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2016年12月

ボクシング選手の頭の使い方

 ボクシングのIBF世界スーパーバンタム級タイトルマッチで新チャンピオンが誕生した。

 基本というか作戦に忠実な試合運びは,派手さには欠けるものの,

 「確実な仕事」の大切さを思い知らされた気がする。

 勝負を大切にするスポーツの世界と,受験教育の世界は似ている。

 「勝つ」ためにやるべきことは,「基礎」「基本」の徹底であることを改めて思い知らされた。 
 
 2016年までは,「確実性」よりも「意外性」,「話題性」に目を奪われていた気がする。

 来年は,「基礎」「基本」の意味をもっと追究していきたい。


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大学の「教職課程」の意味の軽さ

 教員養成課程で免許取得に必要な科目の「履修漏れ」が発覚した大学がある。

 期間は10年間。

 今年の4年生は80人いるらしいが,単純に計算すると800人が未履修の状態で免許を取得したということだろうか。

 免許を取得した卒業生(現場の教師になっている者も含めて?)への補講を検討しているらしい。

 記事によれば,大学や文科省の見解として,「履修漏れ」があっても(補講を受ければ?)免許は取り消されないという。

 私の違和感の一つ目は,「履修漏れ」という言葉である。

 何だか学生の方が悪いような言葉の響きである。

 実際には,カリキュラム作成・運営上のミスではないのか?

 カリキュラム編成能力がない大学の認可取り消しという処分は下らないのか?

 違和感の二つ目は,授業内容に関することである。

 「地理学では特定の地域しか授業内容に盛り込まれていないなど,未履修の分野が生じていた」とあるが,

 そもそもすべての地域の地誌を履修しないと免許が取得できないという仕組みも知らなかった。
 
 私もそんな授業は受けた記憶がない。

 大学教員の専門の幅は非常に狭いので,「すべての地域の地誌」がカバーできる人など存在しないだろう。

 
 「履修漏れ」発覚の経緯の方を知りたい。

 「この地理の先生,南アメリカのこと,何も知らないみたい」という生徒から訴えが原因か?

 大学ごとの学生の学力を最もよく知りうるのは,採用試験を実施している都道府県教委である。

 「この大学の学生は,地理の点数がいつも低い」というのが,履修漏れがばれた原因か?


 大学に対して,文科省から一斉に調査がまわっていくだろう。

 同じような理由の「未履修」など,そこらじゅうでいくらでも見つかるはずである。

 実際の教師に聞き取り調査してみるという方法もある。

 
 最終的には,「大学での教職課程の学習にはほとんど意味がない」という結論に落ち着くことが考えられる。

 大学のHPには,「瑕疵の程度は軽度」とある。

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1+1+1+1+1=100

 東京メトロ丸ノ内線を長年利用していると,年に1回くらい,後楽園駅で驚くほどの人数の女性が下車するところを目撃してきた。

 年齢層が非常に幅広い場合は,SMAPのコンサートが開かれていることが多かった。

 目を輝かせて地下鉄をあとにする中高年の姿が忘れられない。

 ファンの方にとっては,「解散」の寂しさは,言葉では表現できないほどだろう。

 「忘れたくない」存在のSMAPだろうが,

 過去の様々な姿の中で,多くのファンが最も記憶から「消し去りたい」と思っているのは,

 生放送での「謝罪」場面ではなかろうか。

 私は教師だから,子どもの「謝罪」をたくさん見てきたが,

 実際に「謝罪」の気持ちを持っているどうかくらい,おそらくは教師でなくてもすぐにわかる。

 いい歳をした大人が,「ごめんなさい」をした後で「やっぱりダメでした」というオチをつけてしまったのだから,カッコ悪すぎる。

 「謝罪」の気持ちがなくても,「謝罪」の言葉を口にすれば,

 「謝罪」が成立したことになるのは,日本が「言霊」の国だからかもしれない。

 個性が異なる5人が1つの集団として機能するSMAPは,「日本型の和」の象徴だったのではないか。

 SMAPを数式で表わすと,1+1+1+1+1=100 になる。

 取り替えや組み替えがきくアイドルグループも日本らしい気がするが,

 お互いにライバルというわけでもなく,それほど仲が良さそうでもない5人が,独特の空気感をもって接している姿を見ることはなくなるのは寂しい気がする。

 「解散」というより「離陸失敗による空中分解」という形容ができるような終わり方だったことが,

 ファンにとっては何よりも後味が悪いものだろう。


 ファンではない私が複雑な気分でいるのは,

 SMAPを「利用」していたのはだれだろう,という問いの答えが見つからないからである。

 
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データの信頼性がない国に堕ちていた

 業者の告発によって,経済産業省が改竄されたデータを公表していたことが明らかになった。

 御用納めも取り消しになるのだろうか。

 統計に限らず,官公庁が持っているデータが公開される流れになっている。

 当然,利用者は,データが正しいことが前提で自分の仕事に役立てるのだが,

 中央官庁で統計の改竄が行われているということは,

 利用者の仕事の確実性まで疑われる事態になったわけである。

 どこかの国をバカにしている場合ではなくなったようだ。
 

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子どもの学力は「おしゃべり」では向上せず,「対話」でこそ向上する

