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2016年3月

授業における教師の粘着力のあるコミュニケーション

 教育実習をひかえた大学生の模擬授業をみていると,

 多くの大学生が子ども(役)とのコミュニケーションをとてもあっさりと「流し」ながら進めていることが気にかかります。

 これは,いつも教育実習生の最初の授業で気になることで,指摘し続けていることだからです。

 背景には,「早く先に進まなければならない」という切迫感や,

 「こちら(授業者)側が深くつっこまれたら困る」という不安感があるようですから,

 無理矢理変えさせる必要はないのですが,

 淡泊なやりとりを続けていると,やがて子どもは発言してくれなくなってしまうのです。

 ですから,できれば「聞き直し」「問い直し」を増やして,

 より正確な生徒の意図をくみとれるようにしたり,より具体的な内容を生徒に語らせることに授業者はつとめるべきなのです。

 私の場合は悪い例かもしれませんが,

 1対1のやりとりをしばらく続けてしまうことがあります。

 ただ,それは全員が集中して聞いてくれる空気を感じるから行っていることであり,

 子どもと教師の対話のおもしろさに教師である自分自身はもちろん,子どもたちも引き込まれるからこそ行うことなのです。

 授業の中で,小さいことから議論が多方面に広がっていく過程,

 わずかな気づきが深い認識につながっていく過程を周囲も体感できる「対話」は貴重なのです。

 こういう「粘着力」は,教師自身の教材そのものへの姿勢にもつながっていきます。

 子どもの方がとても鋭い,斬新な視点で課題に気づく場合もあり,

 それを見逃すまいとする教師の姿勢も大切です。

 そういう姿勢を教師が持っていれば,

 あいまいな発言をそのまま放置することはあり得ません。

 子どもの表現力を豊かにしてあげるには,教師や他の生徒による様々な「言い換え」に,最初の表現をした子どもがどんな反応を示すかを敏感に見て,「本当に言いたかったこと」が言えるように支援してあげるという方法があります。強い粘着力で,奥にあったものを引っ張り出すイメージです。


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民主主義社会の担い手をつくる社会科の授業

 帝国書院の中学校公民的分野の教科書では,民主主義を次のように説明しています。

>すべての人が意見や考えをもち寄り,方針やルールの決定に参加することによって,それぞれが幸せになるように努力する,これが民主主義です。

 このことを理解させるための中学校の授業とは,どうあるべきなのでしょうか・・・・・。

 
 昨日,本日と,平成28年度に教育実習を行う大学生などと一緒に指導案づくりや模擬授業を行いながら,「授業とは何か」を考える時間を過ごすことができました。

 ある学生が選んでくれたテーマが「多数決」というものだったので,

 「民主主義とは何か」を考える活動にもなっていきました。

 模擬授業では,「多数決で決めたはずなのに,実際に決まったことを心から望んでいる人が少なかった」という事例をもとにして,「みんなが納得できることをどのように決めるべきかを考える」ことが柱になっていました。

 私が注目したのは,生徒役の学生の意見の中に,

>話し合いでもめるのが嫌だから,さっさと多数決で決めた方がいい

 という趣旨の考え方が見られたことです。

>中心となる人物が決めてくれれば,みんなそれについていく

 ・・・・政治の世界でこういう考え方がどのような結果を招く可能性があるか,大学生ならわからない人はいません。

 しかし,実際の中学生ならどうでしょうか。

 「民主主義はめんどうくさい」

 という感想が出てくることも想定にいれて,それでも「民主主義」の考え方が大事なのはなぜかを訴える教師の力を重視するのか,本当の意味で子どもに気づかせることを重視するのか,現場の教師でも難しい選択です。

 大事なのは後者であることはだれでもわかっていることなのですが。

 
 今回の大学での教育実習準備では,「チームでの話し合い・準備・検討」を重視しました。

 そしてその成果も大きかったようです。

 まさにその実感を,子どもに持たせることができる授業が実現できることを祈っています。


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新任教師のあなたへ~ビル・ゲイツの言葉を借りて・・・

 新入社員向けに書かれたある記事に紹介されていたビル・ゲイツの以下の文句をもじって,新任の先生に贈る言葉があります。

>世間は,君の自尊心を気にかけてはくれない。世間は,君が自尊心を満たす前に,君が何かを成し遂げることを期待している

 
 子どもたちは,あなたの自尊心を気にかけてはくれません。

 1年生なら同じような立場?ですが,上級生から送られる視線は,極めて「冷徹」なものです。

 あなたが自尊心を満たす前に,子どもの自尊心を満たしてあげる必要があります。

 子どもたちにとって,教師は欠かせない存在にも,どうでもいい存在にもなる相手です。

 あなたがどのような人間で,何を自分たちに語りかけてくれるか,

 授業でどのような受け答えをしてくれるか,部活動でどのような高い技術なりコーチングの能力を発揮してくれるかを期待しています。

 今時の子どもたちが最も求めているのは,

 「やる気を出させてくれる教師のはたらきかけ」です。

 
 自尊心のある人は,それを子どもは見事に(残酷に)打ち砕いてくれることもあるでしょう。

 教師の本当の自尊心とは,そういう子どもを見捨てず,むしろそういう子どもに教えを乞うような姿勢がとれるようになって初めて芽生えてくるものです。


 私も,新任校では,自尊心の塊みたいなところがありました。

 残念ながら,そこでは子どもの自尊心を傷つけることはあっても,自分の自尊心が傷つけられることは稀でした。

 二校目に行っても,自尊心は膨らんでいましたが,ここでは見事にそれを打ち破ってくれる子どもたちがいました。

 今では本当の自尊心を育んでくれた二校目の子どもたちに感謝しています。


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教員採用試験で必ず問われる中学校社会・高等学校地歴・公民の問題

