳されているが,

 dynamicという単語は,日本語の「ダイナミック」ほど大げさなものではなく,

 日本語で「動態的」という表現が用いられていることを念頭に置いた方がよい。

 現行の学習指導要領の解説では,日本の諸地域学習について,

>それぞれの地域の特色ある事象を中核として,それを他の事象と有機的に関連付けて,地域的特色を動態的にとらえさせることとした

 と示している。

  単なる地誌的知識の習得に陥らないように,たとえば産業を中核とした考察では,

>地域に果たす産業の役割やその動向は他の事象との関連で変化するものであることなどについて考える

 学習ですでに行われている(はずである)。

 「相互依存関係」とか「相互依存作用」という言い方を使うと,誤解を招くというよりは,多面的・多角的な考察ができないおそれがあると考えられる・・・というのが,第1点目の指摘である。
 
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中学校社会科の新学習指導要領案を考える―その0 教科目標と「天下り」先の確保

 冒頭から蛇足になってしまうが,以下に示した社会科の新しい教科目標で,「グローバル化する」という言葉が「国際社会」を修飾していることと,そこで「主体的に生きる」人間を育成する,という文脈になっていることが気になる。

>社会的な見方・考え方を働かせ,課題を追究したり解決したりする活動を通して,広い視野に立ち,グローバル化する国際社会に主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す。

 グローバル化する国際社会を「アメリカ帝国主義におおわれた世界」と解釈すると,そこで「主体的に生きる日本人」というのは,ジョーク以外の何物でもない。

 グローバル化に抵抗する勢力が増えつつある国際社会で,「グローバル化する国際社会」という言い回しは,いかにも時代遅れというか,「まだそこなの?」という印象が強い。

 グローバル化という言葉がないことによって,「国際社会に主体的に生きる」ことの意義の重要性が認識できる目標であったのに・・・・。

 補助金というエサをちらつかせながらグローバル化対応を大学に迫り,天下り先を巧妙に確保するどこかの省庁の「主体性」のことが,嫌に頭にちらつく。 


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「主幹教諭」の使い捨てが始まっている

 管理職と一般の教諭の間に,「主幹教諭」という立場がある。

 管理職のなり手がいないように,

 将来の管理職に近い立場としての「主幹教諭」のなり手もいなくなっていくだろう。

 本人の強い意思というより,管理職への「主幹教諭のなり手を増やせ」という強い要請がもとになり,管理職によって「主幹教諭」に勧められたからなった人が多いのではないか。

 なったきっかけはどうであるにせよ,「主幹教諭」に課せられる任務は決して軽いものではない。

 当然,「主幹教諭」としてのつとめを果たしていない,と断罪される人が増えていく。

 「お前は役に立たない」とまでは言われないだろうが,

 「他の学校でスキルを磨いたらどうか」などと言われて,異動させられる人が増えていくだろう。

 そして,異動先で能力が認められなければ,またすぐに次の学校に移らされる。

 単純に「行政職」としてとらえたら,「主幹教諭転がし」が,本人のためになる場合ももちろんある。

 ただ,管理職の養成方法としての「主幹教諭」育成にも,私は限界があると思っている。

 私は3年間の教育委員会での勤務を通して,現場の教師の大変さに改めて気づかされた。

 現場では,子どもだけではなく(子どもだけでも恐ろしく大変だが,以前に増して子どもとセットで大変な親も増えている),教員たちという,子どもの以上に大変な「指導」対象を抱えているのである。

 「指導」とは,問題行動を起こした教員への注意,という意味ではない。

 十分に高い能力をもった教員の能力をさらに伸ばすための働きかけも重要な「指導」である。

 まだまだ自分を磨くのに時間がかかる,そういう学校現場で,
 
 教師として不完全な自分が,他の教師の(もちろん自分よりキャリアが長い教師も含めて)「指導」を担うのは,大きな負担になるだろう。

 学校内で閉塞状況に陥った主幹教諭が異動させられることは,心理的重圧から逃れる手段として一時的な効果があるかもしれないが,それを繰り返すことで,教師として最も重要なものが得られないまま終わってしまうのではないか,と私は危惧している。

