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2016年7月

タイムスリップを体感できる「公楽園」

 どのテレビ局か忘れてしまったが,新潟県燕市にあるドライブイン(宿泊施設もある)「公楽園」に集まる人々を取材した番組を見た。

 一言で表現すれば,ここは「オヤジのたまり場」である。

 50歳以上の人間なら,「懐かしさ」いっぱいのゲームセンター,自動販売機に魅力を感じるかもしれない。

 ゲームに興じる「オヤジ」たちは,「公楽園」を「オアシス」だと思っているようだ。

 この「オヤジ」たちを見ていて,私はすぐに不登校で自宅にこもり,ゲームに興じている中学生と姿を重ね合わせてしまった。

 10代なかばで,仕事をリタイアした「オヤジ」たちと同じような生活を送っている子どもに,何が必要なのか。

 つい先頃,戦後最悪の事件が起ってしまったが,99.99・・%の日本のまちは「平和」である。

 ほとんどの日本人は,自国内で殺人事件に巻きこまれる危険性を感じないで生きている。

 しかし,精神的に不安定になる人,潜在的に攻撃性を持っている人が,いないわけではない。

 将来への不安が,人々や社会への不満と結びついてしまうことを,できれば防いでいきたい。

 今まで,「いないことにしてきた」本当に苦しんでいる人たちに,目を向けるきっかけをつくらなければならない。

 「現金をばらまく」という安易な政策ではなく,本腰を据えて取り組む部署がつくれないものだろうか。

 別に,さまざまな施設で働く人々の苦しみを首相自らが聞き取りするようなパフォーマンスを期待しているわけではないが,政治家のパフォーマンスは,政策立案者の本能を活性化させる働きもある。

 「公楽園」に立ち寄る人々の表情がどうしてあそこまで穏やかなのか,本当に苦労している人たちが一息つくときの表情の共通点なのか,知りたい点ばかりであった。


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高校野球の審判員の高齢化問題

 週刊東洋経済の高校野球に関する記事の中に,審判員の方々について書かれたものがあった。

 高校野球の審判員は,甲子園大会の試合でも,報酬は出ない(旅費や雑費のみ)そうだ。

 ボランティア活動である。

 審判員の方は,平日の試合でも仕事の休みをとって引き受けられる,

 自営業や公務員,郵便局員,農協職員などが多いという。

 最近の問題は,やはり高齢化で,40歳代以上がそのまま10歳年をとると,審判が足りなくなることになりそうである。

 最近,部活動の顧問のなり手が少なかったり,負担が大きかったりすることを国会がとりあげ,

 報酬(手当)を出そうとしているらしいが,教員に報酬などいらない。

 審判は立派な「仕事」である。こちらに報酬(手当)が払える仕組みを整えるべきである。

 

 年間80試合も審判をつとめたことがある市の職員の方は,土日がつぶれたそうである。

 教員の部活指導と同じで,どう考えても,「好きだからこそできる」活動に他ならない。

 私は高校,大学,その後,部活動の顧問や草野球などで野球にかかわってきて,

 審判員の方には,感謝というより決定的なミスジャッジの不満をぶつけたくてもぶつけられない複雑な心境があり,自分自身が審判をするのもあまり好きではなかった。

 ただ,インタビューに応えた審判員の方の話の中に,気持ちが通じ合う部分が見つかって,少し見方が変わりそうである。

 
 中学生や高校生の野球の審判は,ただの「判定員」であってはならない。

 青少年の「指導者」の一人である。

 審判の世界の世代交代も,よいかたちで実現される仕組みの整備を願う。


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国土交通省HPの誤表記

 国土交通省HPで利根川の歴史にふれているのが以下の部分です。

>江戸時代以前の利根川は、現在の東京湾に注いでいましたが、たび重なる洪水から江戸を守るため、徳川家康によって流れを東に替え大平洋に注ぐようにする大治水工事を行いました。これを「利根川の東遷」と言います。

