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2016年11月

人間の「共感能力」は,「共感しなければならない場」では育たない

 人間は,ある程度,勉強ができるようになると,「理屈っぽく」なる。

 別に「理屈」があることが悪いことではない。

 交通事故が無闇やたらと起きたりしないのは,「赤信号を進めば,交通違反で取締をうけたり,人をはねたり,車と衝突したりする恐れがある」ことがわかるからである。

 論理的な思考というのは,論文を書いたりするのに必須の能力である。

 しかし,ある人の頭の中で,あるいは他の人と協力してできた論理が,だれにとっても正しいとは限らない。だれかが薦める,ある教育方法を実践したら,失敗した。それだけで十分である。論理的に考えをめぐらしてみても,絶対に気づけないものがこの世界にはある。

 人間が判断能力を失うときは,決して「論理的な思考ができなくなるから」とは限らない。

 その人の頭の中の論理では,きっと「正しい」のであり,「自分が誤っている」という認識はない。

 自分の主張が他者から攻撃を受けたり,認められなかったりしたときに,態度をかたくなにし,聞く耳をもたなくなったりする。

 学会に出てみると,そういう人間があちこちにいる。

 立派な論文を書いているわりに,とても人間っぽくて微笑ましい。

 
 たとえば,人間の共感能力をより高めよう,という目標ができたとする。

 では,学校ではどうするか。

 すぐやってしまうのが,

 「共感しなければならない場」をつくってしまうことである。

 子どもがなぜ教師に共感できないかがわからない人は,教師になってはならない。


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<― 学び合い ―>,>― 学び合い ―<,<= 学び合い =>,>= 学び合い =<の違いとは?

 学び合いという言葉は,教育の場がそうであるべきとだれもが感じるようなものであるが,

 『学び合い』という,一部の人たちが提唱しているものが教育現場に出てくるようになってから,

 そもそも人間はどうしたら学び合えるのかについての教師たちの理解が根本的に狂い始めているように思う。

 「アクティブ・ラーニング」というたわいもない流行語が,その歪みを助長しているようだ。

 教師たちは,必死になって「学び合わせ」方を考えようとしている。

 もうこの時点で,学習の本質がわかっていないことがわかる。

 学習とは,そもそもだれかに「学び合わせ」を強要させられるべきものではない。

 一部の「わかっている人」に,「わかっていない人」が助けを乞う,これでは『学び合い』は成立しても,本当の学習は成立しない。

 そんな授業をすべての子どもにとっての「アクティブ・ラーニング」だとはだれも思わないだろう。

 冷静に考えれば,また,まもとな教育現場に立ったことがある教師なら,だれでもわかる話である。

 「教室からの抜け出しを防止する」とか,

 「高校生にアルファベットを書かせるようにする」といったことを目標とする学校なら別にかまわない。

 しかし,大多数の子どもが通う学校で,『学び合わせ』を教師に強制される事態はぜひとも防がなければならない。

 「わかったつもり」になっている子どもが,「実はわかっていなかった」ことに気づいたり,「わかっていない」と信じ込んでいる子どもが,「実はわかっていた」ことに気づいたり,「わかり方がわかる」ようにする機会が得られるのが,本当の学習である。

 従来もこれからも,教師の仕事の本質がどこにあるか,教師の専門性をどうやって生かすかといった議論をぜひとも教職大学院などで行ってほしい。

 教科の学習のように,予習や前倒し学習をすることが可能で,しかも能力差が見えやすい場面では,自発的な学び合いは起こりにくい一方で,教師が教材を工夫し,「ともに学ぶ」一体感が得られるような指導技術をもって,学び合い風の雰囲気をつくることはできる。

 

 「協働」場面がたくさんあることが望ましい,と主張している人たちは,学習指導要領をまともに読んだことがない人か,教師をやってはみたがすぐに現場から去ってしまった人だろう。

 「主体的な学び」と「深い学び」の間に,「協働的な学び」が必要な場合がある,というのならわかる。

 しかし,「主体的な学び」も「深い学び」もないのに,

 そこに「協働的な学び」があるからアクティブ・ラーニングだ,というのは本旨に背く主張である。

 学び合いではなく,ただの『助け合い』である。
 

 これから,紛らわしい『学び合い』と区別するために,

 本来的に望ましい学び合いのことを,このブログでは

 <― 学び合い ―>

 >― 学び合い ―<

 <= 学び合い =>

 >= 学び合い =<

 などと表記することにした。

 何だか目を閉じた土偶のようにも見える背景になっているが,

 イメージ的には,

 歩き回ってだれかとおしゃべるするだけでは「学ぶ」ことにはならないこと,

 実際に目を閉じて何も語らない子どもにも,しっかり「学びとっている」ものがあること,

 子どもは大人の予期せぬところでたくさん「学び合っている」ことなどを示している。

 上記で示した学び合いは4パターンだが,学び合いのあり方は無数にある。

 4つの違い,ご想像できますか?

 
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AIを利用した「脅し」と「希望」

 人工知能が人間の職を奪っていく・・・

 こういう将来像を描いて人々を不安にさせ,さも自分が提唱している何かの方法で人々を救えるのだと訴え,モノを買わせようとしている人間がいる一方で,

 「人間中心のAIをめざす」として人々に希望を与えようとする経営者もいる。

 より高い次元からの技術革新の原理・原則を示したというが,

 人間の「置き換え」ではなく,「能力の拡張」ということで言えば,

 自動翻訳機やパワーアシストのロボットなど,

 今までその仕事にはつけなかったと考えられる人たちにも,チャンスが生まれる可能性のある技術がある。

 最終的には,どちらも自分たちの利益を最優先にしている,という批判も成り立つわけだが。

 では,もしそういう未来が訪れるのであれば,学校で育成すべき子どもの資質・能力とは何か?

 いつでもだれかを頼れてしまう環境づくりではなく,「自律・自立」できる人間づくりが最も大切だろう。

 集団生活の中で「自律・自立」できる人間を育てるには,「ルールづくり」に参画させることが一番である。

 そして,ルールは守ることに意義があるのではなく,

 何を大切にするためにルールがあるのかという,ルール自体の存在の意義,

 それをつくることの意義に気づかせることに意義がある。

 方法の自己目的化を否定するのではなく,その効用を悪用していかがわしい教育方法を広めようとしている人間たちがいるが,概してそういう人間たちの本に書いてあることの質が低い。

 ぜひとも子どもたちにそれを読ませて,一部の「教育者」が考えている「教育像」のどこに問題があるのかを考えさせてみたい。


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優先席で起きるトラブル

 今後は,電車やバスの優先席をめぐって「譲る」「譲らない」といったトラブルが多発する時代になるのだろうか。

 都市部でも高齢化が進んでおり,土曜日の夕方にバスに乗ると,高齢者の方々が大勢利用されたりしている。

 先日も,80代の方に70代の方が譲ったり,

 80代の方が60代くらいの膝が悪そうな人を座らせたりしていた。

 ネットでは,席を譲ろうとしない若者?と高齢者?がお互いに「言いがかり」?をつけている動画が流されているようだが,心の貧しい国になったとは思われたくないものである。

 「優先席」がお嫌いな高齢者の方もいらっしゃるようで,一般の席に座られてしまっているために,若い人が優先席を選ばなければならないという状況にもなるようだ。

 優先席では駅に停車するたびに乗客に目を向けなければならないので,神経が疲れるものである。

 うとうと眠ってしまうと,譲り損なってしまう恐れもある。

 できれば公共交通機関の中では嫌な思いをしたくない。

 子どもを連れている場合なども,本当にケースバイケースで,振る舞い方をパターン化することはできない。

 私は足に大きな怪我をしており,立っているのは相当しんどいのだが,「譲られない」で嫌な気になるのを避けるために,あえて優先席には近づかないようにしている。

 それでも(優先席以外でも),席を譲っていただくこともある。

 「優先席」という呼び方がいけないのだろうか。

 頑丈そうに見える若者でも,熱が39度あれば,座っていたいのである。

 「譲り合い席」などといった呼称への変更を試してみるのはどうだろう。

 もちろん,どの席でも譲り合いの精神はほしいのだが・・・。

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「教科横断的な資質・能力を育てる・・・・」というタイトルの本には,何が書いてあることが必要か?

