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2016年6月

教育実践で失敗した人たちの共通点

 教育実践にはそう簡単に「成功」などあるわけがない。

 「成功」できるかのように見せかける「誇大広告」についついつられてしまう人間の性はわからないでもないが,「個」たちへのまなざしを失わずに実践していれば,やがて自分自身の力の限界に納得できるはずである。

 そして,その限界を突破しようとする努力こそが,教師としての生きがいになることにやがて気づいていく。

 はじめから「限界」を意識し,それに向かうことを放棄してしまう「教育方法」が紹介されているが,これは教師としての「終わり」を意味する。もう一度,就学児童に戻って,一緒に学び合いをするのがよい。

 教育実践で失敗し,挫折した人たちの中に,語る言葉から「個」が消え去ってしまう人を多く見かけるようになった。

 どうして「個」を見失ってしまうのか。

 理由は簡単である。

 自己矛盾を直視することができないからである。

 自己矛盾とは何か。

 自分がこれこそが大事だと言っているものが目の前で壊されていることに気づきながら,壊れていないことが前提で話を先に進める必要があるからである。

 教育現場で最も壊れてはならないものとは何か。

 それは,子どもからの教師への信頼感である。

 ある教育方法をとると,それが育っていかない。

 一部では,「そんなものはなくてよい」という態度をとるところまでいっているが,それはあまりにも楽観的すぎる。

 「個」を見失った人間が最も怖いのは,自分を見失うことである。

 いや,自分を見失っていることを自分が認めしてしまうことを最も怖れているのである。

 だから,呼吸が止まらないように,常に泳ぎ続けているような状態に陥ってしまう。

 教育の失敗の「二次災害」に他人をまきこむことが,「罪」であるという意識をもてるようになるかどうか。

 敵を増やし続けた先に待っているのは,迷惑を被った子どもたちである。


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汝,君子の儒となれ,小人の儒となることなかれ

 儒教の道徳を身につけた教養人ではなくても,学者には「品性」を求めたい。

 「下根の学者になるな」という言葉=訓戒は,だれに贈るべきだろう。

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「算数の戦略的学習法~難関中学編~」から学ぶ「問題を解くリズム」と仕事術

 難関中の算数をすらすら解ける塾の先生は,将来の「日本の頭脳」たちにとっての憧れの的でしょう。

 問題の解法は1つとは限りません。そのうち,最もスマートで,最も理解しやすい解法を紹介してくれる先生に出会えた子どもは幸せでしょう。

 ロールモデルに直接出会える子どもはごくごく一握りでしょうが,標題の本をめくってみると,そういう人からしか聞けないような話を読むことが可能です。

 算数の問題は,どのような順番で解くべきか。

 基本的に,受験問題というのは,易しい問題から難しい問題へと,順番に並んでいます。

 ですから,よほどのことがない限り,1番から順に解いていくことになるでしょう。

 しかし,解答の「リズム」にこだわるという発想からは,別の方法が試されることになります。

 「計算問題」は,「難問」にぶつかって,解くペースが落ちた時点で,「リズム」を戻すために取り組むようにする,という「技法」があるようです。

 私の経験でも,計算問題という易しいものでも,次の問題に気が行ってしまい,単純な計算ミスを犯すことがありました。

 ですから文章問題の易しそうなものからとりかかって,ペースが上がってきたところで計算問題を解く,あるいは,上述のように難しい問題にぶつかったと思った瞬間に取りかかる,という方法も合理的な戦略のような気がしています。

