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2016年10月

「同志」とは,共通の敵と戦う仲間のこと。革命集団がもたらす災い。

 「矢面に立て」というアジテーションは,教育の世界における政治活動である。

 総攻撃を浴びて教師が倒れるのはいいとしても,最大の被害者は子どもであることを忘れないでほしい。


 「不信」「不満」はパフォーマンスを低下させる原因である。

 職員室の中で,あるいはクラスの中で,「不信」「不満」の発生源となる人はさまざまである。

 「不信」「不満」をもたないようにすればよい,と言ってみても,

 実際には「あんな人,いなくなればいいのに」と思われる教員や子どもは存在している。

 管理職にとっては,「あんな教員」を,

 担任教師にとっては,「あんな子ども」を,自己変革させること,

 他からの見る目を変えさせることが仕事なのだが,

 管理職は「異動させる」という安易な方法をとりたがり,

 子どもたちは「いじめ」という方法をとりたがるものである。


 学校を国に置き換えて言うと,教師の中には,

 「ナショナリズム」=愛国心(=愛校心)はなく,

 共産主義者のように,「インターナショナリズム」=他校にいる同志とともに戦う意思が強い者もいる。

 大学には,共産主義者を量産するためのゼミが用意されているところがあるらしい。

 
 「ナショナリズム」や「インターナショナリズム」には,ともに長所と短所がある。

 盲目的な「ナショナリズム」や「インターナショナリズム」は,すべての人を不幸に陥れる危険がある。

 存在意義のある「ナショナリズム」と「インターナショナリズム」は,自国の人も他国の人も同時に幸せにするものである。


 校内や保護者の理解が得られないまま,「インターナショナリズム」に走る教員は,「不信」「不満」を呼び起こすことによって,他の教師たちのパフォーマンスを低下させるおそれがある。 
 
 校内全体が共産主義的になり,親を敵にまわして教師と子どもの自己満足だけの学校になることも,近々改正される法律が許さない。

 
 教師は,だれかがやってみてうまくいった教育方法をただ鵜呑みにすることなく,自分の実践を通してその効果を絶えず検証しながら,目の前の子どもが最高のパフォーマンスを示すだけでなく,将来も同じように能力が発揮できるという確信が得られるような教育を考えるべきである。

 もちろん教育に完璧などない。だからといって,努力を怠ること,探究をしないことは許されない。


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大川小の教師たちを非難することは簡単。だが,自分たちも同じことをしているかもしれないという自覚をもつべき。

 自分と同じことをしている人間を非難する人たちをときどき目にする。

 自分の机の周りは散らかし放題なのに,他の人たちが整理整頓できていないことに文句ばかり言っている人。

 電車の中で,自分が周囲の人の邪魔をしているのに,自分にとって邪魔な人に対して怒っている人。

 教育ブログでもおなじみの,人の悪口しか言わないのに,自分が悪口を言われるとキレる人。


 
 大川小の教師を非難している人たちの中に,似たようなのはいないか?

 「山に登って子どもが怪我したら,だれが責任取るんだ?」

 という脅し方を教頭にした教師がいるという。管理職をそういう方法で脅す教員はいないか?

 「津波が来ないかもしれないのに,子どもを危険な目にあわせるわけにはいかない」

 という発想。

 「全員がバスに乗れないのだから,乗れる子と乗れない子がいるのは不平等だ」

 とあくまで「一人も例外を出さない」ことにこだわる教師。

 「一人も見捨てない」などといって,「ほとんど全員を殺してしまう」タイプの教員はいないか?


 
 命の危険をともなう決断ではなかったが,

 実は私も「教員の意見が分かれる」同じような場面を震災当日も,翌日も経験している。

 校外に出かける行事中で,電話も不通になったため,引率主任や学年主任は「上からの指示」がもらえない状態に戸惑っていた。

 私は「今,そんなものは必要ない。現場にいるあなたが最高責任者だ」と主張したが,引率主任はいつまわってくるかわからない公衆電話の長い列の中にずっといた。

 学年主任は迷っているだけだった。

 決して責任を取るのが嫌だったというわけではなく,決断するのが怖かったのだろう。

 自信がない。だから,決断しない。これで助かってきた経験がマイナスに働いてしまったのだ。

 状況は,大川小とほとんど同じだったのである。

 避難できる高い建物はどこにもない。

 そもそも,地震で倒壊する可能性があるといって,建物の中には入れなかった。

 そういう状況だったが,避難できる場所を発見して,実際にそこに移動するまで気の遠くなるような時間が必要だった。

 大川小では,低い川の方向に移動してすぐに津波がやって来たので,最後尾にいた教員や子どもはわずかだが助かったらしい。

 ということは,もう少し長く校庭でもめていたら,全員が山に登って助かった可能性もあった。

 だから,一概に「教員たちがもめていたこと」が原因とも言えず,「低い方向へ移動したこと」が直接的な原因だったとも考えられる。

 
 管理職の指示や命令をきかないタイプの教員は,昔はたくさんいただろうが,

 徐々に減ってきているはずである。

 逆に,管理職の指示がないと,何もできない人が増えていないか,そっちの方が心配である。


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不信感は能力を低下させる~日本シリーズ第6戦でカープが負けた理由~

 人間のパフォーマンスを低下させる原因になる要素はたくさんある。

 そのうちの一つが「不信感」であることを,今日の日本シリーズ第6戦で実感することができた。

 広島カープの選手たちには,主審のボール・ストライクの判定に不満があった。

 特に私が感じたのは,本来は「スイング」と見なされ「ストライク」になるはずのファイターズの選手の「ハーフスイング」が,「ボール」と判定されることが多かったことである。