 授業で子どもが話し合い活動に熱中している場面を想定してみよう。

 教師が聞き逃せない言葉の一つは,内容に関するキーワードがどのように使われているかであるが,

 話し合いそのものがうまく進んでいるかどうかを確かめる手がかりはどこにあるのか。

 それは,「接続詞」の使い方である。

 小学校では,発表・発言のルールといった文脈で,こういう言葉から始める,という事例が黒板のヨコに大きな字で掲示しているところもあった。

 小学校くらいで丁寧に指導されていると,中学校では話し合いがスムーズになる。


 接続詞は,論理系,整理系,理解系,展開系に分けられる(『「接続詞」の技術』石黒圭著,実務教育出版)。

 論理系は順接と逆説,
 
 整理系は並列と対比と列挙,

 理解系は換言,例示,補足,

 展開系は転換と結論。

 「だから」「でも」しか会話に出てこないグループは,話し合いが上手に進んでいないことを示唆しているから,こういう活動を何時間していても,学力は向上しない。

 このようなケースが多いから,学校の授業は,教師が「進行役」となり,「話し合い」にはあまり時間をかけないことが得策となる。

 ただし,その方が学力を向上させることができると言い切るためには,

 教師の方が適切な接続詞を使い,導入→展開→まとめという一般的な授業全体の流れがしっかりできていることが条件となる。

 もちろん,話し合いを中心に転換する授業を構想するのはかまわない。

 AとBどちらに賛成か?という課題が与えられたとする。
 
 冒頭は,順接の接続詞を多用させて,AとBそれぞれの特色を理解させる。

 A(B)は,そのおかけで~となる。A(B)にすれば,~になる。ただ,~ということもある。

 「論理」で頭を使うことで,「理解」しているかどうかがわかる言葉が話せるようになる。

 Aが~のは,つまり,・・・。むしろBは・・・。たとえば・・・。実際に・・・。なぜなら・・・。

 「理解」できたところで,「整理」してみる。

 Aは~であるのに対し,Bは~である。AもBも,~である。Aについては第一に~が課題,Bは・・・。

 最後に,というわけでAはBより・・・。いずれにしても,・・・・。

 さらに「そもそも」という回帰的な転換が見られるとおもしろい。


 こうした「話し合い」活動ができれば,すぐに「レポート」にまとめることができるようになる。

 わかりやすい「レポート」が作れるようになるためには,教師が「レポート」にまとめられるような指導の過程を普段から示してくれている必要があるだろう。
 
 教師が子どもとの会話の中で,まずは多様な接続詞を駆使して子どもの発想を広げ,理解を深めることを意図した指導を繰り返し,子どもにも似たような口癖ができることをねらっていく。


 それから?

 たとえば?

 具体的には?

 第一に,・・・第二に,・・・,

 だとすると・・・どうなる?

 そのくせ,~は・・・・?

 だからといって,・・・

 要するに・・・?