 続く説明でも「大平洋」が登場するので,ただのうっかりミスではないと思われます。

 国土交通省・関東地方整備局・利根川上流河川事務所のHPでは,きちんと

 「太平洋」と表記されています。

 どちらがどちらを引用したか,わかりませんが,もし河川事務所の方が後だったとしたら,

 「お上」のミスを指摘することができない組織なのかと思ってしまいます。

 もし,領土問題に「太平洋の島」がからんでいたとしたら,この手のミスはただではすまされないでしょう。


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「日本の教育界ではビースタがブーム」という乖離度

 ガート・ビースタという教育学者を知っている「日本の教育界」の人はどのくらいいるのだろうか。

 学者の世界の「翻訳文化」は明治以来,変わっていない。

 大切なのは,「日本で紹介する価値のある学術書」を選別する眼力なのだろうが,

 ビースタという教育学者に関しては,中央に関与していない人たちにとっては「当たり」なのだろう。

 逆に言うと,

>政府とは選挙という多数決原理の結果であり,典型的な集約的モデルである。だから政府による教育内容の決定は,何が最善かを議論した結果ではなく,特定の利益を代表している。このような特定主義的な決定を超えて,多様な教育要求に基づきながら熟議を生みだし,教育内容を民主主義的に決定していくことが民主的教育の課題である

 と主張している学者は,政府から見れば注目されない方が望ましい。

 『よい教育とは何か』(白澤社)というタイトルは,原著を直訳すれば『測定時代のよい教育』となる。

 エビデンスを示すための『測定』結果が,教育の世界ではどれだけ一面的であるかは,はるか昔から日本では承認され続けてきたことだった。
 
 それを世界ではわざわざ批判的に扱わざるを得ないほど,『測定時代』に突入しているわけである。

 その『測定世界』に日本が入ろうとしている。

 中央の人が喜ぶような本は,翻訳が非常に読みにくい。

 本当に心から賛同している人が訳す本は読みやすい。

 専門書ではあるが,短時間に読めて内容が理解できたのは,訳者のおかげである。


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最も力や立場の弱い人たちにぶつけられる不満・怒り・攻撃性

 タイトルの内容を目の当たりにできる場は,たとえば学校である。

 力や立場の弱さというのは相対的なものも含まれており,教師の中にも欲求不満のはけ口の対象になってしまう人がいる。

 警察のようにピラミッド型の組織がしっかりしているところは,下に位置していても「そういうもの」として処理できるが,

 子どもが生活する教室のように,本来は「一人一人が平等」「いじめのないクラス」であるべき場が,そうでないときというのは弱い子どもが犠牲になるのである。

 力や立場の弱い人を守るには,どうしたらよいのだろうか。

 「仲間をつくる」・・・こういうアドバイスは,参考にならない。

 立場の弱い子どもの仲間は,強い子どもの仲間たちに容易に取り込まれてしまう。

 立場の強い子どもは,そのバックに同じように立場が強い親がいる。

 立場の弱い子どもでいじめの対象になるのは,親の立場も弱いとわかっている場合が多い。

 「親公認のいじめ」は,「そんなの子どもの喧嘩ですよ」「子どもの喧嘩に親が出て行くのはいかがなものか」「今時の子どものコミュニケーション手段ですよ」「ただの遊びです」などという常套文句のもとに,被害の訴えを封殺する威力を持っている。

 いよいよ学校も監視カメラ常設の時代が来るのだろうか。

 悲惨な犯罪が起るにつれ,人々の「監視社会」への抵抗感が薄れていってしまうのも怖い話である。


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障がい者を守るための『学び合い』

 何重の意味かで「痛ましい」事件が起こった。

 私も施設を見学させていただいた経験があるが,考えさせられることが多すぎて,頭の整理も気持ちの整理もできないまま,報告書を記したことを覚えている。

 『学び合い』では,おそらくインクルーシブ教育関係の授業も紹介されているはずである。

 普通学級で,さまざまな個性・障がいをもった子どもたちが「学び合う」経験を増やすことは,今回のような事件の報道にふれると,その意義の大きさが見えてくる。

 「一人も見捨てない」という考え方は,障がいを持っている人,その人たちを支える側の人々にとって,欠かすことのできないものである。

 『学び合い』の存在意義が,試されるときである。


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教育管理職に向いている人

 読書編で紹介した横山秀夫著『64(ロクヨン)』の中で,警察の広報の仕事が紹介されている箇所がある。

 実際の広報の現場がどうなっているか,フィクションをそのまま真に受けることはできないが,

 私の仕事である教育の現場には,描写されている警察組織の内容に近いものがあるので記しておきたい。

>世間に向けて「広報広聴係」を標榜していながら,「広報」は専ら記者の刺々しい言葉に分別顔で頷くことであり,世論の代弁者を気取る彼らに日々ガス抜きの場を提供し続けていた。俺たちは消波ブロックだ。当時の広報官はそう自嘲した。マスコミの機嫌を取り,なあなあの関係を築き,警察批判の矛先を鈍らすことが仕事のすべてだと言わんばかりだった。