 攻撃時のバッターからも,守備時のバッテリーなどからも,判定への不服の声はベンチ内でもあがっていたに違いない。

 試合終盤で主審から選手のクレームに対する注意がなされたこともあったが,こうした「不満」「不信」は,バッティングにも,ピッチングにもマイナス方向に強く働いていたように思う。

 「不満」「不信」によって集中力を欠いたことが,広島カープの敗因ではなかったか。


 「野球は2アウトから」とはよく言ったものだが,2アウトランナーなしからの猛攻撃は,

 「ピッチャー返し」というセンター方向を狙った基本通りの打撃ができたファイターズの選手たちの能力の高さが発揮された場面でもあるが,ピッチャーの投げているボールが甘かったというのも原因の一つである。

 ピッチャーは,際どい投球を「ボール」と判定されてしまうと,フォアボールを怖れて甘い球が多くなってしまう場合がある。

 主審に対する「不信」「不満」が高まりながらの投球は,本来発揮されるべき微妙なコントロールも狂わせてしまう。
 
 

 4対4の同点に追いついた後,広島カープの押せ押せムードは最高潮になり,選手はもちろんファンの多くが逆転を確信していたはずだが,ショートゴロゲッツーがその流れを止めてしまった。

 6点差に開いてしまった後の打撃のパフォーマンスは,完全に崩壊。

 
 「野球選手は紳士たれ」「判定への不満を表に出すな」という言葉は,単なるマナーだけのため,と思わせてしまうものかもしれない。

 判定への不満は,自分のパフォーマンスを低下させる原因になる。

 だから,おかしな判定も「そういうものだったのだ」と素直に受け入れ,「次の場面」への集中力をさらに高めることを重視すべきである。

 不平や不満ばかりしか書いていない人の文章のパフォーマンスが,何年も同じことの繰り返しで全く進歩していないことの理由もよくわかった。


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一番大変な「クラス」をさらに深刻な状況に追い込む方法

 昔,指導主事の先輩教師が学校で飛び込み授業をしてしまったことが問題視されたという話を聞きました。

 なぜ指導主事は「飛び込み授業」をしてはいけなかったのか。

 授業が失敗したら,教育委員会の権威が下がるからか。

 そうではないんですね。

 ある小学校の校長先生が,道徳のTTを行った理由をそっと教えてくれました(というか,私が真意を聞き出してしまいました)。

 親から様々な苦情を浴びていた担任の教師でしたが,この先生には本当は子ども思いの面があることを子どもたち自身に気づかせることが,TTに入って道徳の授業をしたねらいだったようです。

 そのねらいは成功し,親からの苦情はなくなり,クラスが落ち着くようになったとか。


 「飛び込み授業」のような「ヨソモノ」による活動は,「その後」の学校やクラスに悪影響を与える場合があるのです。

 なぜでしょう。

 「魔法」ではなく,「やがて死に至るかもしれぬ劇薬」をふりまきにやって来る人たちに気をつけましょう。

 まともな教育委員会の指導主事や校長がいさえすれば,被害は防げるのですが・・・。


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コンテンツ・ベースかコンピテンシー・ベースか

 以前にもご紹介したかもしれませんが,世界の教育改革の潮流は,

 コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換です。

 日本の場合,「学習内容は削減しない」ことを前文科大臣が公言してしまったので,

 その両方を・・・というより,コンピテンシーを向上させて,コンテンツへの理解を深めるという「欲張り」目標が設定されてしまいました。

 そのためには,アクティブ・ラーニングを導入しなければ・・・という話になっているのですが,

 一見してアクティブ・ラーニングっぽい学習というのは,コンテンツの質と量が低く「浅い」ことしかしていないから,40人いる教室でもできるわけで,中学校や高校だと,生半可なことでは「深い理解」などさせられないわけです。

 アクティブ・ラーニングの要素として最も重要な「主体的な学習であること」についてですが,

 「教えあって協力してやりない」という指示も実は全く生徒の主体性を無視したもので,

 「先生,あなたがもっと詳しく教えて下さい」というのも子どもの願望に基づく主体的な要求であると言えます。

 重要な情報,必要な情報をしっかりと目で見て,耳で聞いて,書きながら理解する,

 こうした態度を「受け身」としか捉えられず,「主体的に聞く行為」ととらえられない人がいい加減な「理論」で子どもを教育すると,

 人の話を聞かない,メモしない,自分がやりたいことだけしかできない,そういう人間が育っていくのです。

 

 教科書に書いてあるレベルのことが理解できて,はい,その先は・・・・

 というところで,はじめて子どもの主体性が発揮できるアクティブ・ラーニングが始まるのです。

 大学レベルで言えば,教師がある分野への興味関心をかき立ててくれて,

 はい,あとは自分で本を読んで勉強し,優れたレポートが出せれば出席しなくても単位をくれた昔のスタイルが最も主体性を重んじた教育スタイルだったわけです。

 ゼミのスタイルもそれに近いですが,テーマが限られてしまうと学生の本当の意味での「主体性」は発揮できません。人数が少ないので「協働的」な活動にはなるのでしょうが,能力が高くないと「深い学習」まではいかないおそれがあります。

 ある中学校の総合的な学習の時間の発表会の映像が手元にありますが,ゼミで浅い学習しかできていないゲストの大学生が驚いていましたね。

 テーマごとの担当の先生に引率され,さまざまな「専門家」のところにいって聞き取り調査した結果から自分たちの考えをまとめ,練りに練ってから発表していたので,ネットでちょこまかとまとめたようなレポートとは全く質が違います。

