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無責任な発言をする大人たちの見本市

 「まともな文章を書こう」と書いている人の文章が「まとも」ではない。

 こんな話は世の中にあふれている。


 今日の8時台のラジオを聴いていたら,パーソナリティーが前日のプロ野球の結果に関する実にあやふやな記憶に基づく話をしていたのが気になった。

 それも,「自分の発言には責任をもつべき」という趣旨のニュース解説をしていた直後だっただけに,久しぶりに「裸の王様」を目の当たりにした感じだった。

 ラジオでは,しばらくしてパーソナリティーの発言の誤りが訂正されたが,本人は別に何の責任も感じていないようだった。さんざん罵倒していた他人と同じようなことをしている自分には,責任を感じないですむ性格らしい。

 中学生でも,この手のタイプが引き起こす人間関係のトラブルが増えているが,実はその原因は「DNA」によるものらしく,すでに保護者が同じタイプの問題を小学校で起こし済みだったこともわかったりする。

 ここでは「教育」の必要性を改めて感じざるを得ない。

 人間は,環境によって自分の個性を育てて,能力なり性格なりを変えることができる。

 もちろん,環境によっては「悪い方向」に変わることもある。

 子どもに「お受験」をさせる親の多くは,それを怖れているわけである。

 動機の半分は理解できるが,家庭教育を受けているような形跡がほとんどない子どもに出会うことがあり,受験をさせると余計に「浮いてしまう」子どもも増えているのではないか。

 「無責任体質」はトラブル続きのオリンピック関係者の話を聞いて,実は現在,社会をリードしている(はずの)世代に特有な背景があるのではないかと考えた。

 受けた教育がろくでもないものであると。

 それは,学習指導要領の改訂の歴史を振り返ってみれば,まさにその通りの結果である気もしてくる。

 ろくでもない教育を少しでもまともな教育に変えるための動きを,

 ろくでもない教育を受けた人たちが主導していくことがよいことなのかどうか。

 その答えが,また20~30年後に明らかになるのだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より