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塾歴社会と「勉強嫌い」の子どもたち

 読書編で鉄緑会での講師経験のある教え子の話を書いたが,

 ここでは「塾漬け」の子どもたちの気の毒さにもふれておきたいと思う。

 以前から,「塾の宿題が多くて学校の宿題ができない」という子どもが目につき始めてはいた。

 最近は,「塾の宿題をする時間がないから学校では宿題を出さないでくれ」という親まで登場している。

 学校より塾の宿題を優先するため,学校での提出物が滞り,そのために低い成績をとっている子どもがいる。

 高校や大学の入試で内申点が加味されない仕組みであれば,別に学校でよい成績をとる必要はない。

 だから提出物をいっさい出さずに,学校の成績が低くなったとしても,行きたい高校や大学に進学することに成功しさえすれば,それでかまわないと思う子どもがいても不思議ではないが,一応,プライドが邪魔をするらしい。

 親にも子どもにも,「本当はもっといい成績をとれる人間なんだ」という自負がある。

 ここのところ,自分が所属している組織がもっている論理ではなく,あくまでも自分だけの論理を傲慢に主張する人間が増えてきているのは確かだろう。

 アスペルガーでも何でも,とりあえず「その人が考えていることを尊重する」ゆとりが周囲にある社会というのは決して悪いものではないが,親も含めて,「将来きっと痛い目に遭うだろう」という危惧を抱かせてくれる子どもが増えている。

 昼休みや放課後に,鉄緑会の宿題を図書室でやっている子どもをたまに見かけるが,いかにもつまらなさそうにやっている。授業での態度も同じである。もちろん,そうでない生徒もいるが。
 
 私は決まってそういう子どもに「将来の希望は何?」という質問をすることにしているが,決まって「まだない」と答える。

 そんなことを考えるよりも,東大に入ることがまずは第一なのである。

 京大の副学長も,「勉強嫌いな学生が増えた」ことをどこかの記事で述べていたが,中学校2,3年生が高校の内容を学習してしまえば,実際の高校の授業では新たに学べる楽しさなどは一切ない。高校は「復習」する場となる。

 テストでよい点をとることだけが目的ならば,その方が効率がよい。

 だから入試対策の王道とは,前倒しの学習である,と読書編では書いた。

 あまり自分で書いていても気分はよくないが,北京ダックの食材のようなものである。

 野菜の促成栽培くらいに思っておけばよいのだろうか。

 勉強が嫌いになった先に待っているものは何だろうか。

 どんな塾でも,合格するのはその塾に所属している上位のわずかな生徒たちである。

 ある中学受験の塾の東京校の小6は,20クラスあるという。

 塾は絶対にクラス別の合格者数を公開しないだろう。

 受ける前から合格か不合格かの判定はかなりの「精度」で可能になっていると思われる。

 その「精度」が低い中学校の受験は,塾が勧めないという証言も得ている。

 塾歴社会の「勝ち組」の中にも,上層ではなく下層社会があることを忘れてはならない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より