 平成28年度に入ると,3度目の出題になるかもしれません。

 平成26年1月に,中学校学習指導要領解説と高等学校学習指導要領解説の一部改訂についての通知文が文科省から出されました。

 目的は,以下の通りです。

>我が国の領土に関する教育や自然災害における関係機関の役割等に関する教育の一層の充実を図るため

 改訂の内容は以下の2つで,対象となるのは中学校社会と高等学校地理歴史・公民です。

>(1) 領土に関する教育の充実について

>(2) 自然災害における関係機関の役割等に関する教育の充実について

 中学校社会の地理的分野では,

>竹島について,我が国の固有の領土であることや韓国によって不法に占拠されていること,韓国に対して累次にわたり抗議を行っていること等を扱うことを明記

>尖閣諸島については,我が国の固有の領土であり,また現に我が国がこれを有効に支配しており,解決すべき領有権の問題は存在していないこと等を理解させることを明記

 中学校社会の歴史的分野では,

>明治期に我が国が国際法上正当な根拠に基づき竹島,尖閣諸島を正式に領土に編入した経緯に触れることを明記

 中学校社会の公民的分野では,

>北方領土や竹島に関し未解決の問題が残されていることや,現状に至る経緯,我が国が正当に主張している立場,我が国が平和的な手段による解決に向けて努力していることを理解させることを明記

>尖閣諸島については,現状に至る経緯,我が国の正当な立場,解決すべき領有権の問題は存在していないことを理解させることを明記

 国家の主張を「理解させるべき教育内容として具体的に指示」した事例は,かつてあったでしょうか。

 教師の立場は,あくまでも「国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者を育成すること」であり,

 「日本への国土愛が強すぎて,平和的でなく,民主的でもない国家や社会をめざす人」にすることを避けることです。

 ですから社会科の教育目標には,「諸資料に基づいて多面的・多角的に考察」することの大切さが示されているわけです。

 授業では,北方領土問題に対するロシアの主張,竹島に対する韓国の主張,尖閣諸島に対する中国の主張をふまえた上で,日本政府の見解の根拠が理解できるようにする教材なり授業展開なりが求められます。

 平成28年度,つまりこの春に中学校に新入学する生徒は,新しい教科書を手にします。

 高校生は平成29年度になります。

 新しい教科書では,領土に関する記述が増しているはずですが,教師になるべき人が領土に関する知識を欠いていてはまずいですね。

 ですから私が社会科や地理歴史・公民科の面接官なら,必ず聞いてみることにすると思います。

 尖閣諸島をめぐる中国の動きと日本政府の見解について,簡単に説明してみてください。このことを授業で扱うときに,あなたならどのような教材を使いたいですか?


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学校選びの基準~ただでさえ同質性の高い日本で・・・

 読書編で紹介したニューズウィーク日本版3月22月号の特集に,「多様性か同質性か 学校選びの新基準」がある。

 アメリカの教育論議で語られる「多様性」には,単なる所得水準の違い以外に,異なる人種や移民との関係性がある。「行き過ぎた多様性」に対する家庭の危惧は,同質性を重視するきっかけになっているようだ。

 同質性の弊害は,

>立場の異なる人の共感や寛容の気持ちが育たず,偏狭なエリート意識に凝り固まってしまうという不安

 であるが,同質性の高い学校で育ってきた人が社会に出てからどうなっているかを数値的に分析することは難しいだろう。

 「不安」は「不信」に成長するやっかいな存在であり,不当なバッシングに結びつくおそれもあるから,学校によってはカリキュラム上で工夫をしているところが多いはずである。

 日本では公立の中高一貫校が増えており,中堅層から富裕層の人気が高まっているが,学校の立場で生徒を集めようとするとき,強調のポイントになっているのが「同質性重視」という環境の宣伝である。

 一般的に公立学校と言えば,似たような仲間というより,多様な友達と切磋琢磨できる場としての魅力があるわけだが,入学定員の数倍以上の子どもから選抜されている公立中高一貫校は,明らかに「私立型」である。

