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2016年8月

自分にとって都合のよい情報だけを提供する人たち

 人は,自分が見たいと思うだけを見ようとする傾向がある。

 人は,自分が見たいと思わないものを,見ようとしない傾向がある。

 やってはいけないことは,これを人に強いることである。

 「こうすれば,うまくいきますよ」という宣伝をしたい人は,

 「うまくいく理由」「うまくいった事例」「うまくいったように見えるデータ」ばかりを集めて宣伝してくる。

 「成功」例にむらがって同じことをしようとする人たちが大失敗を犯す原因がここにある。

 新しいことにチャレンジして成功する人と失敗する人の違いはここにあると考えられる。

 教育の世界では,そもそも簡単に「成功」は得られないし,

 「成功」したように見える「学校での今」が,子どもの将来にとって本当に役立っていくとは限らない。

 「未来の成功保証」など,だれにもできない。

 一人一人の子どもにしっかりと向き合って,現在の条件の範囲で,教師はできる限りのことをするのみである。

 「一人で全員を見ること,全部をすることをするのは無理だ」というのは当たり前である。

 しかし,100%が無理だから,0%でいいという,ONかOFFかしかない発想の人に,教師はつとまらない。

 ある子どもへの教師の影響度が80で,別の子どもは20かもしれない。

 影響を受けやすい子ども,そうでない子ども,

 影響を受けたがる子ども,そうでない子ども,さまざまである。

 子どもたちは同級生たちからも,さまざまな影響を受けて生きている。

 しかし,高校より中学校,中学校より小学校の方が,

 教師の影響力は大きくなる。教科担任制ではない小学校について理由を説明する必要はないだろう。

 小学校段階で,大人に対する信頼感をもてずに育った子どもがどれほどの不幸を背負うことになるのか,想像できる人はいるだろうか。

 失敗のリスクが非常に大きい教育の「理論」なり「方法」の実践が,教育現場にもたらす影響が次第に大きくなっていくことが懸念される。

 資質・能力の三本の柱のどれが欠けても人間は自力で立てない。

 「科学技術がどれかを補う」という幻想を,人間の資質・能力の世界に容易にあてはめようとするのは要注意人物だ。


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小学校でのけんかの代償=7800万円

 産経新聞が27日(土)に配信したニュースによれば,柏市の小学校で起きた教室でのけんかで重傷を負った児童が,負傷させた子どもの両親と市に約1億4500万円を支払うよう求めた訴訟で,7800万円を支払う内容の和解合意が成立したとのことである。

 市が2730万円を,残りの5000万円余りを加害児童の両親が払うとするのが和解案だそうだ。

 市が認める学校側の責任とは,「嘔吐の症状があったのに,病院搬送を怠り,症状を悪化させたこと」だという。

 今後,けんかに限らず,小中学校で子どもが頭を打った場合の「救急による病院搬送」のケースが増えるだろう。

 また,いつ相手に怪我をさせるかわからない,という「危なっかしい」子どもをもつ親は,怖くて子どもを学校に通わせられなくなってしまうというおそれもある。
 
 どのような障がいが残ってしまう怪我を負わせるのか,また負わされるのか,全く検討もつかない。

 子どものけんかというのは,何がきっかけで起るか全く予期できないことが多い。

 「おとなしい」としか見られていなかった子どもが,いきなり「爆発」することもある。

 子どもたちに何でも「協力し合ってやることがいいことだ」と信じ込ませようとする教育がいかに危険なことか。

 小中学校の教師をしたことがない人間には想像できないことだろう。

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「洗脳超大国日本」の教育

 ホリエモンは学校やマスコミを「洗脳」の元凶として忌避しているようだ。

 それにしても,「洗脳」という言葉の語源を知ると,「ある国」と同じような体制に日本も移行しつつあるのでないかと危惧してしまう。

 広い意味で考えれば,「教育」とは「洗脳」そのものである。

 ある学習理論(?)を「洗脳」風の宣伝で広めようと躍起の人がいる。

 ホリエモンがそんな「洗脳」の場にいたら,何といって抗議するだろうか。

 「まわりでわいわいやっていて,気が散って思考に集中できない!」という抗議を受けつけない学習方法に。

 実際の困難な教育現場にいない人間が,その場にいる人間に対して,

 「救い」の手を差し伸べているようで,実は「絞め殺す」ための手であることに気づけないまま,

 「マネ」して失敗するケースが今後もどんどん増えていくだろう。

 子ども同士の関係は,データなどで表わすことや把握することは絶対に不可能であると思われるほどに複雑である。

 極限までたまった子どもたちのストレスが,『殺し合い』に発展しないことを祈る。

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もしあなたが高校の物理の教員採用試験で,「暴走族から物理を学ぶ意味は何か?と聞かれたら,何と答えるか」と問われたらどうする?

 高校の教員に質問を投げかけてくれる「高校生」に対して,「暴走族」と呼び捨てる大学教員がいるようですが,

 教員採用試験ではもちろんタイトルのような質問はされません。

 しかし,意表を突くのが大好きな面接官とか,大学教員の本を読んでいる面接官が気まぐれにそんな質問をしてきたとしましょう。

 頭が柔らかい人なら,「物理」と「暴走行為」のものすごい密接な関係に気づけますよね。

 質問を変えてみましょう。

 「暴走行為による命の危険から,人間を守るための物理の法則を挙げて下さい」

 これなら答えられてしまいます。

 しかし,面接官もオートバイが好きな高校生も,先輩や仲間の誘いを断れない高校生も,

 実は遠心力がどうとか,加速度がどうとかいう話を聞きたいわけではありません。

 教科の専門性ではなく,教員としての資質があるかどうか・・・というより,

 わかりやすく言えば「人間性」を見たくて聞いているのです。

 「一般の高校生より,暴走族ほど物理を学ぶべき意味がある」ことに気づいても,

 「暴走族」という属性で人間を見る行為自体を否定できる人間であることを証明するべきです。

 
 子どもたちが嫌いだった教科の学習を好きになるきっかけを調べたデータはどこかにありませんか。

 教師の教科の専門性とただの人間性,どちらの影響力の方が大きいでしょうか。


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「ギジンカイメイ」で広げる思考力

 小学生の娘が夜遅い時間帯の番組をぜひ見たいというので,しばし付き合ったのが

 NHKの「林修先生の 見れば納得!ギジンカイメイ」。

 28日の日曜日の午後1時05分から再放送される。

>目に見えないモノの仕組みや世の中の分かったようで分からないことを、徹底的に「擬人化」して説明に挑み、反響を得た番組の第2弾。たとえば今回は、「人前であがってしまう仕組み」。あがる時に体内で起こっていることを、なんと刑事ドラマにしてお見せします。他に「強烈な寝ぐせができる訳」「ダイエットしてもリバウンドする仕組み」をカイメイ。仕組みがわかれば、対策もわかる。バカバカしくも役に立つ衝撃のバラエティー。

 正確には「擬人化」ではなく,人間に役割をあてはめて演技させながらものごとの仕組みを理解させようとする意図の番組で,林修先生が「擬人化」具合を採点して,評価するというもの。

 「人前であがってしまう仕組み」というより,

 「人前であがる」とは体がどうなってしまう現象なのかを理解するものであり,

 「あがるのを防ぐにはどうするか」のアドバイスもしてくれる。

 娘はこの部分を見たかったのだろうか。

 科学的な説明を行うときに,専門的な用語は登場するのだが,

 「擬人化」に徹して「難しい」イメージを持たせないようにするためか,

 実際の化学物質やその模式図などは登場しない。

 理科に深い興味がある人というより,何かの問題を解決したいと思う人が視聴するのに適している。

 
 学校でも,「わかりやすい授業」をする先生は,「たとえ」がよく登場する。

 「ギジンカイメイ」は理科だけでなく,社会科にも適している教え方の参考になるだろう。


 日本の歴史の流れを,私は人間の顔を使って説明できるようにさせているが,

 デコレーションケーキや魚にたとえて説明を試みてくれた生徒もいた。

 
 アナロジー思考の説明で,「高度なパクリ」という的を射たものがある。

 「高度」=「難解」というわけではない。

 より高度なパクリは,今まで当たり前にあったものを組み合わせて,

 全く新しいものを創りだしてしまう威力もある。


 先行きが厳しそうな「新聞」と組み合わされると面白いものは何だろう。

 「新聞」でできるダイエットとは?