 実は,私の場合,テストの採点の順は,次のようになっています。

 ○か×かがすぐわかる問題からは採点しない。

 一番,生徒の答えが読みたい問題から,問題ごとに採点する。

 そして,やや長い論述式の問題を採点する。

 ただ,ここで少し疲れてくる。

 その段階で,易しい問題の採点に入り,「○」をつける回数を増やして,リズムをつくる。

 一般のビジネスパーソンの仕事術でも,採り入れられそうな話であるように思います。


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無形の価値を尊重しない社会に未来はない

 イギリスの過半数の人々がとった選択肢には,どのような意味があるのだろう。

 フランシス・ベーコン(イギリスの哲学者)の「知識は力なり」に込められた意味を,今,噛みしめるべきときであると考える。

 演繹的思考が大好きな人がいるのは,「頭が良さそうに見える」から仕方がないと言える。

 しかし,自ら演繹的思考ができないのに,「頭が良さそうに見える」人の口車に乗ってしまう国民が多くなればなるほど,国全体としては破滅の道をたどることになるだろう。

 帰納法を提唱したベーコンの基本的な姿勢に敬意を払いたい。

 ベーコンは英語の将来を疑問視していたが,今こそ,その危機が目前に現われようとしている時代ではないだろうか。

 ラテン語を学び始める人が「グローバル人材」として即戦力になるはずはない。

 しかし,「知恵」の手前にある「知識」すら,軽視される時代であり,

 教育界にとって,最大の危機が訪れている。

 イギリス人の選択が正しかったのかどうか。

 5年後,10年後,50年後で,評価は変わるかもしれない。

 それでも,「50年後」が迎えられそうな国であることは,何となくわかる。

 目先の利益や数値目標にあくせくしている日本とは,大違いである。


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ネメシスの報いを受けるべき人間

 7つの大罪・・・吝嗇,怒り,妬み,大食,強欲,怠惰,高慢・・・・けちは大罪には入っていない,というご批判もあるでしょうが,子ども向けにはこの7つにしておきます。

 このうちの1つでも罪を犯したら,天国には行けない・・・・なんてことになったら大変ですね・・・。

 どうも「怒り」だけはおさまりようがないほど,世の中も,教育現場も,問題に充ち満ちています。

 すぐに目に見えるようにメネシスが復讐にやって来てくれればよいのですが・・・・。

 教師が陥りがちな大罪とは何でしょう・・・・

 ケチな授業・・・子どもがどうにも学びがいを感じない授業をしていれば,教師は子どもからそっぽを向かれます。

 怒りに満ちた生徒指導・・・・怒りで収まるのは一瞬です。教師は,子どもの「逆ギレ」に出会ったときに,「怒りを示すことの逆効果」に気づくでしょう。

 妬み・・・まだ,妬まれる方がましですね。

 大食・強欲・・・昔,給食の残飯が多すぎて,食べ過ぎたこともありましたが・・・。

 怠惰・・・「忙しい」「忙しい」という人に限って,仕事が少ないという実態が教育現場にはあります。

 高慢・・・日本人には珍しいタイプの「罪」ですよね。学歴(ヨコ学歴・・・どの大学を出たか)で自慢できる時代ではなくなりましたし,教師は「お金持ち」になれるわけでもない。でも,こういうタイプの教師がいるのも事実です。日本には,高慢な人にもたいへん優しく接することができる,心のゆとりのある国民性があります。

 いろんな意味で,本当の意味の「ゆとり」がなくなると,人は罪を犯しやすくなります。

 今,求められているのは,本当の意味での「ゆとり」なのでしょう。

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一利を興すは一害を除くにしかず

 モンゴル帝国の最初期,チンギスに従い政治顧問となった耶律楚材の言葉とされる。

 この人物の評価はさておき,何か新しいことを作り出すより,省くものを探した方がよい,という考え方が,なぜか日本では通用しない。

 害のあることを除く,たとえば道徳の授業をなくす,という方向にはいかない。

 学校によっては,道徳の時間と保健体育の保健の時間,総合的な学習の時間をなくしたくてしょうがないところが多いと思われるが,「ごまかし」がきかない時代になっている。

 何かを省こうというときに,部活動のように一番省いてはいけないものを省こうとするあたり,ピント外れにもほどがあるのが今の教育政策である。

 イギリスのEU離脱で大騒ぎしている経済界とは,何とも頼りがいのない世界であるが,

 世界ランキングが下がってパニックになる教育界も,似たようなものである。

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大山鳴動してネズミ一匹

 竜頭蛇尾という熟語のニュアンスと似ている言葉だろうか。

 古代ローマの詩人ホラティウスは,詩人たちが好んで物々しい表現をするのを揶揄する言葉を述べた。

 山々の陣痛にあたるのは,今,学習指導要領の改訂に向けて,文科省が掲げようとしていることがらである。

 各教科らしさをもって育成できる「見方・考え方」・・・すべて出そろうだろうか。

 さんざん苦労して,結果,子ネズミが1匹でも生まれてくれるのなら,まだ考える意味があるかもしれないが。

 参院選に向けて,候補者や応援者による懸命な叫びが続く。

 どんな山を動かそうとしているかが,18歳の少年少女にわかるようにしてほしい。


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『学び合い』と学力向上の皮肉な関係

 『学び合い』がとてもよく成立する学級の場合,

 むしろ一斉指導で学習を進めた方が,より深い内容を楽しく学ばせることができ,学力はさらに向上する。

 一斉指導がうまくいかず,やむなく『学び合い』に持ち込む場合,

 『学び合い』の方が成果が出ているように見える。

 これらのことは,結果的に何を物語っているかは,説明するまでもあるまい。


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教科教育研究の場が,いつの間にか教育方法研究の場になった

 最近の大学院では,教科教育を専門的に学ぶ場でも,教育方法の研究や実践発表ばかりになっている,という嘆きの声をある学会に出ている人から聞いた。

 教育現場では,即戦力を求めている。

 一番手っ取り早いのは,「子どもに授業を生き生きと受けさせることができる人」を採用する,ということで,そうなると,教科の専門的な知識よりも,「だれでもできる」系の授業の進め方を身につけさせる方がよい,ということになり,学会ですら,「こうしやら子どもが主体的に学習に参加できた」みたいな発表ばかりになってしまっているようだ。

 「内容」がない! からっぽ!