 その気持ちの表れが,標題の「使い捨て」という言葉になった。


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教育や研修の費用対効果

 企業で役に立たなかった人が,学校現場に入ってやたらに気にかけるようになるのが,教育の「費用対効果」の問題である。

 今後,段階の世代がいなくなって,学校現場が若い人たちであふれるようになると,費用対効果が一気に上昇する見込みがある。

 それは,学校ではベテランの方が若手よりもより多くの成果や教育効果が出せるとは限らないからである。

 逆に,部活動などでは若い教師が増えた方が,子どもたちに高いモチベーションを与え,成果が出しやすくなるかもしれない。
 
 人件費が大幅に減るだけで,費用対効果は向上するのである。

 若い人を短いサイクルで辞めさせてコストを削れるだけ削るレベルまで厳しい企業から,学校現場に入った人には,「コスト感覚のなさ」に唖然としてしまうだろう。

 税金は,決められた額の範囲内なら,いくらでも使えるのである。

 予算をとったら,無駄とわかっていても使うのが,この無駄な世界の常識である。

 企業で本当の意味で存在意義を発揮して人間なら,たとえ損を出していても,効果だけを追求していただろう。

 

 教師個人個人の能力について言えば,研修にかける時間と能力の向上は,個人によって大きく異なる。

 たとえば,小中連携がなぜ必要なのか,その意味や意義がわかっていない人が研修の場にいても,それはただの時間の無駄になりかねない。

 普段接することのない人が近くにいるだけで,さまざまな刺激が得られる人にとっては,機会を与えられただけで効果がある。

 行政の側からすると,その場で何が話されようが,みんな寝ていようが,「小中連携の会を何回開いたこと」という事実に意味がある。

 なぜなら,「小中連携の会を開いても意味がない」という声がもし聞こえてきたら,責任を小中の管理職により重くのしかけることができるからで,失敗しても成功しても,監督者の立場からは成功になるというからくりがあるからである。

 研修というのは,やはり主体的な態度で参加することで初めて意義があると言えるものである。

 本来の研修の趣旨とは別の目的をそこで探してもよいということ。

 時間を無駄にしない態度というのは,その本人自身にかかわっているのである。

 「今回の研修は,本当に意味がなかった」と感じている教師は,

 きっと,「今日の授業は,本当に意味がなかった」と子どもに実感させる教師であるに違いない。

 「自ら意味や意義を見いだす」ことを教育の指針に掲げていない教師は,自らもそういう態度を持ち合わせていないのだろう。

 教員採用試験の演習問題。

 ある教員が,「今日行われた小中連携の研修は,本当に意味がなかった」と愚痴を言っているのを耳にしたあなたは,どのような言葉をその教員にかけたいですか?


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議員の資質能力が試される東京都

 小池都知事が,都庁の役人と都議のなれ合いにメスを入れたらしい。

 役人が自分への質問を自作し,都議に渡す。

 都議と役人との間で,さも「政治らしい仕事」が行われているように見せかけるわけだが,

 「権力分立」の原則を放棄し,「民主主義国家」であることをやめるような行為を,子どもたちに見せてほしくはない。

 質問ができる力とは,かなり高度な能力だということを,読書編でも紹介した。

 自分で考えた質問ができない議員はそもそも議員になる資格がないのだが,今まで,それを見極めることが都民にはできなかった。

 都民の方を見ずに,お互いの既得権益を守り合う関係が白日の下にさらされることが重要である。

 都議会議員が話すための原稿を,都庁の役人が書くことを禁止する。

 これで都議会が機能しなくなることで,「試験を通過し能力がある人」のお墨付きを得た「小池新党」の議員が増えることは,容易に想像がつく。


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「棚上げ人間」の増加問題と対策

 自分のことを棚上げして,平気で他人を批判したり,自分の考えを他人に押しつけようとしたりする人間が増えている。

 ニュースによく登場する指導者もそうだし,今一番気になっているのは,道徳の内容をすべて扱えとしている指導要領案を出してパブリック・コメントを募集している文部科学省である。

 研修を命じている文部科学省が,不正を誤魔化す原稿まで相手に渡して口裏合わせをするような状態なのだから,イヤイヤやらされている側の意欲など,なくなって当然だろう。

 道徳の授業があるから,いじめが起き,自殺者も出てしまうという,とてもわかりやすい問題が中学校で起こっていることを信じようとしない人ばかりなのだろう。

 何でも教師の言いなりになりやすい小学生に対する道徳の授業がかろうじて成立したとしても,中学生になった子どもがどういう感想を述べているか,知らない教師が多いのではないか。

