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2016年9月

続出してくる「反証」になぜ耳を傾けないか

 一部の研究者たちの不正によって,大学や研究機関への信頼も随分低下してきている。

 不正がなくならないのは,企業なら大打撃を受けたり潰れたりするが,

 公的機関にはその心配がないことが原因の一つだろうか。

 研究者側には,「短期的な成果を求める」姿勢のせいだという「言い訳」が頭がよぎっているだろうが,

 まさか「だから虚偽の成果を出しました」とは言えない。

 ある理論を証明することは,簡単である。

 都合のよい数字だけ集めてくればよい。

 しかし,「反証」することも簡単である。

 都合の悪い数字を集めてくればよい。

 自分のやり方が「正しい」か「他の奴よりはまし」と言い続けるためには,

 「反証」に対する「反論」も必要である。

 さすがに,企業同士で足の引っ張り合いをすることはない。

 「CMで見せてるほど,汚れは落ちませんよ」

 「実際に,洗濯機をまわして他者の製品の汚れの落ち方を比較してみましょう」

 などの「比較広告」・・・というより「実証」は「しない」ことになっている。

 教育の世界も,こうした「大人の約束」に従っていてよいのだろうか?


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「わからない授業を受けさせること=拷問」は,極論ではない

 「声がおかしいから採用試験に合格できないのではないか」

 と後輩の心配をしている教師がいる。

 どうして合格できないのか。言っていることは正しいかもしれないが,

 耳障りな発声がどうしても耐えられない,・・・・のだろうか・・・?


 子どもが聞く耳をもたないのは,言っている内容が

 お小言みたいな話だからというわけではなく,

 ただ声が嫌いだから,という話はきちんと成り立つものである。

 
 しゃがれた大声でわめきちらされては,たまったものではないと

 悩んでいる人もいるだろう。

 大学生くらいだと大人だから,「近くにいたくはない人」というオーラは出さずに我慢できるはずだが,

 高校生や中学生だとそうはいかない。


 やかましい声で,自分の言いたいことを押しつけがましくしゃべる授業は,

 受け取り方によっては「拷問」「苦役」である。

 しかし,どんなにヘンな声でも,

 難しい話にも,きちんと耳を傾けて,理解しようとする努力ができない人間を

 つくるのは簡単である。

 そういう機会を奪えばよいのだから。


 荒れがおさまらない学校では,「話を聞かせること」を放棄している教員が多い。

 子どもがおしゃべりしまくっている姿の方がまともだと捉える神経を,

 国が言い出している資質能力に結びつけるのは無理がある。

 そんなこと,現場に出て1年もすればわかるものだ。


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教育実践を「市場」にたとえる感覚を生んでいる国立大学

 国立大学が死に瀕しています。

 大学教員のクビを切れない以上,運営交付金のカットの影響はどこに出ているか?

 一方では,「金集め」に奔走する中小企業の経営者のような人間が増える。

 もう一方には,自分が「金儲け」に奔走する金の亡者がいる。

 出張で個人所得を増やす国立大学教員の存在価値は何なのか?

 別に大学の教員でなくてもできることをやってしまっている現状を把握している人間はいないのか?


 国立大学の人間が教育現場や実践を「市場」にたとえてしまうあたりで,もはや

 「公教育」は終わっている。

 国立大学の存在意義は何でしょうか?

 センター試験で高成績がとれる学生を集めて,どのような人材を生み出そうとしているのか?

 
 反発を生んだ文科大臣の例の通知の意図は,まさに文字通りのものだったことが想像できます。


 すぐに撤回してしまうあたり,そっちもいてもいなくても変わらない感じがしましたが・・・。


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生徒が「授業がつまらない」という本音を言えない高校の進学率の高さ