 ちなみに・・・

 ところで・・・

 どちらにしても,・・・・

 
 一度,授業のどのタイミングでどのような接続詞をどれくらい使っているか,ビデオで検証してみてもよいだろう。


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学校生活調査の「教師用」が配布された

 一部の教師が「事務作業が多い」と文句を言っているらしいが,

 「忙しい」から「ミスをしても仕方がない」というわけにはいかない。

 昨日,学校から「学校生活調査の結果」が配布されたが,封筒を開けてみたら,

 「教師用」の方が入っていた。

 私の子どもは「要支援対象」なのだそうだ。

 「授業がつまらない」という感想をもらしているらしい。

 この理由は親ならよくわかるが,ここではふれないでおく。

 私のような「教師」を職としている人間にとっては,「こっちの方がありがたい」と思う資料だが,

 これを見てショックを受ける保護者は多いだろう。

 取り返しのつかないケースにつながる場合も考えられる。

 小学校に問い合わせをしてみたら,「休日でいません」とのこと。

 中学校ならこの連休でだれもいないということはあり得ないが,

 ここが小学校らしいところである。

 ニュースになるほどの「価値」がある話ではないかもしれないが,

 月曜日から教育委員会も含めて大忙しとなろう。

 回収はどうやって行うのか。

 私が管理職なら,担任に一軒一軒まわって謝罪しながら回収するように指示する。

 「この程度」の不祥事はいくらでも起きるのが公立小学校というところだとあきらめるしかないのだろうか。


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「一丁目一番地」以外が見えてないと失敗する

 最も大切で譲れない部分を「一丁目一番地」と表現することがあります。

 最優先課題ははっきりしているものの,「一丁目二番地」「二丁目三番地」が見えていない場合,

 「なぜそれが最も重要な課題なのか」が説明できません。

 構想には「白地図」が必要です。

 「白地図」には,番地が示されていないといけません。

 「このへん」では説明にならないからです。

 場所が示されていない別々の2つのものは,

 人にとっては「全く同じもの」に見えてしまします。

 金融教育と海洋教育,どちらが重要なのか。

 どちらも別の意味で重要です。

 教育政策ではどのような白地図を利用するかについてのコンセンサスが欠かせません。

 これがないから,人によって全く異なった目標のもとで,しかも独善的な指導と評価が実施されてしまっています。

 指導と評価にどのような問題があるか,現場にいれば1年生の教員だって気がつく話です。

 批判されてもいいから・・・というより,批判されるためにも,

 新しい学習指導要領をつくるためには,白地図をまずは示してもらいたいと思います。

 中教審の答申は,ただの「希望の列挙」にすぎません。

 「見方・考え方」の白地図から,まずは検討したいと考えています。

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カンニングの習慣がつく『学び合い』

 日常的に,友達から答えを教えてもらって理解する習慣がついた子どもは,試験のときに落ち着かなくなります。

 私の学校でも,カンニングと疑われても仕方がない目の動きをする中学校1年生が,最初の定期考査で何人か「摘発」されます。

 さすがに次の定期考査ではそういう生徒は減っていきますが,どうしても「直せない」子どもがいる。

 まわりが気になって気になって仕方がない。

 もしかしたら,勉強とはいつもだれかと一緒にしゃべりながら行うこと,という習慣が染み付いてしまっているのかもしれません。

 小学校(の担任)によっては,カンニングが公認されてしまっていたところもあるらしい。

 無理もないですね。

 大学入試で「携帯電話を持ち込み可にしたらどうだろう」と提案しているセンセイの影響を受けてしまったのがいるようですから。

 さすがに会話は禁止にするとしても,問題を写真で撮影して,頭の良い人に解いてもらい,解答を送信してもらえれば,よい点が狙えてしまいます。

 要は,正解が出せる人とどれだけの人脈をもっているかが評価の分かれ道になる,ということですね。

 学校は寄生虫として生きる道を教える場所ではありません。

 『学び合い』はテストで点数が高くなることが売りのようですが,その理由がよくわかりました。

 「政治闘争」があったり,多くの人から相手にされない理由も。

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テストの点数を高めるための「価値ある情報」とは?

 「テストで点数がとれる勉強の方法を教えてほしい」と言われた場合,

 学校として組織的な取り組みをしていると,

 「担任によって指導が異なる」という批判を避けることができる。

 私の学校では,テストの後に「誤答分析」をさせている。

 テストの点数が比較的高い子どもの「誤答分析」で書かれている言葉は,

 得点力を向上させるための情報の宝庫である。

 「記憶があいまいだった」

 「覚えていなかった」

 というレベルの言葉では,

 「もっとしっかり覚えよう」という自覚しかでてこない。

 「授業の話に夢中になって,ノートにメモをするのを忘れた」

 という言葉も,
 
 「ノートをしっかりとろう」というアドバイスでは役に立たない。

 たとえば,問題には,「ひっかけ」というジャンルに分類できるものがある。

 西郷隆盛が出ているから,この絵は「薩長同盟に関係がある」といった反応は,

 授業でするのはかまわないが,「よく見れば,向かい合っているのは勝海舟だ」

 ということがわかれば,江戸無血開城という出来事に結びついている。

 「~にひっかかった」という反省ができるレベルの子どもの言葉にふれていくことで,

 「ひっかかりもしない」レベルの子どもの意識が変わっていく。

 同じように×をもらった問題でも,

 自分と他の人では質が異なっているかもしれない・・・・

 つまり,テストは本当は1題4点で0点か4点かという結果の違いになるが,

 実際には2点か3点分の知識がある人はいる。

 まずは2点分の知識がなければ,4点にはたどりつけない・・・

 こういう考え方が少しずつ勉強の方法を変えていくことを期待したい。

 資料1と資料2からわかることを説明せよ,

 という指示なのに,資料1から読みとったことしか書かない(書けない)場合,

 資料2のここが結びつかなかった,ということに気づけることが,

 正解に近づく第一歩である。

 学校側としては,各教科で,「誤答分析」の「分析」を研究してもらえると,

 「指導法」改善に結びつく情報がたくさん得られるだろう。

 テスト結果を見ながら学び合っている生徒たちの様子が見られる研究授業をしてみたい。


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勉強しているのにテストで点数がとれない子どもの学力を親が高めてあげる方法

 中学校で保護者との面談をしていると,

 「子どもが学校のことを全く話してくれない」という愚痴をよく耳にする。

 20年以上前から同じような相談が多い。

 これからは,子どもに対して,

 「どのような質問をされていますか?」

 とお聞きしてみようと思う。


 すべての生徒にあてはまるわけではないが,テストで点数がとれない中学生の中には,

 「学校であったことは本当によく話してくれる」というタイプがいる。

 「話好き」がすべて「点数がとれない」というわけではない。

 「話好き」の中には,「相手の質問に答えようとせず,自分が言いたいと思ったことだけを言う」タイプがいる。

 
 もし,「話好き」の子どもだったら,

 「この子は人の話を聞けるタイプだろうか」

 「コミュニケーションがとれるタイプだろうか」

 と自問し,確かめてみてほしい。

 三者面談をすると,親子ともどもコミュニケーション能力に課題があるというケースもある。

 
 
 面談では,「勉強はしているようなのに,テストで点数がとれない。どうしたらよいか」

 という質問も少なくない。

 親は,「勉強のやり方が悪い」という納得の仕方をする。

 だから「どうしたらよいか」という質問は,

 「テストで点数がとれる勉強の方法を教えてほしい」という意味にとらえて答えなければならない。

 
 「人の話を聞かない話好き」のタイプは,

 「書いてはあるが的外れ」の誤答が多い。

 「問題文をよく理解してから解くように」というのが一般的なアドバイスである。

 
 「理解しているかどうかが全くわからない」のは,無解答が多い生徒。

 学力調査を行うと,日本ではこういうタイプが国際的に見て多いはずである。

 「適当なことは書かない」という信条を学校が育ててしまっているからだろうか。

 中には,質問の意味はわかるが,答えがわからない生徒もいるが,

 質問の意味もわからない,という生徒もいる。

 家で学校のことを話さない。テストでも答えを書かない。

 こういう子どもが心配になるのも無理はない。 

 
 冒頭の話に戻る。

 親は,家庭の会話で,「単語で答えられるタイプの質問」をできるだけ減らすべきである。

 「いつ」「だれ」「何点」などと答えれば会話が成立してしまうような質問を避ける。

 また,「漠然とした問い」をなくすべきである。

 「今日はどうだった?」

 子どもからすると,何を話せばよいのかわからない。

 もちろん,親子の「長い歴史」から,「授業の理解度」「いじめの有無」などが問われていることがわかる子どももいるだろうが,

 他人が親の質問を聞いても,その質問の意図することが理解できるような質問をすること・・・・

 日本人の高度なコミュケーション能力が,実は

 記述式の問題を解くときの弱点(書かなくてもわかるはずという思い込み)に直結していることに気づいてくれると,

 「これは省いてもいいはず」と見なしてしまう部分を書けるようになる。

 つまり,文章にしたときに,第三者が聞いていてもわかりやすように話すという練習を親子の会話ですることで,書くことが不得意という子どもの弱点が少しずつ克服できるだろう,というのが私の予想である。


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「学級崩壊が見られない」学校が迎える可能性のある「本格的な学級崩壊」

 「学級崩壊」とはどのような状態なのか?

