ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 最も胡散臭い「ナントカ教育」は何か? | トップページ | 日本人よりも日本の桜を愛する中国人 »

「高校地歴科」における家庭内別居状態の「地理教育」と「歴史教育」

 中学校社会科の教師として,今,学校で教えるべき最も重要な教育は何か?と問われたら,

 「憲法教育」としか答えようのない時代になっている気がします。

 「護憲」か「改憲」,どちらの立場か,と問う以前に,

 そもそも「憲法とは何のためにあるのか?」「憲法を守る(守らせる)のはだれか?」

 を子どもなりにしっかりと考え,自分の意見をもつための教育が必要です。

 これらの質問にまともに答えられる大人が少ないことが,今までの「公民科」の教育の欠陥を如実に物語っています。

 そもそも,「憲法」を「公民科」で教えようとすること自体が誤りなのかもしれません。

 「憲法」の意義は,ヨーロッパ史と日本史から学びとれるものです。


 高校では,「地理総合」・「歴史総合」という新たな必修科目ができるようですが,

 このことが,ますます「地理歴史科」なんていう教科自体,「技術・家庭科」みたいなもので,「地理教育」と「歴史教育」が別物であり,互いに整合性もなく,「家庭内別居」状態にあることを如実に物語っています。

 「地理科」と「歴史科」を分けてしまった方が,よほどすっきりしてくるし,

 理系=地学科の要素も濃い「地理」が,新しい文系・理系にまたがる総合教科として,堂々と教科としての存在意義を発揮できるようになるでしょう。

 そもそも「地理学科」がない大学が多いし,文学部か理学部かもはっきりしていない(この点は素晴らしいことですが)学問が「地理学」だからです。

 地理学は「ナントカ教育」と同じで,「ナントカ地理学」(自然地理とか経済地理とか)がたくさんある,何でもありの領域なんですね。

 もし,必修科目を勝ち取るためといった「生き残り」のために無理しようとする動機で「地理総合」をつくるとしたら,「歴史総合」に匹敵できるくらいの教育内容なり学習内容を提示しなければなりませんが,それに見合うバックボーンが高校生が学ぶべき「地理」にあるでしょうか。

 そもそも「日本史と世界史の総合化」を想定するから「歴史総合」なのであって,「地理総合」は何と何が「総合」されてできあがるものなのでしょう。
 
 「地理総合」の教育内容を検討している人たちの資料を見せてもらったのですが,たとえば防災関係なら,シムシティのようなゲームを開発してもらえば,小学校の課程で学ばせれば十分であるような印象がありました。

 国際社会を見るうえで,「地政学」が今は「はやり」のキーワードですが,歴史を考えるうえで,地理的な情報をふまえることは言うまでもありません。

 「地理」は「社会科」を学ぶ上で基礎となる「技能」を中心に育てられるものです。

 小学校の「地理」を充実させるよう,中学校としては期待したいところです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 最も胡散臭い「ナントカ教育」は何か? | トップページ | 日本人よりも日本の桜を愛する中国人 »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

社会科」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

グローバル人材」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

« 最も胡散臭い「ナントカ教育」は何か? | トップページ | 日本人よりも日本の桜を愛する中国人 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より