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2016年5月

批判する資格

 論争を行うとき,相手にされていない他人の文章を勝手に引用して,

 「証拠を出せ」と一方的に非難するのはおかしな行為である。

 自分の側が,相手の主張とは異なる結論を導ける実証的なデータを示すことで,論争可能な「批判」は初めて成立する。

 これが『真の学び合い』である。

 「批判するならデータを示してみろ」

 という挑発に,

 「お前こそ示せ」という応答では,相手にしてくれないのは仕方がない。

 これが「教育」を語る立場からのコメントである。

 また,本気で論争をしたければ,本名を名乗って正面から正々堂々と意見をぶつけるべきだろう。

 このような匿名のブログでああだこうだ書いても他人には何の意味もない。

 そんなことを自分に言い聞かせて,新たな一歩を踏み出す準備をしよう。


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教育ではアレンジ能力が問われる

 ≪ビジネス発想源≫もすでに4224回に達しているのですね。

 当ブログの記事数も,いつの間にか4000を超えていますが,整理のしようがなくて困っています。

 さて,「教育はアレンジ力」という記事を読ませていただいた感想は,

 「まったくその通り」・・・です。

 ~でなければ社会科教育ではない,というような言い方では,子どもも未来の教師も育たたないでしょう。

 『学び合い』も,「宗教だ」なんて言っている場合ではありません。

 実際に,「信じている」教師がいて,教室で実践してしまっている以上は,批判に対しても「お前にはわからないだろう」なんていう態度をとるべきではないはずです。

 それこそ,「教師としての資質」が問われている状況だということに気づいてほしいのです。

 内容のアレンジ,方法のアレンジ,知識のアレンジ,思考法のアレンジなど,

 教育学者であれば,いくらでも提案できるはずなのに,

 アメリカ直輸入の学説なり調査結果をありがたがり,日本の教育現場を直視しようとしない大学教師の態度は,文科省よりもたちが悪いものです。

 文科省の悪口を言うことや,アメリカ直輸入の学説で友好関係を保っているだけの学者たちには,決定的に欠けているものがあるのです。

 それが,人々の知恵のアレンジです。

 大学にすり寄るタイプ(自分も将来,大学に行きたいと考えている教師)ではない,学校現場のたたき上げとの太いパイプです。

 今年度,私は新しい大学側のパイプを得ることができました。

 見放されないよう,よい実践を提案していきたいと思っています。


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大学に巣くう制御不能の教師たち

 『学び合い』のセンセイも,ゴジラにたとえられた?センセイも,大学では「制御不能」なのだろう。

 小学校教諭のような立場ですら,「学級王国」の「おうさま」になれる。

 中学校では学年の動きが中心になるから,教師は「社会化」を求められる。

 高校では教科の責任が重くなるから,教師は「学力向上」が不可欠になる。

 大学の場合は,小学校ととても似ているかもしれない。

 小学校では子どもたち,大学では院生や学生といった「個人的にこき使える人材」がいる。

 自分が「権力」をもっていることを容易に自覚しやすい立場にあり,それが落とし穴になる。

 学会でも手がつけられないといった「定評」のあるゴジラさんは,口が悪く,気品が感じられない。

 「指導教官」は紳士に見えるが,弟子は師に似なかった。

 教員養成系大学と,教育現場の間に亀裂を走らせる元凶にだけはなってほしくない。

 悪評というのは,簡単に広がっていく。

 気の毒なのは,「教え子さん」たちである。

 国立大学法人に通う学生は,私大生と比べてもともとバランス良く高い能力をもった真面目なエリートである。

 その才能をつぶさないでほしい。

 隔世遺伝になることを期待したい。

 「価値」を対象に研究している学者が,偏った価値意識を押しつけてしまうことの問題性を,

 バートン先生たちはご著書で指摘されていたと思う。


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「指導死」と教師の責任

 教師に問題行動などの指導を受けた後に,生徒が自殺してしまうことを防ぐ方法はないだろうか。

 報道等では,「複数の教師から○○分間にわたって指導」という書き方をされているが,

 「複数」で行うことによって,生徒に強い「圧力」をかけてしまうという問題はあるかもしれない。

 しかし,「単独」で行うと,「体罰」などのリスクもあり,必ず教師は複数で生徒指導を行うことは常識になっている。

 また,「複数」の教師の中には,「叱る役」だけでなく,「慰める役」「自信を取り戻させる役」を担っている者もおり,

 ○○分間,ずっと叱られ続けているわけではない場合もある。

 指導の全容を公開することは難しいかもしれないが,「指導死」が繰り返され,

 それが「一般名詞化」してしまうことのないよう,もし「失敗」があったのなら,できるだけそれを

 共有したいものである。

 とにかく,子どもを死なせることだけは絶対に避けなければならない。


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コモン・グッドのための歴史教育を進めるために知るべきコモン・バッド

 以下の記事に対して,コメントをいただいたので,「価値認識を重視することで陥る罠~教師のゲートキーピング」という記事でしたところ,今度はメールでお便りをいただいたので,次のような記事にしてご回答申し上げました。

感情理解で道を誤った国に必要な社会科教育とは?~コモン・グッドのための歴史教育(社会文化的アプローチ
/キース・C. バートン/春風社/2015-04-03)

 本編のブログの方で,「参考になる内容はなかった」という指摘をしたために,教員養成系の国立大学の先生をかなりご立腹させてしまいました。私が言いたかったのは,私にとって,参考になる内容はなかったということですし,私は教育学者でも何でもなく,ただの中学校の社会科の教師なので,学問的にどうとかいう話でもなかったのですが・・・。ですので,取りあえず,「参考にしたい内容はなかった」と本編の文章は訂正させていただきました。
 ブログの記事も含め,社会科教育の雑誌の内容について,ご意見を申し上げたところ,以下のようなコメントをいただきました。

>あからさまに本書の全文を読んでもいないのに、それを全部読んだかのように批判するのも許せない行為です。これについても、ちゃんと全部読んでから批判してもらえないですかね?
貴公のような「犬クソ」教師がこれ以上、生まれないことを祈ります。
(そう貴公を評した大学時代の教育学者?は先見の明があったようですね。心からそう思います。)

 私には大学時代の先生から「犬クソ」と評された記憶がないのですが,以下のようなメールでのご指摘の仕方は,昔ブログ村にいらした,ある音楽の先生(誹謗中傷記事ばかり書いていたためか,今は姿を消されています)とほとんど同じようなものでした。

>当原稿の授業については、私が現場の観察した授業を簡潔に整理し報告した(又は学会発表で示された授業案)話なのであり、それを基礎として私の歴史認識の批判にするという誤謬を犯している時点で、貴公があまり頭が良くないことは十分に承知しておりました。

>また、批判をするときは根拠を示すという、歴史学でなくとも必ず必要とする作法をせずに、一方的な主張を公的な場面に堂々と情報を公表する時点で、あまり学問的な作法に成(ママ)れていない素人さんであることも十分に認識しております。

>そもそも、私が当原稿で話題にしたことは、「歴史認識」の問題ではなく、教師の歴史教育を教える姿勢であり、貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)です。
貴公の批判していた原稿と私の原稿を学生に授業で読ませて話し合わせましたが、まずこの指摘が必ず出てきます。
国語力を鍛えなおしてはいかがでしょうか?

 私から,現場の社会科教師の立場で,一応の反論させていただくと,歴史認識の基盤の一つに「事実認識」があります。中世の一揆の時代にはあり得ない「二・三期作が可能になり米の生産量が西日本で増大」という記述は,他人の指導案に書かれていたものかもしれないのですが,雑誌の原稿にする時点でその誤りに気づくべきですし,誤りに気づいたら,「二・三期作(ママ)」とか,「二・三期作(正しくは二・三毛作)」とすべきです。

>これは、私の記載ミスです。で、なんだというのです?