 「家庭崩壊」とどのような共通点と相違点があるのか?

 子どもたちの心がどんどん蝕まれていく「家庭崩壊」と異なり,

 「学級崩壊」状態の子どもはとても生き生きしている場合がある。

 恐ろしいのは,教師自身が「崩壊」していることに気づけない場合もある。

 教室に自分以外の大人がほとんど入らない,小学校という特殊な教育現場で起こりやすい「学級崩壊」は,「家庭崩壊」と同じようなニュアンスで捉えられている可能性がある。

 子どもは「子ども」らしく育っているが,大人の方が「親」や「教師」らしくない。

 親の方が家庭が崩壊していることに気づけないことが本当にあるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるだろうが,現場の教師をしていると,「気づかないふりをしているだけでいてほしい」と願うケースに接することが多かった。

 問題行動を起こす子どもの親の中には,

 「自分もそうやって育てられて,何の不満もなく,悪いこともしなかったのに」と疑問に思う人が少なくない。

 「ちゃんとお金はあげていたのに」

 ・・・・学級や家庭はどうあるべきなのか?

 教師や親の役割とは何か?

 そこから教育の問題をとらえなおさないといけない時代である。

 あるブログで,「学級崩壊が見られない学校」の紹介がされていたが,内容を読ませていただくと,

 これからちゃんと崩壊が起こる準備を着々と進めている学校のように思えた。

 むしろ,実際には崩壊しているのかもしれない。

 授業中に,生徒が一言も私語をしない?

 生徒は「生きて」いるのだろうか?

 親が教師の前で問題を起こした子どもを殴る?

 虐待・暴力の現場を目撃した教師が果たすべき義務とは?

 法治国家以前の「教育」レベルの地域では,「学級崩壊」や「家庭崩壊」以前に,

 「人間」が崩壊していく。

 「学級崩壊」があった方が,子どもが本当の「生きる力」を身につけられる可能性があるとさえ感じてしまった。

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「入試制度改革」は「教育改革」とセットでなければ成立しない

 教育という仕事の難しさは,「目標」があいまいなところにある。

 「目標」があいまいだと,「指導」があやふやなものになる。

 「指導」があやふやだと,「評価」は間違いなくいい加減なものになる。

 「目標」を具体的・固定的なものにすると,「指導」があぶなくなる。

 「指導」があぶなくなると,「評価」は何かを破壊し始める。

 現状は,「目標」など関係なく,画一的で硬直的な「指導」があり,

 「評価」は機械でもできる仕組みになっている。


 これまでの教育現場では,「受験問題」という「最終ゴール」に向けて,教師でない人間でもサポートすることができたので,たとえば子どもに向かって教えた経験が一度もない人にも,「受験問題」やそれと似たような問題をつくることができた。

 今,やっと「記述の問題を導入する」などという「超低レベル」の「受験問題改革」をしようとしているくらいだから,こうした「体制」は全く変わることなく,これからもしばらくは続いていくだろう。


 本当の改革とは,上級校の「目標」設定を自由として,その目標への達成度や達成への資質能力が高まった子どもを独自に選抜できる仕組みをつくることにある。

 上級校が,上級校入学への準備を志望者がばらばらに存在する各下級校在学中から行えるような仕組みをつくることである。


 今は,下級校の評価を土台として,上級校が選抜する仕組みになっているが,これを「逆」にするのが,本当の「教育改革」である。

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「化石」となった大学ではできないこととは?・・・ミネルバ大学の「大学らしさ」

 キャンパスはない。

 豪華な研究施設もない。
 
 スポーツチームは持たない。

 ミネルバ大学が学費を安くできる理由として挙げられていることである。

 私が注目したこの大学の「すごさ」は,

 オンラインでの授業中に,最先端のテクノロジーを生かしたシステムが学生一人一人の音声を認識して,教員のパソコン画面上で発言頻度に応じて学生を色分けされるなど仕組みがあること。

 発言不足の学生を狙い撃ちして,教師が授業の理解度を測定していく。

 実は日本の教師は,教室で全く同じことができている。

 それでも,「評価」を「記録」に残すことが難しい。

 私は以前,ある企業にほぼ同じシステムの構築はできるか?と質問したことがあるが,当時は「無理だ」と言われた。それは,やはり日本語自体の難しさに原因があるらしい。

 オンライン授業では,教師が指定したグループで議論を行うこともある。

 授業を受ける学生の側が勝手に作る「仲間」では,教師が意図したい「議論のさせ方」が実現できないので,教師がグループづくりの主導権・決定権を握るのはとても重要なことである。

 同じレベルの学生のグループや,意見が異なる学生同士で議論できるグループなどを任意につくることができる。

 単位の大半を大教室の講義で終始する授業でとるような「化石」大学では,未来のリーダーは育たない,という主張には説得力がある。

 (週刊東洋経済12月24日号の特集より)

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指導力不足教員が教職大学院で「生まれ変わる」ことは可能か?

 「優秀な教師」と呼ばれるようになる資質能力を向上させることが,大学や大学院に可能だろうか?

