ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« AIを利用した「脅し」と「希望」 | トップページ | 人間の「共感能力」は,「共感しなければならない場」では育たない »

<― 学び合い ―>,>― 学び合い ―<,<= 学び合い =>,>= 学び合い =<の違いとは?

 学び合いという言葉は,教育の場がそうであるべきとだれもが感じるようなものであるが,

 『学び合い』という,一部の人たちが提唱しているものが教育現場に出てくるようになってから,

 そもそも人間はどうしたら学び合えるのかについての教師たちの理解が根本的に狂い始めているように思う。

 「アクティブ・ラーニング」というたわいもない流行語が,その歪みを助長しているようだ。

 教師たちは,必死になって「学び合わせ」方を考えようとしている。

 もうこの時点で,学習の本質がわかっていないことがわかる。

 学習とは,そもそもだれかに「学び合わせ」を強要させられるべきものではない。

 一部の「わかっている人」に,「わかっていない人」が助けを乞う,これでは『学び合い』は成立しても,本当の学習は成立しない。

 そんな授業をすべての子どもにとっての「アクティブ・ラーニング」だとはだれも思わないだろう。

 冷静に考えれば,また,まもとな教育現場に立ったことがある教師なら,だれでもわかる話である。

 「教室からの抜け出しを防止する」とか,

 「高校生にアルファベットを書かせるようにする」といったことを目標とする学校なら別にかまわない。

 しかし,大多数の子どもが通う学校で,『学び合わせ』を教師に強制される事態はぜひとも防がなければならない。

 「わかったつもり」になっている子どもが,「実はわかっていなかった」ことに気づいたり,「わかっていない」と信じ込んでいる子どもが,「実はわかっていた」ことに気づいたり,「わかり方がわかる」ようにする機会が得られるのが,本当の学習である。

 従来もこれからも,教師の仕事の本質がどこにあるか,教師の専門性をどうやって生かすかといった議論をぜひとも教職大学院などで行ってほしい。

 教科の学習のように,予習や前倒し学習をすることが可能で,しかも能力差が見えやすい場面では,自発的な学び合いは起こりにくい一方で,教師が教材を工夫し,「ともに学ぶ」一体感が得られるような指導技術をもって,学び合い風の雰囲気をつくることはできる。

 

 「協働」場面がたくさんあることが望ましい,と主張している人たちは,学習指導要領をまともに読んだことがない人か,教師をやってはみたがすぐに現場から去ってしまった人だろう。

 「主体的な学び」と「深い学び」の間に,「協働的な学び」が必要な場合がある,というのならわかる。

 しかし,「主体的な学び」も「深い学び」もないのに,

 そこに「協働的な学び」があるからアクティブ・ラーニングだ,というのは本旨に背く主張である。

 学び合いではなく,ただの『助け合い』である。
 

 これから,紛らわしい『学び合い』と区別するために,

 本来的に望ましい学び合いのことを,このブログでは

 <― 学び合い ―>

 >― 学び合い ―<

 <= 学び合い =>

 >= 学び合い =<

 などと表記することにした。

 何だか目を閉じた土偶のようにも見える背景になっているが,

 イメージ的には,

 歩き回ってだれかとおしゃべるするだけでは「学ぶ」ことにはならないこと,

 実際に目を閉じて何も語らない子どもにも,しっかり「学びとっている」ものがあること,

 子どもは大人の予期せぬところでたくさん「学び合っている」ことなどを示している。

 上記で示した学び合いは4パターンだが,学び合いのあり方は無数にある。

 4つの違い,ご想像できますか?

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« AIを利用した「脅し」と「希望」 | トップページ | 人間の「共感能力」は,「共感しなければならない場」では育たない »

教育」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

いじめ問題」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

グローバル人材」カテゴリの記事

生活指導」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

レジリエンス」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

公共空間と私共空間」カテゴリの記事

教員採用試験」カテゴリの記事

リスクマネジメント」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« AIを利用した「脅し」と「希望」 | トップページ | 人間の「共感能力」は,「共感しなければならない場」では育たない »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より