 教育委員会には,さまざまなクレームが寄せられる。

 中には,相手の「ガス抜き」だけを任務?として話を聴き(流し)続けなければならないこともある。

 学校現場では,教頭(副校長)が,保護者たちの「ガス抜き」の相手となる。

 消波ブロックの役目を果たせない教育委員会や管理職が,個人としての教員を追いつめることもあった。

 消波ブロック,防波堤の役割を果たせない人は,教育管理職には向いていない。

 よくよく考えてみると,その資質能力は一般の教員自身にも求められるものである。

 攻撃的で興奮して話す相手との会話に耐えられない人は,教員に向いていない。

 現場でつぶれる人を間近で見た経験はないが,

 学校や警察といった「閉鎖的」に見られる場所,プライバシーの保護を優先しなければならない場所には,悩みが尽きないものである。


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子どもが先生を好きになるタイミング

 子どもたちの中には,「いたずら」好きがいる。

 「いじめ」が「いたずら」から始まることも多いが,「いたずら」によって子どもたちの関係ができあがる場合もある。

 「いたずら」は,「いたずら」された人が「どのような人間なのか」を明らかにしてくれる。

 テレビの「いたずら」番組は,基本的に「やらせ」だろう。

 「いたずら」を受けた人が,本気で激怒し,番組のディレクターにくってかかっていく場面はさすがに放映できない。

 「いたずら」番組への出演を承諾する側のねらいは,「いたずら」への反応によって,

 自分への「好感度」をアップさせることにある。

 学校でも,「いたずら」を自分自身の「人気の向上」に利用し,あえて「いたずら」される側に立つことを嫌がらない子どもがいるが,この場合,哀しいのは,結局「人気の向上」には結びつかず,自己嫌悪に陥るとともに,「いたずら」した子どもへの復讐心を生んでしまうようなケースである。


 
 実は,教員も「いたずら」の対象になる場合がある。

 かつて,「古典的ないたずら」として,チョークの粉をたくさんまぶした黒板消しを入口のドアの上に設置し,教師の頭に落とすようなものがあったが,

 さすがにまともな教師はひっかからない。

 それでも,まんまとひっかかる教師というのは,生徒に愛される人気者になれる可能性を秘めている。

 
 問題は,「いたずら」にひっかかった後の反応である。

 もし,生徒の「悪行」に本気で腹を立てて,「真面目」に指導する教師がいたとしたら・・・・?

 実はこの反応は,「正解」の一つである。


 教師の「基本的姿勢」を明らかにしてくれる「怒る」という反応は,生徒からの信頼感を高める効果がある。

 特に,普段は生徒とふざけた会話を楽しんでいるような教師なら,

 「けじめ」「メリハリ」の大切さを教える行為となる。


 子どもは,さまざまな理由で,いろいろな方法で,

 教師を「好きになろうとしている」「好きになるきっかけを探している」存在である。

 「心の広さ」だけを優先していては,生徒になめられるだけである。


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「子どもを見捨てる」とは,こういうことだ

 人間を「見捨てる」という言葉を安易に使うことに,私は強い抵抗感を覚える。

 こういう言葉を向けられるのは,耐えきれないほどいい加減な仕事をしている連中に対してである。

 教師がチームとしてではなく,個人としての力量を最大限に発揮できる場は授業であるが,

 『学び合い』の中には「生徒を見捨てている」と捉えられかねないものがあることを,私は4年以上前から指摘している(以下のブログ記事参照)。

 考えようによっては,本当に可愛がっている自分の子どもも,「能力を高めていない」という理由で「見捨てている」ことになる親などは大勢いるはずである。

 教師自身の口から「見捨てた」という表現ができてしまう最大の理由は何だろうか。

 それは自分自身への嫌悪感に他ならないだろう。

 教育に失敗した自分が大嫌いなのである。

 自分が子どもを見捨てたのではなく,子どもが教師としての自分を見捨てたのだ。

 私自身にもそういう意識があるから,何となく同情できる。

 だが,私は中学校の教師だから,成長後の生き生きした若い「教え子」たちに会えるという点で恵まれている。

 大学の教師たちには,そういう経験が希薄なのだろう。

 教育の失敗は,人生の成功に変えるきっかけになる。

 「見捨てた」という意識は,人生の失敗そのものに他ならない。

 