 と大学の先生は返信されていますが,「事実認識」の軽視がどういう事態を生むか,社会科教育に限らず,教員養成に携わる先生なら,お分かりになるはずです。

 この大学の先生は,ご自身のHPで,

>ちゃんと読んでから批判してくれよ(ネットにさらしてくれよ)、焼津の社会科の教育主事さんよ。

 と書かれていますが,これは「事実認識」の誤りです。私がオバマ大統領に,広島だけでなく焼津にも立ち寄っていただきたかった理由は,私が焼津の人だからではありません。まさか広島以外の人は,オバマ大統領に広島に寄ってほしいなどとは考えない,と思っているわけではないでしょう。根拠もなく「焼津の社会科の教育主事」と決めつける態度には問題がありますよね。焼津の方に失礼なので,修正をメールでお願いしましたが,この記事を公開した時点では,直されておりません。

 話を戻します。「二・三期作」の部分だけ直すと,後ろの「米の生産量が西日本で増大」とのつながりが弱くなりますね。これは「歴史認識」の中の「関係認識」に当たるものです。農具やかんがい技術の向上などの影響で,農業生産量が増えるのは当然のことですが,一揆が広がったのは,単純に飢饉が頻発するだけでなく,民衆が貨幣経済に組み込まれてしまっていた影響が大きいわけですよね。授業でこの点を確認できたかどうかはわかりませんが,引用された原稿には含まれていなかったので,とても気になっていたのです。私は,「事実認識」,「関係認識」がしっかりした上での「価値認識」でないといけない,という当たり前のことを主張しているだけです。

>そもそも、私が当原稿で話題にしたことは、「歴史認識」の問題ではなく、教師の歴史教育を教える姿勢であり、貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)

 私が批判したかったのは,「価値認識」を重視するあまりに「事実認識」や「関係認識」を軽視することになりかねない教師の態度であり,現場で歴史教育をそのような姿勢で行うことの弊害なのです。すでに小学校における歴史教育では,そのような問題は指摘されているのではないでしょうか。

 今回,意見を付け加えさせていただくと,貴公の批判は極めてどうでも良いこと(些細な事)とする大学の先生の態度こそが,問題なのではないでしょうか。

 私は学問的な立場から述べているのではなく,社会科の一教員として,また,親の立場として,こんな教師の指導を受けた社会科の先生に子どもを預けたくはないな,という印象から語っているだけなのです。

 上記の本を「全部読んでから批判してもらえないですかね?」というご要望があったので,一部を引用させていただき,私の考えを述べたいと思います。

>アンドリュー・ジャクソンがネイティブ・アメリカンを大量虐殺した事実について,子どもたちはケアを感じ取ることなく,そうした理由についてだけ分析するべきであるとした考え方を,私たちは受け入れることができない。こうした分析は,子どもたちが歴史と関わりをもっていたいと考える事柄について,正面から扱おうとしていないというだけでなく,コモン・グッドについて考えていけるように彼らを育成していくことにも何ら貢献するところがない。(357頁)

 「ケアリングとしてのエンパシー(感情理解)」という章で述べられている著者の言葉です。

 感情理解に関心を持つことは大切です。特に弱者やマイノリティーの側に共感できることは,本当の民主主義を成立させる上で欠かせないことでしょう。日本の戦前の教育では,そうではない方法で「感情理解」が利用され,取り返しのつかないことになりました。「ケア」の向かっていく方向を間違えると,大変なことになるという経験をしているのが日本の教育です。

 引用させてもらった部分は,純粋な「事実認識」や「関係認識」だけを重視し,「価値認識」を軽視する歴史教育への批判と読み取れます。私にとって,この部分もごくごく当たり前の話で,参考にはなりません。アメリカ人にとって,自分たちがどんな場所に住んでいるのかを知る上で,「過去のアメリカ人がとんでもないことをしでかした」ことを,弱者の立場で理解することは,政権を倒す能力を身につける上でも大切なことです。

 この本は過去の出来事を題材にした「公民教育」「社会科教育」「民主主義教育」を語っているものであり,歴史を諸資料に基づいて多面的・多角的に考察することで,偏った「事実認識」に陥らず,「関係認識」を強化した上で,現代的な「価値」が語れる人間にするという一般的な「歴史教育」を否定するものではありませんから,「参考にならない」とは書きましたが,「批判する」ほどのものでもないのです。アメリカの歴史教育にこんな対立があるんだ,ということを知りたい人にとっては参考になると思いますが,日本の社会科教育,歴史教育にも同じような対立はあるでしょう。私から見れば,対立するための対立であり,現場の教師にはほとんど縁がありません。

 高校生たちにどんどんデモに参加してほしいと願う先生が,今の時代はSNSでいくらでも情報共有ができるから,こうなったんだよ,中世の人々だって「広域に連携できるようになったので一揆ができるようになったんだ」と伝えたい気持ちになるのはわかります。でも,「広域に連携できても,集団での抵抗という手段が採用できない」事例もいくらでもあるわけです。

 そもそも「借金帳消し」を求める集団での行動が,本当の意味での「抵抗」なのか,どうか。

 たとえば「消費税増税反対」を求めるデモと,中世の一揆を比べて,その共通点ではなく相違点を考えさせた方が,現代の社会の問題を考えるだけでなく,室町時代の特色というねらいも達成する上で効果的なのではないでしょうか。

>頁制限のある明治図書の原稿において、貴公が問題にすることを踏まえて書いていたら私が書きたい別のことを書けなくなってただ室町時代のことについて書いて終わり・・・になるということです。
>あまりアカデミアの世界に慣れてらっしゃらないようですね。ブログで自慰行為するのとは違うのです。(以上の回答は、貴公のブログに掲載してもらって構いませんよ)

  
 と大学の先生はメールで批判というより私を非難されていますが,私はアカデミアの世界の住民ではありませんし,自分だけが満足するためにこのブログを書いているわけではありません。
  
 この国では,匿名のブログはないと語れないことが多いので,その点はとても申し訳ないと思っています。ただ,この記事を学会で報告することで,ブログをご覧の方だけは,私がだれだかばれてしまいますね・・・。

*************************

 28,29日と,東京で開かれていた,アメリカの社会科教育学者キース・バートンさんとリンダ・レヴスティクさんを招いての国際会議に参加してきた。

 外国の大学の先生のお話をナマで聞けるチャンスは滅多にないので,会場に足を運んでみると,148ページある資料が無料でもらえた。

 資料は1ページ目から,お二人の著書名が間違ってしまっているなど,行政ではあり得ない代物だったが,発表者の方々のレジュメも印刷されており,聞く手間が省けてとてもよかった。

 『コモン・グッドのための歴史教育』という本は,取り立てて参考にしたい内容はなく,アメリカでも日本と同じような社会科教師の問題があるのだなということがよくわかった。

 私が気になったのは,バートンさんが今日の発表の冒頭だけでなく,しつこく末尾でも示したゴジラの写真で,その趣旨が伝わってこなかったので最後に「ゴジラの悲しみ」について質問してみたら,1954年の出来事はさすがによくご存じだった。1954年のオリジナルのゴジラ映画もご覧になっていたということで,アメリカの歴史学者にゴジラファンがいるという噂の信憑性も確かめることができた。

 文明への懐疑や社会正義を問う目的で誕生したゴジラが,映画がヒットし,大衆受けすることによって,勧善懲悪的で低俗な話のヒーローに「堕落」させられてしまったことを,私は「ゴジラの悲しみ」という言葉で表現してみたが,その意図は何とか伝わったようだ。

 オバマ大統領には,広島や長崎だけではなく,焼津にも寄っていただきたかった。

 アメリカの学者の本を翻訳する仕事はとても骨が折れるし直接役に立ちそうなことはないこともおわかりだと思うが,アカデミズムの世界では,いまだに「植民地」「占領地」としての礼儀が欠かせないことが伝わってきた。