 「やらないといけないからやる」という道徳が,いかに時間の無駄になっているかという「見方・考え方」を持ち合わせていないのが問題なのである。

 ルールを守らない大人,人権を侵害する大人,組織に貢献できない大人を目の当たりにさせられた子どもたちは,本当に気の毒である。

 さて,教育ブログには,昔から,同じようなことばかり繰り返し書き,「頭がおかしい」とか「狂っている」とかいう品のない言葉で,他人を罵倒することに生きがいを感じている御仁がおられる。

 自分に対する批判への耐性が低く,論理で勝てないとなると必ず登場するのが「頭」の話である。

 明らかにぶろぐ村の利用規約には反しているのだが,こういう記事を喜んで見る方が多いのも,ネットならではの特殊な世界である。

 ブログのタイトルを変更し,せっかくお行儀のよい人間を装っていたのに,本性丸出しで例の調子が復活し,本人が何も変わっていないことを証明する様子を,喜々として傍観している人たちがいることが気の毒でならない。
 
 「教育論・教育問題」のカテゴリーは,何のために存在するのか。

 個人攻撃をすることではなく,勘違いしている個人の発言の悪影響を最小限に食い止めたり,より適切な方向性を探求できるヒントを提示したりすることで,注目を集めるべきカテゴリーなのではないか。

 生物多様性はとても大切にしなければならないものである。

 多様性の価値をお互いに認め合えるような発言こそが重要であり,

 「同志」だのなんだといって「敵」を意識させ,一元化を目指すような発言は批判されるべき場である。

 「一人も見捨てない」という極端な要求を子どもに強いることが,どれだけの負担になるか。

 その最も重要な理由には,飛び込み授業などを何千回やっても気づけない。

 こういう私のコメントに対して,

 「おいおい,お前の教育はどうなっているんだ」というのが,正しいツッコミ方だろう。

 ずるい答え方をすると,過去の4261件の記事を読んでいただければ,少しはわかっていただけるのではないでしょうか?となる。


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小中学校・新学習指導要領に示された,吐き気を催す教科目標の冒頭部分・・・「~な見方・考え方を働かせ」

 新学習指導要領の改正案が公開され,3月15日まで,パブリック・コメントが募集されている。

 ほとんどの人が首をかしげるであろう問題は,すべての教科の目標の冒頭部分に登場する,

 「~な(~の)見方・考え方を働かせ」という文言である。

 私の場合は,これを読んで,吐き気を覚えた。

 「バカの一つ覚え」という言葉がぴったりである。

 言語にしろ,数学にしろ,音楽にしろ,まず,何をしないと始まらないかを考えてみてほしい。

 本当に「見方・考え方」を働かせることができるようになるためには,

 何が必要とされるのかを,言葉が通じない外国人に説明するところから始めて見てほしい。

 ずーっと「見方・考え方」の整理をしながら検討を続けていた人たちには,よく理解できないことかもしれない。

 「~な(~の)」の部分にあてはまるものには,実は無限に近いものがあり,適切な見方・考え方を適切な場面で働かせることができるようになるには,ある見方・考え方しか働かせられないような場面を繰り返していても絶対に無理なのである。

 新しい学習指導要領が想定している「はっきりと身につけさせたい能力」があって,「それを身につけさせた気になる」ような指導をしてみたところで,「その場限りの意味」しかないことに気づけなかったのだろうか。

 マニュアルでアルバイトの従業員を縛る場合,従業員に課せたれた任務というのは極めて単純なものであり,「想定外」の問題はきっと正社員が対応することになる。

 ちょっと複雑な問題に直面して,その正社員ですら,「こんなことを解決する能力は身につけさせられていない」といって職場放棄するような事態を招かないようにするための教育だとは思えない。

 単純化が好きな人たちが寄せ集められたことで,「教科」が持っていた意義が解体されてしまった印象が強い。

 目標がおかしなものになって,教科指導が機能するわけがない。

 学習指導要領よりも先に,その解説を公開すべきである。

 解説を読むことで,もともとの学習指導要領の問題が明確になるはずである。

 こんな話をしても,通じそうにないのが歯がゆくて仕方がない。

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ポジティヴシンキングもほどほどに

 明るい未来像だけを描くようにコントロールされた人々が,いよいよ地獄を見る日が近づいているように思える。

 地獄が目の前に迫っているのに,絶対に自分は地獄に堕ちないですむと信じ切っている人に,危険を察知する能力を与えるのは不可能である。

 遠いところにある危険ばかりを煽り立てて,目の前の危機はなかったことにする神経でも,生きていける国の最後の望みとは何だろう。

 地獄への階段を用意したのは,自分の国以外の人間や異教徒たちだと開き直る姿が目に浮かぶようである。

 歴史の浅い国だからといって軽蔑するわけではないが,楽観的すぎる単純な生き方は,本当に心配になる。

 敵対勢力の攻勢が甘いとき,それは自滅を待てばすむという分析に基づく判断かもしれないと想像してみてもらいたい。

 
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日本人は多文化共生に耐えられない?