 「すべての生徒が同じスタートラインに立って学習を始められる」という勧誘の言葉は,入学してからすぐに競争に走らせるための動機付けにもなっている。

 私立の男子校,女子校,国立でも男子校の筑駒のように,性別という点でも同質性を確保している学校の学力は高い。

 同質性が高い環境を重視する背景には「安心感」を得たい,という欲求があるのだが,

 多様化が進む社会の中で,「安心感」を重視した人々が生き残っていくためにとる選択肢は,

 多様性の排除ではないか,という「不安感」「不信感」をどう払拭していくかが課題なのだろう。


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差別のない社会の「不倫」バッシング

 当初は腫れ物に触るように恐る恐る報じられていた「最近」の「不倫」報道は,

 「選挙対策も万全」という皮肉が出た当たりから,正面切ってのバッシングが増えてきた。

 本当に差別のない社会では,体のハンディを乗り越えての?「不倫」にも「正当なバッシング」ができるということだろうか。

 一部の人を「着火」させたのは,本人からのカミングアウトではなく,配偶者からの「謝罪」であった。

 まさかそんなところで「理想の妻」像がつくられてはたまったものではない,という感情もあるだろう。

 「心の広い妻」

 「夫に献身する妻」

 「夫の過ちを許せる妻」

 「どんなときでも夫を支えることができる妻」

 ・・・・お二人は,どのような「結婚式」をされたのだろう。

 「どんなときもお互いを支え合うこと」を神に誓ったのか?

 「どんなとき」とは,相手が不倫をしたときも含まれるのか?

 「愛していない相手との」=「遊びとしての」不倫なら許されるのか?

 以前に書いたように,「被害者」である子どもがいる可能性が高いから,学校の道徳の授業では扱いにくい題材である。

 「自分が(道徳を)教えた子どもたちに謝罪しろ」とは,夜回り先生からの要求だっただろうか。

 以前,「そういうこと」をしていた人から直接聞いた,という人の話を聞いたことがある(からあてにはならないかもしれないが)・・・

 「あれはやめられないだろう。ギャンブルやアルコール,タバコと同じ。中毒だ。依存症みたいなもの。」

 「許す妻」がいたら,なおさらで,いつでも妻が笑顔でいてくれるなら,子どもにも害がない,とでも言いたいようだった。

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不平不満を書き散らすことが恥の上塗りになっている

 どの職場にも,「ぼやき」「嘆き」「愚痴」ばかり吐いている人がいるに違いない。

 本人は,それを口にすることで,ストレス解消になっているようだが,聞かされる側はたまったものではない。

 パーソナリティ障害をかかえる人の中には,人間関係がうまくいかない原因が自分にあることを知る機会がなく,周囲のせいにしてばかりで何の改善も得られない気の毒な人が多いだろうが,迷惑をこうむっている側としても,「障害」の理解を深めることでしか,自分にふりかかってくる災難を緩和できない悲しさがある。

 せめて,掃いて捨てるほどあり,気に入らなければいくらでも読み飛ばせるこのようなブログなどで不満をぶちまけ,ストレスを解消していただきたい。

 ブログを読んでいると悲しくなってしまうのは,こういうブログに書かれている不平不満も許せないといいながら,自分自身が思いっきり不平不満を書き続けている人である。

 「自分だけは,どんなことをしてもスルーされる」と信じてやまない人は,自分が「裸」であることに気づかない「王様=幸せ者」なのだろう。

 気づかない方が本当に幸せに生きられると考えるかどうかは,人によって意見が異なるかもしれないが。

 これから,人とのかかわりを持たないまま一人暮らしをする高齢者がますます増えていく。

 ネット上で書き散らかすしか不満のやり場のない人たちはどうやって救ってあげられるのだろうか。

 『学び合い』の授業が大嫌いなら,そうではないアクティブ・ラーニングの授業で子どもたちを惹きつけた自分の実践をどんどん紹介すればよい。部活動のようにそもそもが「アクティブ」のものではなく,1時間1時間の授業の実践である。

 せめて,幼稚な不満をぶちまけているだけのブログを「よいしょ」するコメントだけはやめてあげてほしい。

 ただでさえ恥の上塗りで惨めさが際立っているところに,「褒め殺し」はきつすぎるだろう。

 
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芸能人,国会議員,国会議員に立候補しようとしている教育者の「不倫」報道

 「道徳」的にどうかと言われれば,弁解の余地はない「不倫」。

 「ゲス」から始まる「不倫」報道の経緯をたどっていくと,「バッシング」の強さの違いが改めて際立っているのが標題の三者に対するコメントである。

 「三発目」の「教育者」の「不倫」暴露は,「怒り」よりも「驚き」として捉えられている。

 夫に不倫された妻の「謝罪」も含めて。

 個人的には,三者のうち,最も影響力の大きい「不倫」は何か,と問われたら,間違いなく「三発目」のものである。

 隠し立てせず,聞いてもいない「事案」もカミングアウトすることも含めて,「驚き」が「憤り」を覆い隠すような報道になってしまっているが,彼は学校現場の教師だった人間でもあり,「道徳」を教えていただけでなく,教育委員もつとめていた経歴をもっている。

