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「教育」ではなく,「教育学」のための「評価」研究

 教育で「評価」を研究する人が増えてきました。

 「指導」の話をするには「指導歴」が欠かせないため,

 研究のための研究をするには,「評価」を選ばざるを得ないという事情もあるのでしょう。

 ただ,「評価」よりも「指導」の方が大切という,教育の世界で当たり前だったことが,

 「教育」ではなく「教育学」の世界で生き残らなければならない人たちが増えて,

 「評価」が研究のための道具になってしまうことはとても残念です。

 「指導」をしたことがある人ならわかると思いますが,

 「指導」の成果や効果は単純なものさしではかることができるようなものではありません。

 身長や体重の測定のようなものではないのです。

 さらに言えば,血液検査のような単純なものではないのです。

 単純な血液検査でも,チェックできる項目がとてもたくさんありますね。

 「評価」とは血液検査のような単純作業だけでも,たいへんな時間と労力がかかるものです。

 「思考力」がどの程度の高さなのか,「理解」の深まりがどの程度であるかを「評価」するときには,

 ただ「難しい」というだけの話ではなく,「それだけを評価することに意味があるのか」という

 大切な疑問を無視せざるを得ないという問題もあります。


 
 「評価」に力を入れようとするほど,

 「学習」の質が落ちてくる危険が高まる。

 「学習」の質が落ちるのも問題ですが,

 「指導」の質も落ちてくることが実は致命的です。

 子どもが誤った理解をしていることを,教師が野放しにしたり,

 教師が誤った理解をしていることを,子どもが鵜呑みにしたりする。

 そうすると,見落としてしまったこと,あるいはそもそも測定不可能な「評価」の対象となる力も落ちてくる。

 こうした学力低下の最悪のスパイラルに気づける人を,「指導力のある人」といいます。

 こういうことは,すでに教育現場で実験され,証明のためのデータがどんどん増えている状態でしょう。

 表面的で一面的な「評価」ではなく,本質的で本物の「評価」を研究する意欲のある人なら,

 これを証明することができるでしょう。

 もちろん,教師の「評価」対象にしない力が育つことはない,というわけではありません。

 しかし,「評価」対象となる力以外は「評価」されないので,記録には残らないのです。

 残すのは「評価」ではなく,子どもの「学習成果物」である,と私が繰り返し言っていることの意味は,「そういうこと」です。

 「評価」とは,あくまでも「一時的なもの」「おまけのようなもの」に過ぎません。

 大切なのは,子どもたちが「発信した内容」とその履歴そのものです。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より