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子どもに精神的なダメージを与えて教師が快感にひたる「指導」を学校現場から排除するために

 道徳を教科化する前に,学校現場で行われている問題行動に対する「生活指導」の質を道徳的な観点から見直すことをすべきである。

 そうでないと,問題行動に対する悪質な「生活指導」がますますエスカレートし,「指導死」=児童生徒の自殺が増えてしまうおそれがある。

 もともと,なぜ生徒が問題行動を起こすと,教師たちは「複数」で対応することになっているのか。

 それは,学校側の論理では,「体罰の防止」「感情的になりすぎることを抑える」「フォロー役を近くにおく」「公正な判断を下す」などといった目的がある。

 しかし,全く同じようなタイプの「ガミガミ」型が複数目の前に現われてしまえば,子どもは圧力を感じて萎縮し,動揺し,不安や恐怖を感じるようになる。

 もしも,複数で生活指導を行う目的が,「子どもに圧力をかけるため」であるような学校があれば,一度都庁なり区市町村の教育委員会に教員を一人ずつ呼び出して,「強い立場の者から一方的に圧力をかけられる」疑似体験ができる研修を受けていただきたい。その後,「指導死」児童生徒の遺族の苦悩の記録を読んでもらいたい。

 学校によっては,問題行動が常に起こっているのが当たり前,というところもある。

 問題行動の根絶は,どのような「指導」によって可能になるのか。

 「こわい先生の存在」でどうにかなった時代は去っている。

 「どうにかなる」時代ではなく,「子どもが死を選んでしまうかもしれない」時代になっている。

 「命を大切にする教育」と,「精神的な圧力をかける教育」は両立しないのである。

 道徳の教科化に意義があるとすれば,学校全体の指導の一貫性を教育的意義の観点から説明できる能力をすべての教師に持たせることにある。

 いたましい「指導死」のあったすべての学校は,生活指導の実態をしっかりと伝え,地元の教育委員会はそれを「恥」と思わず「糧」と認識して,再発を防止するための先導役を担うべきである。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より