 『コモン・グッドのための歴史教育』の訳者である大学のセンセイは,日本の学習指導要領を「反民主的」と断罪する原稿をある雑誌の8月号に寄稿されたということだ。

 私は中学校が所属する区の副読本の編集を担当したことがあるが,「為政者が見せたい事例と解釈を直接子どもに伝える」ための仕事はしていない。

 このセンセイの文章には,歴史の知識がないために,他の箇所にも明らかな誤りがあったが,実際に雑誌が出てから,出版社にそれらを指摘するメールを送ろうと考えている。

 バートン先生が,このセンセイ=ゴジラという皮肉をこめていたわけではないことを祈りたい。


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道徳の中央研修で語られた衝撃的な言葉

 教育政策の立案の現場と実際の教育現場との乖離は,

 プロ野球でのフロントとゲームを行っている監督やコーチ,選手との間よりも大きいと思われる。

 しかし,立案側に現場の声が届き始めたと思われる話を耳にした。

 道徳の中央研修を受講した人から聞いた話だが,

 「道徳の内容項目はすべて網羅する必要はない」

 「すべて網羅している学校の道徳教育は疑わしい」

 ・・・・・・

 学習指導要領を確認したら,

 「四つの視点に含まれるすべての内容項目について適切に指導しなければならないのである。」

 とある。

 オフレコの話だったのか。

 しかし,国の研修で,「学習指導要領の指示に従わなくてもよい」というお墨付きが得られたことの意味は大きい。

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問題の指摘に耳を貸さない教師たち

 パフォーマンスが低かったり,問題ばかりが起こる学校の教師たちは,何かと批判にさらされ続けることになる。

 「そんなこと,家で教育しろよ!」と叫びたいのを必死にこらえながら,バッシングに耐えている。

 しかし,批判の中には,自分たちの努力で変えられることもたくさんある。

 教師は,責任感があるのかないのかわからないという白い目で見られることが多いが,

 その原因は,批判をしている側の立場になって,冷静に考えてみることができないことにある。


 ある小学校では,日常的に小6の女子が男性教諭の膝にのったり,だっこされたりしているそうだ。

 児童が自らの体を使って,何をしようとしているのか。

 少しでもよい成績をもらうために,体を武器にして教師に気に入られようとしているのだ・・・・という目で見られてもおかしくはない。

 「センセイに気に入られるためには,あそこまでしないといけないのか」と真剣に悩んでいる児童もいるだろう。

 こういう問題に耳を貸そうとしない小学校の教員がいることは残念である。

 自分たちの言っていることはみんな正しい,という自信をもった姿勢は大切にしてほしいが,

 「子どもの成績が気になって,言いたいことが言えない」ままでいる親がいったいどれだけいるか,想像してほしい。

 ぜひとも,児童福祉法という法令の条文を読んでいただきたい。


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大学のセンセイのせいで教員採用試験や管理職試験に受からない人

 教員採用試験や管理職試験の面接で,隠しておいた方がよいだろうと私が予想していることがある。

 それは「私は『学び合い』の考え方を大切にしています」という態度である。

 面接官が,「センセイ,この単元の勉強がよくわからないのですが・・・と子どもが質問してきたら,どうしたらいいでしょうか」と聞いてきたら,何と答えればよいか?

 「他の子どもに聞いてみなさい,と言います」と答えたら・・・・。

 「あなたが校長の立場で,総合的な学習の時間の進め方がわからないのですが,どうしたらいいでしょうか,と担任の先生が質問してきたら,何と答えますか」と聞いてきたら,どうするか?

 「センセイはどう思います?思うとおりにやってください,と言って,ニコニコしてほっておく」と答えたら・・・・。


 「おれの話は論理的だ!」などと言いながら一方的な主張をするセンセイに指導を受けている学生は気の毒である。

 全国に,それなりの数の「おれが言っていることが正しい」系のセンセイがいるはずである。

 そういうセンセイの薫陶を受けた人は,無事に教員になれているのだろうか。

 教師の中にも,アスペルガーの傾向が強い人が増えている印象があるが,大学のセンセイの言葉を全くの文字通り真に受けて,このような受け答えをする人が現場にはそれなりに存在する。

 教師を志望する大学生の中にもそういう人がたくさんいそうである。

 残念ながら,アスペルガー傾向の強い教師のクラスのほとんどは,崩壊しているはずである。

 アスペルガー症候群のセンセイに教わったアスペルガー症候群のガクセイは,現場でどのような教師として生きてけるのか。

 仮にセンセイはヘンでも,そこを見切ってまっとうな道を選ぼうとする人の方が圧倒的に多いことを祈る。

 採用や任用の現場では,なるべきではない人間が教師や管理職にならないよう,最大限の注意を払うべきである。

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『学び合い』とは,クラスの仲間から嫌われないように,教師に利用されることを強制される教育であるようだ

 『学び合い』における「子どもを一人も見捨てず」という考え方は,実は教師自身にとっての真の願いではなく,

 「クラスの子どもから嫌われないですむために,教師に利用されることを強制する」ための手段であるようだ。

 こうした教師の「真のねらい」など,子どもたちは簡単に見破るだろう。

 そして訪れるのは,「教育の完全なる崩壊」である。

 「学び合う」という姿勢を否定できる教育者は一人もいない。

 しかし,「~しないと自分が損をする」ことを動機付けとして「学び合う」ことを強制される子どもたちの身になってほしい。

 学力のある程度高い子どもが,学力が低い子どもたちを前に,

 「この子たちが将来,ひどい低賃金で働くことになるとき,それでも働く意欲だけは失わないように・・・・私が支払う安い料金で,この子たちが私の暮らしを豊かにすることに悦びを感じてもらうことができるように,今,勉強を教えて,恩を売っておこう」と言いかねない状況を『学び合い』は作り出している。

 
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大学のセンセイの暴言~大金を払えば崩壊学級を魔法で変えてやる

 だれにも止められないのか。

 最近の文章を読んでいると,センセイを陥れるための「別人によるなりすましか?」と思われるような内容ばかりになっている。もし本人だったら,何かに焦っているようだ。

 私が現場の教師として「これだけは許せない」と感じたのは,

 自分が飛び込み授業をするときに,「最高」なのは「学級崩壊しているクラスだ」というもの。

 「感謝されるから美味しい」などと書いているのが許せない理由である。

 感謝されれば人はうれしくなるものであり,そこを否定するつもりはないが,

 「美味しい」という言葉使いが,センセイの人格を象徴しているように思える。

 私が絶対に近寄りたくない,教員には採用したくない最低の人間の代表である。


 さらには,「私に依頼することも可能だが,かなり高額になる」・・・・・・と・・・。

 これが,どこかの塾の宣伝ならわかるが,私学ではない大学の教員が,公的に発言できる内容なのか?

 「大事なのは金」の内容も同様である。

 中学校ではごく少数だが,小学校の教師たちの中には,高額の参加費を支払って研究会に参加し続けたり,教育書(専門書ではない)を買ったりする人たちが少なくない。

 これは,学校のためというより,「個人が経営する学級の利益」に直結する,ということが背景にあると思われる。

 そういう教師たちを食い物にするような大学のセンセイ(もちろん,大学だけではない。そういうのがうようよ存在する)には,「倫理」意識が強烈に欠如しているようだ。

 倫理観を欠いた教師でも現場に立てる,というのが『学び合い』の本質なのか?


