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コモン・グッドのための歴史教育を進めるために知るべきコモン・バッド

 28,29日と,東京で開かれていた,アメリカの社会科教育学者キース・バートンさんとリンダ・レヴスティクさんを招いての国際会議に参加してきた。

 外国の大学の先生のお話をナマで聞けるチャンスは滅多にないので,会場に足を運んでみると,148ページある資料が無料でもらえた。

 資料は1ページ目から,お二人の著書名が間違ってしまっているなど,行政ではあり得ない代物だったが,発表者の方々のレジュメも印刷されており,聞く手間が省けてとてもよかった。

 『コモン・グッドのための歴史教育』という本は,取り立てて参考にしたい内容はなく,アメリカでも日本と同じような社会科教師の問題があるのだなということがよくわかった。

 私が気になったのは,バートンさんが今日の発表の冒頭だけでなく,しつこく末尾でも示したゴジラの写真で,その趣旨が伝わってこなかったので最後に「ゴジラの悲しみ」について質問してみたら,1954年の出来事はさすがによくご存じだった。1954年のオリジナルのゴジラ映画もご覧になっていたということで,アメリカの歴史学者にゴジラファンがいるという噂の信憑性も確かめることができた。

 文明への懐疑や社会正義を問う目的で誕生したゴジラが,映画がヒットし,大衆受けすることによって,勧善懲悪的で低俗な話のヒーローに「堕落」させられてしまったことを,私は「ゴジラの悲しみ」という言葉で表現してみたが,その意図は何とか伝わったようだ。

 オバマ大統領には,広島や長崎だけではなく,焼津にも寄っていただきたかった。

 アメリカの学者の本を翻訳する仕事はとても骨が折れるし直接役に立ちそうなことはないこともおわかりだと思うが,アカデミズムの世界では,いまだに「植民地」「占領地」としての礼儀が欠かせないことが伝わってきた。

 『コモン・グッドのための歴史教育』の訳者である大学のセンセイは,日本の学習指導要領を「反民主的」と断罪する原稿をある雑誌の8月号に寄稿されたということだ。

 私は中学校が所属する区の副読本の編集を担当したことがあるが,「為政者が見せたい事例と解釈を直接子どもに伝える」ための仕事はしていない。

 このセンセイの文章には,歴史の知識がないために,他の箇所にも明らかな誤りがあったが,実際に雑誌が出てから,出版社にそれらを指摘するメールを送ろうと考えている。

 バートン先生が,このセンセイ=ゴジラという皮肉をこめていたわけではないことを祈りたい。


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コメント

読書編の方で,記事をUPいたしました。

ご覧いただけると幸いです。

あと,私は焼津の人間ではないので,そちらのHPのご訂正をお願いいたします。

匿名ブログであるのは,諸事情があるためで,ご容赦ください。

こちらのブログの文章で,「取り立てて参考になる」は「取り立てて参考にしたい」に訂正してあります。

内容に不満だったわけではなく,当時,私自身が参考にしたい部分がなかっただけです。

思い込みは禁物ですよ。

主催者である馬鹿な大学教員の渡部です。
わざわざ例の会に来ていただいてありがとうございました。
率直な感想を書いていただけてありがたいです。
何もコメントがないより、ましです。

コモングッド、お気に召さず、残念です。
でも、あれでも「感動した」といって、学校改革の参考にされている方もいるのです。
その事実は、知っていただきたい。(まあ、その人たちを馬鹿にされるのも自由です)

アスペルガーセンセイのところ、興味深く読ませていただきました。
ブログで自分の主張を自信満々に(たいした証拠もなく現場での経験則から一方的に)述べる方は、私から見ると、結構、アスペルガーな感じがしますが、どうでしょうか?
大学の先生はこの程度だと決めつけて、あらさがしをされる方も困ったものです。

私の8月号の原稿ですが、
①指導要領の反民主的な面、これを直接主張しているのは私ではなく、森分氏です。
②8月号の原稿で示している歴史の話は、現場教師(つまり私ではない方)の実践での話しですから、私の歴史認識云々の話ではないはずです。

もうちょっと、丁寧に読んでいただきたい・・・と思わなくもないのですが
まあ、確かに指導要領の「反民主的」な面を私も合意しているので、①のご指摘はおおむね正しいでしょう。
②について、どこに間違いがあるのか、私に直接お知らせいただければ、HP上で訂正しておきます。あの原稿の歴史指摘が不正確であり、それを知らず現場の方が実践してしまっては不味いので。

ご指摘お待ちしております。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より