 日本人は多文化共生に耐えられない・・・

 ある東大名誉教授の社会学者が新聞で展開していた主張である。

 ツイッターなどで,「信じられない」という反応が多く寄せられているらしい。

 「仲間を後ろから槍で突きさすような発言」という趣旨の言葉もあった。

 人口減少社会に「移民」という切り札を使うことは,不可能だ,という理解があるようだ。

 反論の理由として挙げられている,多文化共生で生きている人々が実際にいる,そういう地域がある,ということをご存じないはずはない。

 努力している人々の足を引っ張るタイプのガクシャは少なくはないだろう。

 教育の世界では,優秀な教師たちを「見下す」ための「理念」を吹聴し,「等しく貧しい学力をつける」ことに専念させようとしているセンセイとその「同志」もいる。

 「平等に貧しくなろう」

 こういう考え方にすがらないと生きていけないほど日本が落ちぶれる前に,何とかしたいと思っているのは,私だけではないと信じたい。


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権力に縛られたい症候群の教員たち

 長く教員生活を送り,公立や国立学校,教育委員会や文科省の仕事をしていると,本当に様々なタイプの教師たちに出会う機会があった。

 基本的に私が出会ってきた教師のほとんどは,「やる気のある優秀な教師たち」というカテゴリーに入るであろう人たちばかりなのだが,そういう教師のなかにも,様々なタイプの人がいる。

 私が今,一番気になっているのは,「この人は,権力に縛られることで安心感を得ようとしているんだな」と感じる人たちである。

 文科省の「万死に値する」行為が表面化したとしても,そこへの忠誠を尽くすことが公務員の本分であると強く強く信じて疑わない人たちへの私の違和感は,過去15年以上に渡って協力してきたものの,「悪い結果は表に出さない」というご都合主義や,違法な再就職斡旋行為を誤魔化そうとした,腐りきった組織に過ぎないと見切った人間だからこそ湧いてくるものなのだろうか。

 歴史の授業で,世の中の大きな流れを中学生とともに学んできて,今ほど「繰り返す歴史の恐ろしさ」を実感しているときはない。

 指示されたものに,ひたすらありがたがってすがりつくような人間が増えれば増えるほど,社会の危険度は増していく。

 もちろん,一定の成果が出せるように変わるからこそ,従順な人間が増えるのだろうが,その先の出来事を私たちは歴史から学ぶべきだろう。

 もはやどうでもいい話だが,大学が文科省から助成金をたくさんもらうためのスキルとは,どのようなものだろう。

 そのスキルを持っている人間が文科省の中にしかいないのであれば,大学側の天下り獲得競争が起きる仕組みがあることに気づくには,たいした能力を必要としないだろう。

 慶応大学に私学助成課長経験者が天下っていてもいなくても,90億円確保できたのかどうかを,確かめる方法はあるのだろうか?

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教育困難校を避けたい教育公務員たち

 教育困難校に勤めていると思われる教員の愚痴ブログ。

 共感を覚えるのは,同じ教員だけでなく,同じ学校に通っている心優しい生徒たちも同じだろう。

 もちろん,私のように反感を覚える者もいる。

 子どもから暴言を浴びせられ,「裏切られた」と感じている哀しき教育公務員は,

 いくつかの意味で本人が重大な「裏切り行為」をしている。

 その最も「裏切ってはならない」対象とはだれか,本人は気づいているのだろうか。

 教育困難校立て直しの切り札こそが『学び合い』だろうか。

 残念ながら,ご本尊は学校を辞めてしまっているが。

 
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子どもを輝かせるための仕事を教える教職課程の科目とは?