 そこには「教科の専門性」などは求められない。

 悪い夢を見ている気分になる。

 ますます学会に参加する魅力がなくなっていく。

 中等教育も,初等教育と同じような質に低下していくことになるだろう。

 何しろ,「何も知らなくても授業ができる」と胸をはって現場に出てくる人が増えていくからである。

 アクティブ・ラーニングが「大学教育不要論」を身近にしてしまう日が近いような気がしている。

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「金の亡者」に成り下がっていく国立大学法人

 国立大学の将来は暗い。

 イメージは,都立高校改革によく似ている。

 「特色」を出したところには予算を重点配分するが,

 「特色」がないところからは容赦なくカットする。

 たかが「普通科」の高校に,特色も何もない。

 「良い先生を集める」くらいしか,意味のあることはできないのだ。

 国立大学も似たようなものだが,今は,「良い先生たち」は私立大学に引っ張っていかれてしまう時代である。

 果ては,一律2割カットなどという。

 露骨な「国立大学つぶし」で,困るのはどういう国民かおわかりになるだろう。


 
 最近,こんな情勢を背景にしてか,「金の亡者」と化した国立大学関係者を立て続けに見ることになった。

 国立大学の学長といっても,

 町工場の社長のような感じだった。

 「とにかく金になる仕事を」

 という言葉が,国立大学関係者の口から出される時代である。
 
 見苦しさを通り越して,吐き気を催すほどの嫌悪感に襲われる。

 どんなに「ずっこけ」ても,「何か新しいもの」をやると手を挙げると,なけなしの分け前がもらえる。

 「今まで通りがんばる」だと,分け前が減っていく。

 「予算配分の権限」を盾に,大学をコントロールしようとする人間たちに,

 日本の本当の教育の未来像を描く能力はあるのだろうか。

 
 歴史のなかで,このような困難に立ち向かった日本の人物を探している。
 
 見境のない「金儲け」にうつつをぬかす大学教授を尻目に。


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企業に「即戦力」を送り込めない大学・大学院と,教育現場に「即戦力」を送り込めない教職大学院

 教職大学院の問題点を指摘する人は多い。

 その問題を解消する唯一の方法は,教職大学院を出た「即戦力で優秀な若手」が増えることである。

 もし教員採用の現状が,「教育学部卒」「教員養成系大学卒」ではないところにたくさんの優秀な人材がおり,実際に採用もされているということであれば,やはり「受け皿」はあっても「優秀な即戦力」を送り出すのは困難だろう。

 そもそも定員割れしている場所で,優秀な人材を確保すること自体,難しいはずである。

 大学以上に入りやすい場所なら,せめて「出にくくする」ことも考えてほしいところだ。 


 教育現場に出たものの,指導力不足で挫折し,大学で教えることになった教員には決してわからないことがたくさんあるだろう。

 同じような境遇の人間をいくら集めてみても,自己満足ではなく,多くの子どもや保護者,教師たちから評価されるような実力を備えた教師が増えない限り,教育現場の問題の深刻さは軽減されない。 

 「問題を解決する」ことなど不可能な場所が教育現場であり,せめて問題の深刻化を防げる能力が求められている。

 そこに「問題を解決しよう」などと意気込んだ勘違い人間が養成されてしまうと,傷はより深くなりかねない。

 チームワークが何より,集団の和が何よりだ,なんて言っている連中は,いざ,子どもをめぐる深刻な問題が発生したときは,「自分たちの仲間を守る」ことを優先にして,「我が身を捨ててでも」教育に立ち向かおうとする姿勢を見せられない。なぜなら,そんな姿勢は「集団の和を乱すもの」だからである。

 養成が可能な部分と,そうではない部分がはっきりするのは,

 企業の世界と同じように,「能力主義」の教育が公立学校で実施にうつされるときだろう。

 資質能力の向上がいかに困難かは,いくつかのタイプの学校を経験し,多くの同僚やさまざまなタイプの問題を抱える子どもたちを目にした現場の教員にしかわからないことだろう。

 
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人間から理性を失わせる楽器

 ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」,モーツァルトの「魔笛」,「突撃ラッパ」・・・・

 この3つに共通する点は何か。

 中世ヨーロッパでは,吹奏楽器は「下の楽器」とされ,祝祭日や結婚式の折などでは,決して使われることがなかった。

 「上の楽器」とは,弦楽器のことで,人の魂を天上に導くとされた。


 管楽器や吹奏楽器が,人の魂を地獄に,快楽の底に沈めるものとされたことと,

 ヨーロッパ人が「風」を忌み嫌うことには深い関係があるらしい。

 「風」は列車の窓から吹いてくるようなものも忌まわしいし,

 熱いスープを飲むときも,決してフーフーと自分の口から「風」をおこすのも厳禁とされた。

 ヨーロッパの音楽には,こういう「貴賤」による差別が存在している。


 もちろん,日本人はそんなことを知る必要もない。

 よいものはよい,という「感性」を大切にすべきである。

 ただ,「感性」で身を滅ぼした人がどれだけいたかも頭に入れておくべきだろう。


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「お金」のために大切な時間を切り売りする大学教授たち

 ある大学の先生に,「先生が出された本はとても現場のニーズに合ったいい内容ですね」と声をかけたら,最初に出てきたのは「お金」の話だった。

>まだ印税が振り込まれていない。

 出版に限らず,塾や予備校以外の公教育関係の仕事はお金にならない世界であり,その先生の話しぶりからも,別にお金がほしいわけではない,というニュアンスは伝わってきた。