 まずは総合的な学習の時間の学習がアクティブ・ラーニングになっていなければお話にならないでしょう。

 気をつけなければならないのは,コンテンツの充実なくして,学習をした達成感は得られにくいものです。

 「深い学習」を可能にするコンピテンシーの研究と,コンテンツの質との相関関係をはかるような研究が必要になってくるのでしょう。 

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「チョーク&トーク」と「チョーク&バトル」

 教師主導の一方的な一斉授業のことを「チョーク&トーク」と呼んで揶揄することが大好きな人たちがいる。

 私の場合は,トークだけでチョークをほとんど使わないタイプの先生にも出会ったことがあるが,

 そのトークに子どもたちがみんな引き込まれ,ただ受け身になって情報を記憶しようとしているわけではなく,しっかり自分の頭を使って考えながら聞いている・・・・そういう場面を全く想像できない人は,少しだけ気の毒である。

 さて,授業で子どもの主体性が発揮できるのはどういう場面か・・・。

 それは,教師にバトルをしかけるときである。

 教師と子どもとの間で,どのようなバトルが展開するのか。

 もちろんバトルのタネを播くのは教師である。

 子どもからしかけたように見えても,実際には教師の予想通りに動いている。

 大学生には,こういうバトルができる子どもを相手に授業をさせてあげたい。

 教師は,子どもによって育てられるものである。

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犬畜生のような「やつ」より国立大学のセンセイへ

 国立大学のある関係者が,高校教師時代に「犬畜生のような親」がいた,という話を自身のブログで書いているので,あえてそちらの立場からの人間としてご意見申し上げましょう。

 私たちは,学校の教師に不満を抱いています。

 あなたたちは,何の専門家なのですか?

 大学で,何を学んできたのですか?

 教育現場に,何しにきたのですか?

 私たちのような人間を「犬畜生」と罵倒して,国民の義務を果たしていないと非難する教師を今も育てているのですが?

 私は,ある先生に出会えて,教育や学校に希望をもてるようになりました。

 心を入れ替えて,給食費をきちんと納めるようにもなりました。

 「ある先生」と私たちを「犬畜生」と罵倒する先生の違いがわかりますか?


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大人と子どもの違い,政治家と一般市民との違い

 今回の記事では,政治家が大人で,一般市民が子どもだと言いたいわけではありません。

 大人とは,あまりよくない意味で使っています。

 よくはなくても,それでしか前に進めない,自分を守れない,ということがあるのが政治です。

 
 大人がわかっている大人は,

 「この人,こう言っているけど,本心は別のところにあるんだろうな」

 という見方や考え方ができます。


 政治には,妥協,調整,駆け引き,取り引きがつきものです。

 というより,そういうことをするのが政治と言ってもいいでしょう。


 政治家の言葉の「うら」を読めば,

 ああ,安倍総理のこの言葉は,自分たちではなく,別の政党のために言っているな・・・とか。

 
 他にも,ある教育方法を推奨している人が,

 この方法を信じて続けようとしているのにまわりから反対され浮いている人たちを鼓舞するために,

 自分では思っていないことを,あたかも私にはこれしかない,と思っているように信じ込ませるためのパフォーマンスをすることがあります。


 「ウソも方便」という世界は実は子どもたちの中にもあり,一般市民が

 「政治家にそれをするのは許せない」と言ってしまうと,

 政治ができる人がいなくなってしまうか,

 独裁者が出てきてしまうかのどちらかになってしまいます。


 すでに独裁者っぽい,決めつけ的な主張が多い人には最大限の警戒が必要です。

 わざとらしいことをあえて言っている人間は危険ですよ。

 教育のこわさは,人の感情をコントロールできてしまうことにあります。

 心をつかまれた!と思った瞬間に,頭を完全な理性モードに切り換えることが重要です。


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批判している人たちから相手にされない場合はどうするか?

 批判にこたえてもらうためには,学会に出て意見を直接ぶつけてみたり,自分が実際に行ってみて失敗した事実,自分なりに改善して成功した事例を示したりしなければならない。

 公の場では,批判を受けた場合,反論するかどうかを選ぶことができないから,正々堂々と向き合える。

 本気で批判をしたいなら,ブログに落書きしてみてもダメである。

 相手にされないことがわかっている場合,記事の文章がどんどん荒れてくる。

 裸の王様は,恥を知らないことでバカにされるものである。

 自分のことを棚上げできる子どもと親のクレーマーが年々増えているように思うが,

 自分のことを見ないですむ精神構造を持っているからこそ,精神が崩壊しないで
 
 「もっている」ことがわかってしまうと,そのままにしてあげるケースもある。

 事実を突きつけて,自分の誤りに気づかせることで,「終わってしまう」ケースがあることを知っておくべきだろう。


 私の学校の研究発表に参加してくださる方は毎年数百人程度だが,ぜひいろんな批判をお受けしたいものである。

 いつも文部科学省相手に愚痴を言っていても,何も変わらないし始まりもしない。


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ヘンな記事ばかりにひきつけられる人の長所と短所

 そんなに嫌なら,スルーすればいいのに・・・と思うような記事を熱心に読んで,

 いちいち反応している私のような人が他にもいるようですが,

 自分の周囲にいる病気もちの人までとりあげる必要はないでしょうね。

 子どもには,長所と短所に着目することの長所と短所を説明しています。

 長所に目を向けると,どんどん相手への印象が良くなり,ますます相手を応援したり,相手のことを知ろうとします。勉強でも同じです。好きなことは「やれ」と言われなくてもやるから得意になる。