 教師として強く成長した「教え子」たちが,管理職や行政職につき,

 教育を大きく変えていく原動力になってくれているという現実が見えてこなければ,

 自分の仕事の意義を実感しにくいはずである。

 だからといって,「子どもたちを見捨ててきた」という言葉を吐くのは,あまりに無責任すぎる。

 同じ教育の場で子どもに接している真面目な人たちに失礼なのだ。

 そういう「無礼」が働ける若い大学教師が増えている責任が,その指導者にあることは言うまでもない。

 
 組織から「見捨てられ」そうな研究者を知っているが,「見捨ててもらった方が幸せ」という意識も十二分に成り立つところが,おもしろい世界である。


*********************

 「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方(2012年2月27日)

 大学の授業ですら通用しない「学び合い」を小学生に求める人の発想の根底に,

 「一人も見捨てない」という原則があることを知りました。

 義務教育の教師なら,「一人も見捨ててはいけない」のは当然なのですが,実際には「見捨てられている子どもがいる」ことへの反省のしるしだと解釈します。

 しかし,子どもの側からすると,「教師から見捨てられている」という実感をもつにいたるには,相当のハードルがあるはずです。

 私の場合は,「学び合い」という名のもとに行われている形式的な協同学習という手段によって,「教師による指導から見捨てられている子どもたち」の方が気になります。

 中学校でも,「教師が話さない授業」ではないと,本当の学習ではない,なんて批判されるのがこわいのか,研究授業ではほぼ100%,話し合いの場面,学び合いと呼んでいる場面があります

 しかし,実態は,「話し合い」は必要ではない場面,実際には「学び合っていない」活動が目につきます

 教師が話し合い場面で適切なコメントをしなければいけないのに,放置されている・・・実際,4人1組の話し合いだと36人の学級なら9つの班ができますから,各班でどう話し合いが進行しているかの把握は難しいでしょう。

 題材が不適切だと,研究授業のように「多くの参観者たち」がいる場合は「話し合っているふり」ができるけれど,教師が一人の場合には,「放課後の遊びの相談」などが始まります。

 こういう状況をつくっている教師が,「子どもを見捨てている」のです。

 子どもの側は,ある意味では歓迎しているでしょう。
 
 自由な話し合いの時間では,好きな芸能人の情報交換も可能になる。

 「教えられるからこそ,できることがある

 「人から教えられたのではなく,自分たちで学びとれたからこそ,できるようになることがある
 
 このバランスが崩れた,あるいは,どちらも実現されていない小学校から上がってくる子どもは中学校では適応できず,成長もできません。

 語るべき内容がないのに,コミュニケーションが大事だといって意味もなく「話し合わされている」子どもたちが,「見捨てられている存在」であることに気づけない限り,学力のほとんどの面は向上しないでしょう。


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国が定めるポケモンGOを楽しむためのルール

 内閣サイバーセキュリティーセンターのチラシに示されたルールは以下の通り。

>(天候で)警報などが出た場合はハンティングはお休みに(特に「特別警報」の場合は,命を守る行動が優先)

>SNSに写真を投稿するときは,家の近くのものはやめておく(家が特定される)

>写真にはGPS情報が付かないように設定する(位置が特定される)

>電池切れに備えて,予備の電池(モバイルバッテリー)を持ち歩く

>充電するときは,コンセント利用の許可をとる(無断利用はダメ)

>テレフォンカードをもって,公衆電話も利用できるように(電池切れに備えて)

>自転車に乗りながらのプレイはダメ

 配信する側としては,

>警報が出ている地域ではモンスターもいなくなる設定

>本物のモンスターがいるような危険な場所にモンスターを配置しない設定

>木陰などにモンスターを集める設定

 などの工夫は出来るのでしょうか?


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ポケモンGOでサイバーセキュリティー教育・熱中症予防教育

 ポケモンGOの日本配信を前に行われた政府の対応が注目されている。

 内閣サイバーセキュリティーセンターから,

 『ポケモントレーナーのみんなへおねがい♪』というチラシが公開された。

 特定の企業のアプリやキャラクターだから,政府がそれらを宣伝しているようにも見えるのだが・・。

 「おねがい」は以下の9項目。

>1 個人情報を守ろう

>2 偽アプリ,チートツール注意

>3 お天気アプリは必ず入れよう

>4 熱中症を警戒しよう

>5 予備の電池を持とう

>6 予備の連絡手段を準備しよう

>7 危険な場所には立ち入らない

>8 会おうという人を警戒しよう

>9 歩きスマホは×ですよ

 情報モラルに関する内容は,1,2,8,9だが,

 屋外での長時間の利用を想定して,3~7まで「親切」に加えてくれているのは,

 教育の世界でいえばとても「実践的」なお仕事である。


 厚生労働省や総務省,文部科学省の人間がいないと,こういう内容がもれてしまい,

 「みんなへのおねがい パート2」のように,あとで付け足すという無様な仕事になってしまうおそれがあった。

 
 ところで,SNS,GPS情報,マルウェア,チートツール,公式ストアといった用語に不慣れな教員も多いはずだから,いずれ「ポケモンGO研修」という取り組みも始まるかもしれない。