 大学のセンセイたちの中には,「アルバイト」に精を出す人が少なくない(私の知っている小学校のセンセイたちの中にも,基本的に「アルバイト」の方が大切そうな人がいると聞くと驚くだろうか?でも,「どうしてこの人,今ここにいられるの?」と疑問を感じてくれるだけでわかる)。

 最近,「本業の方は,大丈夫なんだろうか」と心配になるほどせっせと一般向けの本を書いているセンセイたちがいる。

 私立大学なら,大学の宣伝になるのでよいのかもしれないが,国立大学のセンセイが,である。

 何か勘違いしていないか。

 最近は,国立大学のセンセイたちが,文科省からあれこれ言われ始め,めんどうくさい書類書きが嫌になって,みんな給料が高い(あるいは,給料は安くてもいいから)私立大学に移りたがっているという。もちろん,研究や教育より「お金」の方が大切な,ごく一部のセンセイなのだろうが。

 気持ちはわからないでもないが,もっと真剣に「研究」や「教育」に力を注いでもらえないものか,と心配になる国立大学がある。

 教育実習生の「質」が目に見えて落ちてきているからである。

 「凋落」という表現がぴったりかもしれない。

 大学で,「まとも」な授業を受けているという実感がわかない。

 中学生でも知っているような知識すらもっていない。

 国立大学に,こういう学生が入れてしまうこと自体が不思議なのだが,自分がいい授業を受ければ,自分でいい授業ができるようになる方法を学べるものである。

 ある社会科の雑誌の冒頭に,ナントカのひとつ覚えのようなコラムを書き始めた「名誉教授」がいるが,この人の書いている文章からは,「何が言いたいのか」が全く伝わってこない。

 「結論」のない文章を書くのと,「質問」にきちんと答えないことがこの人の持ち味だそうだ。

 こういうタイプの人の授業を受けていると,こういう学生になってしまうのだろう,と想像がつく。

 「お金」のためではなくて,もっと目の前の学生のために情熱を注いでくれる大学のセンセイが増えてくれないだろうか。

 教育現場に出てくる若い先生たちの「恩師検索システム」を稼働させる時期を早めてもらいたい。

 教育は,成果が出るまでに時間がかかる仕組みの仕事である。

 だから,退職してから成果が出る場合もいくらでもあるだろう。

 しかし,「同じ教え子」たちから次の世代の教師たちに,きっと「教え」は伝承されていく。

 いつでも「ルーツ」がたどれるシステムがほしいところである。

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「日本人として誇りに思う」という言葉づかいの是非~日本の道徳教育の「せこさ」

 中学校の道徳の内容に,次のようなものがある。

>日本人としての自覚をもって国を愛し,国家の発展に努めるとともに,優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する。

 これを評価の対象にしたとき,どのような中学生の言葉なり行動なりが「優れている」と見なされるのだろうか。

 指導にあたっては,次のような「留意すべきこと」も示されている。

>国を愛することは,偏狭で排他的な自国賛美ではなく,国際社会の一員としての自覚と責任をもって,国際社会に寄与しようとすることにつながっている

 自国優先の考え方を捨てて,世界の平和と人類の幸福に貢献する意識を高めることが重要であるはずだが,

 どこまでが「偏狭で排他的」と見なされるのか,また,どこまでの「自国よりも他国の平和や幸福への貢献」が求められるかの判断はとても難しいものである。

 イチロー選手が日本ではなく,アメリカの企業のために尽くし,その「利益」に貢献することは,もちろん間違ったことではない。

 ただ,最初に示した道徳の枠からは,はみ出してしまっていることは言うまでもない。

 もしイチロー選手が,「日本人だから,日本のためにがんばっている,なんて気持ちはない」と言ってしまったら,イチロー選手に対して,道徳教育の観点からは低い評価を与えないといけないことになってしまう。