 「新聞」でできる地域の活性化とは?

 「新聞」でできる1億総活躍社会の実現とは?


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ロボットが身近な存在になるまで

 ロボットが本当の意味で「身近な存在」になるまでの道のりは,まだまだ果てしなく遠いものに思われる。

 私は鉄腕アトムに夢中になった世代よりも下だが,若いロボット研究者たちにとって,

 鉄腕アトムは「めざすべき到達点」のいくつかを示しているという点で,とても貴重な存在であるようだ。

 人気のために大衆迎合型・勧善懲悪タイプの単純なヒーローとしての活躍をするようになったアトムを,

 手塚治虫自身は「作品史上最大の駄作」と見なしていたようだが,影響力の大きさは計り知れない。

 ロボットに人間が託している本当の夢とは何だろう?

 人間より人間らしい人間を求めているのではないか?

 ロボットに夢中になりすぎて,人との接点をなくした生活も,

 「人間らしい生活」の1つのパターンだと思えば,地球は「人間らしさ」にあふれている。

 未来も「人間らしさ」は失われないだろう。

 ただ,いずれ,ロボットから「顔の表情」や「言葉のニュアンス」を教えられる時代になっていくのかと考えると,そもそも「人間とは何か」という問いも失われていってしまいそうだ。

 ディープラーニングのレベルも,まだまだ人間で言えば5歳程度のことしかできないらしい。

 「よくぞ5歳レベルまで到達したものだ」と賞賛されるべきところだろうが,

 いわゆる「基礎研究」にかかる時間・費用・根気は想像を絶するほどのものだろう。

 理系にはケタが違う予算がついている一方,

 学校教育には大改革にふみきるほどのほとんど予算がつかない。


 それでも学校教育が沈まないですむようにするためには,

 現場のソフトパワーで乗り切るしかないのだろう。

 「ロボット先生」で教育が事足りるようになる日は遠い遠い先の話であってほしい。


 
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私立小中に子どもを通わせる家庭への補助よりも優先すべきこと

 私立小中学校に通う子どもの授業料に税金から補助をするという文科省の政策案に対して,産経新聞の社説では,「優先すべきは公立再生」と批判的な主張がなされている。

 年収590万円未満の家庭は,私立中に子どもを通わせている家庭の約1割だそうだが,

 約13億円が概算要求に盛り込まれる方針だという。

 この政策の効果というか意味合いは,広く国民の理解を得られるものだろうか。

 金額の多い少ないに関係なく,ぜひとも国会では議論を尽くしてほしいところだが,

 では13億円分を公立学校の教育の充実に使おうといっても,「焼け石に水」という印象がぬぐえない。

 東京都の公立学校では,たとえば管理職が足りなくて困っている。

 管理職手当を増額すれば,希望者は増えるだろうか。

 決してそういうことはないだろう。

 多額の退職金をエサにすれば,管理職希望者が増えるだろうか。

 いかにも「金目当て」っぽい人たちが管理職試験を受けに来ることが,

 公立学校の教育に何かプラスになるのだろうか。


 記事からは,「公立学校やその教師たちへの不信」が大きいことがうかがえる。

 確かにいじめの問題や教師による犯罪行為を報道し続けている新聞社にとっては,

 憤りが隠せない部分も大きいと思われる。

 「何事もない」という公立学校での教育は,金メダルをとることより難しい,

 なんていう言葉の意味はわからないだろう。

 何が当たり前で,何がそうでないか,実態を掘り下げていくことの方が,新聞社の仕事としては先ではないだろうか。

 実は,公立学校でも,部活動をはじめとして保護者にかなりの経済的な負担をかけているところがある。

 「よく見えていない」ものが,どれだけあるかということに関心をもっていただきたい。


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沖縄教員採用試験問題「丸写し問題」から見る「教員採用の資質・能力」

 教員採用試験は,「これからの困難な時代を生き抜く力を子どもに育成できる教師としての資質・能力」を問うものであってもらいたい。

 実際の採用試験では,「ただの市販の問題集が解けるかどうか」で選考がなされているとすると,教員になるための準備は,「予備校」でひたすら問題集を解くだけで成立することになってしまう。大学に通う必要はないし,教師としての資質・能力を伸ばすような訓練も必要ない。

 採用試験を実施している人間たちの,「採用能力」にかかる資質の問題が表面化したかたちになった。

 教員採用試験問題は,すぐにでも「21世紀型能力」を問えるかたちに変えるべきである。

 「これだけの試験を通った優秀な人たちに,子どもを教育してほしい」と願う県民を増やすために,

 問題もすぐに公開すべきである。

 本当に教育現場にとって「よい人材」を採用してきたのかどうか。

 問われるべきは,沖縄だけではないだろう。


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「社会的な見方・考え方」を教えるために

 次期学習指導要領の目玉は,(改正)教育基本法(・・・註:実は,この内容自体に課題があるのだが・・・)や学校教育法の規定にそくして,子どもに身につけさせたい資質・能力を明らかに示して,それを育てるために各教科等独自の「見方・考え方」を働かせることができるような学習指導を目指すことにある。

 社会科・地理歴史科・公民科では,「社会的な見方・考え方」を育成しなければならない。

 「社会的な見方・考え方」で根本的に大切な発想は,

 「人によって違いがある」「見方・考え方は1つではない」ということである。

 週刊東洋経済8月27日号の佐藤優コラムでは,「さまざまな事件を読み解く3つの視点」が紹介されている。

 分けて考えるべき「3つの視点」=「事実関係」「認識」「評価」。

 「事実関係」の理解を誤ると,当然,「認識」や「評価」も間違ったものになる。

 しかし,「正確な事実関係をおさえること」は,たとえば犯罪操作を例に取ってみても,決して易しいものとは言えないことが想像できる。

 だれか(あるいは組織)が事実を隠したり,違うことを事実として発表したり,一部の事実しか発表しなかったり・・・。

 だから,「社会的な見方・考え方」でまずは大事なのは,「そこに示された事実関係が,本当のものかどうか,一応は疑ってみる」という批判的な姿勢をもつことである。

 「振り込め詐欺」にひっかかる人に,こういう姿勢の大切さを突きつけるのは酷だろうか。

 
 「社会の見方・考え方」の難しい点は,

 「事実関係」が同じでも,「認識」が同じになるとは限らない,ということである。

 私はこのコラムを読むまで知らなかったが,トランプ大統領候補がアメリカではバッシングを受けているが,ロシアでは肯定的な内容のものが多いということ。

>米国で孤立主義的な外交哲学を持って,主要国との「すみ分け」を提唱する賢明な政治家が米国大統領候補になったという印象を受ける

 「認識」が異なる背景にあるのは,「認識を導く利害関心」が異なることである。

 その「事実関係」が,自分たちにとって「望ましいことか」「望ましくないことか」によって,「認識」は180度違うものになるかもしれない。

 「利害関心」とまでいかなくても,「目標」が異なれば,「認識」が変わる例として,

 せっかく90点をとったのに,家で親から叱られた,というケースが教育では想定できる。

 同じ90点でも,「とても努力した結果,点が上がった」という子どもの認識と,「満点に10点も足りない」という親の認識は異なる。

 
 これは教育の世界の話だと笑うことはできない。

 たとえば災害対策や環境問題への「認識」は,今のままで本当によいのだろうか。

>逮捕されることが予想される人やメディアバッシングが予想される人は,楽観論に傾く傾向がある

 冷静な「認識」の持ち方を社会科では教えなければならない,ということである。

 
 最後の「評価」についても,難しい課題である。

 50億円かけて都知事選挙をする意味があったかどうか,という問いを立てると,

 人によって意見は対立するだろう。

 
 しかし,「評価」を念頭においた意思決定,政策判断というものも大切である。

 社会科で教える「社会的な見方・考え方」は,奥が深い。


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よい授業を続ける教師がしていること

 よい授業をしている教師かどうかを判断する上で,わかりやすいチェック項目があります。

 週刊東洋経済の特集記事『成果を上げるコーチングの鉄則』に示された「コーチングを効果的にするための12か条」を参考に,よい授業をしている教師がどのような質問をしているか,整理してみようと思います。