 これこそが「ゲスの極み」であると怒りたい人も少なくないはずである。

 子どもが中学生くらいになると,難しい子育てをめぐる対立から,夫婦仲が悪化し,離婚にいたるケースが増える実態を,教育現場にいる私などは知ってしまう立場にいる。

 子どもがいる場合,「本人同士の問題」「夫婦間の問題」では片付けられない。

 両親の不仲やどちらかの「不徳行為」「背徳行為」によって心に傷をおった中学生を癒してくれるものは何だろうか。

 今日,報道されていたような「反省文」だろうか。

 「不倫」で得をする人間は,取材している記者と報道機関の人間しかいない。

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子どもの生き抜く力を守るために

 子どもの命を守るために学校の果たすべき役割は大きい。

 学校の教師たちには,「子どもの命を守る専門家」としての自覚が必要である。

 自殺の原因となるのは学校では,いじめ。家庭では,親からの虐待。

 家庭に課題がある子どもを守る上で,教師たちにとって重要なのは,児童相談所との連携である。

 一時保護を積極的に進めていくのに,児童相談所だけの判断では難しそうである。

 教師と児童相談所,地域で顔がきく人々との連携が欠かせない。

 もし教師が地域にある児童相談所の職員との面識がない場合は,

 すぐにでも顔合わせを行うべきである。

 4月1,2日頃の管理職の挨拶まわりで,警察署をはじめ,児童相談所も絶対にはずしてはならない場所である。
 
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校長の「子どもを2人以上産むことが大切」発言に最も傷つく人は・・・

 学校における女性の教員の割合は,小学校で6割,中学校で45%,高校では27%くらいである。

 このうち,結婚していない女性はどれくらいいるだろうか。

 「生涯未婚率」という数字があるようで,ある人が紹介しているデータだと教員の女性の十数パーセントが「障害未婚」ということである。「子どもを2人以上産んでいない」女性教員ということになると,もっと割合は上がるだろう。

 どこかのメディアが報道で扱ったかもしれないが,

 校長の「2人以上産め」発言で最も傷つくと考えられるのは,その学校でたとえば40代,50代で未婚だったり,既婚でも子どもがいない女性の教員である。

 「いい歳して子どももいないくせに,偉そうなことを言うな!」と逆ギレする親がときどきいるが,

 そういう感覚を学校の教員や管理職自身も持っている可能性がある。

 もし,校長の発言が,気に入らない女性教師への当てつけだったりしたら,校内での「いじめ」「セクハラ」「パワハラ」にあたる可能性がある。

 学校現場では,飲み会の席の発言にも相当に気をつけなければならない時代になったという感覚がある。

 不思議と「その人に言われるのは腹が立たない」という人がいるのだが,管理職になれば,それだけで「敵」扱いする人もいるわけだから,言葉には本当に注意しすぎるということはない。


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「嫌いな人の不幸を喜ぶ」心は正常か?異常か?

 自分たちが大嫌いな人間の悪口は,尾ひれをつけながら拡散されていく。

 LINEなどのSNS上でかわされるこうした言葉は,直接本人が見ることを想定していない場合でも,心ある(が慎重派ではない)子どもが「こんなことを書かれているよ」と本人に知らせてしまい,「自殺」の原因になってしまうこともある。

 自分と異なる意見をもっている者,自分が嫌いな者,自分のことを批判する者の「幸福」を願う人はあまりいないだろう。むしろ,「不幸」を願ってしまっている自分に気づくことはできるのではないか。

 それは人間として「正常」なのか,「異常」なのか。

 何をもって「正常」とみなすかの定義によるだろうが,

 「望ましい」「望ましくない」よりは難しい定義になるだろう。

 もし人間が,自分に対して殺意を持っている人に好意を抱き,何でも好きなようにさせてあげるという「心の広さ」をもっていたとしたら・・・・。

 もちろん,その「心の広さ」が相手の殺意を消滅させるための唯一の手段だ,という主張もあるだろうが,

 「自分の命を守るためなら,攻撃してくる相手をやむを得ず傷つけても罪には問われない」ことは正しいか,誤っているかと問われたら,前者を選ぶのが多数であるに違いない。

 だれでもわかることは,「お前は狂っている」と言われて「幸福感」を得る人間はいない。

 「お前は狂っている」という発言をする人間というのは,相手を「不幸にさせたい」人間である。

 相手を「不幸にさせること」で,本人が喜んでいるかどうかはわからない。

 わざわざ他人を「不幸にさせること」を書いていることだけは確かである。

 その背景には,「自分が嫌な思いをした」ことがあるようだ。

 そのことをだれもわかってくれないので,「周囲が狂っている」ことにしているだけかもしれない。

 しかし,障害のある人を相手にそういう書き方をすることはよくない。

 最も人権感覚が麻痺している人間は,学校の教師だと言われることがある。

 道徳の教科化は,子どものためというよりも,教師をまともにするためだと言う人もいる。

 言論の自由は何のためにあるのか。

 「大人」の文章を「教育ブログ」では目にしたいものである。

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自分にとっての今の幸福感が,だれにとってのどのような不幸の上に成り立っているかの想像力を育むべき

 小中学生は,人格をかたちづくる上でとても重要な時期を過ごしている。

 当然,まだ身につけていない知識や技能がたくさんあり,それは本を読めばわかるというレベルのものから,実際に人と接することで「腑に落ちていく」ものまで,様々な種類のものがある。

 他人の「不幸」の状況が,自分にとっての「幸福感」に結びついてしまっていることがらを学ぶ時間も,どこかで保障してあげるべきだろう。

 高校生くらいになると,敵対する人間たちの不幸を見て,喜んでしまう人間は,「本来の人としての姿」なのか,そうではないのかを考えることができるようになる。

 日本にも,さまざまな障害があるために日常生活を送る上で苦しんでいる人々が多いが,心ない人は,こうした人から自分たちは「迷惑を被っている」という趣旨の発言をしている