 ただ,長所だけに目を向けると,欠点を完全にスルーしてしまう危険性があります。

 好きなことだけやって,嫌いなこと,つらいことをスルーする子どもが多いのですが,
 
 長所を褒める教育をすると,こういう落とし穴が待っているのです。

 一方,短所に目を向けると,どんどん印象が悪くなり,何でもかんでも批判したくなります。

 わずかな良い面も見過ごし,とくかく悪い物は悪い,という姿勢になり,視野が狭くなる。

 長所に目を向けるときも同じようなことが起きますが,長所が見えなくなる状態はよくないですね。

 短所に目を向けてプラスになるのは人ではなく自分に対してです。

 本当に病気で苦しんでいる人がいたら,こんな呼ばれ方をすると傷つくだろうなと思う言葉を平気で書けてしまう人がいます。

 決定的に,欠けているんですね。「傷つけてはいけない人への配慮」が。

 

 でも,短所に気づけていること自体は,決して悪いことではない。

 問題は,自分の短所を棚上げにして,他人の短所だけを攻撃する姿勢にあります。

 ヘンな記事の解説専門のブログにはならないようにしたいのですが・・・

 まだ「失敗学」の修行は続きます。まだ初めて10年と少ししかたっていませんからね・・・。


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オリンピックは欧米人のためのもの?

 IOCが東京都に圧力をかけに来日したことが,ニュースで報道されている。

 ヨーロッパ人の,ヨーロッパ人による,ヨーロッパ人のためのオリンピック。

 かつての植民地や占領地での開催も,栄光のしるしの一つなのだろう。

 会談中に激しく貧乏揺すりをしていたボート出身の副会長を見て,そのことを直感した。

 とてもわかりやすいボディランゲージである。

 アジア人種はみんな一緒。

 東京オリンピックの競技の一部を韓国で行うことなど,何とも思っていない。

 日本人の国民意識を刺激させることが今回の提案の目的ではないだろうが,

 東京都には強い圧力となっているはずである。

 
 一方で,コストはこれだけ削減できる,という東京都の試算も驚いた。

 試算のぶれが大きすぎる。

 私たち市民にとっての10億円というお金は想像もつかないが,

 行政に入るとせいぜい10万円程度の値打ちしか見えていないのではないか,

 と思ってしまうほど,ケタハズレの「ズレ方」をしている。


 行政と市民の「ズレ」を正してくれるのが政治家である。

 私も3年間経験してみてわかったのだが,行政は仕事の質が全く異なるので,期待はできない。

 政治家が利用される国にだけはなってほしくない。

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組合費で豪遊する委員長の下でお金を巻き上げられている教師たちが気の毒

 日教組に加入させられてしまった人の中には,とてもいい人が多いと思います。

 とても気の毒ですね。

 自分の給料から引かれるお金の使い途がわかってしまって・・・。

 あの元校長の教え子たちも気の毒でなりません。

 しかし,組織というのは恐ろしいものです。

 教員採用でごたごたがあった,「あの」大分県の人なんですね・・・。


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不平不満あふれる社会と「道徳」の力

 私がここに書き記していることの多くは,自らの実践の成果ではなく,基本的には「不平・不満」の言葉です。

 教育は簡単に満足のいく結果が出る仕事ではありません。

 自分自身を含めて,足を引っ張る要素がたくさんあります。

 さまざまな障害を乗り越えるための知恵が,教育に求められています。

 まず障害となるものから目を背けずに,限界を見極めつつ,突破口を探る・・・・そうでなければただの「愚痴」になってしまうことを心にとめて・・・こういう姿勢を貫いていきたいものです。

 国の政策上,あまり重視されていない(たとえば教育予算が少ない)ことは,

 普通に考えると「不満」対象かもしれませんが,

 「国に干渉されない」という点では,むしろ「満足」のいく結果になっている・・・

 こういうケースもあります。

 「不平・不満」の中から,新しい希望を探ることも,不可能ではないでしょう。


 人によっては,「感謝・感激・満足」の言葉ですばらしいブログを綴っている方もいらっしゃるのでしょうが,自己満足のためとか,人からいい評価を得ることが目的になってしまっては,意味がありません。

 人からの評価ばかり気にして,批判されること・・・「不平・不満」を招くこと・・・を避けてしまうような生き方は,「消極的平和主義」のようなものかもしれません。

 ある教育理念・教育方法にすがりつこうとする人がいる一方で,「毛嫌い」する人,「問題外」として一蹴する人が多いことは,教育の「限界性」を如実に表わす一例です。

 記憶が不鮮明ですが,昔ある教師が,ちょっと変わった道徳の授業をして,死ぬほど後悔した,という話を聞いたことがあります。もしかしたら,参観者がうんざりしただけで,本人は何も感じていなかったかもしれません。

 「人を傷つける言葉を言わないようにさせたい」という教師の願いがありました。

 子どもが質問します。「人を傷つける言葉ってたとえば何ですか?」

 教師は子どもに問いました。「あなたなら,どんな言葉を投げつけられたら傷つく?」

 「今まで言われて傷ついた言葉とは?」

 そして,教師は,子どもの思い思いの「人を傷つける言葉」を黒板にひたすら書かせました。

 黒板を埋め尽くした「言葉」を見て,吐き気をおぼえない人はいないというほどの結果となりました。

 「こういう言葉を人に言うのはやめよう」・・・終わり。

 こういう「アクティブ・ラーニング」をどう思いますか?


