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2017年1月

1930年代の政治の再来か

 中途半端な危機感では,変わろうとするよりも,変わらないまま自滅を待つ傾向があるのは何も日本人だけではないかもしれない。

 文部科学省の「天下り」の実態が示す壊滅的な反道徳的行為は,組織の廃止・再編を構想するレベルの問題ではないか。

 公務員が自ら法令を破るという行為が,憲法のどこに違反しているか,

 自らわからない人間はいない(公務員には採用されていない)はずである。

 文部科学省に見られた天下りの問題は,構図があまりにもわかりやすいものなので,社会科か道徳の教科書にでも採用しておくべき教材である。

 組織というものが,どのような仕組みで動いているのか。

 「OB」という立場を利用すると,どんなことができるのか。

 官僚というのは,何を目指して生きているのか。

 省庁というのは,それぞれどのような「利権」をもっているのか。

 省庁と企業,財団法人は,どのように結びついているのか。

 省庁は,どういう意味で,日本全体の利益を考えるための組織ではないと言えるのか。

 文部科学省の実態を見ると,よくわかる。

 これだけのことをして,どれくらい国民からの信用や信頼を失い,不信感を招いているか,わからないわけがない。

 そもそも信用などはなく,関心も持たれない省だと言ってしまえばそれまでかもしれないが,

 私たち教育関係者,子どもを学校に通わせている親の立場から言わせてもらえば,

 道徳教育や法教育を受けるべきは,まさしくトップの人間たちにほかならない。

 文科大臣は,省全体として法令遵守の意識が不足していたと認めている。

 「研修を通じて職員の意識改革を徹底する」とは,文科省自身が教員の非行に対していつも口にしていたことである。

 最も重い責任を持っているのは,だれか。

 何も語らず多額の退職金をもらって消えていくのを見過ごすことはできない。

 教員の犯罪行為ももちろん問題である。

 文部科学省が行っていたことが,どれくらい問題なのか,まともに答える責任を負う者を,逃がしてよいのか。

 1930年代の日本には,まだ軍部の主張を言論で圧倒できる帝国議会が存在していた。

 しかし,世界的に国家主義的なムードが高まり,

 国民のための民主主義が実現しつつあった「大正デモクラシー」から,

 世界の潮流に合った国家のための「昭和デモクラシー」に移行していってしまった。

 一部の人間が「甘い汁を吸える」仕組みは,何も国だけにあるわけではない。

 しかし,弱小とは言え国の機関のトップが平気で法律を破るだけでなく,

 誤魔化すための想定問答までつくって罪がなかったことにする行為をして,

 それが見逃されてしまうようでは議会など存在意義もない。

 与党からの厳しい追及もあり,内閣も動いている。

 弱小省庁だけの締め上げて終わらないことが,信頼回復の道だと信じたい。

 今こそ,1930年代の再来ではないことを政府が示すべきときである。


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日本は万全のテロ対策を講じうるか?

 トランプ政権下の軍事行動で,初の戦死者が出たという。亡くなった方のご冥福を祈りたい。

 日本では,「兵士(自衛隊員)が戦闘で亡くなる」という報道を耳にすることがなかった(訓練中の事故で亡くなる方がいるのは,知り合いもいたのでよく知っている)。

 アメリカのような国に日本がならないことを願いたい。

 しかし,今や,テロで一般人が標的になってしまう時代だから,基本的に地球規模で見れば「戦時」であると考えた方がよいだろう。

 より安全な場所に生活の場を求める人が増えていくかもしれない。

 もし日本が移民を認めるようになったら,どれだけの人が集まってしまうか,想像もできない。

 しかし日本が安全な場所だというのは,「これまではそうだった」というだけのことかもしれない。

 アメリカが「次の大規模テロ」を警戒しているのは間違いないことだろうが,行き着く先が,

 「戦争で雇用の増加を」なんていうことにならないでもらいたい。

 戦争のど素人の日本人でも,今のアメリカが危ないことはわかりきっている。

 アメリカと密な関係を保ちたい日本が,強固な同盟国という理由だけで狙われることを心配している人も多いだろう。

 テロリストに理屈は通じないが,敵意は通じる。
 
 お互いに敵意に満ちた人間が溢れる地球にならないために,日本人ができることは何だろう。

 真の「国際社会への貢献」とは何だろう。

 今こそ,いがみ合いのない世界を築くためのメッセージを発信すべきときではないのか。

 入試の直前だが,国際社会のことを学んでいる中学校3年生には,そんな「義憤」に燃えていてほしいものである。

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直葬・0葬 VS 永遠葬

 中学生の担任である私が明日もし死亡し,葬儀は行わない,としたらどのようなことになるだろう。
 
 死んでも悲しんでもらえないのはつらい,という話ではない。

 日経電子版で読んだコラムには,今,日本では,通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」が増えており,それをさらに進め,遺体を焼いた後,遺灰を持ち帰らず捨てる「0葬」を勧める人がいることが紹介されていた。