 一生懸命に「生徒に興味を持ってもらおう」と思って教材開発をしたのに,

 「これ,大学受験に役立ちますか?」という不信感をもった教科主任の一言でボツに。

 場合によっては,生徒のダメ出しでボツに。

 こういう経験をしている高校教師は何%くらいいるのだろう。

 もちろん大学への進学実績を気にしなければならない高校の話である。

 偏差値の高い大学への進学者がほとんどいない高校の教師は,本当に楽だと聞いたことがある。

 これはもちろん相対的な話。模試の偏差値(校内の結果)が「教師の評価」に直結するような高校では本当にストレスもたまるだろう。

 進学率の高い高校でも,ある面から言えばストレスがかかりにくい。

 きっと,「授業がつまらない」という感想を「わざわざ」出す高校生はいないだろう。

 「それが当たり前だから」という感覚をもって学習し,「偏差値の高い大学」に進学してきたコドモタチが,

 大学でどれだけ「学び」に力を入れることができるかは,大学教師でなくても想像がつく。

 東大の教員に危機意識が芽生えている理由もわかりやすい。

 地方の公立高校では,センター試験対策に沿った授業をするのが当たり前で,

 これはセンター試験の問題を見ればわかることだが,そういう授業が「おもしろい」わけがない。


 文科省の積もり積もった高校教育への不信感によって,とうとう「今までにない高校いじめ」の

 学習指導要領が生まれようとしている。

 センター試験廃止でなく,試験問題の見直しでよかったのだが,

 そこは「改革らしさ」を全面に出したかったのだろう。

 
 受験のモチベーションを柱にして「人気」を支えようとしている高校の授業を変えさせるのは,

 「受験問題」の質に尽きるわけだが,大人数から一部を選抜する「問題」に,

 これこれこういう授業をしていないと,うちの入試問題は解けない,というメッセージを出すのは難しい。

 何しろ,教員採用試験の面接官の話を聞いても,

 「違いを見つけるのが難しい。面接官によって全く評価が異なる場合も多い」という悩みがあるという。

 1人の選抜に複数の人間で時間をかけられる場合でも,「違いが分かりにくい評価方法」では

 「評価の透明性や妥当性」が出せない。

 
 筆記の場合,東京大学の二次試験のように,採点基準を公開しないとなると,

 「何が正解かわからないまま,選抜が行われる」という状況になる。


 理想を追い求めると,かえって理想像とは真逆の結果に陥るおそれもある。

 偏差値の高い公立高校にいる生徒のように,「割り切れる」人だけが,得をするしかないのだろうか。

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「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できないし学ぶ意欲は高まらない」という子ども観が生み出す凶育

 「子どもたちの能力を信じる」などと言っているくせに,

 「どうせ子どもは教師の話を聞いても理解できない」と見下している人たちがいる。

 こういう子ども観が生み出す凶育は,戦前から何度か周期的に現われ,そして沈没していった。

 子どもを信じない大人が実践する凶育は,決して長続きしないものである。

 荒れた学校や学級が立ち直っていく過程を知っている人が,決して捨てない信条がある。
 
 それは,「子どもは本気で語る大人の話をしっかり聞ける存在である」ということ。

 残念ながら,世の中には本気で騙る大人がいる。

 教育現場から尻尾を巻いて逃げていった人間たちが,

 教師を混乱に陥れようとしている状況に待ったをかけられるのは現場の教師に他ならない。

 子どもたちが本気・本音で語り合える場面を,どういう機会に与えていこうとするか。

 授業研究でしか実績をあげられないタイプの人には,一生かかってもわからないだろう。

 子どもを守れるのは,現場の教師である。


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なぜ子どもは「理解した」つもりのことを次の日には忘れているのか?

 公開授業で研究協議をするのは,当日に決まっています。

 私は,できれば次の日か,一週間くらい後にもう一度子どもの様子を見てから,授業の評価をしたいという立場です。

 キーワードは,「定着」です。

 話し合い活動や問題解決的な学習によって,さまざまな能力を習得させたい気持ちは分かりますが,

 実は子どもの「理解力」「思考力」は,そう簡単には向上しません。

 多くの子どもが,「その日にはわかったつもりなのに,次の日には忘れている」状態にあります。

 「人に説明すれば,理解度はかなり高くなる」というデータがありますが,

 「人に説明しても,その日には理解できていたのに,1週間後には忘れている」子どもが多いことも事実です。

 算数や数学のように,ある時点で習得した内容を,何度も繰り返し使っているうちにしっかり理解していくというパターンの学習もあるのですが,その算数や数学でさえ,

 小テストのときにはできていたのに,定期テストのときには忘れている,ということが起こります。

 こういう子どもの「学習定着率」を下げる効果が高い学習とはどのようなものか,想像できますか?

 小学校には「定期考査」がありません。

 かなり短い範囲でペーパーテストが行われます。

 まだ記憶が新しい内にテストをして,点をとらせて,理解したことにする短いスパンの評価は,

 中学校や高等学校では通用しません。

 教育現場ではこんなに当たり前のことが,理解できずに,すぐに「今までにない指導法」に飛びつく人がいますが,なぜ失敗するのか,その理由をつかむのはごくごく簡単なことです。

 「話し合い活動」は,とても意義のある学習方法です。

 しかし,これを繰り返すうちに,子どもは「不特定多数に向けられる言葉」への集中力を失っていきます。

 極小規模校で指導していた教師が,子どもの経験のためにと大人数の教室に子どもを入れてみて,このことに気づいたという例を以前に紹介したことがありますが,

 「不特定多数に向けられる言葉」が聞けない子どもが増えている原因がどこにあるか,きっと気づける人が多いと思います。

 「理解したつもり」になりやすい学習の落とし穴を実感できる機会がこれから増えるかもしれません。


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【データから考える教育-7】 子どもの自立への不安

 子どもが自立できるか不安である,と考えている親(子どもが小1~高3)はほぼ半数。

 ベネッセ教育総合研究所が2015年7~8月に行った調査の結果である。

 学年別で見ると,どこでも男子の保護者が女子の保護者を上回っている。

 では,「自立できない」と考えている理由は何だろうか。
 
 「整理整頓・片付け」が57%で最多。

 「家庭学習の習慣」が39%。

 「友達との関わり」が38%。

 そのほか,「家庭の経済状況」,「学校の宿題」,「心の成長や性格」,「進路・学校選び」,「ゲームの仕方」などが不安要因としてあがっている。

 (日本経済新聞2016年4月4日の記事より)

