ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できないし学ぶ意欲は高まらない」という子ども観が生み出す凶育 | トップページ | 教育実践を「市場」にたとえる感覚を生んでいる国立大学 »

生徒が「授業がつまらない」という本音を言えない高校の進学率の高さ

 一生懸命に「生徒に興味を持ってもらおう」と思って教材開発をしたのに,

 「これ,大学受験に役立ちますか?」という不信感をもった教科主任の一言でボツに。

 場合によっては,生徒のダメ出しでボツに。

 こういう経験をしている高校教師は何%くらいいるのだろう。

 もちろん大学への進学実績を気にしなければならない高校の話である。

 偏差値の高い大学への進学者がほとんどいない高校の教師は,本当に楽だと聞いたことがある。

 これはもちろん相対的な話。模試の偏差値(校内の結果)が「教師の評価」に直結するような高校では本当にストレスもたまるだろう。

 進学率の高い高校でも,ある面から言えばストレスがかかりにくい。

 きっと,「授業がつまらない」という感想を「わざわざ」出す高校生はいないだろう。

 「それが当たり前だから」という感覚をもって学習し,「偏差値の高い大学」に進学してきたコドモタチが,

 大学でどれだけ「学び」に力を入れることができるかは,大学教師でなくても想像がつく。

 東大の教員に危機意識が芽生えている理由もわかりやすい。

 地方の公立高校では,センター試験対策に沿った授業をするのが当たり前で,

 これはセンター試験の問題を見ればわかることだが,そういう授業が「おもしろい」わけがない。


 文科省の積もり積もった高校教育への不信感によって,とうとう「今までにない高校いじめ」の

 学習指導要領が生まれようとしている。

 センター試験廃止でなく,試験問題の見直しでよかったのだが,

 そこは「改革らしさ」を全面に出したかったのだろう。

 
 受験のモチベーションを柱にして「人気」を支えようとしている高校の授業を変えさせるのは,

 「受験問題」の質に尽きるわけだが,大人数から一部を選抜する「問題」に,

 これこれこういう授業をしていないと,うちの入試問題は解けない,というメッセージを出すのは難しい。

 何しろ,教員採用試験の面接官の話を聞いても,

 「違いを見つけるのが難しい。面接官によって全く評価が異なる場合も多い」という悩みがあるという。

 1人の選抜に複数の人間で時間をかけられる場合でも,「違いが分かりにくい評価方法」では

 「評価の透明性や妥当性」が出せない。

 
 筆記の場合,東京大学の二次試験のように,採点基準を公開しないとなると,

 「何が正解かわからないまま,選抜が行われる」という状況になる。


 理想を追い求めると,かえって理想像とは真逆の結果に陥るおそれもある。

 偏差値の高い公立高校にいる生徒のように,「割り切れる」人だけが,得をするしかないのだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できないし学ぶ意欲は高まらない」という子ども観が生み出す凶育 | トップページ | 教育実践を「市場」にたとえる感覚を生んでいる国立大学 »

教育」カテゴリの記事

学校選択制」カテゴリの記事

中学受験」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

グローバル人材」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

教員採用試験」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できないし学ぶ意欲は高まらない」という子ども観が生み出す凶育 | トップページ | 教育実践を「市場」にたとえる感覚を生んでいる国立大学 »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より