 教師の仕事は,子どもを輝かせるためにある。

 子どもが子どもを輝かせるための力をつけさせることも教師の仕事である。

 勘違いしている教師は,いつも同じ子どもが同じような条件で輝くためのお膳立てだけをしている。

 自ら輝きを発している子どもと,それに照らされているだけの子どもの区別がつかない人がときどきいる。
 
 自分ではなく,仲間を輝かせることができる子どもを育てるにはどうしたらよいか。

 様々な場面で,様々な子どもにリーダーとしての自覚を持たせることが最善の教育方法である。

 様々な子どもにリーダーとしての自覚を芽生えさせ,行動を起こさせるための手がかりを与えるのは,

 教師自身のリーダーシップである。それも,一人の教師だけのリーダーシップではなく,子ども同士と同じように,

 教師同士が,一定の役割を分担し合って,それぞれが活躍している姿を見せる必要がある。

 中学校に子どもが進学すると,小学校では見たことも聞いたこともなく,全く想像できなかった教師集団のチームワークを目の当たりにすることができるようになる。

 日本の学校では,「学年」という集団のもつ教育力が際立っているものである。

 その「教育力」は,ときに「破壊力」を発揮してしまう場合もあるが,そういうときこそ「教育力」に転嫁できる最大のチャンスとなる。

 こういう話を大学生にしてみたと仮定してみよう。

 キョトンとしている学生や意味不明で怪訝そうな学生と,そうではない学生に議論させてみたい。

 「学年」の教育力とは何か。

 教師の集団のチームの基本は,「学年」である。
 
 これがチームとして機能していなかった学校に所属していた学生たちには,将来,教師になったときに,なぜそれが大切なのかを理解させてあげなければならない。

 さて,こういう話を教えてくれる教職課程の科目とは,どういうものなのだろう。


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暗礁に乗り上げてどうにもならなくなる高大接続問題

 センター試験は廃止することになっているが,よくよく考えてみれば,足切り用のテストなのに,それ以上の手間がかかるような無駄など,できればみんな省いてしまいたいと思っていることだろう。

 単純な知識のみで解ける問題を入試で出している大学への補助金を出さなくすればよいだけの話なのに。

 高大の接続を真面目に考えることは,文科省の再就職斡旋に象徴されるように,もともと意味のないことだと思えば,考えるのもばかばかしい。そこら中に天下っているOBたちの指示通り動く「天下り待ち」の人間には何もできないというわけである。

 賢く経済力のある親は,子どもを大学まで一貫で上げられる有名校にどんどん入学させている。

 小学校を設置したある学校では,低学力のままの子どもを進学させなければならない問題で頭を抱えているそうだが,寄付金をたくさんもらった子どもに限ってはOK,というわけにもいかないので,みんな上に上がっていくことになる。経営上は,何も困らない。

 私立大学の,いかにも「落とすため」の試験問題を見るたびに,こんな金儲けのための道具に規制をかけることくらい,たった文書1枚で=ほとんど税金コストゼロ円でできるはずなのに・・・と哀しく思う。

 1人の答案の審査に10人くらいが1時間かかわるのなら,たとえ3万円かかっても,時給3000円の仕事として納得してもらえるはずである。そういう問題を出題すればよいのだ。

 一体何の専門家である大学のセンセイが,高大接続を軌道に乗せようとしているのか?


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小学校における「完璧」なカリキュラム・マネジメントの実際

 カリキュラム・マネジメントと学校の真面目な教師が耳にすると,次のようなイメージが最も強いと予想できる。

 「道徳は,何が何でも年間35時間実施しなければならない」

 「学級閉鎖で出席停止になった分の授業はどうしようか」

 要は,内容よりも形式である。

 小学校の教師は恵まれていることに,報告した内容と実際に行った内容が異なっていても,ばれなければ問題ない。毎時間管理職が授業観察に来ている学校は難しいかもしれないが。