 とてもひどい本を買ってしまった。

 その本のタイトルに示された,教科横断的な資質・能力について論じていることを信じて購入してしまったが,それについて論じていないばかりでなく,文科省が事例を示して検討していた「教科横断的な学習」の事例もほとんど掲載されていない。

 前半約40頁は,アクティブ・ラーニングの概説。残りの約60頁が,国語×2,社会×2,理科×2,音楽×1,保健体育×1,美術×1,技術・家庭×1(家庭科),英語の実践例が掲載されている。

 すでに現行の学習指導要領にも取り入れられている「教科横断的な課題」とは,法教育等,情報教育,科学技術教育,環境教育,キャリア教育,食育,性教育,安全教育のことである。ここに防災教育や金融教育,主権者教育,海洋教育などが含まれてくるわけだが,「失敗しない薄焼き卵作りの工夫点」を探究することが,果たして中学校の教科横断的なアクティブ・ラーニングの課題として適切なのだろうか。家庭科の調理実習を理科の実験風に行うというのでもないらしい。 

 前半のアクティブ・ラーニングの説明も,次期学習指導要領で重視される「主体的,対話的で深い学び」のうち,最も重要な「深い学び」・・・習得・活用・探究の見通しの中で,教科等の特質に応じた見方や考え方を働かせて思考・判断・表現し,学習内容の深い理解につなげる「深い学び」を実現させる授業の提案に結びつけることができる記述が不足しているように思える。

 活動があり,ふり返りの時間が確保されているが,「深い学び」がなければ,道徳や総合的な学習の時間と大差がないと言える。

 教科横断的な資質・能力とは何か。それを育てるために,まずは各教科の特質に応じた見方や考え方を示し,どの部分がどの程度,他の教科と重なり,関連し合っているから,どのような活動を行えば,資質・能力を向上させることができるのか。こうしたことが論じられていないのならば,この本のタイトルは不適切なものと言わざるを得ない。

 信頼できる出版社だから買ってしまったのだが,騙されたという印象しか残らない。

 「アクティブ・ラーニング」バブルのせいで,他にもひどい本に祟られていたが,この本は紛れもなく,ぶっちぎりのワースト1である。

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政治の混乱に涎を垂らすメディアのさもしさ

 都政をめぐる報道の中で,ある記事を読んでメディアの「さもしさ」を実感した。

 政治の世界にいる人たちにとって,「闘争」こそが生き甲斐の証なのだろうか。

 民主主義とは一体何なのだろう。

 「都政の闇」を「支持率」という光で明らかにしようとしていく小池都知事,と書けば,「都政」=「悪」という図式が成り立ってしまう。

 ただ,「闇」=「悪」とは限らない。

 「闇」=「悲哀」かもしれない。

 「都知事打倒へ主戦論を訴える幹部」VS「利権解体をもくろむ都知事」という図式以外に,

 何か都政のよりよい未来を考えるためのモデルは描けないのだろうか。

 メディアが発する情報の質が,民主主義のレベルを左右しているということに気づかされる。

 「さもしい」という言葉ももはや死語だろうか。


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「飛び込み授業」に潜んでいた罠

 私が以前,「教員の指導力向上のための事業」(あとから知らされた)とか何やらで,ある中学校に行ったときは驚いた。

 そもそもどうして引き受けてしまったのか,今となっては自分でも謎である。

 指導主事の先輩が校長だったからか。知り合いの先生がいたからか。

 時間割変更で午後に出れば,何とか授業に間に合うことがわかっていたからか。

 驚いたことの1つ。

 私が訪問して授業をすることを,当該クラスの子どもは事前に知らされていなかった。

 2つめ。

 授業開始から45分でチャイムが鳴ってしまったが,短縮授業であることを私が知らされていなかった。

 3つめ。

 行ってから初めて,子どものための授業ではなく,授業がうまくいかない非常勤講師に見せるための授業だったことがわかった。

 終わってからがまた驚いた。

 教育委員会にまだ許可を得ていなかったらしく,しばらくしてから私の履歴書やら業績やらの提出を求められた。

 指導主事出身の校長も校長であるし,どこのだれをとっても「まとも」ではない。

 唯一「まとも」だったのは生徒だけである。

 やりとりがうまくいかない面もあった。しかし,自分たちで課題に取り組む時間になると,みんな身を乗り出してきた。いよいよ解けそうだ,というところでチャイム。

 「飛び込み授業」だから,続きはない。

 子どもたちにも,もやもやしたものが残っただけだったろう。

 「非常勤講師の先生より,授業はおもしろかった」という感想があったと後で知らされたが,

 正直,「おい,おい・・・」という気持ちだった。

 
 今,振り返ると,それは「見方・考え方」を教えるための授業であって,大切なのは「その後」だったのだが,どうなったのかを知らせてくれることはなかった。

 子どもたちにとって,見ず知らずの人がいきなり教室に入ってきて,「見方・考え方」もないだろう,といったところだろうが,「自分の頭で考えることの大切さ」「自分の言葉で表現することの尊さ」を伝えたつもりだから,自分としては最低限の仕事をした気持ちはある。しかし後悔もある。せめてあと2~3時間・・・。

 希望はなかった。教師たちは「かたち」「規律」のみを重視しており,「中身」に目を向けるゆとりをもっていなかった。公立中学校がはまっている典型的な蟻地獄である。

 普段と変わった授業を受けさせても,学校や学年,学級の文化や空気が変わらない限り,公教育は進歩しない。

 どうしたら「うまくいいっている」「成功している」つもりになっている人たちに「気づき」を与えることができるか。

 訴え続けて,この記事は4182個目になった。

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「飛び込み授業」は金槌が海に飛び込むほど危険

 数学と生活指導の共通点を学ばせてくれる本に出会った。

 数学が苦手な子どもと,生活指導が苦手な教師は,同じ落とし穴にはまっている,といった話などが綴られている。その本の著者が生きている国の文化にありがちの,やたらと自信過剰な書きっぷりには辟易とさせられるものの,科学的根拠が背景にあるとなっては,読み捨てて終わるわけにはいかない。

 詳しくはいずれ読書編で紹介したいと思うが,関連のあることとして,

 教育現場で「めったにやってはならないこと」の一つに「飛び込み授業」があることを指摘しておきたい。

 以前,科研費で動いている大学教員がよこした大学院生のひどい指導案にふれたことがあっただろうか。

 年間計画のどこに位置付いての実践なのかという発想は,一切ない。

 その単元を開発し(てしまっ)たから,どこか都合のよい時間にお願いします,といったところである。

 ダメ出しを何時間も繰り返し,ようやくたどり着いたときには,何の変哲もない授業になっていた。

 授業の場を提供したこちら側としては,ほとんど何の意味もなく終わったが,生徒たちが書いた大量の文章が,科研費でまとめられた報告書に載ることになった。せっかくよい資料が提供できたのに,いっさい分析がなされていなかった。本当に税金の無駄遣いである。

 教職大学院など,「教育実習のやり直し」をしているところでは,こういう「飛び込み授業」の必要性があるのだろうが,本来,学校が求めているものではない。

 ゼミ内のお遊びですませてくれれば,学校現場に実害がなく助かる。

 

 「飛び込み授業」でがらっと子どもの学ぶ姿勢が変わる,ということはある。

 私が小学校の先生とTTで行った授業は,おおいに盛り上がっていたが,あとで思えばただの打ち上げ花火であった。

 むしろ,顔合わせというか準備のために行った研究授業の1日前の授業の方が,よほど「研究向き」であった。

 子どもたちはよく頭を働かせて,積極的に活動し,知識や技能を身につけていった。「こっちの方が研究授業だったらよかった」とTTの先生や担任の先生も声をそろえて言っていたが,私から言わせてもらえば,「指導案がないからこそ,生きたすばらしい学習ができた」というだけの話である。

 入った学級は,とても学習意欲が高く,みんな人なつっこく,何よりも一人一人の能力が高かった。8割くらいが受験をするという。ただ,こんな学級は滅多にない。

 一般的な学級の「飛び込み授業」にどんな問題があるのか。

 今回の記事は,まずは問題提起というところで。

 
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中学校で「一人も見捨てない」ことを生徒に強要すると,どうなるか?

 私が猛烈に荒れた学校に異動したときのことを,ときどき思い起こしている。

 教師たちは,荒れの中心にいた十数人の生徒たちに対してなぜか優しかった。

 「優しい」という表現よりも,「甘やかしている」と言った方が適切である。

 あとで「どう対処したらいいかわからなかった。攻撃の対象にはなりたくなかった」という本音が聞き出せたが,要するに教師たちが子どもの荒れを助長していたのである。

 なぜ「荒れていない子どもたち」は,授業がスムーズに進行できないなど,自分にとって不利益だったことに我慢していたのか。

 普通の人は,「自分がいじめの対象にならないように,おとなしくしていた」と思うだろうが,

 けっしてそうではなかった。

 生徒同士のいじめは皆無に近かった。気の弱い子どもはいじられることはあっても,決して「いじめ」にはなっていなかった。ほとんど1つの小学校から進学してくる,実質的には小中一貫校であったことも「いじめ」が少ない背景かもしれない。