 あまりにも視野が狭いため,自分が差別的な発言をしていることにすら気づけていないようである。

 「視野を広げる」という学校教育における社会科の目標の一つはこういう意味でも重要であり,教師は子どもたちの「視野を広げる」ために,ありとあらゆる教材を吟味して,「知識の獲得」以上に「心の成長」を促すべきであろう。

 本日付の日経の経済教室で,国際協力機構理事長の北岡伸一さんが「持続可能な開発目標」の視点から,日本の役割に対する提言を行っているが,ここで紹介されている「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の17の目標を示しておきたい(国際連合広報センターHPより)。

目標1:あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つ

目標2:飢餓に終止符を打ち、食料の安定確保と栄養状態の改善を達成するとともに、持続可能な農業を推進する

目標3:あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を推進する

目標4:すべての人々に包摂的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する

目標5:ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る

目標6:すべての人々に水と衛生へのアクセスと持続可能な管理を確保する

目標7:すべての人々に手ごろで信頼でき、持続可能かつ近代的なエネルギーへのアクセスを確保する

目標8:すべての人々のための持続的、包摂的かつ持続可能な経済成長、生産的な完全雇用およびディーセント・ワークを推進する

目標9:レジリエントなインフラを整備し、包摂的で持続可能な産業化を推進するとともに、イノベーションの拡大を図る

目標10:国内および国家間の不平等を是正する

目標11:都市と人間の居住地を包摂的、安全、レジリエントかつ持続可能にする

目標12:持続可能な消費生産のパターンを確保する

目標13:気候変動とその影響に立ち向かうため、緊急対策を取る

目標14:海洋海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する

目標15:陸上生態系の保護、回復および持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化への対処、土地劣化の阻止および逆転、ならびに生物多様性損失の阻止を図る

目標16:持続可能な開発に向けて平和で包摂的な社会を推進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供するとともに、あらゆるレベルにおいて効果的で責任ある包摂的な制度を構築する

目標17:持続可能な開発に向けて実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップを活性化する

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なぜ塾の授業は「面白い」のか? ~コメントへの返信から~

 塾の授業が本当に「面白い」ものなのかどうかは,塾の講師が学校にやってきて,1時間目から6時間分,塾の授業をやってみて,一方,塾では学校の教師が出向いていって,学校の授業の内容を3時間くらいやってみて比較してみるとわかりやすいかもしれませんね。

 何をしばりにするかというと,塾の講師は,塾のテキストではなく,教科書を使うことが義務。

 学校の教師は,教科書ではなく,塾のテキストを使うことが義務。

 もしこのような実験をしてみたら,どういうことがわかるでしょうか。


~いただいたコメントへの返信です~

コメントありがとうございます。

私は塾での講師経験がありますが,基本的に塾の学習はできあいのテキストや教材を毎日決まった部分を決まった分だけ進む仕組みです。

小中学校でも教科書があるのだから基本的に同じ仕組みでは?と思われる人も多いでしょうが,学校では生徒の興味・関心・達成度の差・集団としての力量向上などを考慮しながら,教科書以外の教材やICTも駆使して「プリントやテキストに頼らない」授業を実践するのが基本です。新宿区の小中学校はいかがでしょうか。

今話題のアクティブ・ラーニングは,大学などとは異なって,小中学校では昔から行われています。いわゆる「話し合い活動」を頻繁に行う教師もいて,「生徒各自の学習の主体性を重視する」ことは教育課程でもうたっている学校は多いのです。

それでも・・・・学力が向上しない子どもが多かったり,もっと質の高い学習を望む親は,・・・実は,入試で効率よく得点がとれる技量を高められるというのが最大の魅力なのでしょうが・・・塾への期待を学校より高くもっている現状なわけです。

言うまでもなく,授業が上手くできない教師が多数であることも事実でしょう。

私は社会科の教師ですが,塾講師の経験を生かし,夏休みに行った国語と数学の補習によって,参加した生徒の業者テストの偏差値を「40」から「50」くらいに・・・つまり,平均点くらいとれるところまで向上させることができました。

授業に工夫などはほとんどありません。高校入試の良問を選んで解かせたり,毎回計算と漢字の小テストを繰り返したりしただけです。何がわかっていれば,どういう問題を解くことができるのか。この問題が解けないのは,何ができないこと,何を知らないことが原因なのかを説明しただけ。