 私の中学校の教え子の中には,「道徳の時間は,毎回ドッジボールをやっていた」と「証言」している子どももいる。

 楽しそうに「申告」したわけではなく,単にドッジボールは自分への「いじめ」が「合法的に?」できる機会になっていたから,嫌だったそうだ。

 そういう意味では,小学校の教師の方が,中学校や高校よりもよほどカリキュラム・マネジメントを実践している。

 「子ども本位」=そのとき子どもが一番学びたいと思っている教科や内容,活動を優先することを実践しているわけである。

 中学校に入学してくる子どもの学力を知って愕然とするには,こういうからくりがある。

 高学年で「国語の授業がなかった」と聞かされたときは,開いた口がふさがらなかった。

 カリキュラム・マネジメントの主体はどこにあるか。

 これから,管理職は本当に激務になっていくだろう。

 廊下を歩く時間が1日5時間以上必要になる。

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全世界が賞揚すべきある指導者の言葉

 ある指導者が,「人権侵害行為を禁止する」というような趣旨の指示をしていたことが,報道されている。

 別に,「自分自身はどうなのだ」という,だれでもわかっている批判的な言葉を表明する必要はない。

 ただ,その発言自体の素晴らしさ(当たり前さ)を,賞賛することが可能なすべての指導者は,賞賛すべきである。

 今まで世界からほとんど賞賛させることがなかった国が,その対象になることはすばらしい。

 指導者が「藁をもつかむ」状態になる前に,国民の意識が変わることが望まれる。

 怒りの矛先転嫁にも限界がある。


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インフルエンザによる高校入試の追試

 このブログでは,新型インフルエンザが流行したときに,高校入試では受験生に別室受験などの機会を確保しないと,受験会場での感染拡大の恐れがあると指摘していた。

 先日の報道では,文科省から,高校などに対して,インフルエンザにかかった生徒に追試の機会を設けるように求めた通知が出されたとのことである。

 この通知がいつ出されたものかはわからないが,追試の問題作成,追試の受験日の設定などは,急にできるわけではないから,これからの入試ですぐに採用されるわけではないだろう。

 東京都立高校で言えば,二次募集の前に一次募集の追試を行うということになる。

 文科省は,引き続き調査を行うとしているが,きっと明らかにならないだろう数字がある。

 それは,本来,インフルエンザにかかっているので,出席停止期間なのに,隠して受検しに来た生徒の数である。

 実際に高熱を発しており,いかにも体調が悪そうな生徒なら,監督者が見つけて,保健室や別室で保護することもできようが,試験に集中している生徒すべてをチェックするわけにもいかない。

 感染症にかかった生徒の受検機会の確保は,とても難しい問題である。

 追試を行うべきかどうか。別室受検を認めるかどうか。

 「各学校に任せる」ということにすると,学校による対応の違いが問題となってしまうから,教育委員会として何かの決断を下さなければならない。

 新型インフルエンザの対応について,私の甥っ子が受検する可能性があったいくつかの高校に問い合わせをしたら,教育委員会から電話がかかってきて,「余計なことを聞くな」という恫喝があった。

 高校の管理職の判断は,「黙っていること」「クレーマーの処理は教育委員会に任せること」であったのだ。

 たった一人だけ,返事をくれた副校長先生がいたが,都民ファーストのこの先生にまで迷惑をかけてしまったとしたら,申し訳ないと思う。

 高校は,無償になったとしても,義務教育ではない。

 義務ではないのだから,別に進学できなくてもいい。

 大学進学実績を出したい高校で,受検生が優秀だった場合は,きっと「どうにかしてあげたい」と思うだろう。

 新型インフルエンザのときは,「切り捨て」に過ぎない態度だったものが,

 知事が変わったことで,どんな変化が見られるのか。

 もちろん,本当に変わらなければならないのは,教育そのものなのであるが,

 感染症によって進学の夢を絶たれる子どもを生まない仕組みは必要だろう。

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悪徳商法と全く同じ手法を使う大学のセンセイ

 電通が叩かれる理由として,過労死問題とは別の心当たりがある人は少なくないだろう。

 高収入の背景には,高い成果と膨大な仕事量が求められる過酷な能力主義があることについては,納得がいくことである。

 「広告」に対しては,どこかに「だまされてはならない」という自制心が働くのが正常な受け止め方だろう。

 ネットの時代になっても,私も含め,紙(新聞や雑誌本体も含めて)の「広告」やテレビのコマーシャルのお世話になっている人が多いから,「広告」という仕事への忌避感が背景にあるとは考えないのが普通かもしれない。

 アンケートに答えたら,自分の年収に合った広告が入ってきたときに,「もう関係をもつのをやめよう」と思った会社があったが,一度答えたデータはもう消しようがないかもしれない。

 電通に社員向けの格言があったように,広告業界には,「消費者をだますためのテクニック」が当たり前のように存在する。

 ここでの「だます」の意味は,法律に触れる範囲のことではない。

 たとえば女性が化粧して「すっぴん状態」をわからないようにすることも「だます」に入ると考えていただきたい。

 本来,買うつもりがなかったもの,買う必要がなかったものを買わせるのが広告の仕事である。

 もちろん純粋に,定期的に買っていただいているのに,今月はまだだから,きらしてしまって不自由しているのではないですか,という趣旨の「広告」もあるかもしれない。

 ただ,夏の終わりに冬の着物は必要ないし,独身男性に高額な生命保険などは必要ないから,それをすすめるような「広告」は「いかにだますか」が力の見せ所といったことになっている。

