ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« なぜ指導案が書ける実習生の授業が下手で,指導案が書けない実習生の方が授業が上手なのか? | トップページ | 小学校における時間割の柔軟な編成は,教える側の都合に合わせた劣悪な学習環境を生む原因となる »

子どもはどのような教師の悪習を敏感に感じ取って嫌うのか?

 偉そうに小学校教育に関する著書を出されているが,学校現場では子どもの目の前で他のクラスの教師の批判を平気で口にする先生がいらっしゃる。

 教師集団全体への信頼感を獲得できないで中学校に上がってくる子どもは,中学校に入っていきなり不適応を起こしやすい。こういう大事なことは,小学校の先生が書いている本には登場しない。小学校によっては,学級の楽園(無法地帯)があるだけで,学年集団の結束が欠如しているところが多く,公立の中学校ではだからこそ「組体操が欠かせない」などという発想になってしまうのである。

 この学級の子どもが中学校でどういう事態に陥っているかの具体的なレポートを付録で読めるようにプレゼントしてあげたい・・・というのはただの厭味である。

 先生のお書きになっている本の趣旨は,「どうしたら小学生を思い通りに動かせるようになるか」であるが,頭の良い教え子たちは,本にわざわざ書かなくても「先生はこうすることを望んでいるのだろう」としっかり読んで行動する習性がついている。

 このブログでは,過去にも「操作主義的な教師の習性」の問題点を何度か指摘してきているが,自主的判断にせまられる場面が多くなる中学校で,こういう教師の教え子たちは何もできなくなってしまうから,気の毒ではあるがおもしろい。

 教師の顔色をうかがいながら生活する習慣を身につけた子どもたちを陰から観察していると,やがて「開放される悦び」というか,「自分を取り戻すことのうれしさ」を全身で表現できる時期が来るから,私たちは救われた気持ちになるのである。

 教師が授業中にいつも「指導案」「教科書」「原稿」「資料」を見ながら進めているのを体験した方はいらっしゃるだろうか。

 「え?そんなの当たり前じゃない?」と思う人がもしかしたら多いかもしれないが,私は中学校でそういう教師に出会ったことがない。高校では資料が多くなるので,そちらに目を落とす時間が長くなるが,中学校では基本的に教師と子どもはアイコンタクトをとりながら授業を進めている。

 常に生徒を見てくれている教師は,わずかなサインも見逃さないぞというメッセージを送ってくれているように思える。

 小さなつぶやきが耳に届き,その反応にリアクションを返してくれることのうれしさを感じた人はいないだろうか。

 教師は授業をする上で,単元の目標というものを持っている。

 そして本時の課題があり,目標がある。その目標を達成するための指導の展開をあらかじめ考えておき,資料を用意したり,重要な発問を書いたカードをつくっておいたりして,授業に臨み,理想的にはしっかりとしたまとめの時間をとって,生徒が理解できたかどうかを確かめて授業を終えるという通常の流れがある。

 これを記すのが「指導案」であるが,なかなか授業は予定通りにいくとは限らない。

 というか,授業研究をしている先生にとっては,予定通りに授業が進むことほど「つまらない」ものはない。


 教師の話も脱線するし,子どもの興味も脱線していく。

 ただその先が教科の本質とマッチしている限り,無理矢理軌道修正をすることなく,授業は流れに任せるのが普通である。

 進度を乱さないことがすべてである塾と学校の違いはここにある。

 子どもが嫌う教師の例は,わざわざ紹介するまでもないが,

 「自分」の予定を決めておき,子どもが何を質問しようと無視して,「自分」だけのペースで授業を進めて終わって職員室に帰っていくタイプである。

 子どもにとっては,その時間に寝ていても,教師の「仕事」には影響しないので,何の支障もない。

 別に先生に「悪い」とも思えないだろう。教師はこちら側の理解度がどうなっているかにはほとんど関心がないのだから。

 よく,「どのレベルの生徒に合わせて授業は進めるのですか」という質問を受けるが,

 それは授業によっていくらでも変化するとしか言いようがない。

 そもそも「どのレベル」とは,学力の高い低いを言っているのか,知識の量の多い少ないを言っているのか,学習意欲の高い低いを言っているのかわからない。

 レベルの高い発言が出てきたら,それをかみ砕くようにレベルを下げることもあるし,

 逆にレベルの低い発言しか出てこなかったら,「もしこう言われたらどう?」と高いレベルの問いへ引きつけることもある。

 授業は生きものである。

 考え得るすべての対応を指導案にしようとしていたら,そのために1年以上授業ができなくなる場合もある。


 テストのできが悪かったとき,こういうことを言う教師はいなかっただろうか。

 「こんなことは,授業で教えたはずです!」

 この教師にとっての「教えた」という言葉の意味は,(自分が)「言葉を発した」とほぼ同じである。

 「教える」ことの意味がわからない教師に習う子どもは不幸である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

« なぜ指導案が書ける実習生の授業が下手で,指導案が書けない実習生の方が授業が上手なのか? | トップページ | 小学校における時間割の柔軟な編成は,教える側の都合に合わせた劣悪な学習環境を生む原因となる »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

生活指導」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 子どもはどのような教師の悪習を敏感に感じ取って嫌うのか?:

« なぜ指導案が書ける実習生の授業が下手で,指導案が書けない実習生の方が授業が上手なのか? | トップページ | 小学校における時間割の柔軟な編成は,教える側の都合に合わせた劣悪な学習環境を生む原因となる »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より