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無知が無恥を批判している

 「類は友を呼ぶ」。

 教育についておかしな見解を持っている人は,同じようにおかしな見解を持っている人を批判するのが好きであるらしい。

 能力が「ある」か,「ない」か,でしか判断できない元教員がいる。

 能力は,向上するものである。

 複数の人間がその能力を競うときは,どちらがどのような成果を残すかは,

 その場その場で変化し,決して「固定的」ではない。

 2軍戦で3割を打っていた打者が,1軍戦では2割も打てない理由がわからない人はいないだろう。

 打者の能力は,投手の能力との関係で語ることができる面がある。

 プロスポーツ界では,少しでも「能力」の高い,そしてその「能力」の伸びしろがある選手を探している。

 「才能の発掘」という言い方もある。
 

 教育とは,能力を向上させるための取り組みである。

 子どもたちのさまざまな能力を向上させるために,能力ごと,個性ごとに引き出し方を工夫している教師もいる。

 「能力が高い」子どもはさらにその能力を高め,

 「能力が劣っている」子どもは,他の部分の能力でカバーできるように指導してあげるか,一定程度まで引き上げてあげることが教育の役割である。

 「能力を向上させる」という言葉の意味がわからない人間に,教育を語る資格はない。


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「嘘をついた方がお得」という考え方

 社会で起きているニュースに共通した特徴を探っていくと,

 「嘘をついた方がお得」という価値観が蔓延しているような感覚に陥ってしまう。

 私が実際に行ってきた生活指導で,短期間に繰り返されてショックを受けたのが,

 「明らかに嘘=作り話であることがわかるようなことを条件反射的に口にする生徒が多い」ことである。

 小学校時代は,ほとんど全員が「嘘のつき放題」の状態だった学級があるそうだ。

 学年全体,いや,学校全体が「嘘つきの集団」のような錯覚にも陥る。


 児童どうしが口裏を合わせて教師を欺くという戦術をもっていたり,

 親子で嘘をつき通す,という「根性」「気合い」の入った家庭もあったりした。

 児童間のトラブルになると,とにかく教師が混乱するほど嘘で塗り固めていくような作業が頻繁に起こっていたそうだ。

 その「証拠」を,わざわざ学級通信で書き残してくれた先生までいて,

 書かれている「供述内容」自体が嘘だったことを告白してくれた子どももいた。

 「嘘」に囲まれた生活に慣れるうち,子どもたちは何が「真実」で何が「嘘」かがわからなくなってしまうのではないか。

 そこに拍車をかけているのが,「道徳」の授業である。

 いかにも本心ではなさそうな,「道徳的な正解」を口走る子どもたちは,

 「嘘をついた方がお得」であることを身をもって覚えていく。


 こういう「考え方」の典型が,「アレ」であるとは断言しない。

 しかし,「アレ」の化けの皮がはがれる日は,これだけ注目されている今,遠いことではないだろう。

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子ども嫌いの大人の増加

 保育園児がうるさい。

 登下校中の子どもが邪魔だ。

 子どもを敵視する大人が増えているようである。

 教師の中にも,子どもが嫌いな人の割合が高くなっていくだろう。

 子どもたちの未来を切り拓くには,子どもたちによる情報や意見の発信が大切である。
 
 世代間格差を上手に利用した政党が生まれる日も近いかもしれない。

 小選挙区では無理そうだが,比例で国会議員を生む「子どもの未来」=「未来の日本」のための政党ができてほしい。

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学校現場を知ってるつもりでいる大学のセンセイ

 学校現場にいて,イライラさせられるのは,取り巻きの一部の教師から聞かされている話を真に受け,学校のことを知っているつもりになっている大学のセンセイです。

 私は何十校も学校訪問の経験があり・・・・と偉そうに「実績」を語ってから本題に入ろうとした指導主事が総スカンをくらっている現場を目撃したことがありますが,教育委員会の指導主事とか大学のセンセイという「外部」の人間に,学校現場の大変さが直接伝わるということは滅多にありません。

 指導主事の中には,学校現場に戻らせてもらえない人が何%か存在します。

 話をしている姿を見るだけで,「この人には管理職になる資質も能力もないだろう」ことがなぜわかってしまうのか?

 肌感覚でそういう「知ったかぶり人間」への拒否反応がでてくる人は,現場にはたくさんいます。

 ご自分は理詰めで話しているつもりなのかもしれませんが,「それが正しい話に聞こえてこない」という現場の教師たちの肌感覚を,気づける能力がないか,気づいていても無視できる神経をもっている人間に対して,普通の人は拒絶反応を示すのです。

 芝居がかった語り自体が大嫌いという人もいるでしょう。

 最近,あることに対する批判が高まっていることが原因なのでしょうか。

 批判を封じるための言葉が「考え方です」という「言い訳」です。

 「考え方」自体は批判したり否定したりしにくいものですからね。

 躍起になって自己保全に走っているようですが,学校現場のことを語れば語るほど,

 「思い込み人間」はボロを出しまくることになります。

 「教員の数が3分の1ですむ」というご自分の教育の「考え方」は,

 「普及するわけない」ことが自分でもわかっているからこそ,安心して発言できることは

 理解できます。

 しかし,この批判不可能な「考え方」には,致命的な欠陥がはらまれているからこそ,

 「害をもらたす」結果になるおそれがあるのです。

 実際の被害が出てくる前に,何とかしたいものですが・・・。


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「研究者としては終わっている」大学のセンセイ

 内館牧子著,『終わった人』・・・読むのが怖いタイトルの本である。

 これから,毎年何十万人という数の人たちが,「終わって」いく。

 ある大学のセンセイは,自分が「研究者としては終わった」ことを自覚しているという話をブログで書いている。

 学術論文をどれだけ書き,学会で賞をもらっても,それが何かの役に立っているわけではない。
 
 大学教員の職は手に入れられても,中央に呼ばれて国のために役に立てるわけでもなく,ただ長く自分の居場所を手放さないだけでいることに,満足できなくなっていく。

 「本物」にはなれそうもないから,せめて「有名」になろうと努力する。

 教育関係の人間の「行きつく先」は,こういうものだということを見せつける。

 教科教育の人たちに,喧嘩を売るものの,研究者には,誰からも相手にされない。

 話し相手は,現場の教育に困っているセンセイたちしかいない。

 こういう「哀れ」な大学のセンセイの末路が,本人だけの悲哀で終わるなら害はないが,

 将来,「教員の数が2分の1か3分の1ですむ」という教育の考え方は,全く別の意味で現実味を帯びてきてしまう結果になりかねない。

 完全に正反対の意味で。


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『学び合い』に賛成

 『学び合い』に大賛成すべき理由が1つ見つかった。

 ある大学のセンセイの講演を動画で見ることができたことがきっかけである。

 指導主事時代も含めて,多くの教師を目にしてきた私から見て,この人は子どもたちにとって「危険人物」である。

 思い込みが激しい。

 自己主張が強い。
 
 必要以上に声が大きい。

 疑問をさしはさむ余地のない話しぶり。

 こんな教師に一斉授業をされたら,子どもはたまらない。

 採用試験ではまず最初に×をつけたい人である。

 もし,どうしてもこのような教師にクラスを持たせなければならないのなら,

 『学び合い』の考え方を採用すべきである。

 教師の毒が,子どもの頭と体を汚さないように。

 教師はできたら一言も話さないでほしい。

 どこかの国のだれかとそっくりすぎて,気味が悪くなった。

 またどこかで大声で自分の本の宣伝をし,

 子どもたちを襲うであろう「不幸」を吹聴してまわるのだろう。

 こういう人を「拾う」私立大学が出てこないことを祈る。

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「八百屋の親父さん」の大絶叫~子どもたちの悲惨な将来とは,こうだ!

 アクティブラーニングのフォーラムの様子を動画で視聴できるサイトがある。

 そこで,耳障りな大声で講演する大学のセンセイの話を聴くことができた。

 もし近所の商店街にいる「八百屋の親父さん」だったら好きになりそうな人だが,こんなセンセイがいる大学には絶対に近づきたくない。

 この人が書いたり監修したりしている本は,教科学習の面から言うと全く読む価値のないものばかりだったが,

 講演の内容を聴いていると,「価値がない」というレベルではなく,むしろ「害がある」という気がしてきた。

 このセンセイにとって,子どもたちの大半は将来,みんな「負け組」になることが前提になっている。

 「だれも見捨てない」という言葉の意味は,
 
 「どうせ負け組になって低所得で苦しむ多くの子どもたちに,少しでも助け合いの精神を植え付けておこう」という内容だということがわかった。

 「今ある仕事の多くは,近い将来,人工知能をもったロボットにとってかわる」と言っている人がいるが,人口が減少していくのだから,むしろ人手は足りなくなっていく問題の方が大きいのではないか。

 もちろん,そっちの視野ももってはいるようで,そのうち,センセイは,「職業教育を充実させるべき」という主張を始めるに違いない。

 「小学生から介護のお勉強をさせるべきだ」とか。


 会場の様子から,多くの聴衆たちの戸惑いというか,違和感というか,反感が伝わってきた。

 「本を買ってくれ」という話から始まったことも影響していると思うが,最も大きな原因は,センセイの「未来予測」への疑問だろう。

 この人の専門は,経済学者なのか。社会学者なのか。・・・そうではない。

 今まで,教育をはじめとする専門家たちの「未来予測」がいかにいい加減なものであったかは,度重なる不幸のたびに実感させられてきた。

 唯一,センセイと同じ感覚かもしれないのは,「まともに教科指導ができる教師はごくわずかしかいない」という点かもしれない。

 大学でろくな教科教育を受けず,適当な教育実習を終え,やさしい採用試験の問題をクリアしただけの人間に,次期学習指導要領の改訂の趣旨をふまえた指導をすぐに行え,というのは無茶な話である。

 だから,アクティブラーニングという名前のもと,「教師が教えるのではなく,できる子どもができない子どもに教える」という授業(?)を広めようとしているのだ。

 日本の大学院は,教員採用試験に合格できなかったり,就職できなかった「劣等生」タイプが進学する場所というイメージが強くなっている。

 「大学に入るより,大学院に入る方がよっぽど楽」という話は有名だろう。

 その実態を最もよく知っているのは,教員採用試験の人事担当者ではないか。

 日本の「タテ学歴」の「建前主義」は一切通用せず,「ヨコ学歴」(どの大学を出ているか)の信頼性の方がはるかに高いことを知っているはずである。

 ある組織から,「教職大学院のつかいみち」に関するアンケートがまわってきているが,それだけ「つかいみち」がなくて困っている現状があるのだろう。

 優秀な人材を現場に送り出せない組織に,存在価値はない。

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「総合的な学習の時間」で失敗している学校に,次期学習指導要領が実践できるわけがない

 国が実施しているいくつかの調査の結果をまとめてみれば,内容を削減しないことを宣言してしまった次期学習指導要領を適正に実施させることが非常に困難であることは,素人が分析しても明白なはずである。

