一生懸命に「生徒に興味を持ってもらおう」と思って教材開発をしたのに,
「これ,大学受験に役立ちますか?」という不信感をもった教科主任の一言でボツに。
場合によっては,生徒のダメ出しでボツに。
こういう経験をしている高校教師は何%くらいいるのだろう。
もちろん大学への進学実績を気にしなければならない高校の話である。
偏差値の高い大学への進学者がほとんどいない高校の教師は,本当に楽だと聞いたことがある。
これはもちろん相対的な話。模試の偏差値(校内の結果)が「教師の評価」に直結するような高校では本当にストレスもたまるだろう。
進学率の高い高校でも,ある面から言えばストレスがかかりにくい。
きっと,「授業がつまらない」という感想を「わざわざ」出す高校生はいないだろう。
「それが当たり前だから」という感覚をもって学習し,「偏差値の高い大学」に進学してきたコドモタチが,
大学でどれだけ「学び」に力を入れることができるかは,大学教師でなくても想像がつく。
東大の教員に危機意識が芽生えている理由もわかりやすい。
地方の公立高校では,センター試験対策に沿った授業をするのが当たり前で,
これはセンター試験の問題を見ればわかることだが,そういう授業が「おもしろい」わけがない。
文科省の積もり積もった高校教育への不信感によって,とうとう「今までにない高校いじめ」の
学習指導要領が生まれようとしている。
センター試験廃止でなく,試験問題の見直しでよかったのだが,
そこは「改革らしさ」を全面に出したかったのだろう。
受験のモチベーションを柱にして「人気」を支えようとしている高校の授業を変えさせるのは,
「受験問題」の質に尽きるわけだが,大人数から一部を選抜する「問題」に,
これこれこういう授業をしていないと,うちの入試問題は解けない,というメッセージを出すのは難しい。
何しろ,教員採用試験の面接官の話を聞いても,
「違いを見つけるのが難しい。面接官によって全く評価が異なる場合も多い」という悩みがあるという。
1人の選抜に複数の人間で時間をかけられる場合でも,「違いが分かりにくい評価方法」では
「評価の透明性や妥当性」が出せない。
筆記の場合,東京大学の二次試験のように,採点基準を公開しないとなると,
「何が正解かわからないまま,選抜が行われる」という状況になる。
理想を追い求めると,かえって理想像とは真逆の結果に陥るおそれもある。
偏差値の高い公立高校にいる生徒のように,「割り切れる」人だけが,得をするしかないのだろうか。




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