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「飛び込み授業」に潜んでいた罠

 私が以前,「教員の指導力向上のための事業」(あとから知らされた)とか何やらで,ある中学校に行ったときは驚いた。

 そもそもどうして引き受けてしまったのか,今となっては自分でも謎である。

 指導主事の先輩が校長だったからか。知り合いの先生がいたからか。

 時間割変更で午後に出れば,何とか授業に間に合うことがわかっていたからか。

 驚いたことの1つ。

 私が訪問して授業をすることを,当該クラスの子どもは事前に知らされていなかった。

 2つめ。

 授業開始から45分でチャイムが鳴ってしまったが,短縮授業であることを私が知らされていなかった。

 3つめ。

 行ってから初めて,子どものための授業ではなく,授業がうまくいかない非常勤講師に見せるための授業だったことがわかった。

 終わってからがまた驚いた。

 教育委員会にまだ許可を得ていなかったらしく,しばらくしてから私の履歴書やら業績やらの提出を求められた。

 指導主事出身の校長も校長であるし,どこのだれをとっても「まとも」ではない。

 唯一「まとも」だったのは生徒だけである。

 やりとりがうまくいかない面もあった。しかし,自分たちで課題に取り組む時間になると,みんな身を乗り出してきた。いよいよ解けそうだ,というところでチャイム。

 「飛び込み授業」だから,続きはない。

 子どもたちにも,もやもやしたものが残っただけだったろう。

 「非常勤講師の先生より,授業はおもしろかった」という感想があったと後で知らされたが,

 正直,「おい,おい・・・」という気持ちだった。

 
 今,振り返ると,それは「見方・考え方」を教えるための授業であって,大切なのは「その後」だったのだが,どうなったのかを知らせてくれることはなかった。

 子どもたちにとって,見ず知らずの人がいきなり教室に入ってきて,「見方・考え方」もないだろう,といったところだろうが,「自分の頭で考えることの大切さ」「自分の言葉で表現することの尊さ」を伝えたつもりだから,自分としては最低限の仕事をした気持ちはある。しかし後悔もある。せめてあと2~3時間・・・。

 希望はなかった。教師たちは「かたち」「規律」のみを重視しており,「中身」に目を向けるゆとりをもっていなかった。公立中学校がはまっている典型的な蟻地獄である。

 普段と変わった授業を受けさせても,学校や学年,学級の文化や空気が変わらない限り,公教育は進歩しない。

 どうしたら「うまくいいっている」「成功している」つもりになっている人たちに「気づき」を与えることができるか。

 訴え続けて,この記事は4182個目になった。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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