 今,公立学校というのは,たかが「全国学力調査」程度の問題を解かせることだけでも四苦八苦している状態である。

 「事前に問題を解かせてみる」学校がある理由は,「問題文の意味がわからないために解けない(解こうとしない)児童」への対応策である。

 問題が「解けない」理由にはさまざまなレベルがあるのだが,国語力がないために,何をどう答えたらよいのかわからない子どもが少なくない。

 そのため,教師が「こういう質問は,こういう考えができるかどうかを確かめるためのものですよ」と教えてあげないと,「解こうとする」段階までもっていけないから,「事前指導」が必要,という話になっている。

 こんな状態の公立学校に,「主体的・能動的な学び」をさせることを要求することの「無理さ」は,教師ならだれでもわかっていることである。

 そもそも,「総合的な学習の時間」における学習が,「主体的・能動的」に行えていない学校については,教科学習をそれを行え,といっても無理な話である。

 どういう問題が起きているかというと,効果が非常にあやしい「家庭学習」という名の大量の宿題を小学生に背負わせる教師が増えているのだ。

 「こんなこと,学校の中でやっても意味がない」と思える内容を,家庭に押しつけ続けることについては,そろそろブチ切れてあげようと思っている。

 新採3年目くらいの若い教師が調子に乗って宿題を出しまくっている姿を校長は知っているのかどうか。

 混乱する現場のトバッチリを受けるのは,子どもや家庭である。

 公教育の未来は,果てしなく暗い。

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無責任な発言をする大人たちの見本市

 「まともな文章を書こう」と書いている人の文章が「まとも」ではない。

 こんな話は世の中にあふれている。


 今日の8時台のラジオを聴いていたら,パーソナリティーが前日のプロ野球の結果に関する実にあやふやな記憶に基づく話をしていたのが気になった。

 それも,「自分の発言には責任をもつべき」という趣旨のニュース解説をしていた直後だっただけに,久しぶりに「裸の王様」を目の当たりにした感じだった。

 ラジオでは,しばらくしてパーソナリティーの発言の誤りが訂正されたが,本人は別に何の責任も感じていないようだった。さんざん罵倒していた他人と同じようなことをしている自分には,責任を感じないですむ性格らしい。

 中学生でも,この手のタイプが引き起こす人間関係のトラブルが増えているが,実はその原因は「DNA」によるものらしく,すでに保護者が同じタイプの問題を小学校で起こし済みだったこともわかったりする。

 ここでは「教育」の必要性を改めて感じざるを得ない。

 人間は,環境によって自分の個性を育てて,能力なり性格なりを変えることができる。

 もちろん,環境によっては「悪い方向」に変わることもある。

 子どもに「お受験」をさせる親の多くは,それを怖れているわけである。

 動機の半分は理解できるが,家庭教育を受けているような形跡がほとんどない子どもに出会うことがあり,受験をさせると余計に「浮いてしまう」子どもも増えているのではないか。

 「無責任体質」はトラブル続きのオリンピック関係者の話を聞いて,実は現在,社会をリードしている(はずの)世代に特有な背景があるのではないかと考えた。

 受けた教育がろくでもないものであると。

 それは,学習指導要領の改訂の歴史を振り返ってみれば,まさにその通りの結果である気もしてくる。

 ろくでもない教育を少しでもまともな教育に変えるための動きを,

 ろくでもない教育を受けた人たちが主導していくことがよいことなのかどうか。

 その答えが,また20~30年後に明らかになるのだろう。


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「謝罪」を強制したり要請したりしない文化国家

 問題行動を起こした生徒に,「謝罪文」を書かせる指導を行う場合があるが,

 「謝罪文」を強制された子どもはどのような気持ちで文章を綴るのだろう。

 「謝罪文」は「次の」問題行動の抑制に,どれだけ役に立つのだろうか。

 
 オバマ大統領の広島訪問が決まったそうである。

 安倍総理は,「謝罪を求めるか」という質問に直接的には答えなかった。

 「謝罪を求める」姿勢と,「謝罪とは謝るべき人が自主的に行うものだ」と考える姿勢は,

 どちらの方がより「文化的」であろうか。

 
 日本が行っている「謝罪外交」を超えた「本当の信頼関係を築くための外交」とはどのようなものであろうか。

 「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく,ただ愛によってのみ消え去るものである」

 サンフランシスコ講和会議でスリランカ代表が語り,日本を救ったブッダの言葉が脳裏に浮かぶ。

 27日に注目したい。

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「ゆとり」教育決別宣言の意味

 アクティブ・ラーニングを進めるのは既定路線・・・・

 生徒が主体的・能動的に活動する時間を確保するために,

 学習内容の量を減らす必要があるのではないか・・・・・

 でも,学習内容の量を減らすと,また「学力低下」問題が表面化する・・・・

 とりあえず,学習内容の量は減らさないことにする・・・・・・

 これが「ゆとり」教育決別宣言の意味でしょう。

 
 教育関係者「以外」の人の「不安要素」を消していくと,

 残るのは教育関係者の「不安」だけ。


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認知負荷の軽減ではなく対応力強化をめざす教育へ

 認知負荷あるいは認知的負荷という言葉が,教育の世界でも一般的になりそうな気がしている。

 「認知負荷は小さいほどよい」とされるが,どこまでの負荷に耐えられるかは,個人差が大きい。

 アクティブ・ラーニングとして紹介されている実践には,認知負荷を軽減することを目指したものが多いが,

 そういう学習を繰り返していても,認知はできるものの,能力は高まっていかない。

 ICTを教育に導入するときの注意点がここにある。

 一つ一つの課題を毎日解決していくことが可能だが,それを繰り返していても,能力が高まっていく気がしないのは,認知負荷を減らしたために,課題の解決が容易で,いつでもどこでもできそうなものしかないからである。

 コンテンツベースからコンピテンシーベースの教育に転換するのなら,最もおさえておきたい点である。

 教育現場では,認知負荷対応力というべき能力を高めてあげることが求められるべきである。

 そのためには,自分の認知処理容量をこえた負荷量がかかっている状態がどのようなものかを認識する機会も必要となる。

 「わからない」ということが自覚できる状態は,自分自身の処理可能な認知負荷の限界点がわかるということであり,その限界を超えようとする動機を作り出すことができる。

 さらに,その限界を超えたときの達成感を得るチャンスも生まれる。
 
 見方・考え方を身につけた子どもが,それを使いこなせるようになっていく道筋を,認知負荷対応力の向上というかたちで明らかにすることが求められていくと考えられる。


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「本当の自分」とは何か?

 日常,「自分とは何か」を問い続けながら生活している人はいない。

 むしろ,その問いから遠ざかることが,安心した生活を営むコツであることを知っているのだろう。

 しかし,安心は安全を裏切る。

 「自分を裏切っている自分」がいないかどうか,問う時期があってもよいだろう。


 「問い直し」が大切なことを教えてくれる映画を,童門冬二氏がコラムで紹介している。

 そのコラムの中で,ご自身の次のような過去を振り返っている。

>私の場合は戦争が起こって「健康な少年」は軍に志願するのが常識,という社会の雰囲気で教員になれなかった。

 私の祖父は高校の化学の教師だったらしいが,病で母が子どものときに亡くなっている。

 やはり数学の教師だった祖母が,一人で5人の子どもを育て上げた。

 「教師は健康的でない人がなるものだった」という捉え方が正しいかどうかわからないが,

 兄弟が2人戦争に行っている父の家系では,父以外,健康な人が多かった。

 
 もし,健康そのもので軍隊に入るような人が教育現場にいたら・・・と思うと,背筋がぞっとする面もあるが,おそらく戦争中は,かなり背伸びをして,無理をして,「本当の自分」には背を向けて,がむしゃらに子どもを鍛えていた教師が多かったのだろうと思われる。

 教育は,「本当の自分」とは何かをじっくり考えることができる環境を与えてあげることが大切であることは言うまでもないだろう。

 もちろん,子どもの頃はその答えを出すときではない。

 答えを出すことが目的の教育ではなく,問いを出し続けることが目的の教育をすべきなのである。

 どんなに子どもたちで協力し合って「答え」を見つけても,

 それは本当の意味での「アクティブ・ラーニング」ではない。

 「問い」を大量生産していく姿を授業では見ていただきたい。


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マエケンの成功要因~一流の条件とは?