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『学び合い』の欠点は,自力解決できない子,自力解決しようとしない子が,できる子,できた子のノートを写す=自力解決しないですまされる習慣がつくことにあり

 生徒が主体となって動く行事でも,教師はリーダーを中心に相当に指導の手を入れます。

 最も指導の手を緩めてはいけない場面が多発するから,教師はものすごく疲れます。

 授業も同じです。話し合い活動を子どもたちがしているとき,教師は「聖徳太子になってしかも分身の術を使う」という技を繰り出します。

 4人同時に話している10個の班の会話をすべて聞く。

 そして「問題」を発見しては,飛んでいく。

 そうしないと,誤ったことを主張している子どもの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまったり,

 わかっていないのにわかったつもりになっている子どもを増やしてしまうからです。

 
 グループ活動や「助け合い活動」では,喧噪に埋もれて「勉強したつもり」になってしまう子どもが必ず現れます。

 だんまりを決め込む子どもも。

 人のノートを丸写ししたり,言われたことをそのまま文字にする子どもも現れます。

 できる子どものまわりにできる人だかりは,「自分ができるようになるため」であればよいのですが,

 ただ「答えを知るため」だけであっては意味がありません。

 
 限られた時間で決められた内容を扱う「授業」というのは,教師と子ども,子どもと子どもの対話を全員が聞くことで,「理解」できるように設計するものです。

 「できる子どもが教えた方が,できない子どもにとってはわかりやすいだろう」という安易は発想で「任せる」ことは,行事でも部活動でも致命的な失敗を招くおそれがあります。

 教師としての資質に欠けている人たちにとっては,正しい理論なのかもしれませんが・・・・。


 「丸写ししている子どもには,教師が個別に指導に当たる」では,『学び合い』ではなくなってしまうでしょう。

 「子ども」は「子」「ども」で,単数形のようで複数を示せる言葉です。

 確かに,できる子ができない子に教えて理解させることができれば,「子」「ども」による「自力解決」はできたといえます。

 しかし,「子」は「自力解決」できていません。

 「一人も見捨てない」という「意気込み」が,「ノルマ」に転化してしまった時点で,「終わって」いるのです。

 理論があるとか何とか言ってみても,それは自分の主張を正当化するためだけの論理であって,決して子どもたちのための論理とは思えません。


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「教育」ではなく,「教育学」のための「評価」研究

 教育で「評価」を研究する人が増えてきました。

 「指導」の話をするには「指導歴」が欠かせないため,

 研究のための研究をするには,「評価」を選ばざるを得ないという事情もあるのでしょう。

 ただ,「評価」よりも「指導」の方が大切という,教育の世界で当たり前だったことが,

 「教育」ではなく「教育学」の世界で生き残らなければならない人たちが増えて,

 「評価」が研究のための道具になってしまうことはとても残念です。

 「指導」をしたことがある人ならわかると思いますが,

 「指導」の成果や効果は単純なものさしではかることができるようなものではありません。

 身長や体重の測定のようなものではないのです。

 さらに言えば,血液検査のような単純なものではないのです。

 単純な血液検査でも,チェックできる項目がとてもたくさんありますね。

 「評価」とは血液検査のような単純作業だけでも,たいへんな時間と労力がかかるものです。

 「思考力」がどの程度の高さなのか,「理解」の深まりがどの程度であるかを「評価」するときには,

 ただ「難しい」というだけの話ではなく,「それだけを評価することに意味があるのか」という

 大切な疑問を無視せざるを得ないという問題もあります。


 
 「評価」に力を入れようとするほど,

 「学習」の質が落ちてくる危険が高まる。

 「学習」の質が落ちるのも問題ですが,

 「指導」の質も落ちてくることが実は致命的です。

 子どもが誤った理解をしていることを,教師が野放しにしたり,

 教師が誤った理解をしていることを,子どもが鵜呑みにしたりする。

 そうすると,見落としてしまったこと,あるいはそもそも測定不可能な「評価」の対象となる力も落ちてくる。

 こうした学力低下の最悪のスパイラルに気づける人を,「指導力のある人」といいます。

 こういうことは,すでに教育現場で実験され,証明のためのデータがどんどん増えている状態でしょう。

 表面的で一面的な「評価」ではなく,本質的で本物の「評価」を研究する意欲のある人なら,

 これを証明することができるでしょう。

 もちろん,教師の「評価」対象にしない力が育つことはない,というわけではありません。

 しかし,「評価」対象となる力以外は「評価」されないので,記録には残らないのです。

 残すのは「評価」ではなく,子どもの「学習成果物」である,と私が繰り返し言っていることの意味は,「そういうこと」です。

 「評価」とは,あくまでも「一時的なもの」「おまけのようなもの」に過ぎません。

 大切なのは,子どもたちが「発信した内容」とその履歴そのものです。


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「業務」に耐えられない社会人を生む「激務」という言葉と管理職の責務