 宗教教育をしてはならない日本で,葬儀をめぐる議論を教育の場でさせることは難しいかもしれない。

 ただ,「生命の尊さ」「人間の尊厳」などの道徳的価値を理解させるためには,素通りできない話題である。

 「葬儀」の場合には,「儀式」の意義を考えさせることもできる。

 「形式」があるものを,単に「形式的だ」といって批判する人間を増やさないために,

 日本の教育では,「社会的事象」の「意味」や「意義」を考えさせる,という指導上の留意点がある。

 「入学式」や「卒業式」を,一定の流れに沿って,厳粛に行うことの意味と,

 「葬儀」を行うことの意味の共通点と相違点を考えさせる授業を実践すると,子どもたちにどのような思いが芽生えるだろうか。

 物心ついてから初めて親族や関係者の葬儀に参列した子どもはどのような思いをもつだろう。

 私の娘は,いつも可愛がってくれた祖父が亡くなり,火葬になる前に,

 「どうして焼いちゃうの」と泣いていた。

 こういう場を経験できない子どもが増えていくことが,今後予想される。

 日本に限らないかもしれないが,「節目」を大切にし,「区切り」を通過することによって,

 新しい何かを生み出し続けるとともに,永く変わらない何かを創り出すことの意味を,

 教員ですらわかっていないものがいる。

 学習指導要領を読んでいないから,わかっていないのだ,という意味ではない。

 読んでもわからないだろう,と思われる教員がいるのである。

 教員ですらそうなのだから,社会に同じような人々が増えていくのも当然かもしれない。

 できたら私のときは,葬儀を行ってもらい,「区切れ目」としてほしいものである。

 
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学習指導要領に「竹島・尖閣は領土」と明記することの意味

 領土をめぐる対立は,戦争の代表的な原因の一つであった。

 日本は,憲法で「戦争放棄」をうたっているので,戦争は起こらない,と断言できる人はいないはずである。

 中韓を刺激する「異なる歴史意識の教育」は,外交的な戦略の一つなのかもしれないが,

 「道徳的」には,そういう国と同じように起こしている「不正」を素知らぬ顔で行い続け,

 国家公務員法に背いていることを誤魔化す想定問答までつくっていた文部科学省が発表するというのは,
 
 本当に笑えない話である。

 学習指導要領に日本の領土を明記することに,どのような意味があるのか。

 報道されている記事にあるように,今でも学習指導要領解説には示されており,

 教科書にもすでに記載されている。

 しかし,学習指導要領解説には法的拘束力がなく,教科書は「主たる教材」に過ぎない。

 法的拘束力のある学習指導要領に明記することで,

 「学習指導要領に反する領土教育をした教師」を処罰することができるようになる。

 これが最大の狙いである。

 「アクティブ・ラーニング」バブルのおかげで,共産主義的な考え方の教師が,資本主義社会を否定したくなる人間を育てるための教育を行いやすくなっている。

 自由主義,資本主義が「悪」である,という共通認識の広がりは,できたら避けていきたい。

 トップが遊びのために組合費を使うような教職員組合の組織率の低下は今後も続いていくと思われるが,だからといって,「公務員の特権」が世の中で一番大事だ,という認識をもつ人間が増えないとは限らない。

