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教室とはだれのものか?

 小学校の先生にこういう質問を投げかけたら,十中八九,「子どものもの」と答えるのではないでしょうか。

 「私は違う!」という先生も,もちろんいらっしゃるでしょうが・・・。

 小学校と中学校では,学校文化がまるで違います。

 小学校らしい文化,中学校らしい文化,それぞれあってかまわないと思うのですが,

 中学校の教師が困るのは,小学校でしか通用しない文化が中学校に持ち込まれるときです。

 教師をあだ名で呼ぶ,タメ口をきく,女子が男性教諭に抱きつく,膝の上に乗る,挨拶はしない,ルールに従わない,遅刻をする,時間を守らない,違反物を持ち込む,ノートをとらない,提出物を出さない,配布物を親にわたさない,忘れ物をする,約束を守らない,いじめをする,ものを隠す,人のものをとる,掃除用具をふりまわす・・・・何でもアリな子どもが生き生きできる場は,中学校にはありません。

 以前にも書いたように,小中一貫校は,

 「中学生になれない小学7年生,8年生問題」で苦しんでいるといいます。

 教科によって先生がかわり,教室移動も少なくない中学校では,

 小学校での生活のペースはまるで通用しません。

 中学校に入学後,1ヶ月くらいの間でたたきこまれる「時間を守る」「挨拶をする」「返事をする」の3つの「行動改革」で,何とか新しい文化になじんでいきます。

 「教育学」という敷居の高い学問の立場から授業なり生徒指導なりの指導をされる方々が書く本には,「現実味」がありません。

 「現実味」とは,わかりやすく言えば,問題行動の山とか低学力の問題です。

 「中の下」にレベルを合わせた課題やテスト問題をつくって,中の中以上の子どもたちに任せておけば,みんなが満点をとれるようになる,そういうどうしようもない「教育方法」と教師が担っている役割には天と地ほどの開きがあります。

 指導主事のころにとてもよく実感できましたが,小学校ではいろんな講師を招いて研修をすることにあまり抵抗がありません。中学校籍の私の話でさえ耳を傾けてくれた学校がありました。

 小学校の先生方は,いい意味で「理想」を追い求めようとしてくれています。

 「理想」に近い授業なり教育観にふれることが大好きなのです。

 しかし,現実の子どもはその通りには成長してくれません。

 なんだか自信満々で子どもに接している教師のクラスの子どもが,

 本当に無責任だったり学力が低かったり平気で他の子をいじめたり,

 入学してすぐに散々な姿をみせてくれるので,中学校の教師は「やりがい」を感じるのです。

 さて,学校の教室とは,だれのものでしょうか?

 少なくとも,子どもが使っている机やいすは,その子のものではありません。

 消せる落書きならまだ許せますが,彫刻刀で自分の名前を彫り込む子どもには,天板の張り替えの費用を負担してもらわないといけませんよね。

 学校の机は,人がその上に乗って歪まずに使い続けるほどの強度がありません。すぐ歪みます。

 公共物を大切にする,という概念がまるでない子どもがいる原因はどこにあるのでしょう?

 「小学校でも,ものを大切にする指導をしています」・・・自信をもって言ってほしいですね。自分のものではなく,他人のものを大切にする(手をつけない)という指導もお願いしたいと思います。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より