 プロ野球解説者・宮本慎也氏によれば,ドジャース・前田投手のここまでの活躍の要因は,

 「対応力の高さ」にあるということである。

 投球フォームを大リーグのマウンドに合わせて変えているらしい。

 「変化し続けることができるかどうかが,一流の条件」ということだが,

 一度成功をつかんだ人間が,そのときのスタイルに固執しやすいことを考えれば,

 「一流」と呼べる人がなかなかいないことに納得してしまう。

 考えてみれば,学校教育の世界では,

 「一流の教師」という呼ばれ方をあまり耳にしたことがない。

 「超一流大学」とか「三流大学」とかいう言葉はあるが,

 「一流の教授」という言葉はあるのだろうか。


 公立の教師たちには「異動」があるが,

 「異動」してきてしばらくは,「私の学校では」などと,まだ前年度までの勤務校の一員であるかのような「物言い」をする人がたまにいる。

 そして,現在の勤務校を「この学校は」と呼ぶ。

 「流れ」に逆らうような「浮いた」存在になってしまう教師がいる。


 私が教師たちの公共観念の乏しさを紹介する事例の1つになっている。

 言葉が長くなってしまうから,省いてしまうという言語感覚もあるのだろうが,

 「私たちの」ではなく「私の」になりやすい癖は,簡単には抜けないようである。

 「アワ」と「マイ」の区別がつかないのは,複数形にすることが面倒だという日本語の特質に由来するものかどうかはわからないが,「私たちの学校では」はどんどん短くなり,

 やがて「うちでは」という言い方になる。

 家も学校も同じくくり。


 「一流」という言葉を改めてながめてみると,

 なぜ「流れ」という文字が使われているのか,「流れ」という文字が使われている意味は何か,

 という問いが立てられる。


 大きな流れには逆らわず,うまく流れに乗ることができ,そして決して流されることのない,

 そういう人間のイメージをつくっておきたい。


 進んで変化を選ぶことができる「強い自分」を育てる学校をつくるのは,

 「一流の教師」たちの存在が欠かせない。

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「あの国」と「あの芸能事務所」の共通点

 タイトルだけから国名と事務所名がわかった人は,

 「小さいときから恩を感じながら育てて思い通りに動かす」ことがそっくりだということにお気づきでしょう。

 「子育て」はそれなりにできても,「子離れ」ができない親は,せっかくの「親離れ」の機会を奪ってしまう。

 「利益確保」のために国民や社員を利用する国や事務所が,どのような「崩壊」の仕方をするか,

 未来のことではありますが,過去の歴史から想像することができます。

 「恩知らず」と罵られながらも,自分の道を歩んでいくことができる国と,できない国はどちらが「長持ち」できるのでしょうか。

 ある企業では,「カリスマ」の退場によって,何がどのように変化していくのだろう,という関心を呼んでいるようですが,「カリスマ」のオーラを受けて育った人がいる以上,何も変わらないのではないか,と感じている内部の人がいます。

 本当の意味での「改革」を成し遂げるためには,そういう「カリスマ」を上回る「カリスマ」が出現しないといけないのかもしれません。

 実力をつけた芸能人が,新しい事務所を開いて活躍できるような社会に変わることは可能でしょうか。

 「封建社会」から抜け出せるかどうかが問われている時期です。

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高校の新科目「公共」(仮称)を考える上でイメージしておくべき「私共(わたくしども)空間」

 私の予想では,「地理総合」「歴史総合」のように,「公民総合」あたりに名称が落ち着くのではないかと思われる,高校の新科目,仮称「公共」。

 そもそも「公共」や「公共空間」とは何か。その社会的な機能とは何か。

 概念の定義やその意義が周知されないまま,科目名になることはないはずです。

 「公共空間」と言えば,私が10年ほど前にこのブログでさかんに書いていた「私共(わたくしども)空間」のことを思い出します。

 最近では,LINEグループあたりが「私共空間」の代表になるでしょうか。

 もちろん,「私的空間」の状態で踏みとどまっているグループもあるでしょうが,

 中学生などはすぐに「いじめ」の手段として使ってしまう。

 学会なども私は「私共空間」の代表的事例であると思いますが,これが

 せめて「公的空間」であるためには,活発な議論が長い時間可能な場でなければなりません。

 行政への不満を言っているだけでは,「私共空間」にすぎないのです。

 そもそも,海外の教育事情ばかり紹介していて,日本の社会科教育に対する具体的な提案ができる「個」がいない学会に存在価値はないでしょう。

 社会的な善悪の価値観から序列をつくると,

 悪・・・「私共空間」<「私的空間」<「公的空間」<「公共空間」・・・善 

 となります。

 日本社会科教育学会編集の『社会科教育研究』第127号に掲載されている,

 2016年1月30日に開催された「新科目『公共』を考える」公開研究会の記録を読ませていただくと,

 横浜市立大学の中西新太郎名誉教授が発言されている「シャカイ圏」という語が,私がつくった「私共空間」のイメージに最も近いでしょうか。

 書かれた言葉でしか意味が通じない用語では,その概念は認知されにくいでしょうね。

 子どもたちは,学校に通う間,教師たちによる醜い「私共空間」にさらされ続けており,そこからの救済を求め続けているのがこのブログの趣旨になります。

 今後,10年前の記事をひもときながら,新科目「公共」(仮称)についてふれることもあるでしょう。

 まずは「私共空間」の事例を取り上げ,それを破壊していこうとする問題意識を共有していくことが,「公共空間」に近づく第一歩であると考えます。


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 『日本人は「公共空間」より「私共(わたくしども)空間」を重視する 前編』(2007年2月28日)より

 私共(わたくしども)空間というのは、私の造語です。

 公共の空間の中で、本来は公的にふるまわなければならないのに、個人や一部の人間たちが、自分や自分たちの欲求を満たすことを優先し、実行している空間のことです。

 一番わかりやすいのは、電車の中の携帯電話による通話。個人で勝手にやっているようでも、相手がいるので当人にとっては「私共空間」です。

 音楽を聴いている人も、(録音ではあるが)演奏している人がいるから「私共空間」。これらについては、鉄道会社の社員という、私企業の中でも公共性の高い仕事をしている人によって、放送による注意がなされることで抑制されています。しかし、少人数のグループが、大きい声で話したり、おかしやパンを食べたりすることはよくあります。化粧している人も、個人かというと、鏡の中の自分と化粧している自分がいるから「私共空間」。

 公共空間より、「私共空間」の方が、居心地がよいのでしょう。これは、公共空間のマナーを守っている人からの、「迷惑しているぞ」という空気のプレッシャーをはねのける威力を持つ場合もあります。

 指導力のない教師の授業では、一昔前まで「私語」が大問題でした。これは、公共空間にいながら、勝手に(私的に)離脱されてしまっている状況です。

 時間を守らない教師の話を先日書きましたが、「公共空間」より「私共空間」を優先する逆コンピテンシーです。
 小学校でよくある「学級王国」。自分の専門(なぜ小学校の教師のなのに「専門」があるの?)教科ばかり教える教師。教室は、「私共空間」です。

 いじめというのは、「私共空間」の居心地をよりよくするために、「公共性を重視する人」「私共空間の空気が読めない人」を排除する行動です。「私共空間」のうち、排他的性格が最も強いのがこれでしょう。

 世界史未履修の学校。これは、「公教育」を「私共(わたくしども)教育」にしてしまった例です。

 入学式・卒業式という、学校外部の「来賓」や保護者までが大勢集まっている公共性の非常に高い「儀式」としての空間の中でも、「私は君が代が嫌いだからピアノ伴奏はしない」という「私共空間」を優先しようとする教師。これは反対する仲間がいるからできる。弁護士という職業の人はお金を払えばいつでも仲間になってくれる。

 壁の落書き、駅前の自転車の放置、団地のペット飼育、授業中の携帯メール、・・・・「私共空間」は、日本のありとあらゆるところにあります。

 問題性が低いものには、大相撲の枡席。野球のボックス席。特急列車の個室。カラオケルーム。これらは「私共空間」ではなく、単純に「私的空間」と言えるものです。

 日本人はなぜこうも「公共空間」の力が弱い=「公共性が乏しい、公共の精神に欠けている」のでしょうか。

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「教師」と「酸素」の共通点

 「酸素は猛毒だった」「酸素でやられてしまった生物もいたはずだ」というネットの記事を読んで,「教師」や「子ども」とのかかわりの意味を改めて考えてみた。

 私たちにとって欠かせない何かは,それがないと生きていけないが,

 私たちにマイマスとなる効果が全くない,というわけではない。

 酸素は,ほかの物質との反応性が高く,良くないものに変質しやすい。

 人間にも,他に影響を与えにくいかわりに,他からの影響を受けにくい人もいる。

 しかし,圧倒的に多くの人は,他からの影響を受けやすい。

 影響を与えやすい立場もある。その代表格が「教師」である。

 子どもたちにとって,1日の間で,起きている時間の多くを親よりも長く過ごす「教師」たち。

 学習指導をはじめ,特に問題が起こった場合には,子どもたちにとって

 「酸素」のような存在でありたい。

 しかし,「良くない方向への変化」も生み出す可能性があることを心得ておかなければならない。

 子ども同士でも全く同じである。

 学校では,子ども同士が互いに「相手がいるから自分が発揮できる」という意識をもっていてほしい。

 「自分」という「酸素」を吸って,「相手」がよいパフォーマンスを発揮できるような存在でありたいと思える子どもに育ってほしい。

 「他力」と「自力」のバランス感覚こそが,学校で育てるべき能力の1つであると思うようになった。

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「教えたがり病」に効く薬はない?