 省の「天下り先」の確保と拡大,利権拡大という組織のための政策をやっていることが見え見えでも,

 失ってはいけないものがある。

 一人一人の教員の良心である。

 「お前たちは将来,低賃金労働者になるんだから,深い学びなどする必要はない」と主張するような大学のセンセイの方を向く教師たちを増やさないことも大切だ。


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極細の屋台骨が折れた日本の教育界

 国立大学を縛り上げていた文科省が,

 私立大学に対して想定問答集まで与えて,省ぐるみで国家公務員法に違反する行為を行っていたことは,

 日本の何を象徴しているのだろうか。

 利己的な国家公務員とそのOBが,教育も道徳も無価値に見える社会に日本を変質させようとするねらいは何か。

 いじめの聞き取り調査では,口裏合わせをさせないような機動的な調査が求められるが,

 これからは,文科省の人事課というお役所の人たちが行っていた方法を真似るケースが増えていくのだろうか。

 行政の人間なら,それも霞ヶ関の人間なら,絶対に口にできない言葉があったはずである。

 「法律をよく知らなかった」

 「自分の行為が法令に違反しているとは思わなかった」

 という言い訳ができる官庁が,日本にあったとは驚きである。文科省レベルなら仕方がない,とは言えない。

 もしそれで事務次官などという地位につき,8000万円もの退職金を手に入れて「もらい逃げ」することができるとしたら,

 日本はもはや法治国家ではなくなってしまう。

 立場を利用して甘い汁を吸う人間がいるのは,もちろん日本だけではない。

 お隣の国との共通性が滲み出てくるような出来事であった。

 骨が折れ曲がったテントをそのまま露出しておくのか,どうか。

 穴の空いた天井から,どのような景色が見えているのだろうか。

 国家公務員が法令を守らない国の政府が語れる道徳や正義とは何か。

 拷問は「効果がある」と発言する新大統領がいる国と一緒に自滅しないですむ進路を探ってもらいたい。

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1時間座ったままでいると寿命が22分縮む

 耳石というものの存在を初めて学んだのは,中学生だろうか。

 記憶に残りにくかったのは,その存在意義の理解が薄っぺらだったからだろう。

 「1時間座ったままでいると寿命が22分縮む」と聞くと,毎日6時間くらいほとんど座ったままで,

 それを10年以上も続けている人はドキドキするかもしれない。

 記事によれば,歩くことより,「立ち上がること」が大事らしい。

 教員は,1日6時間くらいは立って過ごす。

 部活動の指導の時も,40代くらいまでは「座って行う」など考えられなかった。

 私の転機は指導主事になってことで,おそらく寿命は10年くらい縮まってしまっただろう。

 その分を後の12年で取り戻せたかどうか・・。

 学校も管理職になると,とたんに不健康になるが,

 事務作業は「立ったまま行う」というのもよいかもしれない。

 ふと生徒に目を向けると,座っている時間が圧倒的に多い。

 自分もそうだったが,改めてふり返るとあまりにも不自然な時間である。

 もちろん,立ち歩き可が論外であることは言うまでもない。

 「歩きながら考える」姿が一人前になるような将来をつくってあげたい。

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長子・中間子・末っ子,一人っ子の特質

 トップアスリートに末っ子が多いというのは,どこかで聞いたことがある。

 一人っ子が増え,兄弟姉妹がいても一人だけ(つまり子どもが二人)という家族ばかりになっていくと,「末っ子」という分類自体がなくなっていくと思われるが,

 次のような兄弟姉妹の「価値観」などの分析?が紹介されている記事(週刊朝日)を読んだ。

>長子は,やるべきことをやる

>末子は,やれそうなことをやる

>中間子は,みんながやらないことをやる

>一人っ子は,やりたいことだけやる

 なるほど,と思えるのは,だからこそ,・・・と思い当たる事例が多いからだろう。

 歴代首相の約半数が中間子だというのも,なるほどと思える。

 「注意される・叱られる」とき,どうなるか。

>長子は,「自分が悪かった」と反省する

>末子は,「自分のせいじゃない」と開き直る

>中間子は,「なんで自分だけ」といじける

>一人っ子は,「……!」とパニックになる

 教育現場での事例を集めると,同じような分析結果が出てくるかもしれない。

 人間関係をうまく機能させるための一言は・・・

>長子には「頼りにしてます」

>中間子には「あなたしかいない」

>一人っ子には「やり方は任せるよ」

>末子には「これが終われば○○だよ」。

 学校にも,放っておかれる方が大好きなのと,放っておかれると怒り出す子がいる。

 自分はどうでもいいが,先生が人によって扱いを変えることが嫌いな子もいる。

 いずれにせよ,教育というのは「面倒臭い」ものだからこそ,面白いとも思えるし,

 かかわりたくない,とも思えるものである。

 かかわりたくない,と思ってしまうのは,どういう人だろう。

 末っ子や一人っ子で先生になっている人がいたら,会ってみたい。

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「わかりやすい」言葉を超えて,「わかる」言葉で話す新大統領

 新大統領が話す英語の文法は,小4とか小6レベルだと言われる。

 日本の中学生でも,新大統領が何を主張しているか,翻訳なしでもわかる部分が多かっただろう。

 このことを,批判的にとらえるのは,反新大統領派であり,

 新大統領を支持する人たちにとっては,

 まさにその「わかりやすさ」こそが支持の理由になっているのかもしれない。

 わかりやすい言葉,わかりやすい図式を国民に提示し,支持を集めた政治家として,思い浮かべることができる人はだれか。

 日本なら小泉純一郎元首相か。歴史上の人物なら,ヒトラーか。

 もちろん,「郵政解散」「ドイツ民族のために」といったわかりやすい言葉だけで政治家を信じるほど国民も素直ではないはずである。

 頭の良い政治家たちは,国民の中にある大いなる「不満」を利用する。

 小池知事が使う「ブラックボックス」「頭の黒いネズミ」などといった言葉は,政治や政治家と癒着している人間たちを国民が嫌悪しているからこそ「伝わってくる」ものである。

 自分にその自覚がある人間たちが,慌てて「頭の黒いネズミとはだれだ」と問い詰めてきたりするのは,小池知事にとっては「思うツボ」である。

 国民の側から,「お前のことだろうが!」とツッコミを入れられるから。

 新大統領が利用している人々の「不満」は,大統領自身がしっかりと言葉にしている。

 だから,「わかりやすい」というより,だれにでも「わかる」演説になっている。

 ・・・・ところで,多くの人は,「次のステップ」に期待する。

 「アメリカのお金は,アメリカ国民のために使う」

 「アメリカ国民の財布に入るはずのお金は,外国人には渡さない」

 ・・・そんなことは可能なのか?一時的には実現しても,いずれ,期待と全く逆のことは起こるのでは?

 と考えることができる人の割合は,ぐっと下がっていくのだろう。

 大統領選の予想を外したアメリカの超エリート層は,今,相当に慌てているはずである。

 この人々は,もしかしたら,アメリカの利益よりも,自分の利益の方が大切と思っているのかもしれない。

 超エリート層の生き残り戦術からも目が離せない。

 選挙戦のときのように,お互いに足の引っ張り合いをしている間に,国際社会の影響力を握ることができるようになる国はどこだろう。

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大学発「ウソ」の弁解方法=「一時的に混乱させたことをお詫びします」

 文科省から依頼されたウソの説明をしたことに対して,大学に「一時的に混乱させてごめんなさい」と言うように指示したのも文科省だろうか。

 虚偽説明までさせられるほど,文科省の言いなりであるのが大学だということがよくわかった。

 今や,ルールを守らない,守れないことは,「理解不足」「認識不足」という言い訳ですまされる時代なのだということを,

 大学総長や官僚のトップたちが示す時代である。

 こういう問題の解決とは,たまたま見つかってバレた人間たちが「辞めれば済む」ものなのか。

 決してそうではないだろう。

 貴重な国会の審議の時間も,こんなくだらない問題の攻撃と言い訳と誤魔化しで費やされるのかと思うと,身を削って子どもたちに道徳的な生き方を教えている教師たちはやるせない思いをするに違いない。

 事務次官とか局長というレベルの人間がルールを守らない省の「言いなり」であり続けなければならないのである。

 
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著作権法を教えていた教授は国家公務員法違反をしていた

 文科省で私学への補助金交付などの仕事をしていた人が,私学に再就職する。

 とてもわかりやすい文科省と大学の関係である。

 文科省から大学に出向して,「お勉強中」の人もたくさんいる。

 大学は,文科省の附属物のようなものと考えれば,別に気にする必要もないのではないか。

 甘い汁を吸えるのは局長級などといったごく一部の人間たちであり,

 それだけが狙いで仕事を続けていたのもいたはずだから,

 「美味しいおもいができない」ことになってしまったら,仕事のやる気がなくなるのではないか・・・。

 お気の毒な話である。

 人事課が組織ぐるみで虚偽の話をまとめ,調査への想定問答集を作っていた。

 外部から見れば組織が腐っているように見えるが,

 「それが当たり前だ」というのが当事者の意識だろう。

 「賭け麻雀なんて,みんなやっているじゃないか」と開き直ったどこかの首長も同じである。

 文科省内では,「どうしてウチらだけ」といらついている人も多いようだが,

 速度オーバーの交通違反でつかまった人と同じレベルだという自覚はあるのだろうか。

 法律で決められたことを破ったことがバレたらどうなるのか,

 文科省の役人たちに教育できるのは誰だろう。

 これからは,内閣府立のお役者とか大学が増えていくのだろうか。

 それにしても,とてもわかりやすい法律違反に問われる教授に出会えたという希有な経験ができた学生たちは,どんな思いでいるのだろう。


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言い出しにくいことほど,問題の原因になっている場合が多い