 「視野を広く」「国際的視野をもって」などという言葉が道徳の目標や内容におどっているが,

 なぜかそういう言葉で表現してしまっていること自体が,道徳教育が「視野が狭く」「国際的感覚を欠いている」ような錯覚に陥ってしまう。

 海外で活躍する日本人に対して,「日本人として誇りに思う」という感想は,とてもスケールの小さい人間の発想にすぎないように見えてくる。

 「せこい」・・・これが日本の道徳教育にも適用できる印象だということに改めて気づかされた。

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道徳の「正解パターン発言」を揶揄された生徒

 どうやら,小学校時代に特定のパターンで「道徳」の授業を展開する教師がいたらしい。

 今日は,中学校2年生の授業で,そのパターンの解答を発言した生徒が揶揄されていた。

 小学生の中には,教師に気に入られるように,教師が「こうしてほしい」「こういう発言をしてほしい」と願っていることを予想して発言することが得意な子どもがいるようだ。

 先生に発言を褒められているうちに,「どういう発言が好まれるか」を子どもは学習していく。

 ただ,ある一定の精神年齢に達すると,そういう「ばからしいこと」には興味をもてなくなっていく。

 ちょうど中2あたりはそういう時期らしい。

 小学校の教室では成立してしまうかもしれないが,「型にはまった思考パターン」で乗り切れるほど世の中は甘くないことを中学生になってからの実体験で子どもは学んでいく。

 道徳の評価が始まると,道徳教育は小学校段階から崩壊していくだろう。


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「オレ様」教師の口癖~その5「とにかくやれ」

 指導力のない教師が行き着く先は,「丸投げ」である。

 「とにかくやっとけ」。自分は終わり。

 こういうとき,案外,生徒にとってはチャンスである。

 会社員の方も,こういうケースこそ,自分の実力を自由に発揮できるチャンスとして,前向きになってみてはいかがだろうか。

 残念ながら,「だれがそんなことをしろといった!」と怒りを買うことも想定内に。

 
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主権者教育の成果=選挙に向かう意識の向上・・・?

 高等学校では,行政の指導によって「主権者教育」が進められている。

 私にとっては,どうしても「主権者」という言葉と「教育」という言葉がつながっていることへの違和感が強い。

 「教育」を受けなければ「主権者」にはなれないのか?

 「教育」を受けていない人は,選挙に行くことをためらうべきなのか?

 「主権者」の「教育内容」とは,どういうものなのか?

 与党の政策に従わされている「教育」の現場で,果たして「政治的中立」は果たせるのか?

 「主権者教育」の成果として,投票率の向上が数値目標になっていると考えられるが,

 「投票すればよい」(だれか他人に託ばよい)というだけの態度が養われてしまっても,果たして「成果」と言えるのか?

 やがて成立する「公共」(仮称)もとらえどころのない科目である。

 本当の意味での「主権者」としての意識がある高校生と,

 政治には全く関心のない高校生が,反発することはないか。

 今の日本では,「社会科」が政治や学者のおもちゃになっているように見える。

 果たしてそれで真の「主権者」が育つのかどうか。

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「オレ様」教師の口癖~その4「言ったことがどうしてできないのか」

 教師にとって,生徒が動きやすい指示,考えやすい発問を出すことは,案外難しいものである。

 教育実習生などは,大勢に向かって指示や質問をした経験に乏しいから,

 一斉に動かしたり考えさせたりしなければならない場面で,生徒たちを立ち往生させてしまうことがある。

 指示が上手ではないのに,「どうして言ったとおりに動いてくれないのか」と生徒を責めてはならない。

 自分が逆の立場になれば,すぐにわかる話である。

 そういう意味では,教育実習生が,他の教育実習生の授業を参観することの意義は大きい。

 すぐにわかる「未熟さ」が見えてくる。

 そして,少し見込みのある学生は,「自分も同じ」であることに自ら気づき,

 教師の適性がない学生は,参観した学生だけ責めて,自分のときには生徒のせいにする。

 案外,適性がない人が,教員採用試験に合格しているのが不思議なことである。

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「経済的損失」を理由にした「反対派駆逐」~日本とイギリスの行方

 大きな改革案が出されても,目先の不利益を回避することを目的として,反対派が優勢になってしまうケースが多い。

 日本の消費税増税先送りは,「目先の支持率確保のために決断できない弱い政治の典型」として将来の歴史の本に載せられることになるだろう。

 6月23日に国民投票が行われるイギリスのEU離脱・残留の判断はどうなるか。

 イギリスのEU離脱は,世界経済に与える影響も大きいから,目先の危機を避けたい人たちにとっては大きな心配事になっている。

 もし国民投票でEU離脱が決まると,

 世界の動きは,「統合」「自由貿易」から「分裂」「保護貿易」への転換の契機になるかもしれない。

 もちろん,イギリス人にはもともと「大陸」と「グレートブリテン」は違う,という意識が強いわけだから,

 「元通りになる」という見方もできるが,

 世界大恐慌後の保護貿易主義が,二度目の世界大戦の原因の一つになっていることが頭に浮かんでくる人もいるようだ。

 EU内でイギリスが果たしてきた役割とは何か。

 それが失われたとき,EUにはどのような影響が出る可能性があるか。

 真のアクティブ・ラーニングの課題になっている。


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「オレ様」教師の口癖~その3「すぐやれ」

 今はほかのことをすべき時間だというのに,「すぐ(自分の指示したことを優先して)やれ」と強要する教師。

 私も困った経験がある。

 私の授業が始まってからも,教師が廊下でクラスの生徒を叱り続けていたケース。

 「すぐやるべきこと」は,何か。

 教師も人間だから,ものごとの優先順位がわからなくなることがある。

 上司の命令に従わないと法令違反になる公務員の場合は,

 「やれ」と言われたらやらざるを得ない。

 「考える能力を奪う」ことにかけて,右に出る者はいない,なんていう人がいるのは困りものである。


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「オレ様」教師の口癖~その2「言われたことだけやれ」

 子どもの言葉に聞く耳をもたず,指示通りに動け,という趣旨の言葉を発する教師は,その1の「こんなこともできないのか」とセットになる場合があったり,続く別の追い打ちをかける言葉とセットになる場合があります。