 真夏の時期に屋外で楽しむ人気アプリリリースとあって,「ポケモンGO」で熱中症による救急搬送何名といったニュースが連日流れることも予想されてしまう。

 後手にまわる仕事ではなく,「攻めの行政」といった姿は学校現場でも見習うべきものだ。


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自己主張できる教育の仕組みをつくるために必要なこと

 自己主張できる子どもを育てたい場合に何が必要か。

 安心して自己主張でき,安全が確保できる環境を整えることである。

 自己主張をして処分される教師が目の前にいるような環境では,

 子どもの自己主張能力は育たない。

 自己主張しているようで,実際には「すべてのことを言わされている子どもたち」を道徳の研究授業で見たことがある。

 「建前」を言うことは,「自己主張」とは呼べない。

 「本音」を語ることができる子どもを育てるには,まずは,教師が本音を語って,子どもとぶつかり合う環境をつくる必要がある。

 本気で「君たちには~が必要だ」と訴える力のない教師に,

 「自己主張ができる子ども」を育てるのは不可能だろう。

 繰り返す。

 「自己主張ができる子どもを育てたという自信がある」という教師が紹介する子どもの自己主張を聞いてみよう。

 教師の言っていることが正しいかどうかを判断できる人がいないと,

 そもそも「自己主張できる子ども」のイメージすら現場に伝わらずに教育は失敗してしまう。

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ポケモンGOの進化版

 ポケモンGOの人気は,日本でも話題を呼びそうである。

 たとえば究極の「まちおこし」の手段として,その活用の用途を構想している人も多いだろう。

 修学旅行と言えば,「モンスター探しの旅」になる,という時代が来るのだろうか。

 
 ポケモンGOは,「公的空間」「公共空間」をものの見事に

 「私共(わたくしども)空間」に変えてくれてしまう困りものの遊びである。

 海外の観光地以上に人間が密集している日本では,

 まず最初に「歩きスマホ」による事故が多発する事態が考えられる。

 日本版配信時には,すでに「歩きスマホ」による事故の防止対策がなされているだろうが,

 海外で既に起こっている犯罪は,日本でも同じように発生するおそれがあることを想定しておくべきだろう。

 子どもよりも,大人たち,若者たちが熱中するゲームになるかもしれない。

 「ポケモンGO」に熱中している人物を発見することで,事故が防げるようになるための機能もほしいところである。


 
 東京オリンピックが開催される2020年には,

 オリンピック×ポケモン×歴史

 という3次元の楽しさを世界の人々に味わってもらえるようなソフトになるのだろうか。


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家庭崩壊を「利用」する教師

 ファミレスは,普段,顔を合わせていない家族たちが

 「特別会議」をする場になることがある。

 以前,私の家族の席の隣にいた両親(離婚して別居しているらしい)と子ども(30歳代?)が食事よりも「話し合い」をメインに時間を過ごしていて,結局「喧嘩別れ」に終わったようで,ずっと詳細を聞かされていた私たち家族はせっかくの料理をおいしくいただくことはできず,「もうここに来るのはやめようか」という話になってしまった。

 「理想の家族」とは何だろうか。

 「理想的」とまではいかなくても,「平和的」「一般的」な家族の関係は,どのくらいの割合で維持できているのだろうか。

 教師を長くしていると,「崩壊家族」にたくさん出会うことになる。

 「崩壊家族」の方が,「まともな家族」よりも多いのではないか,という錯覚に陥ることもある。

 子どもが本当に不憫でならない。

 学校で問題を起こす子どものうち,それを家庭に告げて注意喚起した場合,どのくらいの割合で「DV」を受けることになるか,教師は理解しているだろうか。

 余裕のない教師は「家庭が悪い」とふんぞり返って我が身の指導の是非に考えをいたらせることができないだろうが,「教師のせいで(教師の立場からすれば,子どもが悪いだけという話だが)親に殴られた」という恨みをもっている子どもがどれだけいるのか。

 思春期の子どもに対応する余裕のない親をなじるだけの教師に,何かを語れる同僚はどれだけいるだろうか。

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10代の投票先は,どの年代に最も近いものだったのか?

 18歳の投票率は51.17%,19歳は39.66%であった。

 18歳は「主権者教育」が間に合って,19歳は間に合わなかったから,という説明になるのだろうか?