 当時の教師たちは,「私たちがこの子たちに優しくしているおかげで,いじめがないんですよ」と思っていたのかも知れない。

 しかし,「優しくする」ことと,「わがままを許す」ことは同じではないはずである。
 


 教師たちは,荒れた子どもたちの職員室への勝手な出入りも黙認していた。

 職員室の隅には,以前にたばこを吸うためのスペースだったらしい教師の休憩場所のような所があった。

 日常的に喫煙している子どもたちを,こういう場所に近寄らせる神経は,私がタバコを吸わないからかもしれないが,信じられなかった。

 荒れた生徒たちは,機嫌がよいとこのソファを占拠してじゃれ合い,冷たい視線を浴びていると感じたときにはガンを飛ばしたりしていた。

 異動してすぐに,「進路関係の書類が増えている時期になり,機密の内容の重要書類があるので,職員室への無用の出入りを禁止し,入室の際は必ず要件を言って対象の先生を呼ぶこと」というごくごく当たり前の常識を生徒に認めさせることにした。

 子どもたちにとっては,「自由が制限された」というストレスになり,荒れが拡大したことを覚えている。

 私が異動する以前のこの学校の状況は,いわゆる「抱え込み型」の生活指導が基本であった。

 (その後,「徹底的な排除型」の学校も増えていき,これに対しては私は反対だったが,なぜか学校というところは両極端に近づきやすいところである。)

 とにかく校内で好き勝手やらせておく。

 そのかわり,外では悪さをさせない。

 要するに,大多数の子どもの学ぶ権利を奪っておいて,少数の子どもを「見捨てない」ことを優先していたのである。

 別に私は功利主義者ではないが,少数の子どもを「見捨てない」ために,大多数の子どもを「見捨てる」教育には反対だった。

 しかし,生活指導でエネルギーを消耗しきった教師たちに,「堂々と立ち向いましょう」とは言いにくかった。

 職員室の近くにある教室で騒ぎがあったときも,駆けつけたのは自分一人だった,ということもあった。

 こういう状況は,男性教諭4人の「団結式」のあとはなくなったが,子どもを大人にするためのエネルギーは,並大抵のものではない。

 荒れた生徒は授業を抜け出しているので,空き時間の教師は基本的に抜け出した生徒を探したり,話し相手になるしかなかった。

 子どもの学力といえば,

 国語・数学・英語の3教科が崩壊していた。

 高校進学の話がまともにできない状況にあった。

 だから,社会科の教師である私が,異動したての3年学年主任という立場で「学力向上事業」に乗り出したのである。

 まずは事前に努力しておけば,だれでも100点がとれるような小テストから始める。

 都立入試でいえば,数学の最初の計算問題や国語の漢字の読み書きレベルの問題から始める。

 授業を抜け出している生徒の中には,もともと勉強がそれなりにできる子どもが大勢混じっている。

 (卒業して何年かたって,「早稲田の政経にいます」と報告してくれたエスケープボーイもいた。)「

 しかし,「一人も見捨てない」という信念をもって,「授業を抜け出す子どもに付き合う」という選択肢をとっていた。

 子どもは,友情を大切にするものである。

 まじめに授業なんか出やがって,自分よりも頭が悪いくせに・・・と思っていたクラスの仲間が,どんどん「満点賞」をとっていく。

 「満点がとれるということは,他の問題が出てもいくらでも正解する可能性があるのだから素晴らしい」

 「90点だったということは,他の問題が出たらやはり間違えた可能性があるからだめだ」

 という言葉が通じるテストを繰り返していくと,満点を続けてとる子どもが増えて,少しずつ学習にやりがいを感じてくる。

 この段階になって初めて,「授業を抜け出すのはやめてほしい」「授業の邪魔をしないでほしい」という声が子どもたちから出るようになってきた。

 いきなり「あの子たちをどうにかしてくれ」と教師が子どもに頼むのはよくない。

 子どもたちが教師に「あの子たちをどうにかしてくれ」と言えないくらい,教師の力量への信頼を失っているときは特に。

 
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茂木健一郎さんによる「小学校算数に対する苦言」

 あるサイトで,茂木健一郎さんのツイートが紹介されていた。

 なぜか小学校教育の世界には,「算数科」とか「国語科」といった教科別の「ご専門」がいらっしゃる。

 「算数科」の「ご専門」が小学校教師をつくると,どういうことになるか。

 3+2=5は正解だが,2+3=5と書くと不正解になる。

 2.4+6.6=9は正解だが,2.4+6.6=9.0と書くと不正解になる。

 こうした小学校算数の奇習というか悪しき慣例が打破できないのはなぜだろうか。

 「数学者」ではない小学校の教師が,どこかで「算数教育の専門家」に化けて生息してしまっているからだろう。

 奇妙な正解を子どもに押しつける行為は,「子どもの精神に対する虐待」であり,許されない行為だと茂木さんは主張されているようだ。

 全く同感である。

 優秀な子どもたちは小学校算数など全く相手にする必要もなく,受験算数をひたすら学んで頭脳を磨いているのだろうが,公立中学校に進学してくる子どもたちの中には,本当に算数ができない子が多い。

 いったい何が原因でここまで算数の習熟度が低い子どもができてしまうのかも謎である。

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「主体的・対話的で深い学び」に対する「浅い理解」の批判を批判する

 「主体的・対話的で深い学び」という言葉が,報道や雑誌,研究発表の場でよく使われるようになったからか,教育現場でも「身構え」が始まっている。

 今回の教育改革は,高校の教育改革を全面的に進めていくためのものなので,小中にとっては「そんなこと,ずっと前からやってますよ」といったレベルのものになっている。

 地理総合や歴史総合,公共といった新しい動きまで視野に入っている小中の先生は,まだ少数派だろう。

 それでも何でも批判しないと気がすまない人たちから,そんなレベルの話をしても,だれも相手にしてくれないという文句もちらほら聞こえてきている。

 批判というのは怖いもので,自分自身の実践レベルがわかってしまうのだ。

 「対話=話し合い」だと思っている人がいるが,それでは「深い学び」には到達できない。

 ナントカ「的」という独特な言い回しは,ナントカとはイコールではないことをまずは念頭に入れておくべきである。

 以下は,ワーキンググループから5月に出された資料からの抜粋である。

***************

 【深い学び】

 習得・活用・探究の見通しの中で、教科等の特質に応じた見方や考え方を働かせて思考・判断・表現し、学習内容の深い理解につなげる「深い学び」が実現できているか。

 【対話的な学び】
 子供同士の協働、教師や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか。

 【主体的な学び】
 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取組み、自らの学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。

***************
 
 「深い学び」のキーワードは「見方・考え方」である。

 「deeper understanding」につなげられる思考が求められているのであり,教科等の特質に応じた「見方・考え方」をより重視した学習活動の展開が求められる。

 「対話的な学び」のキーワードは「協働,対話,先哲の考え方を手がかりにすること」「自らの考えを広げ深める」ことで,ここでも「考えを深める」という視点が求められている。

 「主体的な学び」で私が最も重要なキーワードとして考えているのは「振り返り」と「次につなげる」である。「キャリア形成」「見通し」「粘り強く」も重要なキーワードである。

 指導計画上,ただ教科書の配列に従って授業が進む,ということではなく,「このこととつながっている~を次に行おう」「ここで身につけた~を次につなげていこう」とする主体的な態度が子どもに求められる。

 場合によっては,カリキュラム編成を見直すことも必要になるだろう。それは,子どもの主体性がよりよく発揮できるようにするための配慮である。

 小学校の教師はうらやましい。独自のカリキュラムマネジメントを発揮することができる。

 学校の教育課程編成に,一人一人の教師がより積極的にかかわっていくことが求められていくだろう。

 後ろ向きの教師のせいで置いてきぼりにされ,ただひたすらドリルをやらされてしまうような子どもが増えないようにしたいものである。


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ドクハラとティーハラ

 ドクハラという言葉があることは知らなかった。

 病院によくかかる高齢者の方々の間では,一般的なのだろうか。

 週刊朝日の12月2日号に,医者の「いじめ」に負けないための対処・予防法が紹介されていた。

 私が今までお世話になった医師からは,「いじめ」を受けた経験がないので,よくわからない。

 私に限った話ではないかもしれないが,教師とは違って,医師は自然と敬意を払ってしまう存在である。

 教師は子どもと戯れていれば給料がもらえてしまうが,医師はほぼ病を抱えた人「だけ」を対象とした仕事をしている。
 
 普通学校では種類の異なる「病」に犯されている子どもがたくさんいて,その影響もあってか,かなりの数の教師が精神疾患を抱えるようになっているが,医師の世界でそれほど精神疾患が多いとは聞いたことがない。

 いつも病院にかかっている医師は想像しにくい。

 そういう医師が,患者を「いじめる」とはどういうことか・・・?