 ここでは「よい授業」の意味を,生徒の学力(資質・能力)=「知識や技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性」を高めることができている授業ということにします。

 まず,「よい授業」では,生徒の思考がアクティブになるような教師の言葉かけ,質問・発問があります。

>答えを誘導するのではなく,相手が自由に答えられる質問

>相手に自発的に考えさせる機会をつくる質問

>相手の考えの深掘りをしたり,抽象度を上げたりする質問

>ほかの選択肢を引き出すような質問

 これらの質問によって,生徒の方からさまざまな学習課題が提示されるようになり,そのまま追究に入ることが可能になります。

 ただ課題を提示して,すぐに「話し合い」に入るような授業では,生徒は「操り人形」にすぎません。

 ベルトコンベアーに載せられた製品と同じで,つくられている場所は班ごとで別々でも,みんな同じような製品になってしまうおそれがあります。

 「ゆとり教育」までの路線が「個性重視」だったために,その反動として,「画一化の徹底」がなされるようになりました。

 『学び合い』の教室では,一見,楽しそうに課題に取り組んでいるようでも,結局は,「一定水準を満たすまずまずの製品」を効率的に生み出して終わりになります。

 もし,『学び合い』で成果が出るとしたら,子どもたちに上に掲げたような「質問」ができる能力をつけさせることが重要です。

 もっと基本的な「質問」のルール・・・たとえば,

>短いフレーズで,シンプルな質問をする

>1回にいくつも質問せず,1つのことだけ質問する

>5W1Hをうまく使い分ける

>オープンクエスチョンとYES/NO型の質問を使い分ける

 といった習慣を身につけさせることも大切です。


 子ども同士の会話では,普段,子どもの視点では意識しない問いは発せられません。

 「何が何でも理解してもらう」というレベルの動機で『学び合い』を実践すると,

 「何のために理解するのか」という問いを忘れた「学びマシーン」が量産されるだけで終わります。

 
 人に「気づき」を与える問いができるようになるトレーニングを,教師になる前に積んでいけるカリキュラムが教員養成段階で必要になりますが,

 まずは,今の子どもたちに投げかけてあげることです。

 
 ただひたすらに,「理解できない子どもをゼロにしよう」と願うレベルでは,「教育」とは呼べません。

 ましてや,「自分が得をするために」なんていう目的で「他の子に教えよう」という気持ちにさせるのは,「教育」ではないのです。


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学年全体の同窓会が続く理由

 私の最初の赴任校の卒業生たちが,定期的に学年全体の同窓会を開いてくれていて,毎回数十人が集まっている。

 同窓会が続くのは,ひとえに幹事たちのおかげとも言えるが,幹事とその仲間だけしか集まらなければ,「拡大幹事会」が続いているだけになる。

 本当の意味での「学年の同窓会」が続いているのは,基本的には「中学校時代の素晴らしい思い出」があることがベースになっていると考えられる。

 なぜ「クラス会」ではなく,「部活のOB/OG会」ではなく,「学年全体での会」なのか。

 小学校や高校ではあり得ない,中学校ならではの特色がここにある。

 生活指導は特に厳しい学年で,事業で成功した卒業生たちは,口々に「あのときの経験のおかげ」と私たち教員には言ってくれているが,「厳しいだけ」の学校生活がよい思い出になるはずがない。

 先生方をはじめ,生徒たちがみんなで「よい学校生活」をつくりあげた学年だったのである。


 どの学校,どの学年でも同じようにいく,とは限らない。

 残念ながら,教師と生徒の双方がお互いに「かけがえのない出会い」だったと実感し合える関係になるのは,そう簡単なことではなく,「とんでもない困難を乗り越える」といった特別な事情がなくて「支え合う」関係になることはまれだと思われる。

 「どうしたらそういう関係になれたのか?」と聞かれても,別に当時は生徒も教員も「支え合おう」なんてことを思いながら生活していたわけではない。

 毎日の生活を,学習を,行事の準備と運営を,部活動を,ただただ精一杯がんばっていただけである。

 道徳の授業をまともにやっていた学校でもなかった(それがとてもよかった)。

 教師と生徒との関係に「わざとらしさ」が全くなかった。


 以前も書いたことだが,荒れた学校から異動してきた教員が,

 「ああ,この学校に来られたお陰で少し休める」ともらした言葉を耳にした同じ学年の先生から,

 少し憤りを感じた,というニュアンスで伝え聞いた。

 案の定,その教員の所属する学年が,覇気がなくなり,ほどなくして荒れ始めた。

 荒れている学校以上に,先生方が一生懸命働いているからこそ,そのときがあったのである。


 学年全体の同窓会は,今回で4回目だったが,多少外見が変化した卒業生たちも,

 話しかけて会話しているうちに,当時の顔とオーバーラップしてくる。

 私たち教員は,そういう「変わっているが変わらない卒業生」に会いたくて,同窓会に参加する。

 きっと,卒業生たちも,「決して変わることのない絆とその原点」を確認するために,集まってくれるのだと思っている。

 
 公立中学校当時の様子からは,また,同窓会に参加したときの服装からも,まさか「年商何十億」の会社を経営する社長になるとは思えなかった卒業生もいるが,今,従業員たちに慕われる社長さんになっていることは確かだと思われる。

 人への感謝を忘れない人であり続けてくれている。事業が成功している鍵の一つだろう。

 まだ,卒業から20年と少ししかたっていない。

 SMAPより長く同窓会を続けられるようにするための企画を検討中である。


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王者の敗戦と涙

 勝つはずの選手が負ける,

 別れ別れになるはずのないグループが解散する,

 儲かるはずの企業の利益がなくなる・・・・


 人々は,一生懸命に「原因」を探る。

 多くは,「何が悪かったのか」「だれが悪かったのか」など,

 「欠点」「悪者」を探す。


 負けたり解散したりしたときだけ,

 「問題点」に目を向けているわけではない,という人もいるだろう。


 何か理由がなければ気持ちの整理ができない状態というのは,

 決して悪いことではない。

 
 ただ,「気持ちの整理」が最も必要なのはだれかを忘れてはならない。

 人はみんな,自分勝手なところがある。

 自分勝手になりたくてなっているわけではないが,

 「見落としがないかどうか」を心がけておくことは大切だろう。


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教職大学院への志望(勧誘)理由~教員採用試験の一次免除をねらって

 教師をめざしていたある大学4年生が,教員採用試験に落ちてしまったので,

 教職大学院に進みたい,と私の知り合いの大学の先生に相談していることをお聞きしました。

 なぜ教職大学院なのか?と聞くと,

 「採用試験の1次に通る気がしない」

 「教職大学院には,推薦制度があり,1次免除が狙える」とのことでした。

 私はすぐに,1次試験に合格するための予備校に通った方がよいのでは?