 もしこういう質問を,「優秀な教師」と考えられている人たち,たとえば人事考課でAをとっている人たちにしたら,どのような答えが返ってくるだろう。

 優秀な教師が,大学院で学び直して,さらにその資質能力を伸ばすことは可能かもしれない。

 「雑用」をやらされて,「こきつかわれる」立場をもう一度経験することで,

 理解と愛情のある「こきつかい方」ができるようになるという「教育効果」も大きいだろう。

 ただ,進む大学によっては,「学ぶこと」よりも「教えてあげること」の方が多くなってしまうかもしれない。

 そもそも「教え方」の勉強をしてこなかった大学のセンセイたちから,社会環境が異なる海外のガクシャの理論を紹介されたところで,日本の学習指導要領の枠内では実現不可能なことだったら意味がなく,むしろ「ジムカタ」に転職した方が「教育のコウジョウ」に貢献できるかもしれないわけである。

 もし,教師としての資質能力に明らかに欠ける学生や教師が,大学や大学院で学ぶことで,将来「優秀な教師」とよばれるようになる力は身につくのだろうか。

 ある大学のセンセイにこれに近い質問をしたところの答えは,

 「学生が多すぎてわからない」というものだった。

 そもそも学生自体の能力を大学のセンセイは把握できていないわけである。

 現場の教師をつとめたことがないかつとめてもすぐに辞めてしまったような大学のセンセイには,そもそも「教師としての適性があるかないか」が判断できないわけである。

 こういう大学のセンセイたちが「学習のヒョウカ」のことを教えるのだから,資質能力が高まるどころの話ではない。

 「教職大学院」がもてあまし気味になりはじめていることが,一部の学校に出された調査からうかがえる。

 始める前からわかっていることに気づけないで始めてしまうということ自体が問題なのである。

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教科指導に「埋もれる」ことなかれ

 教師にとって,最後の逃げ場になるのが「教科指導」です。

 教科指導の場面では,子どもは絶対的に教師の言いなりにならざるを得ません。

 教師の権限は絶対です。基本的に,自分の「監督者」はそこにいません。

 授業が成立しないほどおしゃべりがやまず,やかましいままの状態が続いている場合でも,

 「教室空間に閉じ込めることに成功している」という点で評価されてしまうのが教科指導です。

 生活指導や部活動は,そもそも困難であることが前提だったりしますから,

 そう簡単には達成感なり充実感がもてません。

 教科指導の場合は,自己満足というかたちであれ,一応,自分がやった気になる,という点で,

 「かろうじて持つ」ことが可能な場になります。

 だからといって,「教科」の枠に閉じこもり,校内分掌や学級,学年経営に貢献しないというのは考えものです。

 学校では,教師に「教科指導」という最後の逃げ場があるために,「組織の一員」とは呼べない人が出てきてしまう職場です。

 もし,「教科指導」の場に監督者が常に数名いて,教師の資質能力が最も問われる場に変わったら,教育現場はどうなっていくでしょう。

 離職率が格段に高まってしまうかもしれません。

 1時間ごとに,徹底的なダメ出しをされる。教育実習ですら言われたことがない問題を指摘される。

 「逃げ場」が完全になくなっていく。

 しかし,教育という場に限らず,「逃げ道」を探すことにかけてはものすごい情熱を傾けられる人たちがいる。

 自分が生徒に「教えること」を放棄して,生徒が生徒に「教える」スタイルを教科指導でとるという「逃げ道」などは,人によってはとても魅力的に見えるでしょう。

 
 「無責任体質」が世の中をおおい始めている前兆ととらえることができます。

 「すべての人類を救う」ことをねらいに掲げたら,一人一人の人間が使えるものがどれだけ減っていくことでしょう。

 イデオロギーの亡霊をどうしたら退治できるのか。

 自分自身に向き合わない人との会話を成立させるにはどうしたらよいのか。

 検討中の大課題です。


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教師の「調整能力」「根回し力」を高めるには

 「根回し」という言葉の意味は知っていても,その語源まで詳しく説明できる人はいないでしょう。

 もし「根回し」の語源を知っていたら,もっと「根回し」が上手になるかもしれません。

 子どもと向き合う時間が多い「学校」という職場では,ときとして教員間の意思疎通が十分にとれていないためにトラブルが起こることがあります。

 もちろん教員個々人にトラブルを避ける責任があるのですが,少し高いところというか引いて見ている人でないと,トラブルの原因が予想できない場合があります。

 ですので,教務主任や生活指導主任,学年主任といった立場の教師が,関係する教員の「共通理解」を確認しながら仕事を進める工夫をしたいのですが,この主任同士でも意見の対立などが起きたりします。

 そこで教頭,副校長の存在意義が見えてくるわけです。

 ただ,パソコンの画面や書類の方ばかり見ている管理職では,話になりません。

 では一体だれが,学校の中で「調整役」になれるのか。

 私が一番期待したいのは,初任者か2年目くらいの若い先生たちです。

 初任者くらい何もわかっていない人間の方が,気づきやすい問題がたくさんあります。

 だれとだれが仲が悪い。

 だれはだれを軽蔑している。

 だれはだれの悪口を言っている。

 (実は子どもの方がよくわかっている例もあるのですが,)若い先生は,こういう大人の「ドロドロ」した部分に敏感に反応できます。

 若い先生の大特権は,八方美人でいられることです。

 「教えてほしい」という気持ちを前面に出して,ありとあらゆる人に接することで,

 いろいろな人の本音が見えてきます。

 ときと場合によっては,力のある教師同士をうまくつなぎ合わせる力も発揮できる。

 これが若い先生の武器です。

 異動したての先生が同じような手段をとることもできるのですが,

 若い人と違って,「あの人はあっちと仲が良さそうだな」とひがまれる恐れがあり,より慎重な行動が求められるので難しいところがあります。

 若いときに「調整」の経験をすると,自分がやはり若い先生に「調整」される立場になったときに,若い先生の「調整力」をより強く発揮できるよう,協力してあげられるようになる。