 記事を読んで私が感じたのは,「ああ,これは間違いなく,医師よりも教師にあてはまっている話だな・・・」ということだった。

 教師によるハラスメント,いじめにあたる言葉はまだ誕生していないのだろうか。

 中身はパワハラ,セクハラ,モラハラ,何でもあてはまってしまう。

 ドクターハラスメントがあるなら,ティーチャーハラスメントという言葉があってもよい。

 モンスターティーチャーのハラスメントを縮めてモンティーハラでもいい。

 ところが,残念なことに,「言いにくい短縮形」では,新語にならない。

 教師を表わす英語が「ティーチャー」だったことで,救われてしまうのか・・・。


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「いじめ」と「体罰」に関するアンケート

 小学校の子どもが教育委員会から出された「いじめ」などに関するアンケートに答えていて,こんな考えを述べていた。

 「いじめ」ではないが,「ちょっかい」を出してくる子どもがいる。

 「ちょっかい」に関する調査もしてほしい。

 というもの。

 「ちょっかい」とは,男の子(男性教師を含む)が胸の近くを触ってくる,などというものらしい。

 子どもなりに,「グレーゾーン」の扱いを考えているようだが,

 「いじめ」と「悪ふざけ」,「ちょっかい」,「気まぐれ」などとの区別はやはり難しいものである。

 「あれは,子どもたちが悪ふざけをしているだけ」と教師が解釈し,「いじめ」が長期間,固定化,深刻化したケースがある。

 アンケート項目を細かくすればよいというものでもないが,教師と子ども,親子の自然の会話が増やすことも大切である。

 教師たちは,「事務仕事が多い」とぼやくが,その時間をすべて子どもたちとの面談に費やしてくれる気はあるだろうか。

 会議よりも優先すべき時間を,校長が管理できるかどうかは学校のマネジメント力を大きく左右するポイントだと思われる。

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トランプ氏当選で前進が加速しそうな北方領土問題

 週刊東洋経済(11月26日号)の連載コラムで佐藤優氏は,トランプ氏の大統領選勝利によって,北方領土と沖縄で変化が起こる可能性があると指摘している。

 安倍首相は,プーチン大統領との首脳会談を12月15日に山口県長門市で行うことを予定している。

 1956年の日ソ共同宣言で定められていた歯舞群島と色丹島の引き渡しが実現するのだろうか。

 トランプ氏の勝利はこの交渉とどうかかわってくるのか。

 「米国は世界の警察官になるべきではない」というスタンスをトランプ氏がもっていることが重要である。

 歯舞群島と色丹島が返還され,日本の施政下になると,日米安全保障条約第5条の適用範囲となり,

 ここで米軍が展開することが可能になる。

 もしそうなると,プーチン大統領は引き渡しに応じない。

 米軍が展開できない枠組みをつくることを,クリントン氏であれば拒絶しただろう。

 しかし,トランプ氏ならば・・・。

 沖縄の基地についても同様に・・・・。

 安倍首相にとって,より重要なのは北方領土交渉の解決である。

 「トランプ大統領」の出現は,安倍首相にとって「天佑」だと佐藤氏は述べている。

 ペルーでの首脳会談後の安倍首相のコメントは,「そう簡単な問題ではない」という慎重なものだったらしい。

 私の気がかりは,「四島返還」にこだわる人たちの動向であるが,世界の常識を踏まえれば,安倍首相のねらいは当然のように思える。


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J教育大学附属学校の存在の尊さ

 J教育大学のセンセイは附属学校の存在意義に疑義を呈しているが,附属学校の出身(J教育大学附属ではない)である私から,その存在意義の尊さについて少し語りたいと思う。

 J教育大学附属学校の生徒はきっと優秀で,「だれも見捨てない」「一人も見捨てない」という気持ちを全員が共有しあっていることと思う。

 理科などの授業でも『学び合い』の授業が展開され,ほぼ100%の習得率で全員が「十分満足」といえる成績を収めていることだろう。

 センセイが「拷問」と呼び,日本国憲法に反していると主張する「教師の一斉授業」など一切なく,子どもが子どもに教えることを中心としたすばらしい教育が日々展開されているのだろう。

 何しろ,その教職大学院に『学び合い』のご本尊がいらっしゃるのだから。

 J教育大学附属学校の存在意義は,それだけでも十分あると言えるのではないだろうか。

 さて,以下の内容は,J教育大学附属学校の話ではない。
 
 附属学校の生徒に限ったことではないだろうが,子どもというのは,案外これからの社会のニーズを敏感に感じ取り,教師たちのことを冷静に観察している。

 附属学校の子どもたちは,クラスにいるお互いに対して「一人も見捨てない」という気持ちを抱いていると思うが,教師に対してもそうかというと,決してそんなことはない。

 子どもは,教師を「見捨てる」場合がある。

 「見限る」と表現した方が適切であるかもしれない。

 ただの秀才ではない子どもがもっている人間観察力,評価能力は,半端なものではない。

 よく,「附属学校の子どもは優秀だから,授業をするのは楽だろう」と思われるかもしれないが,

 私が生徒だったときの授業規律は,教師によって非常にまちまちだった。

 最も酷かったのは非常勤で来ている大学院生の講師の授業で,動物園状態だったこともある。

 その人は,今は文部科学省におつとめである。

 附属学校の時代の話をすると,少し嫌なお顔をされるのは,当時を思い出したくないからだろう。

 研究者には向いているかもしれないが,教師にはあまり向かない人が,附属学校にはときどきいるのである。

 すぐに大学や文科省に出ていけた人は,幸せである。本人も生徒も。

 教育実習生についても,全く同じことが言える。

 子どもに聞いた方が,教員採用試験の面接官が決めるより「確か」かもしれない。

 「この人,先生に向いていると思う?」

 子どもに聞ける勇気のある人だけが,附属学校への教育実習に参加する方がよい。

 教育実習を附属学校が受け持つ上での最大の存在理由は,

 「教師にふさわしいかどうかを見極める力が子どもたちにあるから」と断言してよいだろう。


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口のきき方を知らない大学院生

 私の知る範囲内の話だが,教育関係の大学院生の評判がすこぶる悪い。

 一部には,「大学入試は厳しいが大学院にはだれでも入れる」という声もあるらしいが,それだけが理由ではないだろう。

 以前にも書いた通り,研究会での「口のきき方」を知らない大学院生が増えているのだが,その理由は簡単で,指導に当たっている大学教員とそっくりになってしまっているのである。

 傍若無人な態度こそが,大学という世界ではとても重要な資質・能力なのかもしれないが,自分の大学から一歩外に出てしまうと,大学内と同じことが通じるところはこの世に存在しないことを知っておいてほしい。

 紙に書かれてあることを平気で質問してくるのはまだ許せる。

 直前に話していたことを聞いていなかったのが丸わかりの質問,

 いつもどこかで同じようなことを繰り返し話していることがわかる的はずれの質問・・・

 こういうのも,まだぎりぎり許してあげられる範囲である。

 しかし・・・。

 何もわかっていない大学院生が,

 「私はあなたよりも,このことについては詳しくわかっているのですよ」という態度を現場の教師にしている間だけは,アドレナリンが大量放出されてしまう。

 私はこういうのを黙らせることができる質問をたくさんもっているが,公衆の面前で直撃させることは滅多にない。それを炸裂させたのは,先日の学会くらいだっただろう。

 何も言えなくなるのなら,発表などしなくてよい。

 大学生よりも,大学院生は,自己満足のかたまりに見える。

 礼儀を失い,社会性を失い,実社会での有用性を失わせる大学院の成果は,

 日本の場合,「垂直的な学歴の軽視」に直結している。

 「マスター」やら「ドクター」やらと,・・・聞いて呆れる。

 現場で役に立っている姿こそが目にしたいものである。


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J教育大学附属学校の存在意義のなさ

 J教育大学のセンセイが書いているので間違いはないでしょう。

 J教育大学の教育実習生が附属学校にほとんど世話にならない。

 教職大学院は全く世話にならない。

 それは当然なのだ。なぜなら,「普通の学校」ではないから。

 障がいをもっている子どもはいないから。

 教員養成のための大学には,今のような附属学校は必要ない・・・・という主張。

 有識者による会議でも,そういう指摘はいくらでもあるでしょう。

 私も,附属学校の出身ですが,中学入試で入りました。

 当時,「国立」を選ばされた理由は,学費が安いからでした。

 入学して驚きました。かなりの数の生徒の親は,超高額所得者です。

 医者や弁護士,会社社長の子どもがごろごろいます。

 みんな教師をなめていました。

 こんな附属学校は,必要ない,と私も生徒のときは思いました。

 では,どうすればいいのか。

 抽選だけで,生徒を選べばよいのです。

 もちろん,抽選に応募してくる家庭がみんな裕福だったら,今と変わらないかもしれません。

 もし「一般の学校の縮図」である附属学校でないと存在意義がないと主張するのであれば,

 附属学校を廃止するか,学力による選抜をやめるか,どちらかにすべきでしょう。

 ただ,私は母校である附属学校で教育実習をして,気づきました。

 J教育大学の附属学校には失礼かもしれませんが,

 教育実習というのは,今まで自分たちが育ってきたのと同じ環境で授業をするのもよいのですが,

 優秀な教師と優秀な(これは単に学力が高いというわけではありません)生徒に囲まれて3週間を過ごすことの意義も,決して小さなものではありません。

 生活指導とか,道徳教育とか,部活動などは,やろうと思えば教育実習以外にいくらでもできます。

 生活指導だけのために人を雇う制度がある地域も存在します。

 一般の学校だと,こちらにウエートがかかった実習になりやすく,現場の仕事に近いといえば近い経験ができるのですが,そんなものは,現場に入ってからいくらでもできるのです。しかも,学校ごとに事情は全く異なるので,異動するたびに「学び」ます。

