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1930年代の政治の再来か

 中途半端な危機感では,変わろうとするよりも,変わらないまま自滅を待つ傾向があるのは何も日本人だけではないかもしれない。

 文部科学省の「天下り」の実態が示す壊滅的な反道徳的行為は,組織の廃止・再編を構想するレベルの問題ではないか。

 公務員が自ら法令を破るという行為が,憲法のどこに違反しているか,

 自らわからない人間はいない(公務員には採用されていない)はずである。

 文部科学省に見られた天下りの問題は,構図があまりにもわかりやすいものなので,社会科か道徳の教科書にでも採用しておくべき教材である。

 組織というものが,どのような仕組みで動いているのか。

 「OB」という立場を利用すると,どんなことができるのか。

 官僚というのは,何を目指して生きているのか。

 省庁というのは,それぞれどのような「利権」をもっているのか。

 省庁と企業,財団法人は,どのように結びついているのか。

 省庁は,どういう意味で,日本全体の利益を考えるための組織ではないと言えるのか。

 文部科学省の実態を見ると,よくわかる。

 これだけのことをして,どれくらい国民からの信用や信頼を失い,不信感を招いているか,わからないわけがない。

 そもそも信用などはなく,関心も持たれない省だと言ってしまえばそれまでかもしれないが,

 私たち教育関係者,子どもを学校に通わせている親の立場から言わせてもらえば,

 道徳教育や法教育を受けるべきは,まさしくトップの人間たちにほかならない。

 文科大臣は,省全体として法令遵守の意識が不足していたと認めている。

 「研修を通じて職員の意識改革を徹底する」とは,文科省自身が教員の非行に対していつも口にしていたことである。

 最も重い責任を持っているのは,だれか。

 何も語らず多額の退職金をもらって消えていくのを見過ごすことはできない。

 教員の犯罪行為ももちろん問題である。

 文部科学省が行っていたことが,どれくらい問題なのか,まともに答える責任を負う者を,逃がしてよいのか。

 1930年代の日本には,まだ軍部の主張を言論で圧倒できる帝国議会が存在していた。

 しかし,世界的に国家主義的なムードが高まり,

 国民のための民主主義が実現しつつあった「大正デモクラシー」から,

 世界の潮流に合った国家のための「昭和デモクラシー」に移行していってしまった。

 一部の人間が「甘い汁を吸える」仕組みは,何も国だけにあるわけではない。

 しかし,弱小とは言え国の機関のトップが平気で法律を破るだけでなく,

 誤魔化すための想定問答までつくって罪がなかったことにする行為をして,

 それが見逃されてしまうようでは議会など存在意義もない。

 与党からの厳しい追及もあり,内閣も動いている。

 弱小省庁だけの締め上げて終わらないことが,信頼回復の道だと信じたい。

 今こそ,1930年代の再来ではないことを政府が示すべきときである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より