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猫も杓子もアクティブ・ラーニング

 教育図書の出版業界では,何でもかんでも「アクティブ・ラーニング」という「帯」をつければ売れると思っているらしい。

 社会科関連でも立て続けに「アクティブ・ラーニング」という言葉が表紙に書かれている本が出されているが,そもそも昔から本として出版される価値があるものは,ほとんどすべて「アクティブ・ラーニング」ができる題材を扱っていたはずである。

 しかし,「新しい社会科授業」などとうたっておきながら,「これ,何年前の実践例?」というのがたくさん掲載されている本が出されている。

 おそらく著者の良心はそっちのけで,出版社が勝手に書名をつけているのだろうが,あまりにひどい本はamazonにレビューを入れておかないといけない気分にさせられる。

 小学校社会科には「大家」と呼ばれている人がいるが,私はこの人が書いた本を読んで参考になったという実感をもったことが残念ながら一度もない。

 日本の場合,「大家」の「大家」たる所以は,だれからも「この本,内容がないですね」と批判されない不思議さがあるからだと思われる。


 ところで,「猫も杓子も」の「猫」と「杓子」はどこから来たのか?という話題は,いろんなところで語られているらしい。

 先日,平塚八幡宮の神職=権禰宜(ごんねぎ)の男がある事件で逮捕された。

 神主さんの下の位を禰宜(ねぎ)というそうだが,「猫」は禰宜の子孫を示す「禰子(ねこ)」のことだという説がある。

 お釈迦様の弟子が「釈子(しゃくし)」。

 つまり,「猫も杓子も」は「禰子も釈子も」がもとで,仏様の弟子も神様の弟子もみんないっしょに,という意味だという説明が成り立つ。よく考え出したものだと感心してしまう。

 アクティブ・ラーニングとは,このような「解釈」を資料からただ引っ張ってくるだけでなく,様々な知識を子どもが組み合わせながら学習できるようになることを目指すべきだろう。

 社会科の場合,「ラーニング」の要になるのは「知識」である。

 大学での教員養成レベルは,その「知識」を身につけさせることすらままならない。

 知識がなくてもできてしまう授業の方法を熱心に伝授している人たちまでいる。

 知識がない人が教壇に立ってお金が稼げる国になることが,本当によいことかどうか。

 社会科の教育書の「内容」の乏しさに,ただただ唖然とするばかりである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より