********************

 子どもが将来,自立できるかどうか「不安」に思ってくれる保護者が多いのはありがたい。

 「不安を感じない」保護者は,大きく2つのタイプに分けられると考えられる。

 十分な教育をほどこしており,学校の成績もまずまずよいので,本当に不安を感じていない保護者。

 本当は不安を感じてもらわないと困るのに,根拠のない楽観で余裕のある?保護者。

 世の中には,不安をあおることが自分の収入源になる人たちがいる。

 「人間の不安心理寄生虫」とでも呼ぶべき仕事がお金になるくらいだから,

 将来も「仕事が皆無になる」心配はないだろう。

 
 将来を生き抜く力をつけるために,アクティブ・ラーニングをどんどん推進させようというムードが高まっている。

 教科書レベルの内容が理解できてお互いに満足しているような「協働性」では,格差は開くばかりである。

 公立学校の現場の教師は,絶対にだまされてはいけない。

 何が子どもたちによって最善の教育かを常に問い続けることができる教師でありたい。

 教育はその場その場で常に現在進行形の取り組みである。

 教育の成果が「死蔵」されてしまる理由もそこにある。

 「変わり続ける力」と「守り続ける力」を両方合わせ持つ柔軟性がほしい。

 
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【データから考える教育-6】 公立小中の環境教育

 全国の公立小中学校のうち,太陽光発電設備を設置している学校は,
 
 全体の24.6%にあたる7371校(2015年度)で,

 2009年度の6倍になっている(文科省調査,2015)。

 太陽光発電以外の再生可能エネルギー設備は,

 風力発電610校,

 太陽熱利用144校,

 バイオマス熱利用122校。

 停電時も校内に電気を供給できる機能を備えた学校は,

 44.5%。

 (日本経済新聞2015年12月21日の記事より)

****************

 太陽光パネルは校舎の屋上に設置されているのが一般的であり,

 屋上は基本的に子どもの立ち入りが禁止であることから,

 多くの小中学生は自校にあるパネルを見たことがないのではないか。

 都市部より地方の方が太陽光パネルの設置が進んでいる気がするが,

 自然や土地のない都市部における環境教育の困難さを解消するためのアイデアがほしい。


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【データから考える教育-5】 高校生のネット小遣い稼ぎ

 高校生全体の7割以上が,インターネット上で小遣い稼ぎをした経験があるとのこと。

 4年生以上の男子小学生,女子小学生,

 男子中学生,女子中学生のうち,最も高い割合だったのは,

 女子小学生(1割強)。

 方法は,ゲームなどでポイントをためて,

 ギフトカードに換金する「ポイント交換サイト」を使うものが76.8%で最高。

 動画投稿による広告料などが8.9%。

 (情報セキュリティー会社「デジタルアーツ」,2016年1月調査)

 (日本経済新聞2016年4月18日の記事より)

*********************

 スマホの普及により,未成年でもこういう「小遣い稼ぎ」ができる世の中になっているようです。
 
 とはいっても,スマホの基本料金を稼ぐのは難しいのではないかな。

 スマホの料金も家庭での「お小遣い」に換算すると,

 今の小中高校生の「お小遣い」は月いくらくらいになるのでしょう・・・。


 さて,これだけ普及したスマホを,教育に活用しよう,という動きが高校などでは出始めているようです。

 親が支払っている通信料をたよりに,ICT関係の教育をする。

 ますます通信会社が儲かる世の中になっていくのですね・・・・。

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調子の落ちた高給取りをどんどん試合に出して給料ダウンを狙う?

 プロ球団の経営者にとって,頭が痛いのは選手の給料UPである。

 長期高額契約を結んだ選手に限って成績が悪かったりすると,「経営判断ミス」と評価される。

 セリーグでは広島カープが早々と優勝を決めてしまったため,

 「消化試合」が多くなってしまった。

 2位をキープしたい巨人だが,リリーフ陣が崩壊している。

 せっかくの先発投手の勝ち星をフイにしてしまうわけだから,

 「給料ダウン」は自分以外の選手にも波及する。

 こうして「悪い成績」が増えれば増えるほど,経営の側にとっては「助かる」話である・・・

 と考えられなくもないのだが,ファンが離れて収入が減ったら元も子もない。

 試合に出れば,活躍するチャンスが存在するわけだから,プロなら結果を残してナンボではある。

 しかし,素人が見ても調子が悪い選手を交代させないのは,特別な理由があると思ってしまう。

 資金に余裕のあるが勝てない球団ほど,人気が下がってしまう可能性があることを忘れないでほしい。


 さて,こうした「経営陣のいじわる」が本当に存在するとしたら,どういう企業に見られるのだろう。

 ありえないほどの重圧を与えて失敗させ,リストラするというケースはないのだろうか。

 
 公務員の緊張感のなさには辟易することもあるが,生き残りをかけた企業の厳しい人事管理は想像の枠を超えている。

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【データから考える教育-4】 アクティブ・ラーニングの効果