国語や数学の授業をしなくても,入試問題を解けるようにすることは可能だということです。

行政が,塾に通うお金までばらまき始めたら,日本の教育はどうなるのでしょうか・・・。


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学校の授業が塾と同化する弊害

 「入試が変われば,教育が変わる」

 この言葉の背景には,入試を突破するということだけを目的に教育が行われるようになっている実態があるわけです。

 しかし,入試はなくても,授業を変えない,授業が変わらない,という問題はあるようです。

 ある私立の小中高大一貫の先生に伺った話では,社会科の授業はひたすらプリントの穴埋めをしていくようなもので,当然,テストも似たようなものになると。

 塾のような授業の特徴は,

 教員免許状をもっていない大学生でも教えられる。

 子どもは穴埋めの言葉を覚えるだけだから,テストで点数もとりやすい。

 テストで高得点をとれる子どもが多いから,教師も子どももそれなりに達成感がある。

 仕事や勉強をした気になる。

 ・・・・入試はなくても授業は楽な方にいくわけです。

 下手に小中学校で,「課題追究型の学習」を実践されると,

 自分で疑問を立てなければならない

 自分で教科書に書いていないことも調べなければならない

 自分で調べたことをまとめなければならない

 自分でまとめたことをもとに,わかりやすいプレゼン資料をつくらなければならない

 自分で作ったプレゼン資料をもとに,発表しなければならない

 自分の発表だけでなく,他の生徒の発表を聞かなければならない

 他の生徒の発表を聞いて,自分なりの意見を考え,質問や発表をしなければならない

 自分の発表に対する他人の質問や反論に,しっかりと根拠をもって答えなければならない

 ・・・・・・・

 こういう「授業」をしている塾はないでしょう。

 ひたすらテキストを進めて,過去の傾向からある程度予想可能な入試問題が解けるようにする場所が塾だからです。
 
 もし,最初に紹介した私立の小中高大一貫校のような授業が「スタンダード」になってしまったら・・・。

 学習指導要領を変えても,ほとんど意味はないことがわかってしまいます。


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行政の「ばらまき」は子どもから向上心を奪うものか?

 なぜ子どもは無償で提供されている学校の授業を真剣に受けなかったり,適当にサボったりするのに,

 親が高い金を払っているおかげで受けさせてもらえる塾の授業をしっかり受けるのか。

 教師になって,10年目くらいまでずっと感じていた素朴な疑問であった。

 「タダのものはたいしたことないもの」

 「有料のものは価値のあるもの」

 という価値観を親も子どもも持っているのではないかと考え,

 実際に聞いてみたら,「そのとおりです」と答える人が多かった。

 実際に聞こえてくる「心の声」「本音」とは,「学校の授業はつまらない」が,

 「塾の授業はおもしろい」というものだった。

 なぜ学校の授業はつまらないのか。

 それは「受けなければならない」ものだからか。教師の指導力や熱意が乏しいからか。

 塾は,わざわざお金を払わないと通えない場所である。

 「受けなくてもよい」が,「お金を払ったこと」が「受ける動機」になっているのか。

 英語学習にも似ているだろうか。

 今は,いくらでもただで使える教材,映像,アプリケーションがある。

 それでもわざわざお金を払って英語をマスターしようとする人がいる。

 ある人は,「選択の余地のあるものは,自分が選んだという事実自体が学習する動機になる」という。

 だから時間割をすべて決められて,次々に決められた人が教えにやってくる学校という場所は,そういう仕組み自体で強力に「主体性」を奪っていると言えるのだと。

 行政の手厚い支援が,実は支援を受ける側の向上心や忍耐力や主体性を奪っている,という考え方もある。

 「自分自身で何とかしないといけない」という自主性,主体性を奪っているのは行政だと。

 「子どもは貧乏の方が,向上心が育つ」という発想は,時代錯誤的な印象もするが,自分にあてはめてみても「絶対的な誤り」とは言いにくい面がある。

 何でもかんでも行政=税金による助けを求めようとする姿勢が,財政破綻を生み出す原因となっているのではないか。

 自分で何とかしろ,と言える政治家はいないだろう。

 沖縄の議員さんはよい問題提起をしてくれたと考えている。

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国土強靱化推進室って知っていますか?

 「国土強靱化推進室」とは,国のどのような機関に属する部署かご存じですか?

 国土交通省?

 経済産業省?

 農林水産省?

 正解は,「内閣官房」です。

 
 国土強靱化推進室が発行し,学校に配布された資料を手に取ってみました。

 タイトルは「防災まちづくり・くにづくり」学習ワークブック
 
 「防災まちづくり・くにづくり」を考える というA4サイズで19ページほどの小冊子です。

 
 この冊子の中に,おそろしい「災害の後遺症」が紹介されているのが気になりました。
 
 災害が起こると・・・

>日本全体が災害で「不況」になる

>(それが長引けば) 被災した地域が消滅の危機に。

>日本全体も,復興もできず,凋落の一途に・・・。

>今では想像出来ないほどの「貧しい国」に。

>国際的な地位も凋落し,外交も低迷。

>「税収」も大きく減って,防災,教育,福祉,国防・・・等ができない国に。

 おそろしい将来予測ですね。

 小中学生にそれなりの衝撃を与えるねらいがあることがわかります。

 「国土強靱化推進室」のお仕事ですから,視点が「国土」レベルというのが影響しています。

 「防災まちづくり」学習ではなく,「防災まちづくり・くにづくり」学習であるところがミソなんですね。

 
 小学生が楽しめそうな作業ができるのは,

 白地図に市役所や病院,工場や発電所,ダムや津波タワー,住宅を配置していけるページなのですが,

 海と山が接近し,川が流れているという特殊な地形の場所は,地域によってはそれほど多くはありません。

 しかし,災害が起こりやすい地域であることはたしかです。

 さすがに小学生に「国土」レベルの視点で考えさせるのは難しいので,このような「まちづくり」の視点に限定されることになります。

 ただ,「まち」レベルだと,「ここは危ない」という実際の場所に住宅がある子どもはどうしたらいいのでしょう。

 家に帰って,「こんな場所に住んじゃだめだよ」と親を問い詰めるのでしょうか。
 

 防災・減災教育を推進するためのキーワードは,

 「自助」「共助」「公助」の3つです。

 この3つの言葉を考えるページの見開きに,先ほどの「衝撃の未来」があることはプラスとなるか,マイナスとなるか・・・・。

 結局,「自分で自分を守ったり,地域で助け合うにも限界がある。政府や行政がどんどんお金をつかって防災のための整備を進めるべきだ・・・・」という結論が見えてきてしまったりして・・・・。
 