 しかし,授業に正面から向き合う経験は,教育実習期間しかありません。

 自分で悩み,考え,苦しむ経験として,これ以上に最適な期間はない。

 現場に入ってしまうと,初任者研修がある期間でさえ,授業に正面から向き合っている暇がなくなります。

 授業力がなく,ほぼ「やっとけ」系の「活動あって学びなし」授業しかできない教師が増えてしまうのは,教育実習で教材研究力,授業実践力が養われないことにも原因があります。

 中等教育の場合,私の経験の範囲内ですが,教員養成系の大学の卒業生より,一般の大学の卒業生の方が優秀に見えてしまうのはなぜでしょうか。

 よく,「教員養成系大学のセンセイはいったい何を教えているんだ。指導案は書けない。知識はない。やる気もない。こういう実習生は本当に困る」という声を聞きます。

 それは,教師になる資質や能力に欠けているのに,教員養成系大学に入学してしまったことが最大の原因でしょう。教員養成系大学のセンセイは気の毒です。こういう人も,教育実習に行かせたり,採用試験に合格させなければならない。

 しかし,「教育実習で大化けする」人間を私の場合はたくさん見てきました。自分自身もそうだと思っています。

 附属学校は,授業力の育成に最大の効果を発揮するはずの場なのですが,もしそういう機会が得られないのであれば,教育実習で附属学校に行く必要はないでしょう。


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「観点融合型評価」を標準的なものにすると,どのような波及効果が得られるか?

 客観的な正しさなど合理的な説明がつく評価にすらなっていなかった観点別評価である。
 
 イノベーションが求められる社会では,そもそも万人が認めるような指標で評価されるような力だけで人間を判断してはならない。

 これからの社会を生きる人間に必要な能力,そういう人間を育てる環境とは何か。

 『電気製鋼 第86巻2号』に掲載されている杉本諭さんの随想『今,問われる,失敗できる力とできる環境』から,一部を引用させていただく。

>「失敗」を成功に導くような研究イノベーションは,湧き出る興味から知識と経験に基づく鋭い直観力と洞察力,さらには研究を継続できる気概と耐力をもち,一つの現象に対しても複数の評価指標をもった研究者によって生まれると私は信じる。同時に,研究者の多様性と自主性を重んじ,融合が図れるような組織としての「環境」も大切と感じる。

 直観力とは何か。

>「直観力」と言うと,突然,神の啓示のようにふってくるものと勘違いしてしまいがちであるが,直観は「何かが違う」ことに気づく「経験」と「知識」があって初めて働く。これが,一つの指標にとらわれず,多くの指標を用いて一つの現象をとらえることができる力,まさに田中耕一氏が言われる「失敗」を「成功」につなげる力である「洞察力」の原点と思える。

 学校教育の中核的な目標が「直観力」の育成にあるわけではない。

 しかし,せめて「単一の指標で評価しない」こと,せめて「複数の指標を組み合わせて評価する」ことを実現することで,「新たな評価の視点」も生まれてくることが期待できる。

 私は社会科で第5の評価の観点として「発想力」「アイデア力」を定めていたが,こういう観点が評価できる指導を心がけてきた。

 評価が抜本的に変われば,指導が変わる。

 指導が抜本的に変わらないと,21世紀型能力を身に付けさせることはできない。

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「観点融合型評価」とは何か?

 一つの観点から学習活動の成果を見るのではなく,いくつかの視点を融合したかたちで判断できるようにすること。

 これは,「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力」を組み合わせればよい,というわけではない。

 当たり前の話だが,「知識」と「技能」の組み合わせも,「思考力」と「表現力」の組み合わせも無数にある。

 「知識」には「具体的事象に関する知識」と「抽象的な概念に関する知識」が組み合わされていることで,思考し判断するために活用することができるようになる。

 地図や統計を読み取る「技能」と,読み取れたことを編集して分布図やグラフに描く「技能」が組み合わせることで,思考に役立てることができる資料になる。

 「思考」でも,「垂直思考」と「水平思考」,「拡散思考」と「収束思考」を組み合わせることが必要である。

 組み合わされた「知識」や「技能」や「思考」などがいかにうまく結びつけられているかを評価するべきで,これを「観点融合型評価」と私は呼んでいる。

 単に「観点別評価」を組み合わせればよい,という単純なものではないことを確認しておきたい。

 観点別評価を「足し算」するような発想では,学力の評価にはならない。

 観点別評価の「二乗」「三乗」・・・が「観点融合型評価」の特徴である。
 

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「観点別評価」ではなく,「観点融合型評価」の実施へ

 先日,ある社会科の授業を参観された先生から,唖然とするような実態をお聞きする機会があった。

 授業の流れは,次のようなものである。

 教科書を読む。

 課題が与えられる。

 グループで話し合い,答えを書く。

 先生は,どのグループもすばらしい文章で答えがまとめられていたので,すごいと思ったそうだが,よく読むとみんな同じ答えだったそうだ。

 なぜか。

 どのグループも,教科書の文章を丸写ししていた。

 ・・・・これは,断じて社会科の授業ではない。

 地図を用いない地理の授業はない,というのがその先生の主張だが,問題はそれどころではない。

 国語の授業も似たようなことが行われている気がした。

 なぜグループになるかというと,おそらく「みんなで答えを探した方が,全員が探し終わるのが早くなる」からだろう。

 これが『学び合い』の「実践本」で読んだ授業のレベルである。

 社会科の教師には,何の専門性も求められていない。

 教科書があれば,だれでもできる授業である。

 
 こういう授業が行われている背景には,とにかく「全員ができなければならない」とか「毎時間,評価をつけなければならない」「計画通りに授業を進めなければならない」というプレッシャーがあるからだろう。

 その評価も,「観点別」に行うことで,かろうじて,「おおむね満足」を全員にあげられるという程度のものである。

 「観点別評価」というのは,学力の要素をばらばらにして,あたかも別々のものとして評価できるような錯覚に陥らせた仕組みである。

 学力の要素はばらばらなものではなく,互いに密接に結びついている。

 だから,「観点別」に評価しようとすると,「この穴埋めができているんだから,知識があると判断できる」などという「知識・理解」のイメージが成立してしまうのだが,そんな知識の中には,授業が終わって何時間か何日間か何週間かたてば,みんな忘れてしまうようなレベルのものがたくさん混じっている。

 「観点融合型評価」を実施する,ということになれば,学習指導自体が「本当の学力」をつけるためのものになり,上記の授業スタイルなど成立しないことが明らかになる。 

 一日も早く,「観点融合型評価」が標準的になる日が来ることを望む。


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「負の効果が大きい評価」の研究

 見かけ上の「知識」を活用する能力がつかないまま,上級校に進学していったり,社会に出て行ったりする人が増えている。

 だから,「21世紀型能力」の育成が求められるようになった。

 「21世紀型能力」を育てようと思ったら,あらかじめ枠が決まった「評価」などをしている場合ではない。

 そもそも「21世紀型能力」の目標が達成されていない授業を繰り返しているから,「知識」は単なる見かけ上のものになり,それが活用できない子どもが増えているのである。

 今までの「思考力・判断力・表現力」の根拠になった資料を徹底的に再点検していただきたい。

 「そんなもので,思考力をはかっていたのか!」と憤る保護者がどんどん増えてほしい。

 ぜひとも,これまで時間ばかりかけて無駄だった「評価」に関する「負の効果」の研究をする学者が出てきてほしい。

 効率よく知識を得るような授業で実力がついている錯覚に陥っている人間を,教師にしてはならない。


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大地震に対する備え

 防災教育がいかに重要か,どれほどの価値があるかに気づくのが,首都圏で直下型の大地震が起こり,東日本大震災や関東大震災を上回る被害が出てからでは遅い。

 一部の人々は,ニュージーランドの地震後,水や食料の自主的な備蓄を増やしているようである。

 マスコミがいたずらに危機をあおることは,むしろ逆効果となるから,「日頃から」の防災意識がとても重要である。

 命を守るための教育はもちろん,多くを失ってしまった場合,「その次に何をしたらよいのか」をしっかりとシミュレーションしておくことも重要である。

 指揮・命令系統がずたずたになるケースも考えられる。

 今,想定されている中枢が機能しなくなることを考えた場合,最も大切なのは

 「自助」と「共助」である。

 現代版の「隣組」を組織する必要がある。

 自分も含め,隣人たちの命はすべて大切なものなのだという意識を多くの日本人はもっていると思う。

 心配事が増えるが,同時に安心できる理由が増えることの方が重要である。

 心配事が減っても,安心できる理由が減ってしまっては意味がない。

 大地震に備えよう。


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悪役を演じる→注目を集める→選挙に勝つ→善人になる→支持率を高める