 よりよい教師をめざして研究しているのに,ろくでもない指導を受け続けてしまう大学生や大学院生がいるとする。

 この人たちを救えるのはだれだろうか。

 現場の教師として採用されない原因はさまざまあるだろうが,採用されなければ,実害は社会に及ばない。

 仮に採用されてしまった場合,どうやって「本当の教育のあり方」を学び取ることができるのだろうか。

 「答えは現場にある」というのが,現場教師から言える唯一のことである。

 「現場」は「教育現場」一般もそうだが,基本的には自分の職場である。

 そこで学んだことが,次の異動先の職場に生きるとは限らない。

 しかし,「生かせる」ことを前提としているから異動というシステムが続いている。

 常に新しい環境では新しいことを学び続けようとする姿勢が教師には必要である。

 現場には,新たな問題のタネが転がっていたりもする。

 大学でもそうだったかもしれないが,「一番指摘しにくい人が問題をもっている」という大問題がある。

 「組織をどう生かしていくか」を考えるときに,最大のネックは人にある。

 「組織の中心」こそが問題だったりする。

 「学校をよりよくしていこう」と考えるときに,最大のネックは教師にある。

 言い出しにくいことほど,問題の根本的原因だったりするのは,何も学校現場だけではないだろう。

 しかし,そこは,堂々と指摘しなければ前に進めない。

 「改革することが大事だ」と言っている本人ほど,実際には過去のことにこだわっていたりすることも多々ある。

 自分ができないことをやろうやろう,と言っている人は近くにいないだろうか。

 「片付けろ,片付けろ」と口うるさい人の机が一番汚らしかったりする。ネックはこういう人間である。

 言い出しにくい問題を解決するときには,「自発的なまとまり」という新しい組織が必要になる。

 だれかに支持を受けない。

 だれかの影響力を期待しない。

 自分たちの意思で,意見をぶつけ合える人同士で集まって,新しい組織をつくる。

 自分たちは,だれからも指図を受けずに集まったのだ,という自覚をもった人間の組織が重要である。

 自分たちが納得のいく成果を出せるかどうかを徹底的に追究し合える人間を一人でも増やしていきたい,そういう自覚をもち続けることが,「勘違い人間」に対抗し,子どもを守っていくための重要な条件である。


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子どもを「利用する」ことを「理解する」と同意義で使っている「思い上がり教師」

 子ども理解は,集団を操作するためにある,と堂々と主張している大学のセンセイがいるが,

 子どもを「理解する」のは,子どもを「利用する」ためではない。

 子どもを「守る」ためであり,子ども一人一人の「成長」を確かめるためでもある。

 担任になれば,40人の子どもたちの家庭環境,友達関係,得意不得意,性格,健康状況など,教育にかかわる非情に多くの情報を手に入れることになる。

 小学校であれば,自分のクラスを中心に知っていればよいのだが,中学校では授業を担当するすべての学級の子どもの情報を把握する必要がある。

 小規模校ならば,すべての教師がすべての子どもの情報を共有することも可能だろう。

 朝,教室で出席をとったときに,「何かヘンだな」と感じとることも,教師にとっては重要な仕事である。

 授業のある先生に一言伝えるだけで,「余計な仕事」が増えないですむケースも多々ある。

 学級集団は,一人一人の子どもから成り立っている。

 Aはこういう子で,Bはこういう子,CはDが苦手で・・・といった情報だけでなく,

 「今,どんな様子か」を知っておくことも大切である。

 緊張しているのだろうから仕方がないと思うが,

 公開授業を参観していると,子どもを見ていない教師が多いことが気になる。

 子どもたちは,とても多くのサインを教師に向けて発しているが,

 ことごとくスルーされている。だから,子どもも「諦めて」しまう。

 子どもに「諦められる」教師ほどさみしいものはない。
 
 「立場の逆点」を知らずに余計な軽口を叩いて子どもをさらに深く傷つけたり,

 「昨日のできごと」に気づかないで「鈍さ」を痛感されてしまったり,

 教師の「不手際」「能力不足」に気づくことは,子どもにとっては残念な話である。

 集団の中での立ち位置が,常に固定であるわけがない。

 一人一人の子どもは生きている。

 集団の中にいても,一人一人の子どもは自己主張したくてうずうずしている。

 集団を通してしか子どもに接することができない人間は,教師ではない。

 常に集団を通してだけ子どもを動かそうとする人間は,実質的に子どもを「見捨て」ているダメ教師である。
 
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「継続」こそが使命なり

 読書編でご紹介した木下斉著『地方創生大全』に,地域活性化の真のあり方が示されています。

>成功と失敗を繰り返しながら,それでも決定的な失敗をせずに,どうにか上昇気流をつくり出していく日々の取り組みこそ,地域活性化のリアルです。

 この言葉には,どのような「物語」への不満が示されているのでしょうか。

 深くはふれませんが,「一時的な成功では意味がない」ことは,どなたでもご理解いただけることでしょう。

 ただ,世の中は,「目の前の,しかも,数値で表せる成果」ばかりを重視する行政の人間たちによって,大いに狂わされています。

 教育も,地方創生も,全く同じ図式で,「好転」はおろか「悪化」の原因を招いているともいえる「政策」が実行に移され続けています。

 メディアがわざわざ取り上げるような「成功物語」が,「継続性」を保障できているものなのか,本当はそういうチェック機能こそメディアが果たすべき役割なのに,「珍しいことをしているから,取り上げよう」という