 と思いましたが,上越教育大学のHPで,教職大学院への勧誘の文句に,

 以下のような内容があるのを見つけました。

>学部・修士課程と教職大学院を比較すれば、在籍者数が少ない教職大学院で推薦枠に選ばれる割合の方が高くなります。しかも、上越教育大学の場合、教職大学院の修了予定者の多くは現職院生ですので、これから教員採用試験を受けようとする学卒院生の修了予定者が推薦される可能性は非常に高くなる訳です。
さらに、教職大学院に対する推薦制度が現在増加傾向にあることも有利に働くでしょう。(大学HPより)

 推薦制度をエサに勧誘しているようです。

 私は,推薦制度に反対したいわけではありません。

 今のところ,ごく少人数しか推薦できませんから,

 採用する都道府県としては,それぞれの教職大学院が推薦してくる学生のレベルによって,

 各教職大学院の教育レベル・学生のレベルもわかります。

 「当たり」の確率が大きい大学院は,どんどん「推薦枠」を広げてもいいように思います。

 ただ,推薦制度を使ったあまりにも露骨な勧誘姿勢は,後に大学院生間,そして大学院と院生間のトラブルに発展しかねないでしょう。

 だれでもわかることです。

 明確な推薦基準を公開し,選考結果も開示することが,教職大学院にとっては必須の仕事になるでしょう。

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望ましくない調査結果は公表されない

 調査というのは,第三者機関が実施してこそ意味がある。

 お金をもらって仕事をする人たちが「第三者機関」である場合は,お金の出所がどこかという点が,重要である。

 教育に関しては,ぜひとも文科省以外の機関が予算をとって・・・・たとえば財務省本体が予算を割いて・・・・調査を実施するべきである。

 次期学習指導要領では,いわゆるアクティブ・ラーニングの実施が重視されるのだろうが,

 アクティブ・ラーニングをやっていません,という学校が,

 たくさんやりました,という学校よりも,学力を高めたという調査結果が得られることで,何を変えることができるだろう。

 35人以上いるクラスの方が,10人程度しかいないクラスよりも学力が向上しやすい,という調査結果が得られることで,何を変えることができるだろうか。

 「学習方法を変えない方が望ましい」という調査結果を私はあまり見たことがない。

 「学習方法を変えた方がよい」という意見に説得力を与える調査結果は見たことがあるが,

 「学習方法を変えた結果,本当に学力が向上した」という証拠は本来示しにくいものである。

 ただ担任が交代しただけで劇的に学力が向上してしまう場合も(その逆も)ある。

 制度をいじることで,学力を高めることは困難である。

 せめて,「こうしたら継続的に学力が向上した」という学校から意見を集約して,それを広めればいいのではないか,とだれでも考えつくことだろうが,

 「学力向上モデル校」の学力が継続的に向上できるわけではない。

 教員が異動するだけで,がらっと変わってしまうことはいくらでもある。

 要は,制度をいじったくらいで学力が向上するのなら,どこかのだれかが勝手にやっている,という話。

 公立学校の,特に高校の教員の多くは,私立学校との格差が拡大することを恐れているだろう。

 センター試験のかわりのテストが変わっても,私立大学の入試が変わらなければ,今のままの方が得だから。

 私立学校としての脅威とは,補助金カットをちらつかせて,文科省が教育内容に介入してくる恐れがあるということ。

 私立学校に子どもを通わせる,一定水準以下の年収の家庭にお金をばらまくという国の政策は,

 私立学校にとってはおいしいようで,実は生命維持装置の電源を握られる恐れがあることを忘れてはならない。

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近い将来,日本の教科書を翻訳して(昔の)日本風に教えている海外の教育を日本がマネする日が来る

 日本が海外の教育のマネをして,「改革だ」と騒いでいることを,いつか寂しくふり返る日が来るのだろうか。

 グローバル化など変化する社会に対応できる子どもを育てるために,

 海外の教育のマネをする日本。

 日本のかつての教育が,最大の効果を発揮するすることを,海外の学校が証明しようとしている現状を知っている人はどのくらいいるだろうか。

 海外のマネが大好きな日本人が,将来,かつての日本の教育のマネを始めたとき,

 本当の学力向上が達成できるようになるなどという話は,ただの幻想であってほしい。


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「ゆとり教育」と「詰め込み教育」のいいところではなく問題点だけが際立ってくる次期学習指導要領

 学習指導要領を10年くらいの間隔で改訂するときに,「なぜ改訂するのか」と問われたら,「そのときまでの課題を克服するためだ」としか答えようがないだろう。

 ただの「ノリ」「勢い」「ムード」で「次期学習指導要領」の改訂の柱が決まることはない・・・・はずである。

 しかし,「改訂の柱」に据えようとしているのは,ごくわずかな期間の流行が背景になっている例もある。

 現行の学習指導要領の「改訂の柱」とは,「言語活動の充実」だった。

 今,教育現場で「言語活動を充実させましょう」などと言っている人はほとんどいないだろう。

 「言語活動」などといった「当たり前すぎる言葉」は,「死語」に近づいている。


 「言語活動の充実」をさせた結果,「思考力・判断力・表現力」は向上したのか?

 答えはNOである。そう簡単に「思考力・判断力・表現力」は向上しない。

 私の娘の小学校は,「基礎・基本の徹底」を図るためか,毎日かなりの量の宿題が出される。

 これをやったところで,「思考力・判断力・表現力」はそう簡単に向上しない。

 というよりも,時間だけかけて忍耐力があればできてしまうような大量の課題のために,

 じっくりと考えて深く調べたりする時間がとれずに困っている。

 公立の小中学校では,今でもそういうレベルなのだ。

 次期学習指導要領が実施されるときには小学校は卒業しているが,

 私が危惧しているのは,本来,学校で学ぶべき基礎・基本を家庭に押しつけ,

 学校では教師の手のかからない「話し合い」だの「教え合い」だの「発表会」などで時間だけが費やされていくことである。


 「学ぶ意欲」を子どもに持たせることは大切であるが,簡単にできることではない。


 大人だったら,自分の会社の社員たちが「働く意欲」をすぐに高められる方法を考えてほしい。

 それと同じことが学校でもできるだろうか?


 だれもが簡単に意欲を高められるような内容は,私の想像では「長続きしないもの」である。

 「熱しやすく冷めやすい」という言葉は,だれかの教育方法にすぐに飛びつき,やがてやめていく,そういう教師たちにはぴったりの言葉だろう。

 子どもたちには,「そう簡単に高められない」が,一度火がつくと,なかなか消えない,そういう「持続力」のある意欲をもたせるような授業を教師が実践しなければならないのである。

 「アクティブ・ラーニング」とは,「教師の授業づくりのための学び」という大方針なのであれば,支持したい言葉だが,ただの「協働的」「対話的」な学びで子どもの「思考力・判断力・表現力」がつくと思ったら大間違いである。

 少ない時間数でも,学び方が学べるような教育を受けてきたはずの「ゆとり世代」に欠けていたものは何か?

 多くの時間をさき,たくさんの内容にふれる機会を与えられた「詰め込み世代」に欠けていたものは何か?

 
 前者も後者も,実は「最も強い」はずの部分が「実は全く強くなっていなかった」ことが弱点だったのである。

 次期学習指導要領では,「実はどうでもよかった部分」を「どうにかしようとして,結局何も得られずに終わる」という最悪のパターンに陥らないようにしたい。


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理想=幻想と現実のあいだ~SMAPとEUと教育改革~

 ファン心理は除外して,「SMAP解散」による影響を多面的に見てみよう,という課題を出すと,

 まずは「経済的損失」あるいは「経済的利益」が目のつけどころになるのだろうか。

 もし「解散コンサート」を開くと,どれだけの収入が得られるか?

 解散後の各メンバーの収入はそれぞれどのように変化するのか?

 事務所の「損害」はどれくらいなのか?