 「波状攻撃」にさらされる子どもを見たことはありませんか。

 職場の上司から,「かつて教師からかけられたのと似たような言葉」を言われたことはありませんか。

 私が知っている社会人をヤメて学校現場に入った教師の中に,

 会社で上司に言われていたような言葉をそのまま13歳の子どもにぶつけている人がいました。

 「言われたとおりにやっていればよい」という言葉が,教育的かどうか。

 指導と言えるかどうか。

 もちろん,賢い生徒の場合は,「はい」と答えて自分の好きなように行動するわけですが・・・。

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「オレ様」教師の口癖~その1「だからお前はダメなんだ」

 教師(顧問)の発した言葉によって,子どもが傷ついたり,自信を失ったり,やる気をなくしたりするケースはよくある。

 そういう類の言葉を投げかけられても,良い意味での「反発心」から,自分の力で問題を解決していく子どもも,もちろんいるのだが,そういう「成功体験」が「オレ様教師」に陥る原因の一つになる。

 「だからお前はダメなんだ」

 「何度言ってもムダだな」

 「こんな低レベルのこともできないのか」

 人格を否定するような言葉かけであり,文字におこしてみれば,それがいかにひどいものであるかがわかるのだが,「口癖」になってしまっている場合は,処分でもしない限り,なくならないだろう。

 中学生や高校生が自殺する直前に教師からかけられた言葉は,記録に残っていないものも多いはずである。

 (参考:日本経済新聞 週末スキルアップ塾 日経ビジネスアソシエ再構成内容 

      自分勝手で傲慢な「オレ様上司」への対処法 上岡隆氏)

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子どもは教師や親の特性をよく理解して行動する

 子ども集団には,「賢さ」がある。

 教師や親の「怒り」のツボを心得ている子ども集団は,「余計な時間」を省くことがある。

 子ども集団が「余計な時間」と考えている典型的なものが,

 「お説教の時間」である。

 ある生徒の親は,2時間でも3時間でも子どもにお説教を続けられるという。

 きっと,親が子どもだったとき・・・つまり,おばあちゃんも同じようなことをお母さんにしていたんだね・・・と慰めてあげることにしている。

 あなたの子どもには,そんな苦労をさせないようにしてあげてね・・・。

 賢い子は,「無駄な時間」を削減するための知恵を身につける。

 こういう「知恵」を,教室で使っている子ども集団がいることに気づけない教員がいる。

 「うちのクラスにいじめはありません」

 その根拠は,「子どもたちが,いじめはないと言っているから」だと。

 いじめられている子どもが,「いじめはない」と言わされていること,

 アンケートで「いじめられていない」と答えさせられていることに気づけない教員がいる。

 見抜けない教員を見越した作戦を子ども集団は立てて実行してくる。

 小学校とは異なり,中学校では,「見抜けない教員」が放置されることはない。

 なぜなら,教科担任なり,部活動の顧問なりが,簡単に見破ってしまうからである。

 学年主任という立場になったら,「見抜けない教員」のフォローをすることが重要な責務となる。

 教師は,その「人間像」を丸裸にされる存在であることを自覚しておかなければならない。


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「問題がない」という大問題

 ときどき,「私のクラスには何の問題もありません」と言い出す教員がいる。

 もちろん,「問題」の捉え方には人それぞれの基準が存在するから,その教員の「問題」=一般の教員の「大問題」という意味で使っているのかもしれない。

 しかし,「問題はなかった」という呑気なことを言っている教員のクラスで,他の人間なら気づく大問題が進行しているという事態を多くの教師は経験済みだろう。

 「問題が起こる」ことを,よくないこととか,担任の責任であるとか,感じることは問題ではない。

 問題なのは,問題が起こっているのに,自分の責任を追及されたくないから,起こっていることにしたくない,めんどうくさいことにならないでほしい,などと考えている教員の姿勢である。

 小学校や中学校で,「クラスで問題が起こらない」などということはあり得ないと考えてよい。

 「問題を抱えていない子どもはいない」と言いかえてもよい。

 本来であれば,クラスの中は「問題だらけ」であるはずなのだ。

 だから,教育する意味がある。

 「問題はない」などと主張している無責任さ自体が大問題なのである。

 社会一般の風潮かもしれないが,これを学校の教員が助長してしまっているのであれば,何とかやめさせなければならない。

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情に訴え出す組織のねらい

 退職間際の教員が,自らの過去を振り返り,自責の念に堪えかねる境地に陥ることは,容易に想像できる。

 それほど,教育という仕事には重い責任があるとともに,そう簡単に「成果」が出せるものではないのである。

 特に,「新しい指導法」として注目されるものにその都度食いついてきたような人は,「自分自身に教育への確固たる信念がなかった」ことを悔いるだろう。

 今では,「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されている人たちがそれに該当する。


 もちろん,教育の「流行」に振り回されない人はすべて健全かというと,そういうわけでもない。

 小学校社会科の世界では有名だったある教師は,やたらと我流にこだわり,本質からずれたところばかりに子どもの関心を向けさせ,結局,学力がつかないままで終わらせてしまった。この人が「我流の害毒」の典型にあたる。