 単発的

 虫食い的

 なニュースの取り上げ方をしているものだから,

 「ああいうことをしないといけないのだ」という誤解も招いてしまっている。

>地域の新たな取り組みに強硬に反対する地元の有力者

>成功したことによって妬みを持つ住民

>地方独自の成功に乗じて自らの実績をあげるためにモデル事業予算を売り込む役人

 こうした欲望の渦の中で,地道な努力をしている人をメディアが取り上げることはないでしょう。

 本当の意味での,

 継続性のある「成功」を支えるどころか,

 それを妨害する役割を果たしているものが何であり,

 「失敗」を乗り越えながら「成功」を模索する教育現場や地方を支えることができるものが何なのか,

 こういう問題意識を持ってくれる,「本当の政治家」の出現が待ち遠しいものです。


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「仕事をさせていただいている」という感覚の消滅

 社会には,「本職」とは別の「仕事」が忙しいものの,

 しっかりと「本職」のつとめも果たしている人たちがたくさんいる。

 学校でPTA活動に参加してくださる保護者がその例である。

 一方で,「本職」がろくにつとめられないばかりでなく,

 「本職」以外のことに全くタッチしようとしない人たちもいる。

 学校関係者では例を挙げるまでもないだろう。

 学校の教師が今まで果たしてきた役割が,

 「間違っている」という人間がいるが,

 現場にいる公務員の中で,自分の権利のことばかり考えて,

 奉仕しなければならない対象のことをおろそかにできる人間はごく一部であると信じたい。

 学校の教師が恵まれているのは,「本職」以外にしなければならない「仕事」も,

 基本的にはすべて直接的に子どものためになることが多いことである。

 社会一般の多くの人が果たしている「本職」以外の「仕事」が,必ずしもそういうものばかりであるとは限らない。

 教師は,だれもが就ける職業ではない。
 
 就くのが難しいというのは,採用試験の壁があるという理由だけではない。

 私から見れば,ほとんど意味のない単位を大学で大量にとらなければ資格がとれない不幸なシステムができあがっているのが現状である。

 苦労して現場に入った人間たちが,・・・「本職」にあたること以外にタッチしたくない・・・勤務時間が終わったら,さっさと帰りたい・・・などと言い出す元凶は,「本職」以外で金を稼いでいる人間がうようよいる大学にあると確信している。

 ろくでもない将来像を若者に植え付けて,子どもたちだけでなく,若い教師がまともに成長できる芽も摘み取ろうとしている,「兼業万歳」の大学の人間をどうにかしてほしい。 

 公務員の中で,「仕事をさせていただいている」という感覚が欠如した教師が見せる態度ほど醜いものはない。

 奉仕の精神を失った同僚と,自分と自分の子どもの権利ばかりを主張する保護者たちに囲まれる苦労を想像してみてもらいたい。


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妖怪がいなくても問題ないセンター試験問題

 次の文から,正しいものを2つ選びなさい。

a 家庭電化製品が普及していく時期には,スーパーマーケットが各地に広がり,消費や生活の変化が進んだ。

b 電化製品が普及しはじめた頃,日本の国内産業は空洞化に悩まされていた。

c バブル経済の時期には,株価が高騰した。

d 企業が減量経営につとめた高度成長期には,ロボットの技術の導入が進められた。

 bとdの誤りにすぐに気づくから,簡単な問題である。

 上記の内容だけで,3点がとれる。

 妖怪漫画が使われていることには,何の意味もない。

 今年の日本史Aの問題が,ニュースで取り上げられた理由は,「妖怪」が登場したからである。

 こういうのは,ただの紙の無駄といってよい。

 ニュースでは,「妖怪なんていなくても解けてしまう」ことを取り上げるべきだろう。


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教師の影響力を過大評価する人・過小評価する人

 教師の影響力を過大評価するのは,自意識過剰な教師自身と,子どもの挫折の責任を教師になすりつけたい大きな子どもである。

 一方で,教師の影響力を過小評価するのは,優秀な人材に恵まれない学校現場と教員養成機関である。

 影響力に低下傾向があるのは,致し方ない。

 しかし,「そもそも教師の側に影響力はない」というのはウソだろう。

 もともと勉強が嫌いで,今も嫌いな人なら仕方がないが,

 教師の影響で好きになった教科がある,という人に,私の言うことは伝わるだろうか。

 そもそも,人は人からさまざまな影響を受けながら,変わっていく存在ではないのか。

 親はもちろん,出会ったすべての人が,何かしらのかたちで人の心の中に生きていないだろうか。

 もちろん,他人に大きく期待しすぎること,依存しすぎることはよくない。

 しかし,教師に期待や依存ができない環境というのは,酷すぎないか。

 教師と子どもとの間で生まれようとするものを,頭から拒絶する人に,教育を語る資格はあるのか。

 最近,「他人の脳を利用してその場をやり過ごす能力に長けた子どもが増えた」という実感をもっている教師はいないだろうか。

 自分が愚かなタネをまいていることに,気づけない教育関係者がいることがおそろしい。

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小さな「違い」には敏感で,大きな「違い」には鈍感な人たち