 「新入社員を自殺させてしまった企業」というレッテルは,経営変革に結びつくだろうか。

 「労災認定リスク」を減らすこととより,「収益減少リスク」を減らすことの方が優先されてしまうだろうか。

 働くことが苦ではない人が多かったかつての日本では,社員が自殺してしまった場合,

 「企業の責任」よりも「個人の能力」に目が向かいやすかった。

 「たった月100時間の残業ごときで」という発言は,バッシングの対象になったが,

 実際の社会人はその通りの気持ちかもしれない。同意しないのは,バッシングを受けないためでしかない。

 「個人の能力」のせいにすることで,仕事に耐えている自分たちが救われるという効果もある。

 なぜなら,「企業の責任」の一端を,実際に長時間労働している自分たちが担っているという側面があるからである。

 かつては,先輩が仕事をしているのに部下が先に帰宅してしまうことなど考えられなかった。

 これについては,「今でもそうだ」という企業も少なくないかもしれない。

 残業をすると自分の収入が増える企業では,「収入を増やす」という目的で進んで残業をする社員もいるはずである。

 残業になるために昼間は手を抜いて,のんびり仕事を進めるという「わざ」もあるだろう。

 私が東京都教育委員会に勤務していたころ,事務方の多くが残業している姿を見てきた。

 基本的には,一人が処理しなければならない仕事量が多すぎることが原因である。

 一方で,「優秀な人」は,勤務時間が終わったらさっと帰る・・・特に優秀な上司は率先して帰宅する・・・姿も目にしてきた。

 私は,山のような書類を迅速に処理する高い能力がある人が残業代をもらわずに,

 能力の低く仕事ができない人が金を稼げる仕組みを変えれば,簡単に人件費が削減でき,税金を節約することができると思っていた。しかし,一般の事務方の数に対して管理職の数が少ないから,個々の仕事の評価をすることは難しいこともわかった。

 指導主事は教員なので,夜中の2時まで働いても,残業代は1円もでないから,

 月100時間残業をすると,収入がどれくらい増えるのか,私には想像できない。

 
 全く金銭的なコストがかからない指導主事と,新入社員を長時間働かせることには,共通した根っこがあるような気がする。

 その仕事内容にも,共通した「おもろくなさ」があることも想像できる。

 「激務」という言葉が,一昔前の人が思っている「当たり前の仕事」とイコールになってしまうことは,一長一短があるが,若手には「仕事」の先にある「光」を浴びさせることが上司の役割であり,それはたとえ「係長」級でも「上司」になった以上は人材育成を大きな責務として自覚してほしいと思った。

 学校現場では,管理職になれる人,なりたい人の減少が,深刻度を増しているらしい。

 打たれ強さを育てることと,仕事で生きがいを持たせることの両立は,とても難しいことかもしれない。

 今さら感もあるが,「平等主義」を優先するだけで,「リーダーシップを育てる」ことを軽視していた教育界・社会全体の手抜きのツケを解消する取り組みが必要かもしれない。


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都庁の人たちは「合理的」「無駄を省く」という言葉に弱かった?

 豊洲市場問題で,資料の黒塗りされていた部分が公開され,ようやく

 「なぜ盛り土が行われなくなったのか」が明らかになったようです。

 そこでは業者が「コストを下げられる」「合理的」「無駄が省ける」ことを売りにしていたことがうかがわれます。

 盛り土がないことが,「不公正」と言えるかどうかはわかりませんが,

 「効率を重視する」社会がどういう方向に向かっていくのか,とてもわかりやすく,教材にしやすい事例になりました。


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不正がまかり通る社会における教育の難しさ

 教育現場の困難な状況の背景は,教師による犯罪行為が相次いで報道されたり,親の教育力が低下していたりすることだけではない。

 不正がまかり通ってしまっていた(いる)ことが明らかになるたびに,子どもたちは社会はもちろん自分の将来への不安を増幅させていく。

 人は攻撃しやすい相手に向かって攻撃する。

 最も安心して攻撃できる相手は,反撃しない・反撃できないとわかっている相手である。

 ネットなどでの誹謗中傷のようなゴミくずレベルの攻撃から,

 相手の社会的地位を奪いかねない攻撃まで,さまざまな程度の攻撃があるが,

 それが攻撃する側の自分の不正を覆い隠したり,欠点に目を向けさせないようにするためのものではまずい。

 攻撃性が強い人の中には,自分を守るための武器なり正当な理由が乏しいがために,より過激になってしまう
人がいる。

 こういう人を,公正な形で裁くことは,実はそれほど困難なことではない。

 正義感の強い生徒たちを集めて「公開処刑」することもできる。

 ただ,「裁く」ことはなかなか「教育」の現場では行いにくいものである。

 「葬り去る」行動は,「教育」の本質とはかけ離れすぎている。

 問題生徒を規定に従って粛々と退学させていったり,「暴走族」などとひとくくりにして

 バカにしている高校教師の姿は,中学校教師からすると,とてもではないが「教育者」には見えない。 

 教師に中には,本当に自己中心的で他者への攻撃性が強い人間がいるのだが,

 こういう教師をつぶせば教師集団はよくなるかというと,そうもいかないのが

 教育現場の難しいところである。

 報道されている不正や問題は,ごくごく一部にすぎない。

 ある自治体で起こった教師の犯罪行為は,該当の学校が特定されないように,

 最強のブロックがなされているようだ。

 隠せるところは隠せるのである。

 隠れて得をしている人と,公にされて損している人を見比べると,とても複雑な思いをする。

 「社会を変えるためには教育から」という発想では,

 社会も教育も変わらない。

 しかし,「教育を変えるためには社会から」と主張しても,だれもとりあってくれないだろう。

 これが今の社会の問題である。


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できるだけ「隠して」おきたいボランティア活動

 若いときは,自腹をきってさかんに現地調査を行い,それを教材化して,社会科の授業に臨んでいました。

 何とか研究会とか自治体の研修会の「巡検」に参加したこともありましたが,やはり自分が興味をもったことを,自分の計画で,自分の都合のよい時間に調査した方がいろいろと効率も内容もよいものになります。