 この人が退職前に,しっかり後悔してくれたかどうかはわからない。

 「どうでもいいことへのこだわり」が,決して何の役にも立たないとは言えないが,「大切なこと=どうでもいいことへの執着」ではどうしようもないのである。

 
 宗教団体の勧誘の手法と同じことをしている研究(?)団体がある。

 攻撃の対象にしているのは,人間の「弱い心」である。

 
 自分の信念がなく,ふらふらしている人間の方が,後者の教師よりも「落としやすい」のは当然である。

 「弱者救済」をうたっている人間たちが,「弱者」たちから甘い汁を吸おうとしている姿を,冷静に見つめられる人が育つ教育をしていきたい。

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日本人の大多数が「英語嫌い」になるシナリオ

 週刊東洋経済で,『経済を見る眼』というタイトルのコラムなのだが,なぜか「英語ができない日本人」という題で英語教育の問題点を述べた苅谷剛彦氏(英オックスフォード大学教授)。

 苅谷氏によれば,英語を母語とする人々にとって,日本語は最も習得困難な言語の一つとのこと。

 逆も真なり,と主張している。

 小さいときから英語を学べば,もう少しできるようになるだろう,という簡単な話ではないことは,

 幼児のころから英語教材に親しませた割に,中学校,高校での英語の成績は芳しくなく,結局,今は英語といっさい縁のない仕事をしている子どもをもつ親なら痛いほどわかっているはずである。

 中学校の英語教師の不安感,というより,先行して英語教育を熱心にはじめている小学生たちが進学してくる中学校教師が現実的に困っていることとは,

>英語嫌いになった状態で進学してくる

 という問題である。

 現状では,まだ「中学校での初めての教科」として,それなりの「期待」「希望」「あこがれ」「興味」をもって,英語を学習しようとする中学校の新入生は多い。

 しかし,小学校の授業でドロップアウトしてしまうと,それから取り戻すことは困難だろう。

 日本人の大多数が「英語嫌い」になっていく綿密なシナリオづくりがこれから始まる。

 これで得する人間はだれか。

 文化的コンプレックスによって,だれがだれを操ることが可能になるのか。

 まだ「戦後」から脱却できない日本の教育の典型的な姿に見える。

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中学生やその保護者が求める「教員の質」が低下する最大の理由

 日本の中学校では,「部活動」が果たしている役割が極めて大きい。

 だから,当たり前のことだが,中学校の教師にかかる「部活動」指導の負担も大きい。

 昔から,運動部の指導が苦手な教員は一定数いたが,吹奏楽,合唱など,文化部系の部活動をもってもらうなどして,何とかなっていた。

 今,現場で何が起きているかというと,中学校や高校,大学で,運動系の部活動やサークル活動に熱心に参加したことがなく,「お勉強」中心の生活を送って,「教員採用試験」に合格している人の割合が相当に高まってしまっていることが予想される。

 20年前くらいから,実際にその傾向が高まっていることを感じた私は,知り合いの人事部の担当者に直接聞いてみたことがあるが,その答えは守秘義務があるし内容が恐ろしすぎてここでは書けない。

 大量採用の時代には,ばりばりの運動部経験者が教員に採用されており,希望する部活動の顧問の地位の取り合いも起こっていた。今,そういう人たちがどんどん退職している。

 この流れは,「教育の正常化」である,という見方も成り立ちうるが,自分たちが経験できたことを,

 自分たちの子どもができなくなっている現状を見ている保護者としては,いらだちの方が先に立ってしまうだろう。

 しかし残念ながら,「受験偏差値が高い」(とは言っても・・・)ので教育公務員試験に合格できるというだけの人が大量に教員に採用されていく。


 建前上は,「授業が上手」「思いやりがある」教師を子どもや親は求めつつも,

 「部活動の指導を熱心に行ってくれる」「厳しい」教師が現場には求められている。

 
 時代は,「部活動を担当しなくていい権利」を現職のセンセイが主張するところまで来ている。

 署名まで集めて。

 今度は,「そんな教師を自治体は採用しないでくれ」という署名を保護者たちがする番である。

 「教員リコール制度」も必要なのか。


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デジタル教科書の使用が招く学力低下

 私が考えるデジタル教科書の大きな欠点は次の2つである。

 両方とも,電子書籍の欠点と同じである。

 まずは,画面が小さいこと。

 もちろん,タブレットでは指先の操作だけで「拡大」することができるが,拡大すると見える範囲は狭くなってしまう。

 もう1つは,ページをパラパラっとめくりながら,「ここを読みたい」というところにすぐに飛べないこと。

 教科の中には,「他の単元のページに飛ぶ」必要がないものもあるかもしれないが,

 電子辞書と紙の本の辞書との違いのように,必要がない場所も「通過」しながら目に入っている方が,「調べる」活動として優れていると思われる。

 社会科の地理や歴史では,他の地域,他の時代との共通点や相違点を探そうとするとき,1ページ1ページめくるのではなく,20ページごとに内容を比べるなどという作業が必要になったりする。紙の本でないと難しい。