 大きな「違い」には鈍感で,小さな「違い」にはとても敏感な人たちがいる。

 「違い」が大きすぎると,「比べる」という思考が停止してしまう。

 一方,小さい「違い」の方は,思考や感覚がフル回転し,「とても気になる存在」になる。

 「細かいところに気がつく」習性が,発達に多大な影響を及ぼした産業もあるだろう。

 大きい「違い」の方はスルーできてしまうことで,余計なトラブルを避けることができていたと言える面もあるだろう。

 ただ,時代は大きく変わっている。

 今までスルーしてきた大きな「違い」に目を向け,どうでもよい小さな「違い」にこだわらない性質をもつ人が増えていかないと,つぶれてしまうところはないか。

 たとえば学校現場。

 学校教育に関しては,どんなことをスルーしてきたか。

 たとえば「異常に多い1クラスの人数」。義務教育だけではなく,大学も同じである。

 「こんな状態では,教育効果は測定できない」という声をほとんど聞かないのは,

 外国とまともに比較する気がなかったからだろう。

 どんな細かいことにこだわってきたか。

 観点別学習状況の評価である。

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはどこにあるのか。

 この説明を,たとえばある単元の学習について,同じ県のすべての市の中学校教師たちが同じようにできるわけがない。

 しかし,同じようにできることが前提となって使われているのが高校入試の内申点である。

 様々な学習場面,活動場面があったはずである。

 それをAとBにきちんと分ける根拠を,すべての教師がもっているとは思えないし,

 その基準が同じであるとは思えない。

 そんな議論は完全にスルーされてきた。

 でないと,「入試に公平性がない」ことになってしまうからである。

 「できていることにする」という発想が,ここでだけ許される理由は単純であるが,

 「全員が困る」ことには目を向けない,という無責任さがさまざまな不幸を招いてきたことにそろそろ気づくべきではないか。

  
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敵対者を取り込む労力<敵対者を撃退する労力

 敵を懐柔して利用するか,徹底的に撃滅するか。

 使う資源とエネルギーが異なるから,何を持っているか,何が得意であるかによって,方針は異なっていく。

 しかし敵対者を撃退する場合には,一時的な「安心感」は得られるかもしれないが,

 「さらなる敵対者を増やす」結果になりやすい。何よりも相当の労力を費やすために,自分も疲弊しかねない。

 敵対者を取り込むことにも,相当の労力を費やすが,主な負担は「精神面」のものである。

 歴史上,最も「取り込み上手」だった人物はだれだろう。

 その人物からどのようなことが学べるだろうか。
 
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火災(出火)件数は,どのように推移しているか

 火災の報道が相次いでいるが,視聴者の関心が高いニュースが増えることによって,

 扱われた災害が減少する効果があるのなら,どんどん放送してほしいと思う。

 ただ,火災のニュースが増えたから,「実際の火災の数も増えている」と認識しやすい点には注意が必要だろう。

 総務省の報道資料では,消防庁の発表として,以下のようなデータが紹介されている。

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政権支持率の決定要因に見る「危機」

 アメリカでの新政権誕生によって,国際政治から目が離せなくなった。

 大人だけでなく子どもも政治に関心を持ってくれるきっかけになり,教育関係者としては悪い気だけがしているわけではない。

 トッド氏が「マルクスが喜んでいる」といった趣旨の発言をしていたが,

 多くの政権が「経済」を動かすこと=「政治」を動かすことという図式で「支持率」を獲得・維持する仕組みになっている。

 アメリカだけの話ではない。

 日本では,「経済」を動かすことを最優先した結果,どのような事態を引き起こしたか,

 まだ「記憶に新しい」と言える範囲の歴史から説明できる。

 「収入は減っても,平和が維持できる方がよい」と国民を説得できる政治家は皆無だろう。

 少数者だが高額所得者でそう願っている国民もどれだけ存在しているだろうか。

 収入減+仕事量増加で苦しい思いをしている国民のうち,

 どれだけの人が「平和」を望んでくれるだろう。

 
 参考:日刊大衆 安倍総理が「師・小泉純一郎」を超える日(2017年01月08日 11時00分)

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イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか

 低俗な内容を中心としたテレビ番組が,国民の生活にどのような悪影響を及ぼしているのか,

 まともな研究をしている人はいないだろう。

 高尚な内容を扱っているはずの学校での道徳教育が,国民の生活にどのような好影響を及ぼしているのかを

 実証的に研究することも不可能である。

 テレビで低俗な内容のバラエティー番組の視聴を禁止され,道徳の学習を熱心に行っている生徒がいじめをしていることもあるだろうし,道徳の授業など聞いてもいないし参加もしていない生徒が,バラエティー番組を見て日頃の鬱憤や不満を笑い飛ばすことで解消し,結果として人には迷惑をかけない生活を送っていることもある。

 何が悪い,何が良い,と一方的に決めつけて対策を講じても,そもそもの「前提」が間違っていたら,かえってマイナスの効果が拡大する恐れもある。

 
 バラエティー番組の中でも,視聴率が稼げる内容の代表格として「ドッキリ」がある。

 視聴者側も基本的には「やらせ」=台本通りにやっているのだろうと思いながら見ている訳だが,

 それだと「刺激が足りない」「本当の切迫感がない」という理由からか,

 騙す側が本気になって演じる「ドッキリ」もある。

 芸能人の先輩が後輩に強烈なパワハラ,職場イジメを敢行する。

 騙す側は,「台本に従っている」わけだから,職務遂行に専念しているだけだと申し開きができる。

 ただ,騙される側が本当の台本を手に取ってない,という前提で公開されている番組では,

 「それらしいリアクション」が放送される。

 騙される側が,「相手は本気ではなかった」「台本通りのフィクションだった」と後で知ってほっとして何事もなく終わっていくのが「イジメドッキリ」なのだが,

 「イジメ」られて苦しんでいる人の姿を見て喜ぶ人のための演出が,

 それを見た子どもたちの心に何を育てていくのかを考えておかなければならない。

 ~イジメドッキリは,いじめを助長するきっかけになるか~

 ~子どもが学校でイジメドッキリを行った場合,いじめとして認定することはできるか~

 ~ドッキリ(一時的に相手を騙して苦痛を与え,すぐにウソだったとその場で明かして安心させること)はいじめに当たるか~

 現在,いじめの定義は「いじめ防止対策推進法」で以下のように示されている。

*****************

 児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(※)に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの

 ※小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)