 どれだけ消費税が増税されても,防災や減災のためにお金を使うべき,という意見をもてる小学生,中学生を増やすことが大切だ,という意図がよく伝わってきます。


 こうしたパンフレットは,教師が道徳や社会科の授業でふれることで,その教材としての価値を高めることができます。

 子どもの疑問は,このように教師につきつけられます。

 「こういうまちづくりをするのに,いくらかかるのですか? 税金で足りますか?」

 「税金は今でも足りていません」

 「では,どうしたらいいのでしょう」

 「増税?」

 「防災をあきらめる?」

 「自助と共助にたよる?」

 「もともと災害がおこりにくい地域に人々が住むようにする?」

 アクティブ・ラーニングとよばれる学習が可能になりそうです。


 ところで,国土強靱化をPRするためのポスターのモデルさんが,少し痛いところです。

 イメージキャラクターが『かつては強靱だった人』では,どうにもかっこがつきません。

 「ナショナル・レジリエンス」という言葉が一般の人になじみのある言葉になるまでには,相当の時間がかかりそうですね。
 
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高校入試の倍率が1.03倍って・・・全員合格じゃだめなの?

 入試の倍率が1.03倍って・・・何人が不合格になるのだろう。

 私のかつての勤務校の近くには,入って3か月以内に1年生が大量に退学する高校があった。

 「どうせなら・・・」という声がもれて聞こえそうな,高校の「定員管理」である。

 希望すれば全員が合格できる仕組みには,絶対にしたくない,という。

 でも,そうやって入学できた高校の方が,まだ「早期退学者」の数は抑えられるのでないか・・・?

 高校での学習ではなく,生活をエンジョイするために,通える学校をつくってあげたほうが・・・。

 今でも思い出す。

 どうにかこうにか,中学校生活を過ごさせてあげる?ことができた子どもが,

 せっかく進学した高校をわずか2~3か月で退学になった。

 「教師が気に入らねえ」というのが退学理由である。

 こういう「子ども」もしっかり教育してくれる「高校」が,もう少し増えてくれると助かるのだが・・・・。

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なぜ「朝自習」が「朝読書」に変わったのか? なぜ「朝○○」があるのか?

 生徒が「遅刻」になるのは朝8時何分すぎか?

 私が勤務していた公立中学校では,8時20分までに登校しなければならなかった。

 担任教師が教室で出席をとる時刻が8時20分。これ以後に登校すると「遅刻」になる。

 担任教師は出席をとると,職員室に戻り,「職員の朝の打ち合わせ」が始まる。

 授業の開始は8時40分である。

 8時20分から40分まで,教室には先生がいなくなる。

 この間の時間に生徒は何をしているか。

 昔は「朝自習」がさかんに行われていた。教材は親から徴収した教材費で購入した市販のものであることが多い。

 ドリルを解いて,自分で(隣同士で)採点する。

 これは「授業」とよべるのかどうか。

 残念ながら,指導者がいないのだから,これは「授業」とはよべない。

 だから15分×3日分やれば,1単位時間を履修した,ということにはならない。

 ある時期から,「子どもの読書量が少ない」ことが話題になった。

 「朝自習」は,わからない子どもを中心に,教師もいないため効果的な学習になっていないという反省もあった。

 ふくらんでいる「教材費」を減らそうとする動きもあった。

 そこで,「朝読書」に切り換えられた。

 はじめのうちは,「果たして生徒は黙って10分,15分の間,本を読むだろうか」と心配だったが,荒れている学校でも落ち着いて生徒は本を読んでいることが伝わり,浸透していった。

 この「読書」の時間も,「授業」とは呼べない。

 学校にはこのように「隙間時間」はあっても,教師がいなければ「教育活動」にはならない。

 せめて「自主的な学習活動」の時間としか呼べない。

 ・・・・・はずなのだが,「アクティブ・ラーイング」を『学び合い』程度の「学習」で授業としてやってもよいという話になると,教師がいるいないにかかわらず,子どもが取り組んだだけで「授業」になってしまう。

 いずれ,「授業」という言葉も私語になっていくのかもしれない。

 そして,「教師」という言葉も死んでいくのだろう。


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子どもに精神的なダメージを与えて教師が快感にひたる「指導」を学校現場から排除するために