 教師になる人の多くが,「教えることで,子どもができるようになり,輝いていく」という変化を目の当たりにできることを動機にして,教師の道を選んでいるはずだと私は勝手に思っている。

 だから,『学び合い』を導入して教師の生きがいを感じられるのは,定年間際くらいにならないと絶対に無理だろうなと本気で考えている。

 現場に長い間いると,「教え方が下手」な教師は子どもから尊敬されることはないのだが,下手に教師が教えていない方が,子どもがしっかりと育っている実感をもつ場合もある。

 もちろん,「しっかり教えられていないから,この状態なのだな」とがっかりすることの方が多いのだが。

 何をどこまで教えて,どこから先は教えない方がよいのか。

 教師になったらぶつかる大きな壁であろう。

 子どもたちは個人差が大きいのは当然として,小学校から上がってくる人数が多ければ,「集団差」も非常に大きい。

 だから学習指導にしろ,生活指導にしろ,「これが正解」という指導法はないというのが正しい理解であろう。

 
 先日,私が監督をつとめる中学校のチームが都道府県大会に出場することが決まった。

 私が試合中に気になり,試合後はもっと気にかかっていたのは,自分のチームではなく,相手のチームのピッチャーの癖である。

 ストレートもカーブも申し分ないピッチャーだったが,コントロールが定まらない。

 試合序盤で投球数が50球をこえるほどであった。

 こちらは「できるだけたくさんボールを投げさせること」を攻撃の第一目標に掲げていたので,その作戦通りに試合は進み,ストレートの伸びがなくなってきた試合後半に長打が出て逆転勝利をあげることができた。


 試合終了後も,グラウンドの使用可能時間が余っていたので,コーチの指導を受けてピッチング練習を繰り返していたが,私の目から見て,修正すべき点は1つしかなかった。

 それを伝えてあげるかどうか迷ったあげく,夏のブロック大会で当たるかもしれない,という気持ちもあり,何も言わずにグラウンドを去ることにした。

 私は専門委員でもないし,やっとのことでつかんだ都道府県大会への切符だったが,才能のある子どもの実力は伸ばしてあげたい,という気持ちはとても強い。

 自分のチームの選手には気づいたことをその都度告げているが,そもそも簡単に直せる癖はない。

 できないことはそう簡単にできるようにはならないものである。

 だからできるようになるまで同じことを繰り返し繰り返し話していく。


 相手のピッチャーに私が思ったことを告げても,急にコントロールが定まるとは限らない。

 一度限りのアドバイスでは効果はないかもしれない。

 しかし,コーチから受けているアドバイスは,私の考えているものとは真逆に見えた。

 
 もちろん,コーチの指導のめあてが私とは真逆なのかもしれない。

 中学校レベルでの大成ではなく,高校での成長を視野に入れて教えているのかもしれない。


 たった1つの「気づき」で,私のチームではなく,彼のチームが都道府県大会に進出できたかもしれないと思うと,何だか落ち着かないというのは,教師の性だろうか。

 
 相手校の昨年度までの校長先生は,私が初任の中学校に同期で異動されてきた方だった。

 今でも年賀状で近況を教えて下さる先生で,さぞかしがっかりされていると思われる。

 もし次回対戦できたら,「欠点のない」状態のピッチャーを打ち崩して勝利したい。


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ピッチに堂々とゴミを捨てられる文化とそれを許さない文化

 嫌韓派の目に止まりやすいニュースであろう。

 サッカーのアジアチャンピオンズリーグの試合で,韓国のチームの主将が試合終了後にテーピングをピッチに投げ捨てた。

 この行為に,日本のチームのメンバーは黙っていられなかった。


 ゴミをめぐる衝突も,「文化の違い」と言って済ましてしまうことができるが,

 道徳の授業で,

 「どちらの方がフェアプレーの精神をもった選手と言えるか」

 「ゴミをピッチに捨てる行為をどう思うか」などと問うてみても意味はない。

 
 

 日米野球で試合終了後のベンチ内の様子を写した1枚の写真がある。

 日本チームのベンチはゴミ1つ落ちていないきれいな様子。

 アメリカチームはゴミだらけ。

 「だって,掃除をするために雇われている人がいるんでしょ」という論理。

 サッカーの試合終了後,サポーターが帰った後の座席の様子も想像できよう。

 

 日本人は「きれい好き」と評価されるのはなぜか。

 どこで,だれが「きれい好き」をつくっているのか。

 
 ここで書くまでもないだろう。

 かつて,家庭訪問というものを実施していたときに,

 ゴミが散らかっているままの部屋に通された経験がある。

 我が家の子どもが通う小学校では,いまだに家庭訪問を実施しているが,ここぞとばかり大掃除が始まる。


 日本人も,家の中では,日常的に「ゴミ一つないほど掃除している」なんてことはめったにないだろう。

 海外では,そういう家庭は逆に多いかもしれないが。


 プライベート空間だからきれいにする,という考え方の人々も多いかもしれない。

 では,公共空間ではどうなのか。

 日本では,「公共」の場のマナーは教育によって育てられているのと同時に,

 大人の間でも同じような共通認識があるのが当然だった。


 これからは,「無理矢理」な教育によって,逆効果に変わっていくかもしれない。

 グルーバル教育という言葉自体が時代おくれと思うが,

 海外から賞賛される日本の良さを知っておく,というのも案外重要なことかもしれない。


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ウェイトトレーニングの是非

 高校野球の世界でも,ウェイトトレーニングを導入している学校が多いようだが,

 プロの世界のトップ選手には,このトレーニングに反対している人たちがいる。

 その代表がイチロー。持論は「持って生まれた体のバランスを崩してはならない」というもの。

 「トラとかライオンは筋トレなどしない」とも。

 一方,「もっと筋トレをとりいれるべき」と主張しているのがダルビッシュ。

 私もそうだったが,がっちりした体格の選手たちを間近で見た細身の高校野球の選手たちは,劣等感を感じやすい。

 しかし,野球は相撲のように体格がモノを言うスポーツではない。

 プロ野球選手の多くは,テレビで見るより実際の目で見た方がスリムである。

 野球は瞬発力が非常に大切なスポーツなので,わかりにくい表現かもしれないが「バネ」のある肉体が求められる。

 ピッチャーは特殊な「職種」で,バッターに打たれない球を投げられれば,自分は俊敏な動きができなくても試合に出られてしまう。

 そういう「職種」別の事情もあるかもしれないが,イチローが言いたいのは,筋トレでは筋肉は太くなるが他の成長しない部分とのバランスが崩れ,怪我をしやすくなる,ということだろう。

 手術から復帰したダルビッシュだが,田中選手と同じように「壊れやすい」「長持ちしない」体では,雇っている方は気が気でないだろう。

 怪我のために試合に出られない選手を「故障者」と呼んでいるが,人間は機械と違って部品を交換すればすぐに動くものではない。手術をしたら,一定期間,仕事ができなくなる。

 筋肉に負荷をかけてパワーを向上することにも,一定の限度を設けてあげるべきなのだろう。

 日本人には,運動会の人間ピラミッドなど,集団で「いけるところまでいく」みたいな「限界に挑戦すること」に悦びを感じてしまう危険な精神が刻み込まれている。

 スポーツ科学は,このような「危険」を知らせてくれるために存在する学問だと思うので,専門家の方たちはぜひとも成果を示してほしい。

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法令の解釈を異なる場面で示すことで矛盾が明らかになっていく