*****************

 文科省では,算数の問題を解いている途中で,もう少しで解けそうだったのに,隣の席の子どもが解き方を教えてしまった場合でも,「いじめ」は成立すると説明している。

 それは,答えを教えられた生徒が「心身の苦痛を感じた」場合である。

 この法律では,「教師は生徒をいじめることはできない」ことも示している。

 いじめは児童生徒が行う行為だと定義しているから。

 教師から言われた言葉で傷ついても何にもならないが,

 子どもから言われた言葉で傷ついたらいじめになる。

 「いじめ防止対策推進法」ができたことによって,「いじめ」の定義は最大限に広がっている。

 「行為」には「行為しないこと」も含まれるだろう。

 学校を休んだ日に,友達が明日の授業連絡をしてくれなかった。

 これもいじめである。無視された,と子どもが訴えれば。

 学校でもしイジメドッキリを行ったら,紛れもなくいじめである。

 ドッキリの対象として選ばれた時点で,「いじめ」の対象として選ばれた,と考えなければならない。

 いじめを直接的な題材とした道徳のアクティブラーニングを行っていったときに,

 前提としておかなければならない知識がたくさんある。

 道徳の授業を推進する場合は,保護者も納得できるような基礎資料をあらかじめ提示し,家庭での議論もしっかり行った上で,学校での「話し合い」活動を展開する必要があるだろうが,そのときの「話し合い」の内容によっては「親が学校に乗り込んでくる」場合も考えられるだろう。

 「乗り込んできてくれること」を想定した指導案,その後の学校としての組織的対応の事前検討案というのも必要だろう。

 「道徳教育には,学校全体で取り組みます」と言った場合に,学校がしなければならない仕事のイメージの一つである。

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65歳以上=「准高齢者」,75歳以上=「高齢者」時代へ突入か

 老年学会という組織の存在をニュースで初めて知った。

 学会員の構成を知りたいが,それよりも「高齢者」のくくりの変更提案については,以前にもあったことを思い出している。

 1億総活躍社会の実現には,高齢者の「働き」が重要な意味をもってくる。

 生徒とこの話題を論じたときに出てきた考えは,

 「人によって年齢と元気さが異なる」というもので,

 75歳でも健康的な方もいれば,65歳以上で働くことが困難な方もいる・・・・

 身近な高齢者を多く知っているために,意見も具体的である。

 教育現場では,ぜひとも65歳以上の方々の活躍の場を確保したい。

 私の勤務校の教員OB,OGの会には,100歳近い人も参加しているため,

 65歳くらいの先生は実働部隊だが,かなりの「下っ端」である。

 さすがに100歳に近づけば,歩くこともままならないが,

 「話す」ことにかけては全く引けを取らない。

 目を閉じればそこに60歳くらいの先生が立たれているような気になる。

 「老害」という言葉でこうした経験豊富な先生方を排除したい人もいるだろうが,

 排除したいという点では,30代でもちらほら存在しており違いはない。

 長い長い「中年時代」の真ん中当たりにいる身としては,

 自分が75歳で何をしているか,実感が湧きにくいが,

 フォールドワークでの研究を欠かさず実践されている方もいる。

 その徳にあやかりたいという気持ちを抱かせてくれる人が,

 学校現場にどれだけ存在するだろう。

 道徳とは,その人の体からにじみ出てくるものに影響される,「そういう教育にあたるもの」であってほしい。

 少なくとも,健康な高齢者の割合が増えることが,日本全体の成長にとって二重の意味で重要であることを強調してほしい。

 そして,健康であるためには,何が必要か,タイプごとに整理してみてほしい。

 働くことを生きがいにするタイプの人,自分の築いた財産を使って趣味に生きたいタイプの人など,さまざまな「生活スタイル」の提案をセットにして,不安のない終活が送れるまでのイメージをつくっていってもらいたい。

 83歳になられた天皇陛下の一日の仕事を宮内庁HPからコピーした。こんな多忙な83歳がどこの世界にいらっしゃるだろうか。

*****************

天皇陛下お誕生日行事一覧
平成28年12月23日(金)
時刻 出御 行事 事項 場所
午前9:00 御代拝 天長祭の儀 三殿
同9:30 両陛下 祝賀及びお祝酒 侍従長始め侍従職職員 御所
同10:00 天皇陛下 祝賀 長官始め課長相当以上の者,参与及び御用掛 鳳凰の間
同10:05 皇后陛下 祝賀 長官,次長(職員総代),参与 花の間
同10:20 両陛下
お始め 一般参賀 春秋の間
(東庭)
同10:30 天皇陛下 祝賀の儀 皇太子同妃お始め皇族各殿下 松の間
同10:30 皇后陛下 祝賀 皇太子同妃お始め皇族各殿下 梅の間
同10:40 両陛下 お祝酒 皇太子同妃お始め皇族各殿下,元皇族,御親族 連翠(南)
同11:00 両陛下
お始め 一般参賀 春秋の間
(東庭)
同11:05 天皇陛下 祝賀 宮内庁職員,皇宮警察本部職員 北溜
同11:30 天皇陛下 祝賀 旧奉仕者会会員(元宮内庁職員及び元皇宮警察本部職員) 北溜
同11:40 両陛下
お始め 一般参賀 春秋の間
(東庭)
同11:50 天皇陛下 祝賀 堂上会総代(3名) 鳳凰の間
午後0:55 天皇陛下 祝賀の儀 内閣総理大臣,衆・参両院議長,最高裁判所長官 松の間
同1:00 両陛下
お始め 宴会の儀 内閣総理大臣等 豊明殿
同3:00 両陛下
お始め 茶会の儀 各国の外交使節団の長及びその配偶者 春秋の間
同3:30 両陛下 茶会 元参与,松栄会会員,元側近奉仕者,元御用掛 連翠(北)
同4:40 両陛下 茶会 御進講者等御関係者 御所
同6:00 両陛下 祝賀 愛子内親王殿下
悠仁親王殿下  御所
同6:30 両陛下 お祝御膳 皇太子同妃両殿下
秋篠宮同妃両殿下
黒田様御夫妻 御所
 
******************* 

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感情移入を武器にする教育

 「感情移入」とは,文学の世界では,自然物など「非情」の世界へ人間感情を持ち込むことを指している。

 「主観の導入」を捉える上で,とても重要な概念であるようだ。

 単なる「錯覚」に過ぎないと切り捨てるのではなく,人間にしかできない,人間の原始的機能の本質につながるものとして捉えることで,AIの進化にも影響を及ぼす武器になるかもしれない。

