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批判している人と批判されている人が主張している同じこと

 教育理論らしきものを主張している大学教授と,言葉汚くそれを批判している元教員がこのブログ村に棲んでいる。

 批判はただ一方的になされているだけなのだが,両者が全く同じ主張している部分もあることに,おもしろみを感じる。

 共通点も一つではない。

 動画サイトで自分の話やら演奏やらを公開しているという点も共通している。

 私などは恥ずかしくてそんなことはできない。匿名だからこそ書けることもある。

 両者とも同じことの繰り返しばかりで,内容がほとんどないという共通点もある。

 また,自分のブログに共感的なコメントが入ってくると,やたらとへりくだってやさしい対応をする。

 逆に批判されると無視するか「倍返し」を行う。

 などというものである。


 さて,「同じ主張」というのは,


 「お前の専門は何なんだ

 「自分の実践も紹介できないのに,偉そうなことを言うな

 「自分の実践をブログに載せろ

 というものである。

 

 たかがブログで,自分の専門なり業績なりを書き連ねる必要はないだろう。

 学長だの学会長などといった「立場」は日本ではただの「お飾り」にすぎないことはだれでも知っている。

 なり手がなくて,イヤイヤやらされている人を私も知っている。

 国や県の研究指定なども,成果がすでにあがっている学校なら,自分から手を挙げることはない。

 ほとんどが声をかけられてやらされているだけである。

 どういう校長がそこにいるのか,調べてみればすぐにわかる。


 
 もちろん,本気で改革に乗り出したくて,学長選に手を挙げた人もいるだろうが,最後の壁=お金の出所が破れなくて任期切れになるケースがほとんどだろう。

 研究発表を通して学校が生まれ変わるほどよくなったところもあるだろう。

 ただ,短期間に良くなった学校は,同じように短期間に崩れていくものである。

 本当にその人から学びたいと思っている人たちは,わざわざ「呼ぶ」ようなことはしない。

 「呼ばれたから行く」という時間があるということは,本業をしないですむ時間が多いということである。

 小学校の現職の教員で,出張ばかりしている人を知っているが,その人のクラスがどうなっているかまでここでばらすつもりはない。

 ただ,想像してみてほしい。この人,担任じゃないのか?今,子どもの面倒はだれが見ているのか?
 
 それは,だれのせいなのか?

 「本物」に本当にふれたい人は,自分から進んでその人のもとにいくものである。

 大勢が集まる研究会に出て行っても,直接会話できる人間は数が限られる。

 会話もできないのに出かけていくほど教師は暇ではない。
 


 また,「権威」や「看板」に頼らなければ主張ができず,支持されないようでは,「本物」ではない。

 「本物」が何かを証明するのは,論文の数でも講演の回数でもない。

 自分の「教育」の成果である。

 「教育」の成果は,全国大会で優勝したとか金賞をとったとか,そういうことではない。

 だれからも「良い先生」「よい生徒」と思ってもらえるような人間を育てられているかどうかである。

 もちろん,そんな「成果」も簡単にはつくれない。

 
 常に評価にさらされることで,「成功」のハードルが下がっていくタイプの人間がいる。

 「こんな授業が,本当に成功したと言えるの?」と突っ込まれて,むかついているようでは,成長の先が見えない教師になってしまう。

 大学の内部事情をもらしてしまうような教員が,鼻つまみ者であることくらい,だれでもわかる。

 自分のせいで同じように校内で浮いてしまうタイプの教員が増えていることに気づいているのだろうか。

 
 内輪の作文で評価されたり,肩書きで信頼される時代などとっくに終わっている。

 それが通用するのは大学という社会との隔たりが大きなガラパゴスの中だけの話である。

 新しい時代を古い時代の方法で変えようとする人は,「銀座で山を買う」ことを目標としているのである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より