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「嫌いな人の不幸を喜ぶ」心は正常か?異常か?

 自分たちが大嫌いな人間の悪口は,尾ひれをつけながら拡散されていく。

 LINEなどのSNS上でかわされるこうした言葉は,直接本人が見ることを想定していない場合でも,心ある(が慎重派ではない)子どもが「こんなことを書かれているよ」と本人に知らせてしまい,「自殺」の原因になってしまうこともある。

 自分と異なる意見をもっている者,自分が嫌いな者,自分のことを批判する者の「幸福」を願う人はあまりいないだろう。むしろ,「不幸」を願ってしまっている自分に気づくことはできるのではないか。

 それは人間として「正常」なのか,「異常」なのか。

 何をもって「正常」とみなすかの定義によるだろうが,

 「望ましい」「望ましくない」よりは難しい定義になるだろう。

 もし人間が,自分に対して殺意を持っている人に好意を抱き,何でも好きなようにさせてあげるという「心の広さ」をもっていたとしたら・・・・。

 もちろん,その「心の広さ」が相手の殺意を消滅させるための唯一の手段だ,という主張もあるだろうが,

 「自分の命を守るためなら,攻撃してくる相手をやむを得ず傷つけても罪には問われない」ことは正しいか,誤っているかと問われたら,前者を選ぶのが多数であるに違いない。

 だれでもわかることは,「お前は狂っている」と言われて「幸福感」を得る人間はいない。

 「お前は狂っている」という発言をする人間というのは,相手を「不幸にさせたい」人間である。

 相手を「不幸にさせること」で,本人が喜んでいるかどうかはわからない。

 わざわざ他人を「不幸にさせること」を書いていることだけは確かである。

 その背景には,「自分が嫌な思いをした」ことがあるようだ。

 そのことをだれもわかってくれないので,「周囲が狂っている」ことにしているだけかもしれない。

 しかし,障害のある人を相手にそういう書き方をすることはよくない。

 最も人権感覚が麻痺している人間は,学校の教師だと言われることがある。

 道徳の教科化は,子どものためというよりも,教師をまともにするためだと言う人もいる。

 言論の自由は何のためにあるのか。

 「大人」の文章を「教育ブログ」では目にしたいものである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より