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『学び合い』の欠点は,自力解決できない子,自力解決しようとしない子が,できる子,できた子のノートを写す=自力解決しないですまされる習慣がつくことにあり

 生徒が主体となって動く行事でも,教師はリーダーを中心に相当に指導の手を入れます。

 最も指導の手を緩めてはいけない場面が多発するから,教師はものすごく疲れます。

 授業も同じです。話し合い活動を子どもたちがしているとき,教師は「聖徳太子になってしかも分身の術を使う」という技を繰り出します。

 4人同時に話している10個の班の会話をすべて聞く。

 そして「問題」を発見しては,飛んでいく。

 そうしないと,誤ったことを主張している子どもの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまったり,

 わかっていないのにわかったつもりになっている子どもを増やしてしまうからです。

 
 グループ活動や「助け合い活動」では,喧噪に埋もれて「勉強したつもり」になってしまう子どもが必ず現れます。

 だんまりを決め込む子どもも。

 人のノートを丸写ししたり,言われたことをそのまま文字にする子どもも現れます。

 できる子どものまわりにできる人だかりは,「自分ができるようになるため」であればよいのですが,

 ただ「答えを知るため」だけであっては意味がありません。

 
 限られた時間で決められた内容を扱う「授業」というのは,教師と子ども,子どもと子どもの対話を全員が聞くことで,「理解」できるように設計するものです。

 「できる子どもが教えた方が,できない子どもにとってはわかりやすいだろう」という安易は発想で「任せる」ことは,行事でも部活動でも致命的な失敗を招くおそれがあります。

 教師としての資質に欠けている人たちにとっては,正しい理論なのかもしれませんが・・・・。


 「丸写ししている子どもには,教師が個別に指導に当たる」では,『学び合い』ではなくなってしまうでしょう。

 「子ども」は「子」「ども」で,単数形のようで複数を示せる言葉です。

 確かに,できる子ができない子に教えて理解させることができれば,「子」「ども」による「自力解決」はできたといえます。

 しかし,「子」は「自力解決」できていません。

 「一人も見捨てない」という「意気込み」が,「ノルマ」に転化してしまった時点で,「終わって」いるのです。

 理論があるとか何とか言ってみても,それは自分の主張を正当化するためだけの論理であって,決して子どもたちのための論理とは思えません。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より