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J教育大学附属学校の存在の尊さ

 J教育大学のセンセイは附属学校の存在意義に疑義を呈しているが,附属学校の出身(J教育大学附属ではない)である私から,その存在意義の尊さについて少し語りたいと思う。

 J教育大学附属学校の生徒はきっと優秀で,「だれも見捨てない」「一人も見捨てない」という気持ちを全員が共有しあっていることと思う。

 理科などの授業でも『学び合い』の授業が展開され,ほぼ100%の習得率で全員が「十分満足」といえる成績を収めていることだろう。

 センセイが「拷問」と呼び,日本国憲法に反していると主張する「教師の一斉授業」など一切なく,子どもが子どもに教えることを中心としたすばらしい教育が日々展開されているのだろう。

 何しろ,その教職大学院に『学び合い』のご本尊がいらっしゃるのだから。

 J教育大学附属学校の存在意義は,それだけでも十分あると言えるのではないだろうか。

 さて,以下の内容は,J教育大学附属学校の話ではない。
 
 附属学校の生徒に限ったことではないだろうが,子どもというのは,案外これからの社会のニーズを敏感に感じ取り,教師たちのことを冷静に観察している。

 附属学校の子どもたちは,クラスにいるお互いに対して「一人も見捨てない」という気持ちを抱いていると思うが,教師に対してもそうかというと,決してそんなことはない。

 子どもは,教師を「見捨てる」場合がある。

 「見限る」と表現した方が適切であるかもしれない。

 ただの秀才ではない子どもがもっている人間観察力,評価能力は,半端なものではない。

 よく,「附属学校の子どもは優秀だから,授業をするのは楽だろう」と思われるかもしれないが,

 私が生徒だったときの授業規律は,教師によって非常にまちまちだった。

 最も酷かったのは非常勤で来ている大学院生の講師の授業で,動物園状態だったこともある。

 その人は,今は文部科学省におつとめである。

 附属学校の時代の話をすると,少し嫌なお顔をされるのは,当時を思い出したくないからだろう。

 研究者には向いているかもしれないが,教師にはあまり向かない人が,附属学校にはときどきいるのである。

 すぐに大学や文科省に出ていけた人は,幸せである。本人も生徒も。

 教育実習生についても,全く同じことが言える。

 子どもに聞いた方が,教員採用試験の面接官が決めるより「確か」かもしれない。

 「この人,先生に向いていると思う?」

 子どもに聞ける勇気のある人だけが,附属学校への教育実習に参加する方がよい。

 教育実習を附属学校が受け持つ上での最大の存在理由は,

 「教師にふさわしいかどうかを見極める力が子どもたちにあるから」と断言してよいだろう。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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