 「火中の栗を拾う」みたいなことになる場合もありますが,

 大火事も一度くらいは経験してみてもいいでしょう。

 子どもに害が及ばないことが前提ですが・・・。


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教師が「ならずもの」になるのはまずい

 「子どもたちが手に負えない」といって嘆く「手に負えない教師」をそのままにしてはおけない。

 子どもは「ならずもの」ではないし,教師も「ならずもの」であってはならない。

 どう「成る」=「成長する」か。

 子どもなら子どもなりの,教師なら教師なりの「成り方」がある。

 もし,授業をしていた教科担任の教師が,自分が担任する学級の子どもの問題点を指摘したとしよう。

 (私の学校では,このような問題点を指摘し合う会議が,毎年数回ある)

 「自分に指導力がないから,そうなってしまうこと」には,本人に気づいてもらうしかない。

 それはさておき,「どうしたら不適切な状況が改善できるのか」を

 「学び合う」場があるかどうかはとても重要である。

 陰で愚痴を言ってみたところで,どうにもならない(怒りは多少鎮まるかもしれないが)。

 子どもたち同士の間でも,似たような問題は起こる。

 そのとき,どのようにして問題は解決され,子どもたちは成長していくのか?

 そのプロセスがわからないで教師をしている人間は一人もいないはずである。

 「本人が悪い」では何も変わらない。

 では,もし「あなたが悪い」と言ってきたらどうするのか?

 「誰が悪い」と言ってみても,何も始まらないことはすべての人間が知っているが,本当の意味で自覚できている人は少ない。

 「担任に言ってみたところで,何も変わらないだろう」と思われていたら,告げ口もされない。

 授業など教室内で起きた問題の処理は,すべて担任の教師が行うべき,とは言えないが,

 どのような問題が起こっているのかを「知っていること」は大切だろう。

 
 そのような問題が,子どもの方から「反省」として上がってくる場合もある。

 教師は,「問題が起こっているのは知っていたが,子ども自身がそれを取り上げて話し合ってくれて,よかったと思う」という話を子どもにしたい存在である。

 子どもが「主体的に学ぶ」機会は,それほど多くはないが,「反省」「ふり返り」という行動は,動機は別のところにあるかもしれない(先生に褒められたいなど)にせよ,「主体的」な行動である。

 そうした「主体的な行動」を,教師自身もとらなければならない。

 それができない教師は「成らず者」である。

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「学んだ気がする」だけの学習や「教えた気になっている」だけの教育をなくそう

 教育は,子どもに「学んだ気にさせる」程度ではダメなんですよね。

 実際に「学ばせる」ことが難しいために,安易に「学んだ気にさせる」教育が横行しています。

 たとえば,ドリル形式のワークをやらせて,同じようなテストをして点をとらせて,

 「学んだ気にさせる」こと。

 みんなで話し合い活動を長時間行って,わかったかどうかを確かめる時間がほとんどない授業。

 こういう方法しかやってこなかったから,学力調査のB問題が解けない子どもが増えてしまった。

 「学んだ成果」がやっとまともに問われる時代になってきたので,

 子どもにも,「学んだ気になっただけ」ではないですか?と教師の側から子どもに問えるようになりました。

 教師は,「しっかり学んだ」ことの証拠を集める必要があります。

 当たり前ですが,これが「評価の材料」です。


 「学んだ気にさせて満足する」教師よりもタチが悪いのが,「教えた気になっている」教師が陥る指導法です。

 よく,「黒板とチョークとおしゃべりだけの指導」が問題だ,という人がいますが,

 それは,「教える能力が低い」教師に限った話です。

 池上彰さんほど上手ではなくても,教師には「話して,見させて,わからせる」という最低限の能力が求められていますが,それが十分ではない人がいる。

 そういう人がICTに手を出してくれることは,逆に子どものためになる,という考え方もできますが,決してよい成果が出せるようになるとは限りません。

 指導力のない人がICTを扱うと,もっとひどいことになるケースがあるのです。

 電子黒板をこういう人が使って行う授業と,

 普通の黒板を指導力のある人が行う授業を比較できる映像でもあるとよくわかるのでしょうが。

 もし,ICT機器を使うから「教えた気になれる」教師がいたとしたら,管理職は授業観察を増やした方がよいと思います。

 あまりに悲惨な例を知っているのですが,さすがにここでは書くことができず,残念です。

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予測できたはずの「市場の失敗」~焼き畑ビジネスの問題

 グレーゾーンの事業によって荒稼ぎをし,批判されれば引っ込める・・・これを焼き畑ビジネスというらしい。

 ステマなど,情報に関するネット企業の問題が,頻発している。

 「情報やニュースの価値にタダ乗りしている」と批判されているのが,キュレーション(まとめ)サイトの問題である。

 キュレーションビジネスの急成長の背景には,ネットを通して仕事を受発注する仕組みであるクラウドソージングがあった。

 以前から,クラウドソージングには,「情報汚染」の問題が指摘されていた。

 不確実な情報や著作権違反のコピーコンテンツがあふれる現状に対して,対策は十分に取られていなかった。

 情報を作る単価は安い。

 事業者はもうかるが,情報を提供する側は,利益を出すために情報モラルを失っていく。

 真面目な事業者が市場から淘汰される仕組みを取り締まっていかないと,本当の意味での「利益」が得られない社会になってしまう。

 「自由競争」「市場原理」の中で守られるべき最低限のルールを「やらかしてから守る」では遅い。

 経済産業省は,「ITを活用した新しい人材調達の仕組み」としてクラウドソーシングを支援していたらしいが,「起こりうる問題」と「その対処法」の事前予測は十分だったのか。