 「巡検」は,どちらかというと「人間関係づくり」の方を優先したいときに参加するものでしょう。

 ボランティア活動の内容も教材にしたことがあるのですが,ついこれをある研究会で紹介したら,知り合いになった先生たちが「そういうことをしている教師」として他の先生たちに広めてしまいました。

 社会科の教師だから,ボランティア活動とは言っても,動機は純粋なボランティア精神ではなく,

 やはり「教材にしたい」という意欲に基づく活動になってしまいます。

 厳密に言えば,ボランティアに紛れ込んだ取材活動,調査活動といった方がよいかもしれません。

 もちろん,体験してみてわかる意外なことがたくさんあり,「五感」が大切なことに気づかされたりもします。

 「ご飯がとてもおいしく食べられる」とか,何か心に残ることがあるから,ボランティア活動・・・いえ,調査活動が続けられるものです。

 教師という職業では,なかなかまとまった休日がとれません。

 夏休みはちょっと体力的にきつくなりますし,本当の「隙間時間」しか使えなくなります。

 ただ,そっと行ってそっと帰ってきた方が,何だかしっくりくるようになってきました。

 教師生活が長くなると,教材を「眠らせる」こともできるようになりました。

 「休眠中」の教材の多くは,すでにいくつもの冬を越して,おとなしくファイルの中に収まっています。

 何でもかんでも公開したり,本で出版しないと気がすまない人たちとは,ちょっとスタンスが異なるかもしれませんが,生徒に対して使うことがなくなれば,自分の子どもに託して処分してもらうことになるのでしょう。

 いつか社会人になった子どもと行ってみたい場所がいくつかあります。

 そういう場所をもう少し増やしてみたいと考えています。

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試験中に周囲が気になって仕方がない中学生がいる理由

 授業になれば,いつもだれかが解法や解答を教えてくれるという環境で育った子どもの進学後の課題をご想像いただきたい。

 だれも教えてくれない環境に耐えられない子どもは,

 「こんな苦痛,苦役,虐待,拷問を味わわせられるのは,憲法違反だ!」といって反乱を起こすのでしょうか。

 
 ある生徒に小学校時代のことを聞いたところ,

 「カンニングは1回まではしてもいい」と言った担任教師がいたそうです。

 もちろん,すべての子どもが「許可された1回分のカンニング」をしたわけではないでしょう。

 ただ,「1回ではすまない子ども」がいたのもうなずけます。

 
 「カンニング」の定義をまともにしようとすると,けっこう難しいものです。

 試験中に,明らかに隣の生徒の答案に目を向けたとしても,

 「見えなかった」の子どもが言い張ると,カンニングではなくなるのでしょうか?

 そうではないんですね。

 本当かもしれませんが,「隣の生徒の答案に目を向ける」という行為自体が許されないわけです。


 中学校入学後の最初の定期テストは,教師の方が緊張するものです。

 試験監督は暇なのですが,中1の最初のテストだけは緊張します。

 もちろん,学年で事前の指導をきちんとしていることはわかっているのですが,

 毎年必ず明らかに挙動不審の子どもが目に入るからです。

 
 授業で生徒に教えてもらって,それで理解できていれば,

 テストで正解を導けるはずなのでしょうが,それができないということは,理解できていなかったということです。

 「自分の頭で考える」習慣がついていない子どもたちはどうやってつくりだされるのでしょうか。

 「自分の考えを発表する」場面をどれだけ用意できるかは,だれのどのような能力にかかってくるのでしょうか。


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表面的な部分だけを取り繕うための教育の問題

 道徳の授業は,どうしても表面的なものになりがちである。

 こういう授業を堂々と繰り返し,子どもたちが「自然」に見えているような状況が続くと,やがて何が起きるかを想像できるだろうか。

 「歪み」の蓄積は,「弱い部分」への集中攻撃のようなかたちで現われたりする。

 それが「すぐ」起きるとは限らないところが,教師が油断してしまう最大の理由である。

 「いじめ」へのエネルギーの蓄積が,「道徳の時間」に行われているという研究成果はどこかにないだろうか。

 

 中学校で起きる比較的大きな生徒指導の問題については,その原因や背景,根源的なものが探りきれないものも多いが,小から中へある程度の規模の子どもがまとまって進学する場合は,小学校時代・・・それも低学年までさかのぼれる「根っこ」があることが少なくない。

 「根に持つ」という言葉が本当にしっくりきてしまうような事案を整理していくと,共通点がいくつか見つかる。

 大きなものは,小学校の教師は知らなかったというもの。

 これでは,小から中への情報が伝わらないのは,小学校の教師のせいではない。

 もう一つは,小学校の教師が介入して,「一応,決着した」と勝手に解釈されてしまったもの。

 強烈な遺恨が残されていることに気づけないため,これも小から中への情報が伝わらない。


 
 生徒指導を「形式的なもの」ととらえる教師が多くなったのは,「マニュアル化」「手引き化」のせいだろうか。

 「本に出ている例と同じようなことをしたからよい」と判断してしまう教師がいても,仕方がないのかもしれない。

 「本を読んで勉強した」「偉い人がしたことと同じことをした」という自覚がもてる教師はまだ「まし」かもしれない。

 しかし生徒指導の世界に「絶対」はない。

 こういう「やったつもり」の「モノ真似指導」の問題が表面化するまでには少し時間がかかるからやっかいなのである。

 

