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「八百屋の親父さん」の大絶叫~子どもたちの悲惨な将来とは,こうだ!

 アクティブラーニングのフォーラムの様子を動画で視聴できるサイトがある。

 そこで,耳障りな大声で講演する大学のセンセイの話を聴くことができた。

 もし近所の商店街にいる「八百屋の親父さん」だったら好きになりそうな人だが,こんなセンセイがいる大学には絶対に近づきたくない。

 この人が書いたり監修したりしている本は,教科学習の面から言うと全く読む価値のないものばかりだったが,

 講演の内容を聴いていると,「価値がない」というレベルではなく,むしろ「害がある」という気がしてきた。

 このセンセイにとって,子どもたちの大半は将来,みんな「負け組」になることが前提になっている。

 「だれも見捨てない」という言葉の意味は,
 
 「どうせ負け組になって低所得で苦しむ多くの子どもたちに,少しでも助け合いの精神を植え付けておこう」という内容だということがわかった。

 「今ある仕事の多くは,近い将来,人工知能をもったロボットにとってかわる」と言っている人がいるが,人口が減少していくのだから,むしろ人手は足りなくなっていく問題の方が大きいのではないか。

 もちろん,そっちの視野ももってはいるようで,そのうち,センセイは,「職業教育を充実させるべき」という主張を始めるに違いない。

 「小学生から介護のお勉強をさせるべきだ」とか。


 会場の様子から,多くの聴衆たちの戸惑いというか,違和感というか,反感が伝わってきた。

 「本を買ってくれ」という話から始まったことも影響していると思うが,最も大きな原因は,センセイの「未来予測」への疑問だろう。

 この人の専門は,経済学者なのか。社会学者なのか。・・・そうではない。

 今まで,教育をはじめとする専門家たちの「未来予測」がいかにいい加減なものであったかは,度重なる不幸のたびに実感させられてきた。

 唯一,センセイと同じ感覚かもしれないのは,「まともに教科指導ができる教師はごくわずかしかいない」という点かもしれない。

 大学でろくな教科教育を受けず,適当な教育実習を終え,やさしい採用試験の問題をクリアしただけの人間に,次期学習指導要領の改訂の趣旨をふまえた指導をすぐに行え,というのは無茶な話である。

 だから,アクティブラーニングという名前のもと,「教師が教えるのではなく,できる子どもができない子どもに教える」という授業(?)を広めようとしているのだ。

 日本の大学院は,教員採用試験に合格できなかったり,就職できなかった「劣等生」タイプが進学する場所というイメージが強くなっている。

 「大学に入るより,大学院に入る方がよっぽど楽」という話は有名だろう。

 その実態を最もよく知っているのは,教員採用試験の人事担当者ではないか。

 日本の「タテ学歴」の「建前主義」は一切通用せず,「ヨコ学歴」(どの大学を出ているか)の信頼性の方がはるかに高いことを知っているはずである。

 ある組織から,「教職大学院のつかいみち」に関するアンケートがまわってきているが,それだけ「つかいみち」がなくて困っている現状があるのだろう。

 優秀な人材を現場に送り出せない組織に,存在価値はない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より