 私の関心は,

 今回の参院選で投票した18,19歳の人たちは,どの年代の人たちの考えに最も近いものだったか?

 という点にあった。


 私自身の仮説は,これを50歳代あるいは60歳代と想定した。

 根拠は,1つは親世代の影響を受けている可能性が高いこと。
 
 もう1つは,団塊の世代の教師たちの影響を受けている可能性が高いこと。


 結果は・・・・日本経済新聞のHPに,

>改憲勢力は?10代投票先は?参院選データ分析

 が紹介されている。

 年代別,都道府県別に見たデータがある。

 10代で,「民進党」を選んだ人が多かったのは,

 北海道,秋田,山梨,長野,奈良,大分などである。

 これらの県のうち,10代以外で「民進党」を選んだ人が多かった年代があるのは,

 北海道の70歳以上,秋田の60代,山梨では20代以外は全部「民進党」(ほぼ総野党支持が山梨県の理由は,教員ならだれでもわかる理由がある),大分では30代と50代以上。

 奈良は10代だけが「民進党」が最も多く,他の年代はすべて「自民党」。

 山形は10代だけが「自民党」で,他の年代はすべて「無所属」。

 年代差が全くない県も少なくない。

 与党を選んだ割合が最も高いのは,20代だった。

 最初の仮説が正しいことは証明されなかったが,各都道府県には候補者の影響も大きいのだろうが,「土地柄」というのがあることがよくわかった。

 10代は,ほぼ「土地柄」通りの投票行動をしているようだが,秋田や奈良でこのような結果になった理由はだれかに解説していただきたい。

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だれかがストップをかけなければ,日本の高校の教育が崩壊する

 次期学習指導要領の改訂に向けての準備が着々と進められているが,

 「お国」に声かけされて集めさせられている人たちには,もはや異論が出せない状態のようである。

 教育の「大変革」に,現場がついていけないことは目に見えている。

 今まで「変わることがなかった」高校教育に,メスを入れるための改革なのだろうが,

 公立学校で教えた経験のある中学校教師の私の目から見ると,

 土台無理なことを実現させようとしていることがわかる。

 それでも改革を進めるということは,「底辺を切り捨てる」という発想が背後にあるとしか考えられない。

 確かに,今の高校には,「これ,本当に高等教育?」と思えるようなことしかしていない学校がある。

 中学校段階で,「おおむね満足」に達していない生徒たちが進学していく学校なのだから,仕方がない。

 しかし,そういう高校生が理解することはおろか,高校教師ですら授業をすること自体,不可能に近いことを要求する学習指導要領がつくられようとしていることに,かろうじての反論ができるのは現場の校長先生くらいしかいないようだ。