 アメリカのプロレスでは「悪役」の方が人気があるらしい。

 「悪は悪,善は善」という文化だと単純には言い切れないのだろう。

 株価が下がれば,大問題だ,大変だ,と大騒ぎ。

 株価が上がれば,期待が持てるのではないか,意外とまともなのでは,と見直す。

 「安定」よりも「成長」が求められる中では,

 「変化」に対する期待が大きくなる。

 それにもしても,これだけ短期間で評価がコロコロ変わる人も珍しいのではないか。

 4年程度のスパンで最善を尽くすことを繰り返すことで,本当の成長は得られるだろうか。

 科学技術の進化の加速度は増しているかもしれない。

 ただ,日本の少子高齢化にしろ,世界のグローバル化にしても,

 「変化の激しい時代」という刷り込みは,「変化」があるだけで利益が得られる人々が作り出した神話ではないか・・・などといった疑問がいろいろとわいてくる。


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7つの感謝

 昨日は,道徳やアクティブラーニングに関する発表を行い,700名を超える方々にご参加いただきました。

 手元にあるだけでも数十通のアンケートを当日提出していただき,教育活動に対する共感を賜り,感謝に堪えません。感謝の気持ちを伝えたい方々を列挙いたします。

****************

1 発表した生徒たち

   直に生徒の「豊かな言語活動」にふれていただくことによって,研究成果を実証できました。

2 参加された方々,会場で質問をあげてくださった方々
 
   現場の先生,学生,大学の先生など。生徒の発表に対してとても熱心に耳を傾けていただきました。

   「寝ている人もいたよ」と生徒が言っていましたが,私の角度からは見えませんでした。

   遠方から身銭をきって来校していただいた方々に,目には見えない貴重なお土産をお渡しすることができたかどうか・・。

3 発表に参加した卒業生

   研究成果への信頼性をさらに高めてくれました。

   この卒業生と私がどのような「縁」で結ばれているのか・・・意外な「真実」に驚かれた方も多かったようです。

4 発表を見守ってくださった先生方

   現職の先生方はもちろん,ご退職された先生方,他校に異動された先生方です。

   特に進行役をつとめた私の目線の正面にいらっしゃった先生方の表情を拝見することで,安心しながら会を進めることができました。

   この先生だったら,ここでこんな突っ込みを入れるだろうな・・・と想像しながら,一人何役かで進行ができました。

5 発表に参加できなかった先生方,役員の保護者の方々

   生徒の発表を見ることができなかった方々です。発表会全体の運営を支えるスタッフが滞りなく仕事をしていただいたおかげで,全体会もスムーズに進行できました。

   当日の様子を,ぜひビデオで見てみたい,とおっしゃっていただいた先生方にも感謝です。

6 アイデアをいただいた先生

   ある大学で行われたフォーラムで紹介されたネタを活用しました。ネタの捉え方が恣意的で,「これじゃダメだな・・」という気づきから,批判的・創造的に活用させていただきました。

7 お天道様

   金曜日の天候はよくなかったのですが,昨日は晴れて気温も高かったので,快適な環境で会が運営できました。


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理論に子どもを合わせるとどうなるか?

 教育は理論で子どもたちが救えるのだろうか?

 他よりはまし,という教育の理論では,子どもは救えない。

 というより,理論で子どもを救おうとすれば,

 子どもを理論に合わせるような行動を教師はとるだろう。

 逆である。

 子どもに理論を合わせるべきなのである。

 視野の狭い人間は,きっと「理論通りにやっているのにうまくいかない」と悩んでいることだろう。

 「理論が誤っているかもしれない」という発想がなく,

 子どもの真実を見ていないからである。

 子どもの真実とは,自分のような人間の言うとおりに動くことなのか,という問いを自分自身に投げかけてほしい。

 理論のせいでダメになっているのではなく,

 すべて自分のせいである。

 教育は子どもありきであり,理論ありきではない。

 理科の実験のように滞りなくいくと思ったら,大間違いである。


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批判している人と批判されている人が主張している同じこと

 教育理論らしきものを主張している大学教授と,言葉汚くそれを批判している元教員がこのブログ村に棲んでいる。

 批判はただ一方的になされているだけなのだが,両者が全く同じ主張している部分もあることに,おもしろみを感じる。

 共通点も一つではない。

 動画サイトで自分の話やら演奏やらを公開しているという点も共通している。

 私などは恥ずかしくてそんなことはできない。匿名だからこそ書けることもある。

 両者とも同じことの繰り返しばかりで,内容がほとんどないという共通点もある。

 また,自分のブログに共感的なコメントが入ってくると,やたらとへりくだってやさしい対応をする。

 逆に批判されると無視するか「倍返し」を行う。

 などというものである。


 さて,「同じ主張」というのは,


 「お前の専門は何なんだ

 「自分の実践も紹介できないのに,偉そうなことを言うな

 「自分の実践をブログに載せろ

 というものである。

 

 たかがブログで,自分の専門なり業績なりを書き連ねる必要はないだろう。

 学長だの学会長などといった「立場」は日本ではただの「お飾り」にすぎないことはだれでも知っている。

 なり手がなくて,イヤイヤやらされている人を私も知っている。

 国や県の研究指定なども,成果がすでにあがっている学校なら,自分から手を挙げることはない。

 ほとんどが声をかけられてやらされているだけである。

 どういう校長がそこにいるのか,調べてみればすぐにわかる。


 
 もちろん,本気で改革に乗り出したくて,学長選に手を挙げた人もいるだろうが,最後の壁=お金の出所が破れなくて任期切れになるケースがほとんどだろう。

 研究発表を通して学校が生まれ変わるほどよくなったところもあるだろう。

 ただ,短期間に良くなった学校は,同じように短期間に崩れていくものである。

 本当にその人から学びたいと思っている人たちは,わざわざ「呼ぶ」ようなことはしない。

 「呼ばれたから行く」という時間があるということは,本業をしないですむ時間が多いということである。

 小学校の現職の教員で,出張ばかりしている人を知っているが,その人のクラスがどうなっているかまでここでばらすつもりはない。

 ただ,想像してみてほしい。この人,担任じゃないのか?今,子どもの面倒はだれが見ているのか?
 
 それは,だれのせいなのか?

 「本物」に本当にふれたい人は,自分から進んでその人のもとにいくものである。

 大勢が集まる研究会に出て行っても,直接会話できる人間は数が限られる。

 会話もできないのに出かけていくほど教師は暇ではない。
 


 また,「権威」や「看板」に頼らなければ主張ができず,支持されないようでは,「本物」ではない。

 「本物」が何かを証明するのは,論文の数でも講演の回数でもない。

 自分の「教育」の成果である。

 「教育」の成果は,全国大会で優勝したとか金賞をとったとか,そういうことではない。

 だれからも「良い先生」「よい生徒」と思ってもらえるような人間を育てられているかどうかである。

 もちろん,そんな「成果」も簡単にはつくれない。

 
 常に評価にさらされることで,「成功」のハードルが下がっていくタイプの人間がいる。

 「こんな授業が,本当に成功したと言えるの?」と突っ込まれて,むかついているようでは,成長の先が見えない教師になってしまう。

 大学の内部事情をもらしてしまうような教員が,鼻つまみ者であることくらい,だれでもわかる。

 自分のせいで同じように校内で浮いてしまうタイプの教員が増えていることに気づいているのだろうか。

 
 内輪の作文で評価されたり,肩書きで信頼される時代などとっくに終わっている。

 それが通用するのは大学という社会との隔たりが大きなガラパゴスの中だけの話である。

 新しい時代を古い時代の方法で変えようとする人は,「銀座で山を買う」ことを目標としているのである。

 
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教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している

 最近,コンピテンシーは「21世紀に求められる大切な資質・能力」という意味合いなり文脈で語られることが多くなったが,このブログで10年以上前から紹介しているように,もともとは「企業で高い業績を残している人に多く見られる行動特性」を意味する言葉である。

 21世紀には,組織ではなく個人の仕事で高い業績を残せる仕事も多くなっていくから,コンピテンシーのすべてを身に付ける必要はなくなっていくだろうが,やはり「基礎」の部分ができていて,さらにその上をいくために何が必要かを示しているのがコンピテンシーである。

 いまやコンピテンシーといえば,「資質・能力」に読みかえられて基礎の基礎をも含む概念になりつつあるから,何でもありになってしまった。

 コンピテンシーの中核として,「思考力」が挙げられるのは当然である。客観的で科学的なデータをたくさん集めて,根拠をしっかり示し,明確な論理で説明できる人は,信頼性も高くなるから高い業績を残すことが期待できる。