 年収300万円の人が,ローンでベンツを買って乗りまわすことを,「悪いこと」だとは言わない。

 ただ,そのお金のもっと大事な使い途はないですか,と自問してもらいたくはなる。

 前置きが長くなったが,

 「モノを買わせる」「人を騙す」ための広告業界のテクニックには,
 
 「じらし(ティーザー広告)=大事な部分を隠しておく」,「不安を煽る」,「理想や夢を実現したいという欲望につけこむ」,「稀少性を訴える」,「権威を利用」などがある。

 この手法を見事にすべて利用している大学のセンセイがいる。

 どうでもいいものを公開する一方,大事なことは内緒にしている。それは,絶対にバレてはいけないことがあるからである。

 もちろん,違法性があるという趣旨の指摘をしているわけではない。

 「不安を煽る」手法を使っていることは,教育者というより宗教家としての資質の方が高いことを示している。

 宗教は,人の心の弱みにつけ込める「強さ」を持っている一方で,

 人から強い反発を受け,孤立しやすく,迫害されやすいという「弱さ」を持っている。

 教育は,人の「弱さ」を認めつつ,人の絆の「強さ」をつくる取り組みである。

 教育が宗教的に利用されると,ごく一部の人間の絆だけが強くなり,社会との絆が弱くなっていく。

 「賢い」子どもを育てるために,教育が譲ってはならない部分がどこにあるのか。

 教師としては,常に問い続けておきたい点である。

 
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告示される前から失敗することがわかっている学習指導要領改訂のねらいとは

 学習指導要領の改訂は,およそ10年サイクルで行われる。

 10年は長そうに見える期間だが,改訂のスケジュールを考えると,10年が最短のサイクルである。

 新学習指導要領実施→実施状況の調査→中教審の審議→指導要領作成→教科書作成→教科書検定→教科書採択

 間もなく告示される次の学習指導要領は,中教審ワーキンググループの議論やそのまとめがHPに掲載されており,ほぼその全貌がわかっている。

 「アクティブ・ラーニング」がキーワードになっているが,要は小中学校でがんばってきた授業改革を,制度上は義務教育ではない,高校にも拡大していくことがねらいである。

 一言で表現してしまえば,日本では実質的にほぼ義務教育化している高校の教育改革がねらいだということである。

 歴史などは,私立大学入試の穴埋め問題を見ただけで,本当に意味のない勉強を強いている高校の課題が明白である。

 高校の授業がこんな状態なのは,大学入試に備えるためだ,という言い逃れがあるため,大学入試を変える,というのがセットの条件になった。

 大学入試が変わるのだから,高校の授業も変わらなければならないのだと。

 小学校や中学校レベルの「話し合い活動」をすれば,許してやる。もちろん,力がつくかどうかは知らないけど。

 というストーリーだが,この流れのばからしさは,塾関係者が(受験を控えた中高の教員も)一番良くわかっている。

 そもそも「大学入試を変える」ことなど,そう簡単にはできない。

 問題作成を経験したことがある人など,ごく一部かもしれないが,その分析や対策をしてきた塾関係者はよくわかっていると思われる。

 どんな問題を出すにしろ,できる生徒はできるし,できない生徒はできない,というのが「常識」である。

 そして,「思考力・判断力・表現力」を測るための問題で,採点に客観性や信頼性が担保できるものなどは,学校の定期考査ですら難しいことも「常識」である。

 合否の判定材料になる大学入試などで,答えがいくつもあるような問題を出題することなどはできない。

 採点方法やその結果で大もめにもめるような入試では,入試業務だけで1年が終わってしまう。

 つまり,告示される前から,高校の授業が確実に失敗することがわかっている学習指導要領の恩恵を最も受けるのはどこかと言えば・・・・学習指導要領に縛られずに教えられる塾・予備校などの教育産業である。

 ある教育産業のHPに,各学校に対する生徒や保護者による多面的な評価が掲載されている。

 私の学校の場合は,各項目について高い評価を得ているが,「学習」についての評価が低い。理由は,「受験に役に立たないことをしているから」。

 おっしゃる通りである。ただ,これから告示される学習指導要領の趣旨にぴったりの教育を100年以上続けている。

 中学校も高校も,どことの比較かはわからないが,通塾率が高くなるというデータも紹介されている。

 別に,塾に通う生徒が多いことを「失敗」だと言いたいわけではない。

 最も簡単に予想できることは,高校での「授業崩壊」「学級崩壊」が増加することである。
  
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大学のセンセイに,公立学校の管理職を経験させてあげる機会を!