 極端な話,これこれこういう能力が身につくんなら,教科学習などなくてもよい,くらいの大変革を起こそうとしている。

 気の毒なのはたまたまこういうタイミングで文科省に「拉致」されている人たちである。

 「早く大学に逃げれば良かった」と後悔しても遅い。

 「歴史的な憎まれ役」になろうとしている人たちに同情したい気持ちもある。

 しかし,現場教師の経験がある人なら,特に「底辺」を見てきた人たちなら,決定される前に何か言えるはずではないか。

 仲良しこよしの『学び合い』では対応できない課題がどれだけ生まれるか,想像するだけでもおそろしい。


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若者が高齢者を殺す国

 日本で「何かが変わり始めている」予感を持っている人は,少なくないだろうと思われる。

 科学技術の進歩による変化はもちろんだが,中にはあまり喜ばしくない変化もある。

 「若者によって殺される高齢者が増えていく」という変化が,日本で起こらないという確信は持てるだろうか。

 実際には,そのような変化を示すデータはないと思われる。

 60年前の方が,今よりもっと未成年による殺人の件数は多かった,というデータはある。

 ただ,これから起きるかもしれない事件の中で,

 今の日本でくすぶっている爆弾の導火線に火をつけてしまうようなものが出現しないか,心配である。

 痛ましい事件・事故の背景に何があるのか,独自の取材で社会への目を開いてくれるような仕事に取り組む人はほとんどいなくなっているのが現状だろう。

 芸能人の麻薬中毒だとか不倫などにはいくらでも飛びつくのに。

 「話題性」という甘い汁を吸って生きていこうとする人ではなく,

 「問題性」という社会の最も苦い部分に目を向けさせてくれる仕事は,成立しない世の中になってしまったのだろうか。


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文化庁を京都に移転することの意味

 首都機能を分散化させる政策は,「分霊箱」をつくることくらい重要なものである。

 できればもっとインパクトの強い部署を移転してみてほしかったが,

 やはり「永田町」の人たちがほとんど関心を持っていないようなところがターゲットにしやすかったようである。

 「どうでもいい部署」という意味ではないが,「いかにも」という気がしてならない。

 首都が大震災に見舞われたときの危機管理が今の日本にできているようには思えない。

 だからこそ,文化庁での「実証実験」には,

 「文化庁だけ」の利益を考えたメリデメだけをピックアップしても意味がないと言いたい。

 選挙が終わって一息つきたいところだろうが,

 政治家にとって,一刻の猶予もならないのは,首都直下型地震後の国家運営のかたちを想定しておくことにある。


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「地獄へようこそ」と迎えられる国でのオリンピック

 警察官や消防士が空港でデモをする国でのオリンピックが開幕しようとしている。

 有力選手の出場辞退宣言は今後も相次いでいくのか?

 壮行会に出てしまった人は,どうあっても引っ込みがつかないのか?

 ただの「不安」で終わってくれる保障はあるのか?

 1964年の東京オリンピックは,日本の復興と経済成長を印象づけるものだったが,

 1940年の東京オリンピックは中止されている。

 2016年は,まだこれから,世界に激震が走る出来事が起きるかもしれない。

 2017年から2020年までの間に,そこから数えて80年前のような動きは決して起こらないと言えるだろうか。

 バングラデシュで起こったテロの衝撃は計り知れないものがあると感じている。

 日本もすでに「テロ慣れ」してしまったのだろうか。

 同じソースの映像を複数の放送局で流しても意味はない。

 独自取材を行うような,マスコミの「リスクをとる姿勢」は風前の灯火か,消え失せてしまっているかのようである。

 「危険」を察知する能力が,個人に求められる時代になることは,ぜひとも避けたいものである。


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1冊の本の価値の格差

 教育の世界の人間ばかりを相手に話をしている人は,話せば話すほど,自分自身がドツボにはまっていく感覚をもてるようにした方がよい。

 日本全国,どこに行っても似たような反応が返ってくる理由は何かと自問してみればよい。

 教育など,所詮は「日本国内の問題」としか捉えていない人が大部分である。相手が教師であれば,なおさらである。

 読書編で紹介した1冊の本には,本当に衝撃を受けた。

 教育関係の図書とは,内容の重みに天と地ほどの差がある。

 1冊の価値の格差をこれほどまでに強く感じたことはなかった。

 アクティブ・ラーニングの関係書のほとんどは,「内容に乏しい」。

 それはそうだろう。「ハウツー本」なのだから。「だれにでもできる」ことを書いてあるというのだから。

 一方,「事実」を積み上げてできあがるノンフィクションものに,しばらくふれていなかったことを後悔している。

 教育の世界では,「事実」のほとんどがプライバシーにかかわるものだから,内容が公になることはあまりない。

 「世界史未履修」とか「保健の授業をやっていない」とか「免許失効教員」とかの問題は,それで困る子どもがだれもいなかったとしたら,そもそも必要がないものであることがわかってしまうという点で,本当は隠しておきたい「事実」だった。「教員免許」すらもっていなくても,授業や業務が成立してしまう「事実」が明らかになってしまうのも困りものである。

 だれがどのような教え方をしたら,どういうタイプの子どもがどれだけ上達したのか,こういうことはたとえばテニススクールのようなところでは,情報の共有化がなされ,コーチの技能の向上に企業として役立てられているのかもしれない。

 しかし,学校では,極小規模のところでさえ,教科別のこうした「個別指導の具体的経過と上達の記録」が整っているところはないだろう。「指導要録」程度の内容で,意味があるとは思えない。

 かつては,ドキュメンタリーのような指導記録が刊行されていた時代もあったが,どうしても個々の子どものプライバシーが壁になる。特に障がいをもった子どもに焦点が当てられる場合などは。

 「事実」の記録を残しようがないタイプの教育方法は,何としても手を抜いて17時に帰りたいと思っている教師たちには願ってもない道具だろう。

 時期も時期だから政治的内容にはふれにくいのだが,「事実」が残ってしまう仕事というのは本当にきついものである。

 自分の身を守ることに精一杯の人間が考えることと,世界の人々から尊敬が得られるほど,国際的な貢献を増やしていきたいと願う人間が考えることのレベルにどれだけの隔たりがあることか。