 ただ,それだけでは足りないことに多くの人が気づいている。

 教科独自の「見方・考え方」を働かせて「深い学び」を実現させようという考え方自体が,「教科」にこだわり,タコツボ型大学教師たちの既得権益を守ろうとする,硬直的で一面的な「見方・考え方」しかできないことを示している。

 行政主導のカリキュラムマネジメントの典型的な失敗例である。

 「思考力」の分野でも,従来型の「アナリシス」重視から「アナロジー」重視へのシフトが欠かせないのは,高いレベルというより異なった次元の能力が求められるようになっている。

 霞ヶ関に寄せ集まって,「銀座で山を買う」式の行動に出ていることに,気づけない人が多いことが気の毒である。

 「総合的な学習の時間」が破綻している今,現場に余裕がないことくらい,だれでもわかる。

 子どもの主体性や意欲を最大限に発揮できるはずの「総合的な学習の時間」に,「学力向上」のための算数のドリルをやっているようでは全くの無意味である。

 「総合的な学習の時間」の意義を語れる「人材」がいないから,時数削減は当然の成り行きだろう。


 「大学入試が変われば,教育が変わる」という考え方の安易さにも,そろそろ気づく必要があるだろう。

 分析によって「評価」が可能だった能力から,そもそも簡単に「評価」なんてできないくらいの創造性の高さが求められているわけだが,それを「大学入試」などという「主観性」を排除すべき場で導入するのは無理なのである。

 「理由は説明できないが,この論文を気に入った採点官が多かったから合格」と言える仕組みが整えば,大学入試問題は変えられる。

 教育現場での評価はより「主観的」で「独善的」でかまわない。なぜなら,各学校での独自のカリキュラムがあり,目標としている能力が異なるから。・・・・というくらいの教育観の変化が求められているのが今の社会である。

 今の「絶対評価」は,指導の中身が伴っていないにもかかわらず,学習指導要領に示された目標に準拠したかたちの評価になっているから,そもそも信頼性に乏しいものであることは明らかである。そこに信頼性があれば,「入学試験」でわざわざ学力を測定する意味はない。

 画一化された入学試験がなぜ大切かと言えば,それは学校ごとの評価があてにならないからである。

 しかし,「あてにならない」ことは正しいのだが,本来は主体性を発揮している学校ごとの指導の重点が異なるのだから,「あてにしてはいけない」という発想で入学試験を用意しなければならない。

 新しい学習指導要領が本当の意味でのコンピテンシーを育てるものになるかどうかは,各学校のカリキュラムがより創造的で自由度が高いものになっているかどうかで判断できるだろう。


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「教師にとって生徒とうまく人間関係をつくっていけるような人柄が大事」と思っている若い先生に向けて

 人間関係構築力は,教師にとって最も重要な能力であることは確かである。

 しかし,「人間関係」にかかわる能力は,「個人」の資質や能力だけで決まるものではない。

 「個人」がどのような「個人」と長い時間かかわっているかが,その能力の伸び縮みに大きな影響を与えている。

 他の学校の先生の悪口ばかりを言っている教員の近くに長くいれば,自分も似たような教員になっていく。

 小言ばかりを子どもに投げかける教員が担任だと,子どももやがて小言ばかりを口にするようになっていく。

 子どもの声を聞かない教員が担任だと,やがて子どもも担任の言葉を心で受け止めようとしなくなっていく。

 よい教師になろうとしたら,よい教師と一緒に長い時間過ごすべきである。

 できたら,その教師のよい面が発揮できている場面で一緒にいるべきである。

 そして,子どもにも同じように接するべきである。

 子どもの悪い面が出たときの「生活指導」のときだけ接近するのではなく,

 一人一人の子どもの良い面が出ているときに近くにいるべきである。

 別に,話しかけなくてもよい。余計な口をはさまなくてよい。邪魔をしない。

 先生に「見守られている」という安心感を子どもが持てるようになっていくと,子どもに自信がついてくる。

 いちいち教師の助言を求めたり,顔色をうかがっていて,そこで先生が出て行ってしまうと,子どもは成長できない。

 小学校の教師が自校の先生ではなく,専門性の高い教師のところに出張していって授業を参観したり,協議会のあとの飲み会に参加することは,そういう意味では大切なことである。

 中学校という職場では,なかなか外に出かけていけないが,学年のメンバーなど,いつも一緒にいる教師がたくさんいる。そこに「これは」という先生がいると,自分もいいところがたくさん吸収できるはずである。

 
 優れた教師は,優れた子どもと優れた教師によってつくられるものである。

 大学の教職課程で養成できる範囲は限られている。

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気づかれないことのつらさ

 いじめられていることを先生が気づいてくれないとき,子どもはとても傷つくものである。
 
 話し合い活動を楽しそうにしているものの,実際にはとてもつらい時間を耐えていることを先生が気づかずに,ふらふらと教室を歩き回っている様子を見るのも,子どもにとってはとても居たたまれないものである。

 「気づかれない」ことのつらさを話題にしたのは,

 ニュースで青森市長が辞職した理由と関係がある。
 
 青森駅前の商業ビル「アウガ」を運営する第三セクターが,経営難に陥り,その責任を取るという話らしい。

 私はつい先日,青森駅近くのホテルに2泊していた。

 少し駅周辺も歩いたが,「アウガ」という商業施設があったことには気づかなかった。

 青森駅を降りると,左手側=海側に,「ねぶたの家」の建物がすぐに目に入る。

 さらに歩くと,「アスパム」という三角形の形をしたビルに目が行ってしまう。

 駅前通りの「アウガ」に気づかなかったのは,そういう理由もあるのだろうか。

 最初に記事を読んだときに,駅の反対側の出口の前に立っていたのかと思ったが,そうではなかった。

 駅前のビルの立地で大事なのは,「目立つこと」だろうが,そういう条件は満たしていない建物だったのだろうか。

 地方都市の商業については,フィールドワークをした経験があるが,聞き取り調査ができるほど歩行者がいないというのも悲しいことである。

 
 コンパクトシティ化を進めたい行政と,郊外に住んで車を利用したい市民の折り合いをつけるためにはどうしたらよいのだろうか。

 新しい市長候補の主張に注目していたい。


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評価できないものの評価はせず,ただ励ますことだけに徹するべし

 これからの時代は,評価の研究がさかんになるだろう。

 だが・・・・21世紀型能力を育てたい学校現場で最も求められるべきことは,

 「評価できないもの」は「評価しないこと」である。

 多様性や創造性が求められる時代に,

 何かの枠をつくって,その枠内でこれだけできたからAだBだといってみたところで,

 それはやはり決まり切った価値観の中だけで通用する価値にすぎない。

 「~をやったから~ができるようになった」といちいち評価して,

 「みんなの力を借りて~をやっても自分はできないから,~はしないようになった」という子どもを増やすよりは,

 「~をやったら~をしたくなった」という場面をたくさんつくって,できなくてもやってみたいことを増やしてあげるような機会の提供に教師は専念すべきである。

 もし評価がなければ仕事が始まらない,というのであれば,

 子どもが「今やりたいと思っていること」の数がどれくらいあるかで評価してあげたい。

 先日の学会でも,一部で評価に関する研究発表があったが,

 「銀座で山を買う」ことを追い求めているようにしか見えなかった。 

 日本人はとても真面目だから,

>あなたの成績は「3」(おおむね満足)ですよ。

>生活態度は「ふつう」ですよ。

 と言われると,相対的には自分より高い評価を受けている人がたくさんいるわけだから,「自分はそんなもんか」と思ってしまう。

 自分に対する評価は「高くはない」わけだから,自分はその程度の人間だと自覚する。

 それが「客観的データに基づいている」「妥当性の高い評価である」ことが前提だと,

 低い評価をくらった子どもは,自己肯定感を低くする絶対的な根拠になりうる。


 
 21世紀型能力を子どもが育てていくために必要なのは,

 教師が「評価」することを前提にした指導ではなくて,

 子どもが「前向きに行動」することを前提にした指導である。


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教師の人柄は教え子に伝染する

 昨日まで,弘前で開かれていた学会に参加していた。

 自分の発表はないので,今回は「人間観察」に徹することにした。

 大学の先生が教え子を引き連れて遠路やってくる姿は微笑ましい。
 
 よく見ると,教え子の大学生(大学院生?)のふるまいが先生そっくりだったりする。

 大学名を見ずに発表を聴きながら,もしかしたら○○先生のところの?と思ってプログラムを見たら,当たっていたという人もいた。先生は発表時間が短く終わってしまったことを気にされていたが,内容はすばらしく,質疑応答も活発だったし,「学びたい」「ご意見をうかがいたい」という思いがストレートに伝わってきたので,やさしい参加者が大勢答えていた。指導にあたられた大学の先生も,とても謙虚な方である。