 アクティブ・ラーニングの課題を,子どもの興味・関心に応じて設定すると,教師あるいは子どもたちの「調査能力」が課題になる。

 「正解を得る必要がない」という安心感が強すぎると,調査などはせずに

 「ああでもない」「こうでもない」とただただ想像を口にするだけで終わってしまうから,

 まともな資質・能力が育つとは考えにくい。

 「おもしろそうな課題ほど,追究場面が困難になったり,追究過程がいい加減になりやすい」ことを教師は経験によって知っている。

 だから,「先が見えている課題」ばかりを教室で実践することになる。

 「多面的な思考」の具体的な定義はとてもしにくい。

 「一面的でなければ多面的といえるか」というとそうでもないし,

 ただ多面的に考えてみても,そこに意味や意義が見いだせないと意味がない。

 「SMAP」などの芸能人のグループやユニットは,「ファンのためにある」ものなら,

 「解散」への圧力を加えたメンバーや周囲の環境は「ファンを裏切る側」になる。

 芸能人のグループやユニットでも,「個人の意思が尊重されるべき」ものなら,

 ファンが悲しもうが,事務所が困ろうが,恩義がどうとか関係なく,

 解散でも別居でも何でもありである。

 だれにとっての「理想」なのか。

 だれが勝手に「幻想」を抱いているのか。

 「言い分」なり「立場」がはっきりしているイギリスなどはとても分かりやすい。

 ただ,EUから離脱すべきだと考えている人でも,離脱後にイギリスが大変な状態に陥れば,「後悔」の年に襲われるかもしれない。

 これから,「ゆとり世代」の教師たちが中心になって,

 「詰め込み世代」の保護者ににらまれながら,

 「アクティブ・ラーニング世代」の子どもたちを教育していく時代が来る。

 「詰め込み」も解散,「ゆとり」も解散した。

 「アクティブ・ラーニング」は,両者の「いいところ」を見事にスルーして教育しないような下策にならないよう,気をつけなければならない。


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失敗したときの反応を見たい面接官

 教員研修の中には,理不尽な要求をする保護者への(電話)対応の練習をする場面がある。

 練習だとわかっているし,他の教師たちも見ているので,ここで「その対応はないんじゃないの」というミスを犯す教師はあまりいない。ただ,保護者の立場で対応を観察していると,「この対応じゃやっぱり頼りない先生だと思われてしまうな」とわかってしまうことはある。

 大切なのは,「本番」である。

 オリンピックの試合では,「ミスをしたときの表情」も繰り返しリプレイされてしまう。

 その表情に好感をもたれる選手もいれば,「この人にメダルはふさわしくないな」と反感を買われてしまう選手もいる。


 教員採用試験でも,同じような場面があるだろう。

 採用する側は,できれば「失敗したときの表情や反応」を見たがっている。

 「仮面がはがれて,素になる瞬間」を見逃すまいと,真剣である。


 採用する人たちの中には,採用後にさまざまな問題が発覚してしまう教師をたくさん見ているから,

 「採用したときにはこんなはずではなかった」と思っている。

 では,なぜ「こんなはずではなかった」という気になるのか。

 「採用時に見破れなかった」という後悔である。


 ある女子アナ選考の現場で内定をとった就活生の特徴が紹介されている記事があった。

 内定をとれた人は,特別な才能がなくても,緊張した状態で自然な自分を出せたことが評価されたという。

 「失敗したときの表情が良かった」というのが内定のカギだったという。

 面接試験での「失敗」は,本当は「減点対象」「命とり」のはずである。

 しかし,「失敗」場面でこそ,本当の「資質・能力」が発揮できる,というケースもある。

 
 女子アナと同様,教員にも一定の緊張場面への耐性が必要である。

 「口で何とか誤魔化そう」とする人を排除できる面接であってほしい。


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明らかな誤審を「不可解判定」と呼ぶ遠慮

 甲子園で審判をつとめる方々のご苦労に関する記事を書いたばかりだから,

 私も「誤審」と糾弾するには気が引けるが,こういう「ミス」は

 これから甲子園をめざす生徒や子どもたちにとって,決してプラスにはならないと考えられる。

 
 クロスプレーのように想像しやすい流れの中で起こるミスジャッジはよく起きるが,

 挟殺プレーなど突発的に起きる不規則な動きをめぐる判定も,困難がつきものである。

 
 私は何を望みたいかというと,ミスジャッジに関しては,得点を入れるなど,「得をしてしまったチームからの自己申告」を促してほしい。

 ミスジャッジで「もうけた!」などという感性があってはならないのである。

 塁を離れた選手がタッチをされているのにアウトにならないようでは,競技が成立しなくなる。

 
 「野球の神様」などといってあがめる必要はないが,こういう「もうけ」を許さない精神を養ってこその「高校野球」ではないか。

 オリンピックの柔道では,ある国の選手がオリンピック精神と柔道の精神の両方を踏みにじることをしたそうだ。

 現地で「スポーツパーソンシップ」の大切さを説くことができる人はだれだろう。

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教師にとって,「本を出す」というインセンティブよりも大切なこと

 以前にも書いたことですが,私が教育現場を離れて行政の世界に入ろうとしたきっかけは,

 「副業」があまりにも多くなってしまったことでした。

 公務員は「副業」が法律で禁止されています。

 でもごくわずかですが教員がやっている「副業」があります。

 本の原稿を書くことです。

 1ページ2000円くらいの原稿だと,

 時給にすると場所によっては200円くらいになってしまう仕事もありますが・・・。

 昔は,本の原稿を書くときに,いちいち「兼業届け」を出すことはありませんでした。

 今は,届け出が必要になっています。

 私が指導主事になったばかりのころ,文科省のある教科調査官が本を書きまくって「200万円以上の副収入を得ている」ようなことが週刊誌で話題になり,行政の人間に本の依頼が来なくなるきっかけになりました。

 届け出をして受理されても,もちろん,勤務時間内に原稿を書いてはいけません。

 私の「副業」は,午前1時~4時くらいの仕事になったので,つらいとしか言いようのないものでした。

 文科省の仕事をし,都の仕事をし,区の仕事をして,土日は部活と委員会で時間がつぶれ,

 新婚から3~4年は,休日はほとんど家にいませんでした。

 指導主事になれば,すべてから解放されることに気づいたとき,教育法規の勉強をする動機付けになりました。

 
 今,現場の先生たちの中には(もともとの購買層が多い小学校の先生が多いようですが),「本を出す」というインセンティブに動かされようとしている人たちがいるようです。

 大学に進もうという人は,共著でも一応の実績になりますから,損はないはずです。

 しかし・・・。

 教育という狭い世界の中で,本を書いて,それが本当に人の役に立つ仕事かどうかわからないまま,短い教員生活を終わることに悔いはありませんか?

 だいたい,わずか数十ページの中で,あなたの言いたいことが言い切れますか?

 「教員の経験年数は少ないほどよい」「失敗なら失敗でよい・・・参考になるから」などとたきつけられ,

 1冊書ききれたとして,次の年に読んで,「なんでこんな原稿出したのだろう」と不安になることはないですか?

 出版物は,「取り消し」がききません。

 
 今,若い保護者たちを恫喝するかのような未来予測の本が世の中に出ていますが,

 たった数年後の予測ですらまともに当たらなかったときに,このような本の著者が負うべき責任の重さを想像してみたことがありますか?

 
 あなたは,「本を出すため」というインセンティブがなければ,教育という仕事に向き合えないのですか?

 もっと大切にしなければならないことはないでしょうか?

 教員になったばかりの人にでも書ける内容が,本当に「本」にする価値のあるものなのでしょうか?

 (・・・・「本」にするかどうかを決めるのは出版社なんですよね・・・・)


 なぜ,ネットでいくらでも情報発信できる時代に,紙の「本」なのでしょう?

 なぜ,せっかく教育に関心のある人がわざわざお金を出さないと手に入らないようなものを,公務員である教師がつくる必要があるのですか?
 
 
 「本があるおかげで,今の先生も存在するのではないですか?」と言われてしまうと・・・

 ・・・今は,「はずれ率」のあまりの高さに,憤慨しているだけなのか・・・?