 視野が広いということが,本当にプラスにはたらくだけのことなのか。

 今,世界の人々の視野は確実に狭くなっていっているのではないか。

 日本は,それを広げることに何かの役割を果たせるのではないか。

 価値の異なる2冊の本を前にしただけで,真剣に考えるべき課題がいくつも浮かんでくるのはありがたいことである。


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『学び合い』では子どもの「自主性」が育たない理由

 『学び合い』がうまくいかない理由を,「学校」が民主的な場ではないからだ,と主張するのであれば,初めから『学び合い』などに期待をかけることはできない。

 「学校」の仕組みが悪いという「逃げ口上」があるのだから,失敗の責任を教師や教祖がかぶることはない。

 これほど卑怯な態度はないだろう。

 『学び合い』では子どもの「自主性」が育たないのはなぜか。
 
 それは,決して「学校」が民主的な場ではないからではない。

 異教徒相手に邪宗を強いているからである。

 選挙活動が,どこか宗教集団の訴えに似ていると実感したことがある人は多いのではないか。

 ヘンな歌を歌ったり,衣装がそろっていたりするのを見て,

 18歳,19歳の若者が「ひいていく」様子がわかる人はいないのだろうか。

 『学び合い』は何かを強制してはいまいか。

 何かを放棄してはいまいか。

 私は,子どもが中心となる言語活動の場を参観していて,

 「だれが正しい日本語を教えるのか」と危機感を抱いたことがある。

 国語が使えない小学校7年生や8年生を見ていると,本当に気の毒でならない。

 英語のような「ラジオ型言語」で学ぶときは,『学び合い』が適していると納得しやすいが,

 日本語のような「テレビ型言語」で学ぶときは,文字をしっかり読み,書く活動を中核にすえないと,

 母国語を駆使して思考する習慣がつきにくくなる。

 多くの教師たちは,経験で知っているから,邪宗にだまされずにすむ。

 能力は高いものの,国語力がないために,数学や理科,社会科,さらには英語の問題が解けない子どもがたくさんいる事実を知っている教師は少なくないはずである。

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消費者の不安を煽り,ものを買わせる商法

 学歴がどうとか,親の収入がどうとか,

 大学入試がどう変わるとか,とにかく不安を煽って「商機」につなげようとする商人魂がある。

 国からの運営交付金がカットされていることを背景に,

 最近,国立大学にもこうした「商人魂」が求められるようになっている。

 そこで,2つのタイプの大学教員が生まれることになる。

 大学にお金を運んでくるか,自分のために儲けるか。

 これがこれからの国立大学のスタンダードになっていくのだろうか。


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「怒りのツボ」がわからないと困る

 教員は,大人よりも子どもたちといる時間が長いためか,そもそもそんな職業を志望するからか,

 一般的な大人とは「どこかがずれている」という人が少なくない。

 子どもだけでなく,教員も苦労することがあるのが,

 「怒りのツボ」がわからない人である。

 「ここはスルーするのか」と思われる場面がある一方,

 「いきなり怒りだした理由がわからない」という場面に出くわすことがある。

 子どもはもちろん,瞬間的に混乱する。

 
 ラジオのパーソナリティーがいきなり暴力をふるい,逮捕されたというニュースを読み,「原因」にふれられていないことに気づいたとき,この「怒りのツボ」のことが頭に浮かんだ。

 頭髪のことをバカにされても何ともないのに,

 別の身体的特徴の話になると,いきなりスイッチが入る・・・・なんているのは

 まだ「わかりようがある」。

 しかしどこでどのような地雷を踏んだかわからない状態で爆発すると,

 「防ぎようがない」という気持ちになってしまう。

 
 若い人で,こういう例は少ない。

 私の経験では,高齢の人と,ある教科を教える人に,このタイプが多かった。

 
 もちろん,「怒った理由」をその場で冷静に解説してくれる人はいない。

 なお,こういう「地雷」があると,子どもはそれなりの緊張感をもって生活してくれるという利点もある。


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世界の潮流は「内向き」思考か?

 日本が時代後れの「グローバル化」対応している間に,世界の潮流は「内向き」思考になっていってしまうのか?

 イギリス,アメリカ,中国で起こっていることは,日本にどのような影響を与えるようになるだろう。

 もし,支持政党がない人々や政治に関心がない人々が,「内向き」思考で盛り上がる人たちに感化されたら,どうしたらよいのだろう。

 自国の利益こそ最優先にすべきだ,それで何が悪い・・・・。

 こういう感覚をもっている小中学生は少なくありません。

 道徳教育や社会科教育,そして『学び合い』が,「内向き」思考を助長する土台になっているとしたら・・・。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より