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J教育大学附属学校の存在意義のなさ

 J教育大学のセンセイが書いているので間違いはないでしょう。

 J教育大学の教育実習生が附属学校にほとんど世話にならない。

 教職大学院は全く世話にならない。

 それは当然なのだ。なぜなら,「普通の学校」ではないから。

 障がいをもっている子どもはいないから。

 教員養成のための大学には,今のような附属学校は必要ない・・・・という主張。

 有識者による会議でも,そういう指摘はいくらでもあるでしょう。

 私も,附属学校の出身ですが,中学入試で入りました。

 当時,「国立」を選ばされた理由は,学費が安いからでした。

 入学して驚きました。かなりの数の生徒の親は,超高額所得者です。

 医者や弁護士,会社社長の子どもがごろごろいます。

 みんな教師をなめていました。

 こんな附属学校は,必要ない,と私も生徒のときは思いました。

 では,どうすればいいのか。

 抽選だけで,生徒を選べばよいのです。

 もちろん,抽選に応募してくる家庭がみんな裕福だったら,今と変わらないかもしれません。

 もし「一般の学校の縮図」である附属学校でないと存在意義がないと主張するのであれば,

 附属学校を廃止するか,学力による選抜をやめるか,どちらかにすべきでしょう。

 ただ,私は母校である附属学校で教育実習をして,気づきました。

 J教育大学の附属学校には失礼かもしれませんが,

 教育実習というのは,今まで自分たちが育ってきたのと同じ環境で授業をするのもよいのですが,

 優秀な教師と優秀な(これは単に学力が高いというわけではありません)生徒に囲まれて3週間を過ごすことの意義も,決して小さなものではありません。

 生活指導とか,道徳教育とか,部活動などは,やろうと思えば教育実習以外にいくらでもできます。

 生活指導だけのために人を雇う制度がある地域も存在します。

 一般の学校だと,こちらにウエートがかかった実習になりやすく,現場の仕事に近いといえば近い経験ができるのですが,そんなものは,現場に入ってからいくらでもできるのです。しかも,学校ごとに事情は全く異なるので,異動するたびに「学び」ます。

 しかし,授業に正面から向き合う経験は,教育実習期間しかありません。

 自分で悩み,考え,苦しむ経験として,これ以上に最適な期間はない。

 現場に入ってしまうと,初任者研修がある期間でさえ,授業に正面から向き合っている暇がなくなります。

 授業力がなく,ほぼ「やっとけ」系の「活動あって学びなし」授業しかできない教師が増えてしまうのは,教育実習で教材研究力,授業実践力が養われないことにも原因があります。

 中等教育の場合,私の経験の範囲内ですが,教員養成系の大学の卒業生より,一般の大学の卒業生の方が優秀に見えてしまうのはなぜでしょうか。

 よく,「教員養成系大学のセンセイはいったい何を教えているんだ。指導案は書けない。知識はない。やる気もない。こういう実習生は本当に困る」という声を聞きます。

 それは,教師になる資質や能力に欠けているのに,教員養成系大学に入学してしまったことが最大の原因でしょう。教員養成系大学のセンセイは気の毒です。こういう人も,教育実習に行かせたり,採用試験に合格させなければならない。

 しかし,「教育実習で大化けする」人間を私の場合はたくさん見てきました。自分自身もそうだと思っています。

 附属学校は,授業力の育成に最大の効果を発揮するはずの場なのですが,もしそういう機会が得られないのであれば,教育実習で附属学校に行く必要はないでしょう。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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