 主体的な学習を促す「アクティブ・ラーニング」を導入した小中高校の教員100人のうち,

 59人が成果や授業・生徒の良い変化を感じたことが「ある」と回答。

 (eラーニング用システム開発のデジタル・ナレッジなどが2015年10月に行った共同調査より)

 「主体性が身に付き,意見が増えた」
 
 「互いに助け合うようになった」などが良い変化の具体例である。

 具体的な手法は,「グループワーク」が79%。

 (日本経済新聞2016年1月11日の記事より)

*******************

 最大の疑問。

 「グループワーク」をほとんどやったことがない教員へのアンケートだったのかどうか。

 そもそも,「グループワーク」などは,小学校や中学校では日常的に行われている

 「普通の学習指導」である。
 
 給食や清掃活動などは「グループワーク」だから,基本的に

 「いつも普通に互いに助け合っている」。

 このシステムを東南アジアの学校などがマネし始めているようだが,「協働性を高める」のが目的なら,授業よりこっちの方がどう考えても効果的だろう。


 教員の感想で,授業での「意見が増えた」とあるが,

 それは「教師が聞ける意見」のことか,

 「一人当たりの意見を発表する回数」のことかわからない。

 
 何の効果をねらっての「アクティブ・ラーニング」なのかをはっきりさせた上での調査でないと,

 本当に学習の質が高まったのか,資質・能力が育成できたのかがわからないまま終わってしまう。


 こんな実験をしてみるといいだろう。

 あるクラスでは,グループワークを中心にして,授業を進める。

 あるクラスでは,教師が生徒の意見を引き出しながら,授業を進める。

 同じ時間に授業して,同じ時間にテストを行う。課題は,

 「授業のテーマである~について,あなたが学んだことは何か」

 「授業のテーマである~について,これからあなたが取り組みたいことは何か」

 どちらの方が,どのような効果を出やすいことが示せるだろうか。


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【データから考える教育-3】 家庭学習で悩む母親

 小学校1~3年生の子どもがいる共働き家庭の母親1000人への

 インターネット調査(公文教育研究所,2015年8月)の結果,

 家庭学習について「とても悩んでいる」「少し悩んでいる」と答えた人は53%だった。

 家庭学習がうまくいっていないと思う状況とは,

 「だらだらとし,行動にすぐ移さない」が最も多い53%。

 「いちいち指図しないと動かない」が36%。

 「いつも子どもを怒ってしまう」が29%。

 (日本経済新聞2016年1月4日の記事より)

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 学年が上がると,もっと割合が高くなるのではないか。

 「もうあきらめている」「家で勉強する必要はないと思う」

 といったネグレクト系も少なくないだろう。

 
 「家庭学習」の大部分は学校の宿題だろうが,

 中学受験の塾に通わせている親にとっては,

 ここに「塾の宿題,課題」が加わる。

 子どもたちは,『女工哀史』も霞んで見えるほどの「長時間・学習労働」に励んでいる。

 
 私が願いたいのは,「家庭学習」はあくまでも「自主的」「主体的」な学習にしてほしい。

 それも,「読書感想文」のような,「獄中作文」ではなく,もっと独創的な何かに取り組ませたい。

 100くらいあるメニューの中から選ぶという方法より,

 「授業でこれこれを学んだから,そこに関連のありそうな何々を探す」といった,

 「その場でのひらめき」をあとで(その日のうちに)形に変えられるようなものにしてほしい。

 こういう「家庭学習研究会」のようなものはないだろうか。

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【データから考える教育-2】 小学校英語

 小学校5年生,6年生の72%が,英語の授業や活動を他教科に比べて面白いと感じている。
 
 (ベネッセ教育総合研究所,2015年3月,4択で「とてもあてはまる」「まあまああてはまる」の合計)

 8割以上の子どもが,「英語がわかったり通じたりするとうれしい」と答えている。

 「授業を増やしてほしい」子どもは59%。
 
 「他教科と比べて簡単に感じる」子どもは半数以下。

  (日本経済新聞2015年11月30日の記事より)

******************


 授業の感想を聞く方法として,

 「面白い」か「面白くない」か

 「一生懸命に取り組んでいる」か「一生懸命には取り組んでいない」か

 「簡単」か「難しい」かといった項目はよく耳にするが,

 英語の場合,ここに

 「教室の外でも使ってみたいか」

 「外国の人と接することに慣れたか」

 といった要素が入ってくる。

 そもそも「教科」の「学習」として英語を学ぶべきかどうかも議論してほしかった。

 
 「英語を話す人とのコミュニケーションをとる」という目的で学ぶのだとしたら,

 実際のコミュケーション場面がないと意味がない。

 紙の教科書より,生身の人間の方が重要である。

 多額の予算が必要となるALTではなく,「英語を使って生活している人」と学校との結びつきを考えた方がよい。

 
 私は2校目の赴任校で,こんな「人集め」を行った。「国際理解」と「まちづくり」をテーマにした総合的な学習の発表会に,地域の外国人の方をたくさん招いて調査結果を発表し,ディスカッションも行うという企画だった。