 学校教育法施行規則第110条2項の「学力検査」とは何か。

 次のような見解があるらしい。「学力検査」とは・・・

>学校の各教科の内容に即した、受験に向けた反復訓練等により正答率を高めることが可能な知識・技能を測る検査
 

 しかし,「受験に向けた反復練習等で正答率を高める」ことが可能なのは,何も「知識・技能」に限らない。

 なぜなら,「思考・表現」の問題でも,パターンが決まっているものがたくさんあるから。

 
 この定義の最大の問題は,どこにあるかというと,「学力検査」は「知識・技能」を測る検査だ,としている点にある。

 この定義だと,「思考力や表現力」を問うような問題は,「学力検査」問題ではない,ということになる。


 最も痛い点は,「思考力や表現力は学力とは呼べない」と解釈されてしまっていることである。


 今後の大学入試問題で問われようとしているものは何か。


 「適性検査」が「学力検査」にはあたらないという解釈をするために,

 無理矢理「学力検査」の定義を狭めてしまったため,

 これからの大学入試は「学力検査」とは呼べなくなってしまった。
 
 大学入試も「適性検査」の時代になっていくのか。


 今のところ,最も哀しい出来事は,「適性検査」を受けて公立中高一貫校に入った

 子どもたちが,「学力検査」でいい点がとれるような教育をせっせと受けさせられていることにある。


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「中国から日本政府へ」と「日本政府からマスコミへ」の相似形

 中国にどのような弱点があるかを,外交による日本への要請から知ることができる。

 同じように日本政府にどのような弱点があるかも,私たちは知ることができる。

 「不利益につながる言葉の抹殺」を進めていくということは,

 日本が「中国化」をめざしている証拠だろうか。

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公立中高一貫校の校長だけが法令違反の疑いをかけられるのか

 「学力」のイメージを文科省が広げてしまったため,

 ますます法令(学校教育法施行規則)違反にしか見えなくなっている状態がある。

 公立中高一貫校の「適性検査」である。

>第百十条  中等教育学校の入学は、設置者の定めるところにより、校長が許可する。

2  前項の場合において、公立の中等教育学校については、学力検査を行わないものとする。

 もし,「適性検査」の現状が「学力検査」にあたるという判断がなされた場合,

 だれがどのような責任をとらされるのか。

 「不正な方法」で入学を許可した校長か。

 「不正な方法で入学を許可」する仕組みをつくった行政か。

 
 日本では,「国民のため」と言いながら,それが「ごく一部の国民のため」であったとしても,

 「国民の意思を重視している」と考えてしまう政治の風潮がある。

 本当の民主主義国家になりきれていない証拠である。


 ルールを変えて,実態に即した行政を実行するという法治国家では当たり前のことをしない

 「放置」国家だから,

 「ルール」とは単なる「建前」であって,「本音」では「ルールに従う必要はない」というムードが持ててしまえるようになっている。

 「学習指導要領に基づいて教育を行う」という「建前」もほとんど同じパターンに陥っているのである。


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成長し続ける「後期高齢者」と衰え続ける「老人」

 年を取れば,体力が衰えていく。

 さらに,頭もかたくなっていって,融通がきかなくなる。

 気に入らないものはこきおろし続け,悪態をつきまくる。

 私のかつての「老人観」はそんなものだった。

 
 しかし,研究会などで一緒になる方々,私の先輩方の中には,

 「高齢者」だけでなく「後期高齢者」でも,全く逆の姿を見せてくれる人がいる。


 学び続ける態度を崩さない。

 難しい言葉でも,理解しようと努力する。

 アンテナの高さでなく,

 心の広さも「こうありたい」と思わせてくれる。


 教師の語る言葉の中には,独特なものがある。

 私の知っているある先生の書いた文章は,とても癖のあるものだが,

 「一部の教師にしかわからないニュアンス」をただ毛嫌いしているだけだと,

 どうあがいてもそういう教師のレベルには到達できない。


 向学心や向上心のある教師たちは,

 わかりにくい文章からでも,必死に「意味」を理解しようとする。

 
 人間関係そのものに求められる態度も,全く同じことである。

 特に今の子どもと教師,親と教師の関係などは,一昔前の教師たちには想像できないくらい難しくなっている。

 
 以心伝心が難しい間柄ではあるが,「いつかは理解してもらえる」

 「どうにか理解し合おうと努力する」姿勢を失った時点で,

 自分の成長はストップする。


 これから増え続けるであろう「衰えるしかないネット老人」たちを救うには,

 「視野の広さを競い合おうとする環境の創造」が欠かせない。


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「公立中高一貫校」は大学受験指導をしっかりと行う「私立中高一貫校」の廉価版になっていないか

 このブログでは何度かふれている話題だが,

 「公立中高一貫校」が実施してはならないことになっているものがあることはご存じだろうか。

 学校教育法施行規則という法令では,次のように定められている。

>第百十条  中等教育学校の入学は、設置者の定めるところにより、校長が許可する。

2  前項の場合において、公立の中等教育学校については、学力検査を行わないものとする。

 「学力検査」は実施してはならないのである。

 「受験競争の低年齢化を招くことのないよう」にするために。


 「公立中高一貫校」が「商売敵」になってしまった「私立中学高等学校」の連合会が,

>公立中高一貫教育校の入学者選抜における「学力検査」の取扱いについて(意見)

 を公表しているので,最初の部分を引用させていただく。

>公立中高一貫教育校は、平成11年4月に施行された「学校教育法等の一部を改正する法律」によって制度が発足しましたが、学校の設置・運営に係る費用の全額を公費で賄われている学校であり、何よりも、公平・平等を基本とする公立義務教育機関であることから、国会での上記の法案審議においても、「受験準備に偏したいわゆる『受験エリート校』化など、偏差値による学校間格差を助長することのないよう十分配慮すること」 「入学者の選抜に当たって学力試験は行わないこととし、学校の個性や特色に応じて多様で柔軟な方法を適切に組み合わせて入学者選抜方法を検討し、受験競争の低年齢化を招くことのないよう十分配慮すること」等の趣旨の付帯決議が衆参両院の委員会で行われています。


 国民の側は,「私立と同じことをやってくれて,学費が安くすむ公立があるのはありがたい」という感覚で,大学進学実績のよい公立中高一貫校を選ぶから,当然,「偏差値による学校間格差が助長」されることになる。


 今では,東大合格者数を前面に出して,「受験エリート校」であることを宣伝する公立中高一貫校まで現れている。

 高校の世界史未履修問題に代表されるように,

 日本は教育分野について言えば「法治国家」とは言えない状況が一部で見られる。

 私が教育委員会を自ら去ったのは,まさにある中高一貫校の「適性検査」という名目の「学力検査」による入学者選抜が実施された年度であった。

 そのとき「法令の趣旨に反することに加担するのは良心が許さない」という啖呵を切って辞めていたらかっこよかったかなと後悔している。

 
 塾で「適性検査」対策をこなし,問題を解いて,希望した公立中高一貫校に進学した子どもに罪はない。

 浮いたお金で塾に通わせてもらって,家計にもやさしく,学習量も増えるのだから,おいしい選択になっている。

 だれにどのような「罪」があるかは,あえて書くまでもないだろう。


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「アンケート調査」の実態~嘘を平気でついていたと正直に話す子どもたち~

 一つ前の記事でふれた「アンケート調査」だが,私が授業で最初に聞く質問は,

 「今まで,アンケート調査で嘘をついたことがある人!」というものである。

 何人かが勢いよく挙手してくれるおかげで,少し遅れてパラパラと続けざまに手が挙がり,やがてほぼすべての子どもが「嘘をついたことがある」と正直に告白してくれる。

 その内容を聞くと,

 「1日にゲームをどのくらいの時間しますか?」

 という質問には,「あとで怒られたくないから」という理由で「かなり少なめに答えた」子どもが多かった。

 「いじめられていますか?」

 という質問には,「いろいろと詮索されるのが面倒くさいから,いじめられていないと答えた」という子どもがいた。

 そのほかに,

 「とてもつまらない授業を受けたあと,感想を書かされたが,正直に答えて成績を下げられるのが嫌だったから,とても楽しくて参考になったと書いた」という子どももいた。

 まさか,生徒への「アンケート調査」を学術的な論文で使っている間抜けはいないと思うが,

 「教師の求めている答えを答える」習慣を道徳の授業などで自分が鍛えていることに気付けない教師は少なくない。

 裸の王様はいたるところに存在する。

 道徳の教科化によって,このような子どもの行動はより「強化」されていくだろう。

 子どもにとって,「嘘をつくメリットがない」ことがはっきりしているアンケートでないと,その信頼性は極めて低いものであることに気を付けなければならない。


 そして最も胡散臭いのは,ある学習方法の良さを紹介する生徒の感想を載せている本である。

 良いことが書かれているものしか掲載されないはずだし,そもそもそういう学習方法に反対している生徒にはアンケートなど実施しないはずだから。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より