 今後も「焼き畑ビジネス」の横行を許し,「市場の失敗」は「市場の責任」という態度をとり続けるのだろうか。

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資本主義の神様が抱く危機感

 商品を提供する側が,顧客を選べるということに,どのような意味があるのだろう。

 たとえば私立学校が,入学試験で優秀な子どもを選抜し,「顧客」になることを認めることは,「いい大学」に進学できるよりよい「顧客」を増やし,さらに利潤を増やすことにつながるという点でのメリットが大きい。

 ファッションデザイナーが,「人気のない政治家の家族や芸能人」に服を提供することは,自分のイメージダウンにつながるので拒否するという話も,ブランドの価値を保つという点で重要な意味をもつ。

 このような話は,「一般庶民」というか,昔で言うなら「下々の者」にとっては,いい気持ちのするものではない。

 バブルのときに,ブランド品を買いあさりに来るアジア人に対して,露骨に人種差別的な攻撃があったかどうかはわからないが,「あなたたちにはこの学校,この商品はふさわしくない」と言える存在があることに,納得ができない人が増えていくと,世の中はどう変わっていくのだろう。

 「資本主義の神様」がいるとしたら,格差が拡大して,「上位層を嫌う」人たちが増えていくことに,どのような危機感を抱いているだろうか。

 実際には,「上位層」がどう対処すべきかが,あるべき未来の姿に大きくかかわってくるように思う。

 「政府」などという調整機関よりも,「上位層」という「特権階級」への嫌悪や批判が高まっていく社会から失われていくものは何だろう。

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公立学校の期待を一身に受ける「中堅教諭」~教育公務員特例法等の一部を改正する法律とは

 同年代が少ない公立学校の30歳代,40歳代の教師たちには,将来への責任が重くのしかかっている。

 あと10年もたたないうちに,団塊の世代の教師たちがすべて現場からいなくなる。

 急激に教師の平均年齢が下がっていくだろう。

 ぼっーとしていると,自分より上の年齢の教師が現場からいつの間にか,いなくなっている。

 30代,40代の校長が当たり前のように現場にいるようになっていく。

 薄くなっている年齢層の教師たちは,ほとんど全員が管理職にならなければならないほど,年代別の教師の人数の歪みは著しい。

 11月28日に「教育公務員特例法等の一部を改正する法律」が公布された。

 教師たちにとって,非常に重要な法改正である。

 同日,文部科学省初等中等教育局長名での通知文が出されている。

 改正の趣旨を一言で表現すると,教師の資質を向上させるための研修をしっかりやれ,ということである。

 この改正により,10年経験者研修が廃止になり,中堅教諭等資質向上研修が創設される

 もう一つ,大事なことが義務づけられた。

 それは,「資質の向上に関する指標」と「それを踏まえた教員研修計画」を策定することである。 

 見逃してはならないのは,「教員の資質」だけではなく,「校長の資質」の向上に関する指標も策定しなければならないということである。

 現在でいう中堅教諭は,みんな管理職になることが前提になっていると考えてもよい。

 私は,校長になったときのために,教員のコンピテンシーモデルを作成し,すでに自分自身の自己申告でも活用していた。

 校長の評価のための資料ももっている。

 ただ,「資質の向上に関する指標」とは言えない。

 仕事がうまくいったりいかなかったりするのは,自分自身の資質によって左右されるというより,

 だれを相手にしているかでほぼ決まってくる。

 校長だったら教師たち。教師だったら同僚と子どもたち。

 もし,「資質の向上」が望めるとしたら,校長だったら,本当にやる気のない教師が多く,体罰やいじめが頻発しているような学校に赴任する方がよい。

 教師の資質を向上させ,いじめを根絶させることができたら,校長としての資質がすばらしいと評価されることになるからである。

 教師だったら,崩壊学級の担任になった方がよい。理由は校長とほぼ同じである。

 私も学校や生徒に本当に感謝しているが,

 こういう「資質の向上」を経験しないですむのであれば,それにこしたことはなかったとも言える。


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高校地理には人材がいない?

 高校では,どうやら「地理総合」が必修になりそうなのだが,学校現場では,

 「地理総合」を高度な専門性と高い意欲をもって教えられそうな教師が少ないことが危惧されている。

 地理学科を卒業して教師になっている人が少ないことが大問題であると・・・。

 本当にそうなのか?

 私は地理学ではなく日本史が専門だったが,教職の単位をとるために,地理関係の講義もたくさん受けた。

 骨は折れたが英語でアメリカの人文地理を学んだときには,一挙両得の気分になったことを覚えている。

 地震研究所の先生方による講義も受けていたから,自然地理もそれなりに理解できた。

 もちろん歴史関係の単位もたくさんとったが,私の場合,卒論のテーマになるような内容は,高校の教科書などには1行も触れられていないものであり,大学での専攻がそのまま高校や中学校での教育に使えるかというと,そういうわけではない。

 地理学科を卒業すると,それだけで高校の地理が教えられる,という論理は,単純には理解できない。

 歴史学科を卒業しても,それだけで高校の歴史を教えられるとは言えないはずだからである。

 弁護士さんが裁判関係の模擬授業を学校現場でやってみると,授業は教育実習生よりも下手くそだということが起きる。それはなぜか。

 授業は,自分が知っていることを子どもに伝えればすむような話のものではないからである。

 教師に求められる教科の専門性というのは,簡単に言うと,教科書に掲げられているタイトルの内容を,教科書本文は見ずに,いくつかの参考図書から整理して自分なりに説明できるような力があるということである。