 「いじめ」や「問題行動」へのエネルギーを蓄積する教育実践への監視の目を光らせる必要がある。

 これからはやるであろう「モノ真似指導」が最も危険であることを知っておいていただきたい。


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教員間の不和を生徒の成長に変えられる学校

 学校内で,生徒指導の方針がうまくかみ合わなくて困っているところが多いかもしれませんが,

 それが当たり前です。

 できれば学年内は意思統一を図りたいところですが,

 小学校時代に担任が好き勝手やってきたために,まともな「社会集団」をつくる能力がない中学生を

 どうにか成長させるためには,意見がぶつかり合っている高い能力を持った大人集団の姿を見せることも大切です。

 意見がぶつかり合っているということは,

 そこに「統一させよう」という意思が働いているということですからね。

 道徳の時間に「協調性が大切です」なんて,安っぽい言葉を投げかけられるよりも,

 本気でバトルしている大人たちを見る方が,よほど教育的です。

 意見のすりあわせのために「議論し合おう」などという気持ちすら持てない人間たちが育てた子どもには,最初で最後の機会になるかもしれません。

  
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生徒指導は,教師が生徒をどう見るかより,生徒が教師をどう見るかの方が重要

 生徒指導のことを本気で学びたいなら,中学校の教師を経験するのがよいでしょう。

 生徒指導は,教師が生徒をどう見るかより,生徒が教師をどう見るかの方が大きいということを実感できます。

 生徒の教師を見る目は,ある程度,教師が生徒をどう見るかによってきますが,

 人間の第一印象というのは,そう簡単に書き換えられるものではありません。

 生徒たちは,自意識過剰な人間はあまり好きになれないものです。

 「おれは,生徒をこんな目で見ているよ!」なんていう教師は鬱陶しくて仕方がない。

 そういう教師をすぐ好きになれるのは,よほど愛情の乏しい家庭環境で育った子どもくらいでしょう。


 生徒の教師観・教師像は,同級生や上級生の影響をかなり受けます。

 あまりよくない学校では,教師からの評価が生徒に影響を与えます。

 「単なる噂話」が,何かをきっかけにして「納得のいくもの」に感じてしまうと,

 生徒の教師像を書き換えるのは大変なんですよ。

 
 見方を変えるのは,行動しかありません。

 気持ちでどうにかなると考える人は,たいてい,生徒から見限られます。


 公立学校には異動がありますから,教師はどこかで失敗しても,

 次のチャンスを生かそうとすることができます。

 ただ,やめて逃げ出してしまった人には,本当の「生徒像」を描くことはできないでしょう。

 自分の頭で勝手にいろいろなものを描くことをやめにして,

 正面から生徒に向き合わない限り,生徒指導というのは成立しません。

 何かこうすれば生徒指導がうまくいく,という人は相当怪しいので注意した方がいいでしょうね。

 生徒指導をまともにしたことがない人に限って,人の問題点,欠点ばかりが目につくものです。

 せめて教師は,子どもから逃げない強い意思だけは失わないでおきたいものです。


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企業が求めている人材の選考基準と学生がアピールしたいこととのギャップ

 週刊ダイヤモンド10月1日号に掲載されている2017年採用実態調査によると,

 「企業が採用選考に当たって重視している点」のベスト10は,

1位 対人コミュニケーション力(81.4%)

2位 仕事への意欲・興味(58.3%)

3位 行動力(54.7%)

4位 協調性(53.8%)
 
5位 誠実さ・信頼感(51.9%)

6位 粘り強さ・責任感(50.0%)

7位 向上心(47.6%)

8位 企業への意欲・興味(45.8%)

9位 熱意(38.7%)

10位 考察力・論理的思考力(36.3%)

 となっている。

 11位以下は,基礎学力,マナー・礼儀,リーダーシップ,ストレス耐性,好奇心,専攻・専門知識,創造性,応用力,在籍校,表現力,アルバイト体験などとなっている。

 一方,学生がアピールした点は,

1位 粘り強さ・責任感(48.8%)…企業側は6位(以下同様)

2位 アルバイト体験(44.1%)・・・21位

3位 仕事への興味・意欲(40.1%)・・・2位

4位 対人コミュニケーション力(36.9%)・・・1位

5位 行動力(36.6%)・・・3位

6位 サークル活動体験(33.5%)・・・25位

7位 企業への意欲・興味(31.1%)・・・8位 

8位 向上心(30.8%)・・・7位

9位 誠実さ・信頼感(30.2%)・・・5位

10位 熱意(28.0%)・・・9位

 となっており,いくつか大きなギャップのある点が見つかる。

 面接では,いくつかの内容をセットで評価できる質問があることが考えられるが,

 たとえば「私どもの企業の良い点をコマーシャル形式で15秒間でご説明下さい」という課題はどうだろう。

 1分間で準備するが,その間に,面接官にいくつか質問してもかまわない。

 何を質問してくるかも評価の対象になる。

 こうした採用試験のようなものは,「対策」「準備」が可能になるが,

 企業側には多くのバリエーションが必要である。

 教員採用試験も,人事担当者にはもっと工夫をしてもらいたい。

 100%本心が引き出せると考えるのは無理だが,

 「どうしたらボロを出させるか」という発想も欠かせない。

 自分の長所をアピールしてもらうより,自分が目指している教師,尊敬する教師の長所をアピールできることとか,教育実習中,最も成長したと感じられる子どもの姿とか,どれくらい「自分ではなく他人を褒める能力があるか」をはかることも大切だろう。

 企業も教育現場も,「人選び」は生命線の一つである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より