 「大量動員」できた秘訣は,地域で開催されている「日本語を学ぶ会」に顔を出し,企画の説明をして理解を得たことにある。

 ここでの課題は,英語よりもスペイン語や中国語を母語とする人が多かったことだが,「言葉」を学ぶことの意義を中学生たちに実感させることができたと思っている。

 「英語関連産業」の消費者としての日本人をつくるのはそう難しいことではないだろうが,

 「英語を使ってコミュニケーションをとり,問題を解決する」という意識を育てることは,容易ではない。


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【データから考える教育-1】 少人数指導 

 少人数指導とは,1学級を2つ以上に分けて,それぞれ別の教員が指導に当たるというもの。

 少人数指導を実施している公立小学校は,全体の67.4%(文科省調べ,2015年)。

 少人数指導の学習内容は,補充的な学習が92.0%(2013年の調査では,61.7%だった),

 発展的な学習が42.5%,興味関心別の指導が12.3%。

 (日本経済新聞2016年3月28日の記事より)

*******************

 小学校における「個に応じた指導」の対策で最も代表的なものがこの「少人数指導」であり,

 その中心的な目的は,「できない子どもをできるようにする」ことにある。

 よく,教師は「どの程度のレベルの子どもに合わせて授業をするのか」と問われるが,

 高校1年生の英語でbe動詞から教えることが,「子どものレベルに合っているからよい」と言えるのかどうか。

 学習指導要領が示している内容が習得できるようにつくられた教科書のレベルについていけない子どもたちに,教師は何ができるのだろう。

 低学力や履修科目の偏りなどから,「大学での補習」すら必要とされる昨今,学力のレベルの照準,標準をどう設定するのか,という議論も,大学入試改革に向けて必要になるだろう。