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学校に真剣勝負を挑める指導主事になるために

 指導主事1年目は,何かと緊張する場面が多かった。

 「あなたの発言は,教育委員会の発言だと理解されるからね」と言われて,語る言葉が減らない人はいないだろう。

 行政マンというのは,ある意味では気が楽なもので,「法律ではこうです」「答申や通知にはこうあります」という態度でいれば,対立することはあっても,非難されることはない。

 文科省から出されるパワーポイントの資料は,あり得ないほどの文字が詰め込まれていたりして(小中学校の総合学習で学ぶ「パワポによる発表の方法の注意事項」を聞いてもらいたい),そのまま学校に出しても「?」が並ぶだけだから,できるだけ原文をいじらず,誤解を招かないように細心の注意を払って,わかりやすいものにすると,研究熱心な先生たちには喜ばれる。

 教師が受けるような質問を,指導主事が受けることは少ない。

 「なぜ高校でも英語を学ばないといけないのですか」と質問されても,行政マンが話せることは限られている。

 余計な私見を述べると,当該高校の管理職や教員と「見解が異なる」とかいった問題になりかねない。

 本来であれば,高校を受験するときにこういう問題を解いて合格したんですよね。これが解けることが,高校での学習を進めていくための基礎なんですが・・・などと言いたくもなるが,倍率が1.0X倍の試験を通ったところで,それが「選抜」の体をなしていないことは明らかなことである。


 本当に苦しいのは,学習指導要領に示された目標や内容が,実際には達成できないままの子どもがいることで,いくら「習熟度別」「少人数」「授業の工夫」「ICTの活用」・・・と手を打ってみたところで,目に見える成果が出にくいことである。「いじめ」撲滅が困難なことなどと同様に,教育行政の「限界」として,よく指摘される問題である。

 授業の実際を見ていると,教師が「何かを工夫する」以前の段階で,足りないものが目立ってしまう。

 たとえば,「少人数指導」の効果を確かめに行ったのに,「教師の指導力不足」の課題の方が大きいことがわかってしまったときが厄介になる。

 正直なことを報告してしまうと,「少人数」だから,「被害者が少なくてすんでいる」というブラックなだけの話になってしまう。

 「初期設定の問題点」を教師と子どもの関係が何ヶ月も経った段階で指摘しても後の祭りだから,普通の教員と指導主事の関係では,何もふれられずに関係も切れてしまう。

 わざわざもう二度と会わないかもしれない教員に,面と向かって「指導力に課題がありますね」なんて言えない。

 「どうして子どもの目を見て離さないんですか?」

 「最も支援を必要としていた子どもに全く近づかなかったのはなぜですか?」

 「1人の様子を観察して対応するのが精一杯のようですね」

 「同じ場所にしかいないんですね」

 「全く目を合わそうとしない子どもがいるのが気になるんですが・・・」

 「この指導内容は,子どもたちのレベルに合っていますか?」

 「この学習内容の習熟度を,すべての子どもについて把握していますか?」

 なんていちいち聞かないのが普通である。

 指導主事の多くは,最後は学校現場に管理職として出るわけだから,長い目で見ると,本来の意味での「教員」の「指導主事」の関係を築いておいた方がよいはずだが,

 「反感を買われたくない」と思う人の方が大多数だし,

 「余計な反感を買ってくるな」という上司ばかりなのが普通だろう。

 
 私の場合は,「できていることにする話法」で「言いたいことが何であるか」を「わかる人にはわかる」ように伝え,「当該校の管理職の指導のおかげで教員の指導力が向上した」という結果になるように心がけた。

 指導主事の真剣勝負とは,教員と管理職と子どもという,いつも一緒にいる人たちがお互いに成長し合うための触媒になることである。

 教員と指導主事の化学反応ではなく,管理職と教員,教員と子どもとの化学反応を起こさせなければならない。

 
指導主事というのは,校長にとっては脅威の存在である。

 指導主事は人事に口出しできない。しかし,人事を担う人に情報を提供することができる。

 「この校長は,とにかく指導力不足の教員の悪口ばかりを聞かせて,異動させようとしている。この校長には教員の指導力はない」

 
 こんなことを言わないですむように,「できていることにする話法」で校長や副校長を動かせるかどうか。

 「戦いの場」から去って,10年以上が過ぎたが,今,副校長が足りなくて不在のままの中学校があると聞く。

 指導主事の方は,どうなのだろうか。


 どこかの県では,たいへんな教員を指導主事にしてしまったようだ。

 指導主事が~したのではなく,指導主事になった人が教員のときに~した,という正確な報道をお願いしたい。

 学習指導や生活指導の手助けどころの話ではない。


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アクティブ・ラーニングの説明を大講堂でただ「聴く」だけの滑稽さ

 これからの大学では,もはや「大講堂での講義」などは姿を消すだろう,と言われている。

 しかし,日本人の「大講堂好き」は,そう簡単にはなくならないのではないか。

 「大人数の中の一人」であることが,いかに気楽で,いかにマイペースで思考に浸ることができることか。

 教師に名指しされて,自分の考えを言わなくてすむ環境が,いかに快適か。

 グループで話し合いをして,自分がいかに知識が乏しく,センスに欠けているかがばれてしまうリスクのない環境がいかに大切か。

 「アクティブ・ラーニング」を本気で学びたいなら,そんなところにいてはいけないはずである。

 自分が「アクティブ・ラーニング」をせずに,子どもにだけ「アクティブ・ラーニング」をさせようという発想そのものが,私が思い浮かべられるもののうちで最も子どもに悪影響を与えている教師の「資質・能力」である。

 「資質・能力」は,決して「望ましい」ものばかりではない。

 他に悪影響を及ぼす「資質・能力」も存在する。

 もしどうしても「大講堂での講義」に参加しなければならない場合は,「つぶやきまくる」「ツッコミまくる」のがよいのではないか。

 ただ聴いているだけで満足できるような人は,一生「アクティブ・ラーニング」などできないだろう。

 そうやって学生時代によい成績をとり,公務員試験に合格し,教員になった人には「アクティブ・ラーニング」は縁がない。


 ツイッターでも何でもよいが,そのうち,講師の一言一言について,即時的な評価,共感,反感,反論が寄せられ,常に公開されているような「大講堂での講義」が実現できないだろうか。

 もちろん,欠点もある。

 議論好きではない講師・授業者は,「大衆受け」する題材しかもってこなくなる。

 「はい,よい授業でした。めでたし,めでたし」で終わるような研究会に意味はない。

 
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「2割」の子どもを利用して残りを丸め込む指導法

 教育関係の本に書かれている内容には,「孫引き」や「ひ孫引き」が散見される。

 もう,どこで読んだ話か忘れてしまったためか,いちいち引用先を掲載しない人もいる。

 「2割」の人間を利用して,残りを動かすという指導法を「論文」などで最初に公開した人はだれだろうか。

 40人のクラスだと,「2割」といっても8人もいる。

 ある小学校の研究授業を参観すると,中心的に発言しているのはやはり2割くらいで,ほとんど発言しない子どもも半数以上いる。

 発言しないから何も考えられていないというわけではなく,

 むしろ発言しないからこそ,多くのことを考えられている子どもがいることもわかるのだが,

 授業者がそれに気がつくことは可能なのだろうか。

 教育の指導には,こちらが意図したことが,何となくうまくいっているとき,

 子どもが自分(教師)の意図通りに動いている,と錯覚してしまうことがある。


 「2割」の子どもが他の子どもを動かしている,という実感をもってしまうことが,教師にとっては大きな落とし穴である。

 「どうしようもない2割を除いた6割」が,ただ引っ張られている存在ではないことに気がつけない教師がどうやらいるようである。

 教師の思い込み,操作主義的な言動,過信,自己満足に気がついている子どもはたくさんいる。

 指導力があるつもりになっている教師が「丸め込めた」と誤解した子どもが,語ってくれる内容を手に入れることができるのはだれか?