 一方で,私のイメージではとても古いタイプの,やたらと偉そうにしている先生もいるが,その教え子もまるでコピーのように態度がでかかった。何体も同じようなコピーがあるわけではないと思われるが,行政にいた立場からすると,「こういうのはまず面接で落とされるな」と直感してしまう。

 電車の中でいっしょになった大学生の話にも耳を傾けていた。

 教育実習の感想をもらしているところだったが,何でも,自分は部活をやっていなかったと・・・。大学で運動部にいた人の指導を間近で見たのだろうか。自分には,顧問はできそうにないと・・・。土日が潰れるのもやだ。

 はい,はい。中学校の先生には向きません。大学に残って研究を続けて下さい。

 何て言うのは気の毒だから,「そういう中学校もあるけど,そうでもない中学校もある。運を天に任せてみたら」と言ってあげたくなった。

 私の専門の野球の顧問になれたのは,教員になって7年目だった。

 教科と違い,部活動の顧問は「空き」がないとできない。

 「空き」がでたときに,なり手がいないと若い人に押しつけられる。

 たいへんだ・・・。

 採用試験に合格したらの話だけど。

 
 ふと,思った。自分はだれに似て(しまって)いるのだろう,と。

 大きな影響を与えてくれた先生は小学校中学年の年配の男性教師である。

 次は小学校低学年のやはり年配の女性教師。

 中学校や高校の先生は,複数になるが,それぞれのとても好きな部分が自分の中で生きている気がする。

 大学の先生は,みんなやさしかった。

 野球部基準で卒論を認めてくれたことに感謝している。


 こんなこと言うと怒られるかもしれないが,教員養成系の大学の学生は,みんな「同じ」に見えてくる。

 大学の先生が一律の「てあつい」指導をしているからだろうか。

 画一化された製品をつくるのは効率がよい。

 ただ,すべてが在庫のまま終わる可能性もある。

 そこまで熱を入れないで勝手にがんばるタイプの人間が教師には最も向いている。

 人材はほかでいくらでも確保できる気がするのだが・・・。

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人間の本性が見えやすくなるとき

 人がこちらをどのように思っているか・・・私は心を読むのが得意である。

 目と表情と呼吸などから判断しているのだろうが,人によってはそのまま心に入り込めるような感覚になるときがある。

 ここしばらくは,私が見た目でわかる大きな怪我をしていることから,相手の心がより見えやすくなっている状態である。

 空港で案内をしている女性の,おそらくマニュアルに反していたことに気づいたことによる「しまった」の瞬間を私は見逃さなかった。

 私に対して申し訳ない,という謝罪の気持ちよりも,気づけなかった自分を悔いている表情だった。

 人は,謝罪するときは「ごめんなさい」「すみません」という言葉を使うことを教育されている。

 しかし,その言葉を使うことと,謝罪する気持ちになっていることは別の話である。

 怪我が治るまで,嫌でも人間観察ができてしまう。

 人の本性がわかるということは,・・・特に,よくないことがわかってしまうときは,あまりよい気持ちではない。

 信頼関係が深まる人がいる一方で,「あとで嫌なことを言われないうちにいい態度をとっておこう」とする姑息な気持ちまで見えてしまうのもつらいことである。


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「直感」の正体とは何か?

 何かよからぬことをたくらんでいることが「直感」でわかるのはなぜか。

 成績が上がる子どもとそうではない子どもが「直感」で区別できるのはなぜか。

 初めて会ったときに「力のある先生」と「ふつうの先生」を「直感」で見分けられるのはなぜか。

 なかなかその理由を説明するのは難しいが,読書編でご紹介する以下の言葉はなるほどと思った。

>私にとって自分の直感はもっとも信頼できる意思決定の指針なのです。直感というのは,何も天から降ってくるものではありません。何か課題を与えられると,脳は無意識の領域でも自分の脳内にストックしてある知識や情報を検索し,さらにそれらを足したり引いたりして最適解を導き出します。これが直感の正体です。

>つまり,直感というのは,その計算のプロセスを自分でも意識できないほどのスピードで「脳をフル回転させて得たアウトプット」であり,言語化はできなくても,単に直情的に行動するのとはまったく違う性格のものなのです。

>そして,この直感は「ストックしてある知識や情報=インプット」の量が多ければ多いほどその精度が上がります。

 最近の教育改革は,インプットからアウトプットへ,経済で言う「ストック」から「フロー」へ,コンテンツからコンピテンシーへとその重点をうつすのが潮流ですが,インプットやストック,コンテンツがいかに重要かがわからない中途半端な人たちが思い込みでことを起こそうとすると,本当に中身がからっぽの人間が増えていく気がします。

 コンピュータが大好きな人は,囲碁や将棋などルールが決まっているゲームではなく,新たなルールを築いていかなければならないこの世界を乗り切れるほどの力を人工知能が本当に発揮できるか,人間の脳を超える可能性をどれだけもっているか,論理的に自分の脳で説明することができるのでしょうか。

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日本は安全・安心な国ではなくなったのか

 ニュースで教員による犯罪が報道されると,「学校の先生は信用できない!」という印象が高まるが,実際に報道されている犯罪行為,違法行為はごくごく一部にすぎない。都道府県の教育委員会は処分を決定する立場にあるので,すべての事案を把握しているが,これをすべて報道するとなるとそれだけでニュース番組ができてしまうほどである。

 ここ最近,「通り魔」的な殺傷事件,高齢者や若者が通学途中の児童をはねる事件が相次いでいる。

 報道されていない事件もあるはずである。

 我が身や我が子が被害を受けることはまずないだろう,ととらえている人が多いだろうが,心配性の人は,以前に増して不審者や自動車への注意を心がけるようになっているに違いない。

 日本をヨイショする内容の番組はある程度の視聴率が狙えるだろうが,犯罪関係で「日本はこんなにひどい国だ」という印象を与える内容を報道する番組は,ほとんど放映されない。

 社会に対する不満をおさえ込む方法はたくさんある。

 ただ,「おさえ込まれる」ことによってためられたエネルギーは,どこかで爆発するときがくる。

 どこかの国と違って,日本には「あの国のせいだ」と不満の目をそらすための相手がいない。

 どのようにして「ガス抜き」をはかればいいのか。

 刑事ドラマをどんどん流して,「悪が倒れる」ことによる「すっきり感」「爽快感」を残していけばいいのか。

 企業を題材にしたドラマでは,いやな上司や権力側をぎゃふんと言わせていればそれでいいのか。

 もうその段階ではないと思われる。

 どうしたら教師の犯罪行為から我が子の身を防ぐことができるのか。

 どうしたら日常生活の場で,命の危険から身を守ることができるのか。

 リスクをコントロールできる能力をしっかりと身に付けるための教育が求められていくに違いない。


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「職業高校」という教育上の死語を使う時代錯誤人間が考える未来像

 教員採用試験では,「職業高校」などという言葉を口に出した時点で,私だったら採用の見込みをゼロと判断する。

 「実際に,商業高校や工業高校だってあるじゃないか」と反論されるかもしれないが,

 こうした職業のための教育は,普通科の高校だって行うべきである。

 ただより専門性の高い教師が専門的な内容やスキルの習得に重点をおけるようにしているという意味で,「職業高校」は「専門高校」に改称されることとなった。

 時代錯誤人間の未来予測に科学的な根拠があるなら素晴らしい。
  
 しかし,教員養成の世界に身をおくのであれば,無責任な発言は慎むべきだろう。

 一つの道の専門性だけで食べていける時代ではなくなっていることは,企業の実態を見れば明らかである。

 普通教育の充実を図るべきとき今にあって,何十年も前の感覚で無責任な言葉を垂れ流し続けるのはやめてほしい。

 持論に従って身を処するなら,「職業教育」の専門家の看板を掲げるべきだろう。

 何の専門性があるのかは知らないが。

 「知らない者同士が教え合った方が効果が高い」という話は,「職業教育」でなら通用するのか?


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「校長がいればよかった」という単純な話ではない

 校長は出張が多い。現場に実際にいる最高責任者は,副校長や教頭であることが多い。

 何かの重大な事件・事故が起こったとき,校長と連絡がとれない,という事態は避けなければならないが,

 災害などで「電話やSNSがつながらない」というケースは考えられる。

 
 また,校長は学校の最高責任者だといっても,最近は,問題のレベルが高くなるとすべて教育委員会に指示をあおいでからしか行動できない校長も増えている。

 校長にとっては「自衛策」「安全策」ともとれるが,見方を変えれば「自分で責任をとりたくないのだ」ととられる。

 校長がいても,結局「教育委員会の指示待ち」になってしまえば,いないのと同じことになる。


 現場を知らない人間は,自分の都合のよい解釈しかできないし,

 事実と異なることを自分の解釈の根拠として示してしまう欠点がある。

 
 校長は一般の教員よりも地域の人々との結びつきが強く,わかりやすく言えば入学式や卒業式に出席する来賓席の前の方の人の意見を取り入れやすいことも知っておくべきだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より