 少人数で指導すれば,本当に効果が上がるのか。そこには,「競争原理」も働いているのか。

 もともと少人数の学級で学力が向上しないのは,「競争原理」が働かないからなのか。

 「少人数指導」で効果が上がるという「データ」は,教員の定数確保のためにも欠かせないものである。

 しかし,少人数指導を行っている67.4%の小学校よりも,少人数指導を行っていない残りの小学校の学力が高いというデータがあると困る。

 学力関係のデータは,異なる年度で同じ学年を比較してはいけない。子ども集団が変わるから。

 いろいろなデータを重ね合わせて,学力の向上に最も効果があるのは,学校ではなくて塾に通うことである,という結論が出てきてしまうのもこわいことである。


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虫たちの逆襲

 チャドクガの毛=毒針毛は,1匹あたり500万本。

 風に吹かれて衣服についたものが,皮膚にささる場合もあり,

 「さされた」と自覚症状がないのに,いつの間にか皮膚がたいへんなことになっている・・・・

 油断大敵です。応急処置は,ガムテープで毛を除去することくらいしかないそうです。

 人によってはひどいアレルギー反応=アナフィラキシーショックを示すので,

 119番が必要な場合も。

 
 岐阜で行われたマラソン大会では,参加したランナーのうち,115人がキイロスズメバチとみられるハチに刺されてしまったそうです。

 私も静岡の山の奥で,河原から橋の下に大きなハチの巣があるのを見つけ,近づかないようにした記憶があります。

 コースのチェックはしていると思いますが,落とし穴になるが橋の下。

 川の方から見て調べなければなりません。

 
 自然界にとっては,人間の方がよほど「害」をなす動物なのでしょうが・・・。
 
 教育の世界では,野外学習をするときなどに,このような知識も必要になってきます。

 宿泊行事などでは,子どもたちのアレルギーの状況を完全に理解しておくことが,まずは重要です。


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広島カープファンの皆様,優勝おめでとうございます

 前ケンが抜けたのに・・・広島カープの今年の強さは何だったのでしょう。

 黒田投手,新井選手などのベテラン,そしてファンの存在がモノを言ったのでしょうか。

 「市民球団」の活躍の意義は,本当に大きなものだったと思います。

 経営者の方々にとっての「優勝」は,ただ手放しで喜ぶだけのものではないでしょうが・・・。

 たとえ年棒がアップしなくても,その球団でプレーすることに満足できる選手が

 今のカープには,たくさんいそうな気がします。

 巨人を見ればわかると思いますが,いくら「選手生命が短い」と言われるプロスポーツの世界でも,

 ちょっと年棒が高すぎないか?と気になっていたこともあるので,カープの優勝には大きな意味が・・・。

 日本一に挑戦するチャンスをまだあきらめていない巨人ファンより。


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「いらつく元気もなかった」錦織の勝利

 高い集中力を保って全米オープン準々決勝を突破した錦織選手の言葉。

 確かに,「いらいらする」のもかなりのエネルギーを消費するものだ。

 アドレナリンをどんどん出して,「怒り」を前進のエネルギーに変えるのがよいスポーツもあるかもしれないが,

 テニスのように何㎝ずれたらアウトという精密な世界でプレーするためには,

 やはり「冷静な頭」が一緒でないと,だめなのだろう。

 学校現場にも,そんなにいらつく元気があるなら仕事や勉強にまわせばいいのに・・・と感じる教師や子どもがいる。

 保護者の場合は,教師とはまたちょっと違った意味でいらいらがたまりやすいが,

 「いらつく元気もない」ほど何かを達成することに全力で取り組める力がほしいものである。

 「疲れた時にこそ,冷静になる」という生き方を,錦織選手から学びたい。


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校長は,指導力のない教員たちの文句を言っていればよい

 何だ?このタイトルは?と思われたことでしょう。まさか本気でそんなことを言う気ではないだろうが・・・などと・・・。

 私は,①自分自身の子ども時代(PTA会長をしていた父親から),②教員のころ,③指導主事として学校に訪問したり,教育委員会で電話対応したりしたころ,④教員に戻って,学校に講師としてよばれるようになった今,すべての時期で校長先生から自校の先生方の力不足についての悩みを聞きました。

 「結局それって,校長が自分の指導力不足を証明しているだけでしょ」という厳しい見方もあるでしょう。

 しかし,校長に昇任するためには,それなりの実績が必要なはずです。

 特に,指導力が不足している教員にみっちり指導を行うことができるような人でなければ,校長はつとまらない・・・と昔は考えていました。

 現実は,一人でどうにかできるほど,教員の力量向上は簡単ではありません。

 子どもならまだしも,大人を一人前にさせるのは・・・それも自主的に努力させることは・・・・本当に困難です。

 特に,「力量を伸ばそう」という気のない人,子どもができないことを子どものせいにする人を変えるのは難しい。

 何と,子どもが嫌いな教師までいる。

 「学校が嫌なら辞めろよ」と子どもの方が本気で頼みたくなるような教師がいる。

 そんな教師も,感動的なお話をしてくれる講師を研修で呼ぶと,「やるぞ!」とその場では思ってくれる。

 翌日にはきれいさっぱり何もなかったかのように忘れている・・・。そんなことの繰り返しで・・・・。

 校長にできる唯一のことは,「ウソをつかないこと」。

 がんばっていない教師がいるのに,「うちの先生はみんながんばっている」などと言わないことです。

 文句はどんどん話した方がいい。本人にも。さすがに子どもにはまずいでしょうが,

 子どもたちも中学生くらいなら,自分たちが一番良くわかっている。

 せめて,「いい先生」というウソはつかない。

 ただ,ほんの小さな「優れた教育的言動」があった場合には,それをしっかり認めて評価する。

 文句ばかり言っていれば,そういういい言動を見聞きした人が,教えてくれる場合もある。

 「そんなひどい先生じゃないですよ。この前,子どもにこんな言葉を・・・」

 
 ただひたすら異動させることだけに命をかけている校長もいますが,

 そういう緊急避難的な行動が子どもを守る場合もあります。


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ルーティンの動きは集中力を高める

 プロ野球選手の中に,打撃の前に独特の決まった動きを繰り返す選手がいる。
  
 モノ真似でだれかがわかりやすいから,今ならイチロー,昔は阪神の掛布選手の動きをみんな知っていた。

 あの動きの目的は,「焦点を合わせるため」「気分を落ち着かせるため」「集中力を高めるため」などと思っていたが,

 実は,たとえばバットのグリップの感触に集中することだけでも効果があることを知った。

 すぐ目の前のバットをじっくり見ようとするだけで,たとえば「ヘッドを下げないように」とか,「もし変化球がきたら・・」など未来の余計な予測をしなくてすむ。

 「苦手なピッチャーだな」「あの試合も打てなかったな」という過去の雑念も抱かずにすむ。

 今,自分が持っているバットの感触,質感,重さに注意を向けることで,「来たボールをただ打っただけ」という感触で弾き返せた,というようなことは,教育の場面ではできないだろうか。

 ふりかえると,案外,無意識にやっていたこと,行われていることがたくさんあることに気づく。

 子どもが落ち着いて授業に参加し,集中して課題をこなしていく,その最初にあるものは,

 「号令,挨拶」だけではない。

 
 「マインドフルネス」という言葉が日本で使われるようになるずっと前から,
 
 私たちはマインドフルネスの実践をしてきた。

 読書編で,「脳の休め方」に関する本を紹介するが,日本人はあまりこういう「脳疲労」をもたずに生きてきた国民だったはずだと感じた。

 いずれ輸入学問で「脳疲労」という言葉がはやり,そういう感覚をもつ人が出てきてしまうのだろうが・・・。


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バックアップ(カバー)の大切さ

 野球の守備では,「バックアップ(カバーリング)」をすることが基本の1つである。

 たとえば,ランナーが1塁にいたとき,ライト前にヒットが飛んだとする。

 ランナーが3塁に走り,送球がライトから3塁に送られる可能性があるから,このときピッチャーは,3塁側のファールグラウンドまで走ってバックアップをしなければならない。

 イチローの2シーズンぶり,前回のエラーから395回,ノーエラーできていた守備機会でのエラーが記録された原因は,ピッチャーがバックアップに入っていなかったことが原因である。