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文科省は「誤解を与える文章だった」という言い訳を二度とするな

 国語力の話だけではない。道徳の問題である。


 道徳の評価に関する文科省の文章を読んで,昨年6月に出された通知を思い出した。

 タイトルは「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」。

 ここに,以下のような文がある。

>特に教員養成系学部・大学院,人文社会科学系学部・大学院については,18歳人口の減少や人材需要,教育研究水準の確保,国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し,組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする

 一定の学力があれば,この文を読んで,組織の廃止などに取り組むよう努めるのは,教員養成系だけであって人文社会科学系は含まれない,という文科省流の「正しい読解」ができる人間はいないはずだ。

 さらに,教員養成系学部・大学院は組織の廃止などに取り組め,という趣旨のはずが,

>廃止対象になっているのは教員養成系の学部の中の教員免許取得が義務づけられていないコースだけだ

 というのが「本心」らしい。

 おそらく,「誤解」ではないのは,

 「教員養成」というのは,「社会的要請が高くない分野である」という文科省の見解である。


 ぜひとも,国立大学の教員養成系学部・大学院の出身者が,教育現場で役に立っていないというデータを示してほしい。

 そういうデータがあるのなら,国立大学の教員養成系学部・大学院の廃止には賛成する。

 
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「サボる」能力の奨励を説く「高校教師失格」教授

 社会全体,教育委員会,管理職,保護者は教師に多くのことを求めすぎている。

 このことが教師の犯罪行為や自殺を招いている一因である。

 教師はサボる能力を持っていた方がよい。

 
 こんな主張を大学教員があえてする意味は,わからないでもない。

 しかし,この大学教員は,

 「高校の教師を辞める」ことを選択して厳しい教育現場から逃げた張本人である。

 
 なぜ「辞める」ことを推奨せずに,「サボる」ことを推奨するのか。

 「サボる」という発想ができるのは,高校の特色である。

 
 法律的には,勤務時間内に本の執筆をしなければ,

 職務専念義務違反には問われない。

 
 しかし,講演に多く出かけたり,本の執筆に力を入れたりするような

 教員を,社会は「本業をサボっている人間」と見なす。

 
 こういう圧力への異議を申し立てているのだと想像するが,

 もっと学生のめんどうをみる方に時間を割いてはどうか。

 
 学生のめんどうをみる時間を割かずに,本を書いたり外に出てばかりでいられる「理論」は,社会からの信用を得られるのか?


 「学校現場に出ても,理不尽な要求ばかり受けて大変だぞ」と説いているような人間の近くで,使命感のあるまともな教師が育つのだろうか?


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評価の方針の発表によって,道徳科の問題点が明確に ~ついでに,道徳科の評価の話の前に,国語科の評価が必要

 「特別の教科 道徳」の指導方法・評価等についての報告が公開されているが,

 句点の打ち方や文の構成の仕方がおかしいものが目立つ。

 
 その「概要」に,こんな1文がある。

>(道徳の)評価に当たっては,児童生徒が一年間書きためた感想文をファイルしたり,1回1回の授業の中で全ての児童生徒について評価を意識して変容を見取るのは難しいため,年間35時間の授業という長い期間で見取ったりするなどの工夫が必要。


 もちろん,「児童生徒が書きためた感想文をファイルすること」は難しいことではない。

 文の構造は,Aをしたり,Bをしたりするなどの工夫が必要という内容。

 Bの中に,「1回1回の授業で変容を見取るのは難しいため(にBをする)」という修飾語が入ってしまっている。

 
 ファイルするのは児童生徒が行えばよいから,「工夫」することでもない。

 年間35時間の授業全体を通して評価を行うために,

 児童生徒が書いた1年分の感想文を参考にしよう,というだけの話である。

 国語が苦手な人がまとめた文だろうか。あまり笑えない。 

 そもそも道徳の授業は国語の授業の出来損ないみたいなものが多いが,

 文科省が発表するものがこの程度だから仕方ないか。


 では,語順をかえればそれでよいかというと,そうでもない。

 道徳科の評価の最大の課題が見えてきた。

 道徳科の評価は,あくまでも「道徳科の授業内で」という雰囲気が漂っている。

 
 しかし,道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているかどうかを判断できる多くの場面は,

 日常的な学校生活の中であり,ものによっては,それでも困難である。

 
 35時間あっても,道徳の内容は22個あるから,1度きりの内容については「35時間」で変容が評価できない。


 「特別の教科 道徳」の導入は,これまで学校の教育活動全体を通して実践してきた道徳教育を,

 「道徳科の授業」内に「矮小化」「限定化」「固定化」していく危険性が高い。

 
 道徳の評価から,改めてよくわかった問題点である。


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「子どもが主役」という言い方

 教育関係者が「子どもが主役」という言い方をするとき,2つの点を留意しておきたい。

 1つは,「実際には子どもは脇役である」ことが常態化していること。

 「あいさつをしよう」という目標を掲げる学校では,「あいさつができていない」現状があるのだ。

 わざわざ教育現場で「子どもが主役である」という言い方をするあたりは,とても怪しい。


 もう1つは,「子どもは何かの役を演じているのか」という疑問。

 「主役」ではあっても,教師が書いた台本を読んでいるだけの「操り人形」になっていないか。

 学校という所は,教師と子どもが,「何かを演じるところ」なのか?

 
 道徳の時間に,お互いに心にもないことを言い合い,褒め合っている気持ち悪い光景は見たくない。


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「経験と勘」から「科学とテクノロジー」へ ~農業VS教育~

 日本の農業が変わりつつある。
 
 植物科学や人工知能,IoTの専門家が農業を変えようとしている企業がある。

 データで把握できる気温や湿度などの気象状況,ミネラルやpHなどの土壌の状況などを,農地から離れた生産者がスマホ画面で確認するような時代になっている,

 「緑の革命」のはじめは,品種改良と化学肥料の活用で収量が上がる変化だった。

 しかし,大量の農薬使用によって,土壌中の微生物を殺してしまい,農業ができないくらいの環境悪化を招いてしまった。

 思いの他,革新の遅れた農業だったが,自由化の波が進歩を持ってきてくれたのか。

 農業が国の最重要産業だ,という実感をもちにくい時代にあって,「変わることができる分野」であるという認識も広がっている。

 問題は教育である。

 次期学習指導要領を通して目指そうとしている教育は,本当に「どの学校」でも可能だろうか。

 テレビで「学力王決定戦」などといった番組が放映されているが,

 中身はあいかわらず「ものしり博士」対決である。

 親世代や教師たちが実感できないような「教育のねらい」を実現できる教育は可能だろうか。

 教育の分野で,人工知能やICTは,本当の意味での貢献ができるだろうか。

 せいぜい成績処理くらいにしか役に立たっていないようなコンピュータがごろごろしていないだろうか。

 教育学者は,それぞれ自分の存在意義を示せる何かをもっているはずである。

 教育分野は,農業に後れをとるか,農業の変化の先を行けるか。

 考えてみると,教育の分野はほとんど選挙戦の論点になることはない。

 政治家が教育に関心のない国で,本当の改革ができるだろうか。


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「よき市民を育成する」「よき主権者を育成する」という発想の誤り

 よき市民・・・たとえば「選挙に出かける」・・・であることからの退却(投票率の低下など)が,

 民主主義の危機の原因であるのではなく,

 むしろ民主主義の危機がもたらした結果である・・・・・。

 こういう解釈ができることは,現実の「政治」の問題を見れば,簡単に理解できることである。

 市民は,民主主義から自ら退却するのではなく,

 「押し出される」ようにして離れている・・・・

 その「押し出す」力とは,具体的にどのようなものか?

>よりよき民主主義を得るためによりよき市民が必要である,などと提案するのではなく,むしろ,よりよき市民となるためにはよりよき民主主義を必要とする,と提案したい。(ガート・ビースタの翻訳本『民主主義を学習する』(勁草書房)より)

 シティズンシップ教育や道徳教育のあり方が,民主主義から将来の市民たちを「押し出す」ものになってしまわないように,訳者のみなさんには「よき市民」としての役割を果たしていただきたいです。


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「言語活動の充実」を改訂の柱にした現行学習指導要領の実施状況のどこがどのようにダメだったのかを明らかにしなければ,次期学習指導要領でも同じ結果しか待っていない

