人間を「見捨てる」という言葉を安易に使うことに,私は強い抵抗感を覚える。
こういう言葉を向けられるのは,耐えきれないほどいい加減な仕事をしている連中に対してである。
教師がチームとしてではなく,個人としての力量を最大限に発揮できる場は授業であるが,
『学び合い』の中には「生徒を見捨てている」と捉えられかねないものがあることを,私は4年以上前から指摘している(以下のブログ記事参照)。
考えようによっては,本当に可愛がっている自分の子どもも,「能力を高めていない」という理由で「見捨てている」ことになる親などは大勢いるはずである。
教師自身の口から「見捨てた」という表現ができてしまう最大の理由は何だろうか。
それは自分自身への嫌悪感に他ならないだろう。
教育に失敗した自分が大嫌いなのである。
自分が子どもを見捨てたのではなく,子どもが教師としての自分を見捨てたのだ。
私自身にもそういう意識があるから,何となく同情できる。
だが,私は中学校の教師だから,成長後の生き生きした若い「教え子」たちに会えるという点で恵まれている。
大学の教師たちには,そういう経験が希薄なのだろう。
教育の失敗は,人生の成功に変えるきっかけになる。
「見捨てた」という意識は,人生の失敗そのものに他ならない。
教師として強く成長した「教え子」たちが,管理職や行政職につき,
教育を大きく変えていく原動力になってくれているという現実が見えてこなければ,
自分の仕事の意義を実感しにくいはずである。
だからといって,「子どもたちを見捨ててきた」という言葉を吐くのは,あまりに無責任すぎる。
同じ教育の場で子どもに接している真面目な人たちに失礼なのだ。
そういう「無礼」が働ける若い大学教師が増えている責任が,その指導者にあることは言うまでもない。
組織から「見捨てられ」そうな研究者を知っているが,「見捨ててもらった方が幸せ」という意識も十二分に成り立つところが,おもしろい世界である。
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「見捨てる」「見捨てない」という子どもへの見方(2012年2月27日)
大学の授業ですら通用しない「学び合い」を小学生に求める人の発想の根底に,
「一人も見捨てない」という原則があることを知りました。
義務教育の教師なら,「一人も見捨ててはいけない」のは当然なのですが,実際には「見捨てられている子どもがいる」ことへの反省のしるしだと解釈します。
しかし,子どもの側からすると,「教師から見捨てられている」という実感をもつにいたるには,相当のハードルがあるはずです。
私の場合は,「学び合い」という名のもとに行われている形式的な協同学習という手段によって,「教師による指導から見捨てられている子どもたち」の方が気になります。
中学校でも,「教師が話さない授業」ではないと,本当の学習ではない,なんて批判されるのがこわいのか,研究授業ではほぼ100%,話し合いの場面,学び合いと呼んでいる場面があります。
しかし,実態は,「話し合い」は必要ではない場面,実際には「学び合っていない」活動が目につきます。
教師が話し合い場面で適切なコメントをしなければいけないのに,放置されている・・・実際,4人1組の話し合いだと36人の学級なら9つの班ができますから,各班でどう話し合いが進行しているかの把握は難しいでしょう。
題材が不適切だと,研究授業のように「多くの参観者たち」がいる場合は「話し合っているふり」ができるけれど,教師が一人の場合には,「放課後の遊びの相談」などが始まります。
こういう状況をつくっている教師が,「子どもを見捨てている」のです。
子どもの側は,ある意味では歓迎しているでしょう。
自由な話し合いの時間では,好きな芸能人の情報交換も可能になる。
「教えられるからこそ,できることがある」
「人から教えられたのではなく,自分たちで学びとれたからこそ,できるようになることがある」
このバランスが崩れた,あるいは,どちらも実現されていない小学校から上がってくる子どもは中学校では適応できず,成長もできません。
語るべき内容がないのに,コミュニケーションが大事だといって意味もなく「話し合わされている」子どもたちが,「見捨てられている存在」であることに気づけない限り,学力のほとんどの面は向上しないでしょう。




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