 読書編で紹介したアクティブ・ラーニングの評価に関する本の内容は,ひどすぎるというレベルを超えていた。

 小中高の教員の言葉が紹介されているが,それは「実践報告」ではなく,「信仰の表明」にすぎない。

 各教科の特質などには何の興味もない著者が,どこにでも通用すると勘違いし,ところかまわず垂れ流している持論が並べられているだけである。

 そもそも,アクティブ・ラーニングを行わない限り,その評価はできないはずである。

 最も肝腎な「深い学び」をあきらめているわけだから,せいぜい「アクティブ・プレーイング」があるにすぎない。

 今,昭和22年~30年頃の教育改革の議論を読んでいるが,今とほとんど変わらない話が繰り広げられている。

 教育の世界では,70年間,ほとんど進歩らしい進歩はないと見なしてよいだろう。

 今よりはるかに「国際理解」も可能だっただろうし,教師自身がしっかり学ばなければ教育できないカリキュラムが編成されていたように思う。

 教育に関する議論の劣化は,どうしてここまで進んでしまったのだろうか。

 授業の中だけの子どもの姿を誇大にとらえて,研究した気になっている人たちが劣化を伴いながら再生産されてきただけにすぎないようだ。

 教育を研究している大学のセンセイは,一度はどこかの公立学校の管理職をつとめることを義務にしたらどうだろうか。

 理念を好きなだけ具現化できる環境を用意してあげることが,ろくでもない理念を拡散させているという問題に気づく最後の手段ではないだろうか。

 理論で学校は変わるのか,それとも人柄で決まるのかも,試してみていただきたい。

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もはや「アメリカ」は「アメリカ」ではない

 もはや現在のアメリカは,昨年までのアメリカではない。

 アメリカ人が一番よくわかっていることだろう。

 アメリカの報道番組は,新大統領の動向に関するニュースで持ちきりのようである。

 政権ヨイショ的な番組ばかりになったとしたら,

 いよいよ「戦時体制」に入ったと考えた方がよいかもしれない。

 これから,1930年代の歴史を学ぶべき機会が増えていくことになると思われる。

 いつの時代のどこの国でも,いい方向を目指していたはずが,いつの間にか全く逆の悪い方向に進んでしまったということがよく起こる。最大の原因は,「利己的な思考に基づく一方的な判断」にあった。

 日本では,「多面的・多角的なものの見方・考え方」を機能させて,自由や人権,平和を守るための教育を進めてきた。

 内政にかかわる問題への口出しはしない,という「お行儀のよい態度」と,

 絶対的な価値であったはずの自由や人権を大切にしない人間への批判ができる態度と,

 どちらが「正しい」のだろうか。

 気づいたときに,右を見ても,左を見ても,同じ国しかなかった,という状態になるまで,あと何年,いや,あと何ヶ月だろう。

 文部科学省など見ていると,実は,日本も同じような状態になってしまっているのだろうか。


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「Don’t be Evil」の方が,「Do the Right Thing」より良い

 「正しい行為」の「正しさ」を認める人はだれか。

 見る位置を変えるだけで,「正しい」ことがすぐに「誤り」だったことに気づけてしまう,そんな軽い「正しさ」で人間はいつも傲慢な行動をとり続けている。

 自分にとって利益があることが「正しい」ことだ,という人間が国のトップに立つと,人々にとっては非常に迷惑である。

 「行動することがすべて」という文化のもとでは,「自分は正しい」ということを常に自分に言い聞かせて行動するので,「正しさ」の基準はいい加減なものになってしまう。

 一方の,「邪悪な行為」の「邪悪さ」は,だれにとっても非常に分かりやすい。

 程度の差があるから,たいていは,「この程度の邪悪さなら,許し得もらえるかも」という期待を込めて,遠慮がちに行動する・・・こういう文化の方が私は好きである。

 人間はそもそも邪悪な存在だ,という前提に立つと,

 「自分は正しいことをしている」と確信している人間とは怖くて付き合いにくいのが実感できる。

 ところが,人間の邪悪さに気づけない人たちは,

 「自分は正しい」という信念が強い人に,多くを委ねきってしまう。

 さて,入国管理の次の「邪悪なこと」とは何だろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より