教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している
最近,コンピテンシーは「21世紀に求められる大切な資質・能力」という意味合いなり文脈で語られることが多くなったが,このブログで10年以上前から紹介しているように,もともとは「企業で高い業績を残している人に多く見られる行動特性」を意味する言葉である。
21世紀には,組織ではなく個人の仕事で高い業績を残せる仕事も多くなっていくから,コンピテンシーのすべてを身に付ける必要はなくなっていくだろうが,やはり「基礎」の部分ができていて,さらにその上をいくために何が必要かを示しているのがコンピテンシーである。
いまやコンピテンシーといえば,「資質・能力」に読みかえられて基礎の基礎をも含む概念になりつつあるから,何でもありになってしまった。
コンピテンシーの中核として,「思考力」が挙げられるのは当然である。客観的で科学的なデータをたくさん集めて,根拠をしっかり示し,明確な論理で説明できる人は,信頼性も高くなるから高い業績を残すことが期待できる。
ただ,それだけでは足りないことに多くの人が気づいている。
教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している。
行政主導のカリキュラムマネジメントの典型的な失敗例である。
「思考力」の分野でも,従来型の「アナリシス」重視から「アナロジー」重視へのシフトが欠かせないのは,高いレベルというより異なった次元の能力が求められるようになっている。
霞ヶ関に寄せ集まって,「銀座で山を買う」式の行動に出ていることに,気づけない人が多いことが気の毒である。
「総合的な学習の時間」が破綻している今,現場に余裕がないことくらい,だれでもわかる。
子どもの主体性や意欲を最大限に発揮できるはずの「総合的な学習の時間」に,「学力向上」のための算数のドリルをやっているようでは全くの無意味である。
「総合的な学習の時間」の意義を語れる「人材」がいないから,時数削減は当然の成り行きだろう。
「大学入試が変われば,教育が変わる」という考え方の安易さにも,そろそろ気づく必要があるだろう。
分析によって「評価」が可能だった能力から,そもそも簡単に「評価」なんてできないくらいの創造性の高さが求められているわけだが,それを「大学入試」などという「主観性」を排除すべき場で導入するのは無理なのである。
「理由は説明できないが,この論文を気に入った採点官が多かったから合格」と言える仕組みが整えば,大学入試問題は変えられる。
教育現場での評価はより「主観的」で「独善的」でかまわない。なぜなら,各学校での独自のカリキュラムがあり,目標としている能力が異なるから。・・・・というくらいの教育観の変化が求められているのが今の社会である。
今の「絶対評価」は,指導の中身が伴っていないにもかかわらず,学習指導要領に示された目標に準拠したかたちの評価になっているから,そもそも信頼性に乏しいものであることは明らかである。そこに信頼性があれば,「入学試験」でわざわざ学力を測定する意味はない。
画一化された入学試験がなぜ大切かと言えば,それは学校ごとの評価があてにならないからである。
しかし,「あてにならない」ことは正しいのだが,本来は主体性を発揮している学校ごとの指導の重点が異なるのだから,「あてにしてはいけない」という発想で入学試験を用意しなければならない。
新しい学習指導要領が本当の意味でのコンピテンシーを育てるものになるかどうかは,各学校のカリキュラムがより創造的で自由度が高いものになっているかどうかで判断できるだろう。
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