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教師が「ならずもの」になるのはまずい

 「子どもたちが手に負えない」といって嘆く「手に負えない教師」をそのままにしてはおけない。

 子どもは「ならずもの」ではないし,教師も「ならずもの」であってはならない。

 どう「成る」=「成長する」か。

 子どもなら子どもなりの,教師なら教師なりの「成り方」がある。

 もし,授業をしていた教科担任の教師が,自分が担任する学級の子どもの問題点を指摘したとしよう。

 (私の学校では,このような問題点を指摘し合う会議が,毎年数回ある)

 「自分に指導力がないから,そうなってしまうこと」には,本人に気づいてもらうしかない。

 それはさておき,「どうしたら不適切な状況が改善できるのか」を

 「学び合う」場があるかどうかはとても重要である。

 陰で愚痴を言ってみたところで,どうにもならない(怒りは多少鎮まるかもしれないが)。

 子どもたち同士の間でも,似たような問題は起こる。

 そのとき,どのようにして問題は解決され,子どもたちは成長していくのか?

 そのプロセスがわからないで教師をしている人間は一人もいないはずである。

 「本人が悪い」では何も変わらない。

 では,もし「あなたが悪い」と言ってきたらどうするのか?

 「誰が悪い」と言ってみても,何も始まらないことはすべての人間が知っているが,本当の意味で自覚できている人は少ない。

 「担任に言ってみたところで,何も変わらないだろう」と思われていたら,告げ口もされない。

 授業など教室内で起きた問題の処理は,すべて担任の教師が行うべき,とは言えないが,

 どのような問題が起こっているのかを「知っていること」は大切だろう。

 
 そのような問題が,子どもの方から「反省」として上がってくる場合もある。

 教師は,「問題が起こっているのは知っていたが,子ども自身がそれを取り上げて話し合ってくれて,よかったと思う」という話を子どもにしたい存在である。

 子どもが「主体的に学ぶ」機会は,それほど多くはないが,「反省」「ふり返り」という行動は,動機は別のところにあるかもしれない(先生に褒められたいなど)にせよ,「主体的」な行動である。

 そうした「主体的な行動」を,教師自身もとらなければならない。

 それができない教師は「成らず者」である。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より