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« 中学校で「一人も見捨てない」ことを生徒に強要すると,どうなるか? | トップページ | 「飛び込み授業」に潜んでいた罠 »

「飛び込み授業」は金槌が海に飛び込むほど危険

 数学と生活指導の共通点を学ばせてくれる本に出会った。

 数学が苦手な子どもと,生活指導が苦手な教師は,同じ落とし穴にはまっている,といった話などが綴られている。その本の著者が生きている国の文化にありがちの,やたらと自信過剰な書きっぷりには辟易とさせられるものの,科学的根拠が背景にあるとなっては,読み捨てて終わるわけにはいかない。

 詳しくはいずれ読書編で紹介したいと思うが,関連のあることとして,

 教育現場で「めったにやってはならないこと」の一つに「飛び込み授業」があることを指摘しておきたい。

 以前,科研費で動いている大学教員がよこした大学院生のひどい指導案にふれたことがあっただろうか。

 年間計画のどこに位置付いての実践なのかという発想は,一切ない。

 その単元を開発し(てしまっ)たから,どこか都合のよい時間にお願いします,といったところである。

 ダメ出しを何時間も繰り返し,ようやくたどり着いたときには,何の変哲もない授業になっていた。

 授業の場を提供したこちら側としては,ほとんど何の意味もなく終わったが,生徒たちが書いた大量の文章が,科研費でまとめられた報告書に載ることになった。せっかくよい資料が提供できたのに,いっさい分析がなされていなかった。本当に税金の無駄遣いである。

 教職大学院など,「教育実習のやり直し」をしているところでは,こういう「飛び込み授業」の必要性があるのだろうが,本来,学校が求めているものではない。

 ゼミ内のお遊びですませてくれれば,学校現場に実害がなく助かる。

 

 「飛び込み授業」でがらっと子どもの学ぶ姿勢が変わる,ということはある。

 私が小学校の先生とTTで行った授業は,おおいに盛り上がっていたが,あとで思えばただの打ち上げ花火であった。

 むしろ,顔合わせというか準備のために行った研究授業の1日前の授業の方が,よほど「研究向き」であった。

 子どもたちはよく頭を働かせて,積極的に活動し,知識や技能を身につけていった。「こっちの方が研究授業だったらよかった」とTTの先生や担任の先生も声をそろえて言っていたが,私から言わせてもらえば,「指導案がないからこそ,生きたすばらしい学習ができた」というだけの話である。

 入った学級は,とても学習意欲が高く,みんな人なつっこく,何よりも一人一人の能力が高かった。8割くらいが受験をするという。ただ,こんな学級は滅多にない。

 一般的な学級の「飛び込み授業」にどんな問題があるのか。

 今回の記事は,まずは問題提起というところで。

 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より