 だれかのミスは,だれかのカバーで帳消しにすることができる,それは野球の世界だけとは限らない。

 生活指導の場面では,若い教師がやりがちなミスがある。

 先日も,部活動の試合でたまたま目にすることができた。他校での話だから,クビを突っ込めないのが歯がゆかったが,適切なカバーがなされたことを祈っている。

 同じ学校の中で問題があった場合は,教師はチームで動ける。

 「協働」の大切さというのは,こういう「危機的状況」への対応場面で,かつ,成果を残せることで,実感できるものである。

 残念ながら,「カバーリング」が望めない場面が教師にはある。

 学習指導でのミスを把握できる人が,TTや公開授業などでなければだれもないのが教員の世界である。

 アクティブ・ラーニングの宣伝をしている授業の動画で,歴史を学んでいる人ならわかるはずの「誤り」を発見した。
  
 子どもの誤った事実認識を,教師が「それは誤っている」と指摘でないような授業が続くとどうなるか。

 責任は,「だって,だれだれさんが教えてくれたのがこれだから」と,教えてくれた生徒のせいになるのか。

 学習指導における教師の責任の重さは,相当のものであり,だからこそ,継続的な研修・研究が欠かせないのである。

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「わかってもらえない」という苛立ちは,教育現場から逃走した以上,決して解消されることはない

 世の中で最も「わかってもらえないつらさ」を味わっているのはだれだろう。

 「つらさ」の度合いは人にとって全く異なる。

 人は,他人と全く同じ条件で,困難に向き合うことはできない。

 自分が耐えられたつらさと他人が耐えようとしているつらさを比べることはできない。

 教育現場に立った人間なら,だれもが「わかってもらえないつらさ」を味わうことになる。
 
 子どもの側も同じである。

 人間というのは,簡単には「わかってもらえない」問題を抱えながら生きる動物である。

 「わかり合う」ことがいかに困難なことか,普通のレベルの人間が集まる集団で生きていれば,実感することができる。

 ただ,何かを主体的に勉強するために集まった場では,みんなはじめから「わかり合おう」と努力してしまっている。

 こんな世界では,人はなかなか成長してくれない。

 「わかったかわからないか」もわからないような状態で,

 「わかりました」と返事してしまう癖のある人がいる。

 「わかる」ハードルがここまで低い人は,「わかってもらえない」つらさを簡単に感じてしまうだろう。


 いったん教育現場から逃走してしまうと,「わかってもらえない」ことはただの苛立ちに変わるようだ。

 こんな人は決して成長できないし,まわりを成長させることもできないはずである。

 「わかってもらう」ためには,努力が必要である。

 「わかろうとしている」人だけを相手にしているようでは,努力など必要ない。


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「どうせ,わからない人は多いだろうな」という話法

 何かを「わからない」=「理解できない」人に対して,「わかる」=「理解できる」状態に変化させるのが,教師の仕事の一つであるはず。

 しかし,「それは教師自身がする仕事ではない」というスタンスになると,

 「わからない人」に教えてあげよう,という意欲もなくなるようである。

 どうしてこの人たち(小学校の教師)は「いじめ」があることに気づけなかったのか,といつも思い知らされるのが,

 中学校の教師たちである。

 何人もの子どもたち,親たちから,さまざまな訴えが届く。

 小学校何年生のときに,こんなことがありました。こんなひどいことをされました。

 影で~は~にこんなことをしていました。~とは絶対に同じクラスになりたくなかった。

 子どもの中学校進学にあたって,多くの学校では,小学校での人間関係を聞き取る「連絡会」を開いているはずである。

 そうした情報をもとにして,クラス編成を行う。

 しかし,「これだけは絶対に欠かせない情報だ」と思われるような内容が,必ずしもきちんと引き継がれない。

 「いじめ」は担任のせいで起こるのだ,というのが小学校での常識なのか?

 だから,多くの小学校の教師は,「いじめ」があったのを隠そうとするのか?


 子どもが担任に「いじめ」を隠す理由は,「担任に言うと,よけいなことをして,状況がさらに悪化するから」「どうせいじめはなくならないから」というのが主なものだが,せめて親と担任のコミュニケーションがとれていれば,情報だけは入るはずである。

 お互いに,「一人も見捨てない」ことに建前上なっているクラスなので,「いじめ」がある=「一人も見捨てない」ことが実現されていない事実を隠さなければならないという事情もあるだろう。

 「いじめ」が顕在化しない理由には,さまざまなものがあるのだ。

 自分自身が「わかろうとする努力」を怠るような人間は,もはや教師ではない。


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「一人も見捨てない」という本物の使命感を身にまとうまでに経験すべきこと

 タイトルは,こういう風に言い方を換えてもいいかもしれません。

 「一人も見捨てない」という本物の使命感を身にまとうことができるようになるには,どのような経験を積まなければならないか?

 もし,中途半端な覚悟で中途半端な教育を行った場合,子どもの身に降りかかる不幸はどれほど深刻なものになるのか?

