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高校の新科目「公共」(仮称)を考える上でイメージしておくべき「私共(わたくしども)空間」

 私の予想では,「地理総合」「歴史総合」のように,「公民総合」あたりに名称が落ち着くのではないかと思われる,高校の新科目,仮称「公共」。

 そもそも「公共」や「公共空間」とは何か。その社会的な機能とは何か。

 概念の定義やその意義が周知されないまま,科目名になることはないはずです。

 「公共空間」と言えば,私が10年ほど前にこのブログでさかんに書いていた「私共(わたくしども)空間」のことを思い出します。

 最近では,LINEグループあたりが「私共空間」の代表になるでしょうか。

 もちろん,「私的空間」の状態で踏みとどまっているグループもあるでしょうが,

 中学生などはすぐに「いじめ」の手段として使ってしまう。

 学会なども私は「私共空間」の代表的事例であると思いますが,これが

 せめて「公的空間」であるためには,活発な議論が長い時間可能な場でなければなりません。

 行政への不満を言っているだけでは,「私共空間」にすぎないのです。

 そもそも,海外の教育事情ばかり紹介していて,日本の社会科教育に対する具体的な提案ができる「個」がいない学会に存在価値はないでしょう。

 社会的な善悪の価値観から序列をつくると,

 悪・・・「私共空間」<「私的空間」<「公的空間」<「公共空間」・・・善 

 となります。

 日本社会科教育学会編集の『社会科教育研究』第127号に掲載されている,

 2016年1月30日に開催された「新科目『公共』を考える」公開研究会の記録を読ませていただくと,

 横浜市立大学の中西新太郎名誉教授が発言されている「シャカイ圏」という語が,私がつくった「私共空間」のイメージに最も近いでしょうか。

 書かれた言葉でしか意味が通じない用語では,その概念は認知されにくいでしょうね。

 子どもたちは,学校に通う間,教師たちによる醜い「私共空間」にさらされ続けており,そこからの救済を求め続けているのがこのブログの趣旨になります。

 今後,10年前の記事をひもときながら,新科目「公共」(仮称)についてふれることもあるでしょう。

 まずは「私共空間」の事例を取り上げ,それを破壊していこうとする問題意識を共有していくことが,「公共空間」に近づく第一歩であると考えます。


************************

 『日本人は「公共空間」より「私共(わたくしども)空間」を重視する 前編』(2007年2月28日)より

 私共(わたくしども)空間というのは、私の造語です。

 公共の空間の中で、本来は公的にふるまわなければならないのに、個人や一部の人間たちが、自分や自分たちの欲求を満たすことを優先し、実行している空間のことです。

 一番わかりやすいのは、電車の中の携帯電話による通話。個人で勝手にやっているようでも、相手がいるので当人にとっては「私共空間」です。

 音楽を聴いている人も、(録音ではあるが)演奏している人がいるから「私共空間」。これらについては、鉄道会社の社員という、私企業の中でも公共性の高い仕事をしている人によって、放送による注意がなされることで抑制されています。しかし、少人数のグループが、大きい声で話したり、おかしやパンを食べたりすることはよくあります。化粧している人も、個人かというと、鏡の中の自分と化粧している自分がいるから「私共空間」。

 公共空間より、「私共空間」の方が、居心地がよいのでしょう。これは、公共空間のマナーを守っている人からの、「迷惑しているぞ」という空気のプレッシャーをはねのける威力を持つ場合もあります。

 指導力のない教師の授業では、一昔前まで「私語」が大問題でした。これは、公共空間にいながら、勝手に(私的に)離脱されてしまっている状況です。

 時間を守らない教師の話を先日書きましたが、「公共空間」より「私共空間」を優先する逆コンピテンシーです。
 小学校でよくある「学級王国」。自分の専門(なぜ小学校の教師のなのに「専門」があるの?)教科ばかり教える教師。教室は、「私共空間」です。

 いじめというのは、「私共空間」の居心地をよりよくするために、「公共性を重視する人」「私共空間の空気が読めない人」を排除する行動です。「私共空間」のうち、排他的性格が最も強いのがこれでしょう。

 世界史未履修の学校。これは、「公教育」を「私共(わたくしども)教育」にしてしまった例です。

 入学式・卒業式という、学校外部の「来賓」や保護者までが大勢集まっている公共性の非常に高い「儀式」としての空間の中でも、「私は君が代が嫌いだからピアノ伴奏はしない」という「私共空間」を優先しようとする教師。これは反対する仲間がいるからできる。弁護士という職業の人はお金を払えばいつでも仲間になってくれる。

 壁の落書き、駅前の自転車の放置、団地のペット飼育、授業中の携帯メール、・・・・「私共空間」は、日本のありとあらゆるところにあります。

 問題性が低いものには、大相撲の枡席。野球のボックス席。特急列車の個室。カラオケルーム。これらは「私共空間」ではなく、単純に「私的空間」と言えるものです。

 日本人はなぜこうも「公共空間」の力が弱い=「公共性が乏しい、公共の精神に欠けている」のでしょうか。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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