「同志」とは,共通の敵と戦う仲間のこと。革命集団がもたらす災い。
「矢面に立て」というアジテーションは,教育の世界における政治活動である。
総攻撃を浴びて教師が倒れるのはいいとしても,最大の被害者は子どもであることを忘れないでほしい。
「不信」「不満」はパフォーマンスを低下させる原因である。
職員室の中で,あるいはクラスの中で,「不信」「不満」の発生源となる人はさまざまである。
「不信」「不満」をもたないようにすればよい,と言ってみても,
実際には「あんな人,いなくなればいいのに」と思われる教員や子どもは存在している。
管理職にとっては,「あんな教員」を,
担任教師にとっては,「あんな子ども」を,自己変革させること,
他からの見る目を変えさせることが仕事なのだが,
管理職は「異動させる」という安易な方法をとりたがり,
子どもたちは「いじめ」という方法をとりたがるものである。
学校を国に置き換えて言うと,教師の中には,
「ナショナリズム」=愛国心(=愛校心)はなく,
共産主義者のように,「インターナショナリズム」=他校にいる同志とともに戦う意思が強い者もいる。
大学には,共産主義者を量産するためのゼミが用意されているところがあるらしい。
「ナショナリズム」や「インターナショナリズム」には,ともに長所と短所がある。
盲目的な「ナショナリズム」や「インターナショナリズム」は,すべての人を不幸に陥れる危険がある。
存在意義のある「ナショナリズム」と「インターナショナリズム」は,自国の人も他国の人も同時に幸せにするものである。
校内や保護者の理解が得られないまま,「インターナショナリズム」に走る教員は,「不信」「不満」を呼び起こすことによって,他の教師たちのパフォーマンスを低下させるおそれがある。
校内全体が共産主義的になり,親を敵にまわして教師と子どもの自己満足だけの学校になることも,近々改正される法律が許さない。
教師は,だれかがやってみてうまくいった教育方法をただ鵜呑みにすることなく,自分の実践を通してその効果を絶えず検証しながら,目の前の子どもが最高のパフォーマンスを示すだけでなく,将来も同じように能力が発揮できるという確信が得られるような教育を考えるべきである。
もちろん教育に完璧などない。だからといって,努力を怠ること,探究をしないことは許されない。
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