 子どもたちには,「口だけの人間」かそうでないかを,瞬間的に見抜く能力が備わっています。

 大人にはわからない,子どもならではの能力かもしれません。

 いきなり目の前の大人が,「一人も見捨てない」という原則を全員が守ること,と宣言した瞬間に,子どもたちの目は「怪しい人」を見る目に変わるかもしれません。

 そもそも,自分も含め,「できないままにしておかない」という圧力を教師が加えてくることを,子どもたちは嫌がります。

 「全員ができてしまう課題」で全員が満足できるのは,小学校低学年くらいまででしょう。

 「一人も見捨てない」ことを子どもに強制する「教育方法」「教育理念」が登場したのはなぜでしょうか。

 
 「一人も見捨てない」ことを強く心に誓って,教育実践を行っている教師も多いはずですが,

 なぜそういう教師たちが,「お前の授業では,子どもは見捨てられた状態になっている」と言われなければならないのか。

 「一人も見捨てない」という気持ちがどれだけ高まるか,教師としての使命感がどれだけ質的に向上できるかは,それぞれの教師の実践,行動,経験次第です。

 一番わかりやすい「経験」は,「失敗」です。

 「無力感」「自己肯定感の喪失」「人間不信」・・・こうしたところからスタートできれば,「一人も見捨てない」という強い信念をもてるようになるかもしれません。

 もう少し付け加えるとしたら,どういう教師に教育を受けてきたかが,どういう教師になれるかを大きく左右することもあります。

 理屈っぽい教師に育てられた人の多くは,きっと自分も理屈っぽくなっている面があるはずです。

 目の前にいる人に「圧力」を感じさせる教師に出会った人のうち,その「圧力」に抵抗感がなかった人は,きっと子どもに「圧力」をかけて思い通りに動かそうとする教師になるでしょう。

 「こんな簡単な方法で,一人も見捨てないという教育をしたことになるよ」・・・・言葉だけに乗っかって,子どもを「見捨てていないつもり」になることだけはやめましょう。


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教室とはだれのものか?

 小学校の先生にこういう質問を投げかけたら,十中八九,「子どものもの」と答えるのではないでしょうか。

 「私は違う!」という先生も,もちろんいらっしゃるでしょうが・・・。

 小学校と中学校では,学校文化がまるで違います。

 小学校らしい文化,中学校らしい文化,それぞれあってかまわないと思うのですが,

 中学校の教師が困るのは,小学校でしか通用しない文化が中学校に持ち込まれるときです。

 教師をあだ名で呼ぶ,タメ口をきく,女子が男性教諭に抱きつく,膝の上に乗る,挨拶はしない,ルールに従わない,遅刻をする,時間を守らない,違反物を持ち込む,ノートをとらない,提出物を出さない,配布物を親にわたさない,忘れ物をする,約束を守らない,いじめをする,ものを隠す,人のものをとる,掃除用具をふりまわす・・・・何でもアリな子どもが生き生きできる場は,中学校にはありません。

 以前にも書いたように,小中一貫校は,

 「中学生になれない小学7年生,8年生問題」で苦しんでいるといいます。

 教科によって先生がかわり,教室移動も少なくない中学校では,

 小学校での生活のペースはまるで通用しません。

 中学校に入学後,1ヶ月くらいの間でたたきこまれる「時間を守る」「挨拶をする」「返事をする」の3つの「行動改革」で,何とか新しい文化になじんでいきます。

 「教育学」という敷居の高い学問の立場から授業なり生徒指導なりの指導をされる方々が書く本には,「現実味」がありません。

 「現実味」とは,わかりやすく言えば,問題行動の山とか低学力の問題です。

 「中の下」にレベルを合わせた課題やテスト問題をつくって,中の中以上の子どもたちに任せておけば,みんなが満点をとれるようになる,そういうどうしようもない「教育方法」と教師が担っている役割には天と地ほどの開きがあります。

 指導主事のころにとてもよく実感できましたが,小学校ではいろんな講師を招いて研修をすることにあまり抵抗がありません。中学校籍の私の話でさえ耳を傾けてくれた学校がありました。

 小学校の先生方は,いい意味で「理想」を追い求めようとしてくれています。

 「理想」に近い授業なり教育観にふれることが大好きなのです。

 しかし,現実の子どもはその通りには成長してくれません。

 なんだか自信満々で子どもに接している教師のクラスの子どもが,

 本当に無責任だったり学力が低かったり平気で他の子をいじめたり,

 入学してすぐに散々な姿をみせてくれるので,中学校の教師は「やりがい」を感じるのです。

 さて,学校の教室とは,だれのものでしょうか?

 少なくとも,子どもが使っている机やいすは,その子のものではありません。

 消せる落書きならまだ許せますが,彫刻刀で自分の名前を彫り込む子どもには,天板の張り替えの費用を負担してもらわないといけませんよね。

 学校の机は,人がその上に乗って歪まずに使い続けるほどの強度がありません。すぐ歪みます。

 公共物を大切にする,という概念がまるでない子どもがいる原因はどこにあるのでしょう?

 「小学校でも,ものを大切にする指導をしています」・・・自信をもって言ってほしいですね。自分のものではなく,他人のものを大切にする(手をつけない)という指導もお願いしたいと思います。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より