 
 紙の本にも欠点はある。

 大きい,重い,お金がかかる。

 しかし,電気を使わずに読むことができる。


 デジタル教科書の本格的使用が始まると,子どもたちは

 「ノートに書く」という基本的な作業をしなくなるのではないか,という心配がある。


 タブレットの画面上で,「なんとくわかった気になる」だけで,実際には理解しておらず,どんどん授業が進んでいく,という事態も考えられるだろう。

 「ノートに書く」作業を通して,自分がわかっているかわかっていないか,考えることができているかどうかが自分でも判断できるが,電子書籍の利用で,「わかったつもりになる」子どもが増えてしまうことを心配している。


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尾木ママは名誉毀損の罪を犯したか?~その2

 北海道での保護者による「子ども置き去り事件」は,幸いにも皆が喜ぶ結果が待っていた。

 正直,あきらめていた人たちもいたかもしれないが,気候を含めた幸運にも助けられて,再び日常の生活を取り戻すことができたことは嬉しい限りである。

 教育関係者から,心ない憶測の言葉が発せられていたようだが,あまりに多くの「心ない親たちの虐待」に触れすぎてしまっていたためか,親たち一般への不信感が度を超してしまうというのは,実は現場の教師でもありがちなことである。

 常に様々な可能性を考え,「最悪の結果」を想定してその対処法も考えておかなければならない立場であると,人間を信用するとかしないとかいう問題ではなく,準備だけは怠れない。

 「ひどいことをする親は,強く断罪していくべき」という信念が,「殺人者」という最悪のレッテルを生み出してしまう理由もここにある。

 「置き去り」への非難は続けてもよいかもしれないが,謝罪すべきことをしたという自覚があるなら,すぐにでも行動におこすべきだろう。


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「持っていること」が弱点になる教師の課題

 社会科で「子どものためになった」と思える授業と,そうではない授業の違いで,とてもわかりやすい例が,

 「問いをどちらが出したにしろ,教師が答えを出してしまったか,子どもが自らそれを見出したか」というものです。

 知識を持っていると,人間は,子どもが教師の質問にはい!はい!と言って答えようとするように,

 「自分が知識を持っていることを相手にわかってもらいたくなる」欲求にかられるようです。

 「先生は,知識を子どもに授ける存在」だと思って教師になる人は少なくなく,そういう意識はストレートに授業に反映されます。

 『学び合い』は,その可能性を閉ざせる手段となりますが,

 「知識を獲得する方法」は何も「人に聞く」ことだけとは限りません。

 というより,「人に聞く」以外の「知識を獲得する方法」を教えられないまま,大人になってしまう子どもは不幸です。

 「低所得層の人間が餓死を免れるには,他人に頼るしかないだろう」という『学び合い』教祖の発言は,親として自分の子どもに語るなら許されるかもしれませんが,教育者として不特定多数の子どもに語りかけるのは最低な行為です。

 教師が,「答えを知らないまま授業に臨める指導案」を教育実習生に作ってもらい,実践もしてもらいました。

 この学習のどこにどのような意味があったのかを語ることは,教師にしかできません。

 子どもの「メタ認知」能力を育てることは,教師の仕事です。

 「どんな答えが出てくるか,ワクワクしている」教師や仲間に子どもが語りかけ,適切な助言なり,意外な反論なりをかわしているような活動を,『真の学び合い』と命名したいと思います。


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「持っていないことを武器に」という勇気づけ

 国際会議に参加されていたアメリカの社会科教育学者リンダ・レヴスティクさんに,次のような質問をさせてもらいました。

 「若い先生方は,自分たちの知識が不足していることに,大きな不安感,コンプレックス,劣等感を感じています。こういう先生方には,どのようなアドバイスをしてあげることができるでしょうか」

 レヴスティク先生の答えは,私が教育実習の学生に伝えているいつもの言葉と同じでした。

 「知識が不足していることを武器にしよう」。

 その自覚は,「学び続ける」意欲の原動力になる。

 子どもと一緒に課題を追究していこうとする動機になる。

 はじめから知識がいっぱいに詰まっている人はいない。

 その「使い方」こそが問題で,授業が自分の知識の披露で終わってしまったら,それは子どもにとっては迷惑な話かもしれない。

 知識・・・自分なりの言葉で表現できるようになるようなもの・・・とは,ここに書いてあるからとか,黒板を写してあるからとか,そういうことで身につくものではない。

 子どもたちがどのように「本物の知識」を習得していってくれるのか,どうしたらそれが可能なのか,そういうことに関心があることが,教師としての資質の1つである・・・・。

 なかなかこういう「勇気づけ」は簡単に成功するものではないことも,ご存じでした。

 「決めつけ」「思い込み」が激しいセンセイと,バートン先生やレヴスティク先生が本当に対照的な国際会議でした。

 「社会科教育」の本質を見極めることができたようで,有意義な2日間だったと思います。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より