 もっと言えば,教師の仕事とは,教科書の内容の解説をすることではなく,教科書の本文には書かれていない「おもしろい内容」を,生徒がいくつかの資料を使って調べたり考えたりしながら,「やはり教科書に書かれている内容は重要なのだな」と気づかせることができるように導いてあげることである。

 何を専門にしてこようが,大事なのは,その人が「おもしろい素材」を探し出し,「考えるきっかけ」をつかむ習慣を身につけているかどうかである。

 だから,地理総合だろうが,歴史総合だろうが,(私は個人的には「地歴総合」という学び方をさせたいものだが)教科書ベースではないもので,どれだけおもしろい授業が構成できるかが大切なのである。

 地理の人たちの心配を聞いていると,その地理の人たちがとても心配になるような話になっている,ということである。
 

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「主体的に人に頼る」態度を育成したい?

 仕事術的には,決して社内・部内で「人に頼る」という方法が一概に悪いとは言えない。

 「頼り上手」は自分の時間を浮かせるのはもちろん,他の人の能力を向上させたり,人間関係をより円滑にできる手段にもなる。

 ただ,それが「いつでもどこでも何歳でも」では困る。

 同年齢の集団で「常に人に頼る」ことができる安心感がある環境も悪いものではないが,

 「助けてくれる人がいないと何もできない」状態が続いてしまうのはよくない。

 「子どもが主体的に・・・・」という言葉を教師たちは好んで使うが,

 「主体的に人任せにする」人間をつくっても平気でいられる人たちがいるのは困りものである。

 自分たち自身がまさに「それ」に当たるわけであるが,

 この底なし沼からは簡単に脱出はできないようである。

 「主体的にサボる」子どもに待ったをかけるのは,だれの仕事なのか?

 「親が悪い」と常に「他人のせい」にしていないと気が済まない教師たちにつける薬はないのか?

 何だかんだ言ってかろうじてもった小学校時代の次には,中学校における悲惨な学校生活が待っている。

 教師の監視のもとではなく,自分たちなりに「小さな目標設定」「自力での実行」「協働での実行」「自力での評価(ふり返り)」「協働的な評価(ふり返り)」というルーティンをこなし,「教師による評価」を適宜もらってより中身のある「目標設定」「実行」「ふり返り」を繰り返しながら成長できる仕組みをつくってもらうことが,学級,学年,学校への切なる願いである。

 
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被災者への『いじめ』をどう食い止めるか?

 被災者への『いじめ』はどうしたら食い止められるのか?

 子どもを担任の教師が守ってくれないばかりか,『いじめ』を助長するような言動を行ってしまうのをどうやったら食い止められるのか?

 ニュースで大きくとりあげられた後にテレビを見ていないので,続報が届いているのかどうかは知らないが,私が気になったのは,市の教育委員会関係者による記者会見での「笑み」である。

 すぐに担任教師への聞き取りが十分に行われていなかったことがわかった。

 『いじめ』の記者会見の場で,教育委員会の人間の顔に「笑み」が出たことに,だれも何も感じなかったのか?

 教育委員会が「すべきことをしていない」ことに,だれも気がつかなかったのか?

 市の教育委員会のレベルに期待してはいけないのだろうが,それでも記者は,教員たちの人事管理を担当する組織が機能していないという,その部分に「こそ」切り込むべきだったのだ。

 部外者の視聴者でも言えるような「予測」しか口にせず,「笑み」さえ浮かべていた教育委員会の人間に,矛先を向けることをしなかった記者には,記者としての資質・能力が欠けていたと言わざるを得ない。

 そこにいた記者たちは,担任の教師を悪者にしておけばそれでよい,という教育委員会の人間と同じ感覚しかなかったのだろうか?

 1億総無責任国家と呼ばれないようにするためにも,8万人を超える避難者を,せめて心の面で守るための強力な指導を教育委員会は行うべきだろう。

 阪神淡路大震災のとき,家族を失ったある中学生が私の勤務していた学校に転校してきたが,教師の心ない言葉で傷つき,また学校を去っていったという出来事があった。

 安全な避難場所など,この国にないのかと思わせてしまったことを悔いている。

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人工知能の時代に人間に求められるもの

 日経に紹介されているマイクロソフト社CEOの言葉に,日本の教育関係者は何を感じとるべきだろうか。

>AIが普及した社会で一番希少になるのは,他者に共感する力を持つ人間だ

 本当にそうだろうか。

 もともと,欧米と日本とでは,人工知能やロボットに対する見方が異なっているように思える。

 それは,人間観の違いと表裏一体なのかもしれない。

 日本でも,将来,他者に共感する力を持つ人間が「希少」な存在になるのだろうか。

 そうとは思えない。

 一方では,「すでにそういう時代だ」と言いたい人もいるだろう。相当に孤独な人生を送っている人ではないか。

 災害のときに見られる助け合い精神も,将来は見られなくなるのだろうか。

 
 ここでは,「マイクロソフト社のAI開発原則」のうち,「AI」ではなく「人間」に求められるもの」とされている以下のことを引用しておきたい。

>共感力

>教育

>創造力

>結果に対する責任

 AIと人間が共生する社会とは,人間がAIに利用される社会ではない。

 AIを人間が利用しつつ,その結果に対する最終的な責任を人間が負う社会である。

 ICT機器を安易に導入している学校や地域にやがて問われるのは,

 「単なる費用対効果」の問題ではない。

 もっと大切なものを失っていないか,やがて大きな問題になるだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より