 タイトルが長すぎですが,言いたいことはこの一文に尽きます。


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「負け」を認めて「勝ち」=「価値」をとる総理

 「小池」いじめで株を下げた自民都連とは対照的な態度をとったのは安倍総理だった。

 報道によれば,小池都知事と会談した安倍総理は,冒頭で

 「自民党はきつい一本をとられました」と声をかけたそうだ。

 日本の柔道が海外に広まっている最大の理由は,

 「礼節を重んじる」「自他共栄」の精神が,普遍的な高い価値をもつものだからだと考えられる。

 「一本をとられた」選手も,「一本をとった」選手も,お互いへの敬意を忘れず,

 「礼」をもって戦いを終える。

 安倍総理は,「負け」を潔く認め,東京五輪の成功,日本経済をよい方向に動かしていくための連携を小池知事と確認し合った。

 小池知事を支持していた人たちが,与党としての自民党を見直すきっかけになるかもしれない。

 自民党に所属する東京都議会議員の方々は,想像上の「小池新党」を脅威に感じて萎縮している場合ではない。

 SNSでは,超・旧態を残す,「子どもじみた組織だ」といった非難を浴びているそうだが,

 選挙のことばかり気にかけるのではなく,都政の充実や改善に尽力して下さる議員が増えてくれることを,私たち都民は望んでいる。

 「挨拶」を拒絶した人間が背負った負の遺産は,あとあとまで響くに違いない。

 都民が選んだ知事への「礼節を重んじない」人間を,都民は忘れない。

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高校野球・女子マネージャーの安全確保

 ネット上のニュースで,甲子園球場での練習中,グラウンドに出てノッカーの補助をしていた女子マネージャーが注意を受けた(退場を指示された)ことが話題になっている。

 女子高校生の中には,男子高校生よりも動体視力がよく,身体能力も高い生徒がいるかもしれない。

 だから,「女子部員がグラウンドに立てないのはおかしい」という批判は十二分に成り立つ。

 私自身は,始球式でアイドルがマウンドに立つことはもちろん,グラウンドに足を踏み入れること自体が許せない「時代錯誤」人間である。

 相撲の世界と同一視しているわけではないが,こういう「差別意識」の根は深く,発言の場もないし,あっても発言はしないから,何を考えているか他人に知られることはない。


 もし私が監督でシートノックをしているときに,女子マネが近くにいたら,ボールが当たらないか常に気にしていなければならなくなるだろう。正直,「気が散る」ということ。ルールで禁止してくれるとありがたい。


 試合前のシートノックでは,できれば「ボールボーイ」の立ち入りを許可してほしい。

 ベンチに入れなかった選手が,いつもは一緒に練習している選手たちと同じグラウンドに立てるチャンスになる。

 
 ボールを拾う,ノッカーに渡す,こういう動作全てを含んで野球というスポーツは成立している。

 転がっているボールを「女子マネに拾わせる」ようなチームにはしたくない。 

 私が女子マネの写真を見て第一に感じたのは,「なぜヘルメットをかぶっていないのか」だった。

 これは問題外である。

 ネットの記事では,「目はどう守るのか」と指摘していたが,そこまで気になるのなら,主審やキャッチャーがつけるマスクを着用すればよい。

 
 野球の試合は,ベンチ内もかなり危険である。

 私もファールボールが右腕を直撃して,きれいなアザができたことがある。

 
 
 スポーツには,具体的にどのような危険があるのか,予め知る機会があれば,

 柔道や剣道,水泳の死亡事故も減らせるのではないか。

 
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悪底部(アクティブ)・ラーニングの金太郎飴

 「アクティブ」とキーボードに打ち込んだつもりが,変換されて出てきた文字は「悪底部」だった。

 教師が授業をしていて,不安に思う対象には2パターンある。

 一つは,「このような楽しい授業で,本当に子どもたちに能力は身につくのだろうか?」というもの。

 もう一つは,「このような(教師や友達の)話を聞いているばかりの授業で,本当に子どもたちに能力は身につくのだろうか?」というもの。

 これらは,教師が授業をしていて,不安ではなく,満足に感じてしまう2パターンでもある。

 「ああ,子どもが乗っていてよかった」

 「ああ,たくさんの子どもが発言できてよかった」

 この2つをとりあえず実現させることができれば,

 「よい授業(学習)ができた」と満足できるレベルが,今の学校現場であろう。

 
 しかし,次期学習指導要領では,子どもに資質・能力を保証するカリキュラムを実践することが求められる。

 どんなに盛り上がった授業でも,扱われた内容,実際の発言の内容によって,

 だいたいの成果は判断でき,

 その後に,個別にまとまった文章を書かせることで,ほぼ学習の成果は評価できることになる。

 
 表面的に「アクティブ」に見えた学習も,場合によっては何の成果も得られないで終わるケースがある。

 こういう学習の場合,「アクティブ」の「アク」は「悪」であり,「ティブ」は「低レベル」を意味すると考えればよい。

 
 繰り返し繰り返し行うことで,たとえば「協働的に学ぶ」姿勢は身につけさせることができる。

 しかし,「協働的に学ぶ」というのは,あくまでも学習の「方法」の話である。

 
 しかも,「協働的」に見えて,実は役割分担が固定化しすぎている「封建的」な協働学習になってしまう場合もある。

 内容が疎かになり,方法も劣化していくとなれば,

 「アクティブ・ラーニング」は史上最悪のキーワードになってしまいかねない。


 「アクティブ・ラーニング」を自分の在学中に経験したことがない大多数の教師たちに,次期学習指導要領の指導は担えるのだろうか。

 アクティブ・ラーニングを特集した,今手元にある雑誌には,気味が悪いほどの「金太郎飴」状態の文章が並んでいる。

 子どもが本当の意味でアクティブになり,しかも能力が高まる学習のテーマが並んでいるだけの教科書(数ページ)ができあがれば,望みも高まるのだが。


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空理空論に堕ち,問題山積の次期学習指導要領

 次期学習指導要領の方向性がほぼ固まったようである。

 率直な感想は,典型的な観念先行型の空理空論のお手本のような趣旨だということである。

 関係者は「今までにないものをつくろう」と粋がっているようだが,

 今回の改訂の最大の特色は,作り手側が自滅しかけているところにあると思われる。

 実施前から,相当数の児童生徒たちが「おおむね満足」な学習の実現状況に達しないことが目に見えている。

 私の予想では,「まともに教科書がつくれない」初めての学習指導要領になる。


 次期学習指導要領の本当の趣旨から言えば,「教科書なんて必要ない」というより,

 むしろ教科書があると,「主体的な学習」が阻害されることになり,

 子どもたちに望んでいる資質・能力が保証されにくくなってしまうことになる。

 「作り手側の自滅」とは,こういう意味も含んでいる。

 あなたの中学校,高校時代の歴史の授業を思い起こしていただきたい。

 私は,教科書を開いて授業を受けたことがほとんどない。

 資料プリントか,教師の話と板書を中心に授業が進む。

 授業中に問いがいくつも発せられるから,与えられた情報の中からその答えを考える。

 もちろん,「教科書に書かれていると思われる知識」も総動員して。

 課題をグループで解決するような形式になれば,ほぼ「アクティブ・ラーニング」になる。

 次期学習指導要領の目指すものは,この学習のさらに上を行くことになる。

 「主体的に学ぶ」ことが中心的な柱になるから,教師が問いを発すること自体,子どもの「主体性」を邪魔することになってしまう。「問い」も子どもが考え,自らの解決に向かう学習を進めていかなければ,求めている資質・能力が身についたとは言えない教育になってしまうのだ。

  
 もし,こういう授業ではなく,まるで国語のように,教科書を開き,最初から文章を読んでいくような歴史の授業を受けていた人は,「主体的な学習」のイメージはわかないのではないか。

 教科書には「背景」「原因」「経過」「結果」「結論」が順序よく示されており,どこからどう読んでも,「導き出したい話」が全部載ってしまっている。

 
 だから,もし歴史的思考力を本気で身につけさせようとしたら,教科書を読めば,国語の問題として解けてしまうような問いを発するべきではない。

 こういうレベルの話を,すべての子どもたちに身につけさせようとしているのが,次期学習指導要領である。

 ある教科の雑誌の特集を読んでも,引用元が同じだから,みんな同じようにつまらない話ばかりが並んでしまっている。

 結論を「学習指導要領に左右される度合いは少ない」などと,そもそもの編集意図を台無しにしてしまうような結論で終わっているものまである。

 地に足がつかない話が今後も延々と続けられることになるだろうが,

 まずは,学習指導要領の中身がどうなるかに注目したい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より