 

 外山滋比古先生は,アナクロニズム,地理的誤謬,感情移入を包括する概念として,

 「コンテクスチュアル・ファラシー(『場』の錯覚)」という言葉を挙げている。

 3つに共通するのは,

>第一の条件が,理解者と対象との間にコンテクストのずれが認められること

>第二の条件は,二つのコンテクスト間の理解伝達が十分に行われにくいという印象を与えることである。さらに,それを解消するにあたって,理解者側のコンテクストの主観的要素が対象のコンテクストへもち込まれる・・・これが第三の条件である

 合理性や正当性という点から疑われることも共通点である。

 「思い込み」という言葉で否定的に見られてしまう「理解」に対して,『場』の錯覚は,

 「文化」を大切にしようとする立場からは,あくまでも積極的な意義として語られている。


 「主体性」を育てようとしている教育の研究で,大切にしたい点は,

 「理解者」=生徒のコンテクストの主観的要素が,「教育内容」=対象のコンテクストへ持ち込まれるプロセスである。 

 今までの日本の授業研究の歴史では,45分とか50分の授業を通して,その様子を見学し,検証し,解明してきた積み重ねがあるはずである。

 大勢で正解にたどりつき,「みんなでがんばりました!」などという満足感を得て終わるような

 (昔,運動会の徒競走で,順位をつけないために全員手をつないでゴールする,なんてことをさせた学校があったようですが・・・)

 教育ではなく・・・・
 
 「主観的要素」を重視してあげることによって,何が育つのか。

 「主体性」を重視する方針を掲げるのであれば,「何が育つのか」をしっかりと語れる準備を整えておく必要がありそうです。

 「どうせ格差は埋まることはない」と諦めきった似非ガクシャに惑わされないように・・・。

 
 なお,感情移入の危険性について述べたこの2倍分の内容は削除いたしました。

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地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは?(教員採用試験対策)

 アナクロニズムは,現在を過去の中へ持ち込む時間的な誤謬の錯覚によって起こるものです。

 これを「歴史的誤謬」と表現するとすれば,「地理的誤謬」とはどのようなことを指すのでしょうか。

 小学校社会科の教員採用試験の問題です。

 地理的なものの見方や考え方,歴史的なものの見方や考え方を,小学校段階から中学校,高校へと発展させていく構想ができあがっています。

 小学校段階では,地理的にも歴史的にも複合的な誤謬が子どもの中に形作られていく可能性があります。

 たとえばそれは何でしょう?

 地理的誤謬と歴史的誤謬の共通点とは何でしょうか?

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疑問に思う力を損なわない教育

 日本では,「質問をする」のはたいてい教師の仕事で,「質問に答える」のは子どもの役割である。

 そうでないと,教師は子どもが理解しているかどうかがわからない。

 問題と答えを与えて,子どもたちが好き勝手にまとめあげ,はい,理解できましたね,などという授業をしてしまう無責任な教師は日本では少数派だろう。

 ただ,最近は,「質問をする」能力がない教師が増えていて,手元の指導書に頼りきる,というケースが多いかもしれない。

 質問もしないで説明だけで終わる,という大学のような講義スタイルは,小中高の学習指導要領という法的なしばりをもつ「ルールブック」では認められない方法である。

 教師の「質問をする」力はどこで養われるのか?

 私が担当している教育実習生は,毎年同じような壁に突き当たる。

 それは,生徒への「質問」(教育現場の業界用語では,「発問」という)の内容を考えることである。

 「源頼朝は,どうして京都ではなく,鎌倉に拠点を置いたのだろう」

 こういう「質問」を考える教育実習生は,あまりいない。

 「考えたこともない」という学生もいるし,

 「三方を山で囲まれているから」と答える学生もいる。

 日本には,攻めにくい地形の場所はいくらでもあるから,それは答えにはなっていない。

 この問いの答えは,簡単なようで,実は奥が深いものである。

 実習生には,自分が答えるためというより,本当に「疑問」に感じられる「質問」はどのようなものかを感じ取ってもらうために,次々に問いを投げかける。

 「鎌倉幕府が成立した」と考えられた時期に,どのようなことが起こったか?

 幕府ができたから奥州藤原氏を滅ぼすことができたのか,

 奥州藤原氏を滅ぼすことができたから幕府が成立できたのか?

 そのどちらでもないのか?
  
 年表をたどりながら,では,明治時代になって「鎌倉幕府」と呼ばれるようになったものは,

 いつの時点で成立したのだろう?と考えることに意味はあるのか?

 ・・・・・・

 「考える」とは,どういうことなのか?

 それが教育実習期間に最も「考える」課題である。
 

 自分が答えを知らない質問を生徒にするのが怖い,という気持ちもわかる。

 正解を導くことよりも,生徒が疑問に感じ,その真相を知りたいと思うような課題がなければ,

 学習が面白いとは思えないことは,学生もよくわかっている。

 学生たちは,自分が実は何もわかっていないことにまずは戸惑い,

 結局は,自分がわかったことだけを授業を扱おうとする。

 実習生自身が,こういう授業を大学まで受けてきた「成果」が,指導しなければそのまま実習の授業に反映される。

 
 外山滋比古先生は,著書『考えるとはどういうことか』(集英社インターナショナル)で,次のようなことを述べている。

 頭では地動説を受け入れていても,いまでも「日が昇る」「日が沈む」という言い方をやめようとしない・・・日常生活では天動説的な感覚を持って暮らしている・・・と。

 学校の授業でも,地球ではなくて太陽がまわり続けている。

 答えが決まっているものをせっせと「理解する」ことを主眼とし,子ども「全員」が無事に答えにたどり着かせることで多少の満足感を覚えている教育理念が,「天動説」の典型的な例である。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より