 道徳を教科化する前に,学校現場で行われている問題行動に対する「生活指導」の質を道徳的な観点から見直すことをすべきである。

 そうでないと,問題行動に対する悪質な「生活指導」がますますエスカレートし,「指導死」=児童生徒の自殺が増えてしまうおそれがある。

 もともと,なぜ生徒が問題行動を起こすと,教師たちは「複数」で対応することになっているのか。

 それは,学校側の論理では,「体罰の防止」「感情的になりすぎることを抑える」「フォロー役を近くにおく」「公正な判断を下す」などといった目的がある。

 しかし,全く同じようなタイプの「ガミガミ」型が複数目の前に現われてしまえば,子どもは圧力を感じて萎縮し,動揺し,不安や恐怖を感じるようになる。

 もしも,複数で生活指導を行う目的が,「子どもに圧力をかけるため」であるような学校があれば,一度都庁なり区市町村の教育委員会に教員を一人ずつ呼び出して,「強い立場の者から一方的に圧力をかけられる」疑似体験ができる研修を受けていただきたい。その後,「指導死」児童生徒の遺族の苦悩の記録を読んでもらいたい。

 学校によっては,問題行動が常に起こっているのが当たり前,というところもある。

 問題行動の根絶は,どのような「指導」によって可能になるのか。

 「こわい先生の存在」でどうにかなった時代は去っている。

 「どうにかなる」時代ではなく,「子どもが死を選んでしまうかもしれない」時代になっている。

 「命を大切にする教育」と,「精神的な圧力をかける教育」は両立しないのである。

 道徳の教科化に意義があるとすれば,学校全体の指導の一貫性を教育的意義の観点から説明できる能力をすべての教師に持たせることにある。

 いたましい「指導死」のあったすべての学校は,生活指導の実態をしっかりと伝え,地元の教育委員会はそれを「恥」と思わず「糧」と認識して,再発を防止するための先導役を担うべきである。
 
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嘘はどこまで許されるのか? 嘘が蔓延する背景とは何か?

 「嘘をつくのはいけないこと」とは知りながら,時と場合,相手によって,人は真実とは異なることを伝えることがある。

 ある友達に「だれにも言わないでね。実は・・・・」と打ち明けられたことを,第三者から聞かれたとする。

 「~はなんて言ってた?~は~だったんだよね・・・」

 「・・・いいえ,その話は聞いていません」

 秘密を打ち明けられた友達からの「だれにも言わないで」という願いを,

 第三者の「教えてほしい」という願いより優先した結果,嘘をついたことになるケース。

 もちろん「そのことは言えない」と正直に話せばいいのかもしれないが,

 「言えない」=「あなたが言っている通りだ」というニュアンスになってしまう場合,

 人はとっさに「知らない」と答える。


 母親が,父親以外の男性とつき合っていることを,たまたま見てしまった携帯電話のメールの履歴から知ってしまった子ども。まだ小学生の妹や弟に,「お母さん,今どこ行っているの?」と聞かれて,
 
 「お父さん以外の男の人のところだよ」と事実を伝えることがいいのか。

 それとも,「遠いところに買い物に行った」などといった「嘘」を伝えた方がいいのか。


 「どんなときでも嘘をついてはいけない」わけではないことは,コミュニケーション能力が高い人ならわかるはずである。

 「経歴詐称をした,ニュース解説の切り口が斬新で的確な情報分析ができる人」は,テレビに出るべきではないのか,謝罪すればいいのか。

 「女性には子どもを2人ずつ産んでほしい」という心からの願いを,校長という立場で中学生の子どもたちに伝えるべきか,どうか。

 賛否両論がありうることに対して,最近の流れは,問題点を指摘する側,批判する側に有利に働く傾向にある。

 賛成側に立っていること自体に批判の矛先がまわってくることもある。

 過ちを犯した人間はとことん排除されるべきだという風潮は,社会にとってプラスとなるか,マイナスとなるか。

 「嘘の蔓延」の背景には,どんな「空気」があるのかを探っていくと,どこか思い当たるところが見えてくるかもしれない。

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モジュール学習? バラバラな部品の製作を行っただけでは意味はない

 15分程度の時間で学習を行う「モジュール学習」には,基礎を徹底することを目的として実践されている事例があるようだが,そもそもこんな学習は,教師が「全員」を対象にやるような質のものではない。

 100マス計算に代表される,刑務所か軍隊での「しごき」のような強制的訓練が,どれほど学習の「主体性」を奪っているか,自省できる人はいないのだろうか。

 もし私がこんな単純作業を時間に追い立てられて押しつけられたら,それだけが原因で不登校になっただろう。

 わずかな「隙間時間」を何度か組み合わせて,総体としての「能力」を高めようとする個人の学習方法に使うのならいざ知らす,「ゴールのイメージ」がよく見えていない子どもに,パーツ=部品づくりだけをひたすら強いるような学習も,決して「自ら学ぶ意欲」や「主体的に学ぶ姿勢」を身につけさせるものにはならないはずである。

 子どもたちは,「バラバラ」で統一感のない学習を,ただ「飽きさせない」「集中させる」という目的だけで取り組まされていく。

 モジュール学習の問題点をきちんと指摘できる人は小学校現場にいないのだろうか。

 英語教育のプロは1人もいないはずだから,あとはだれかの言いなりになるしかないのだろう。

 教師も不幸だが最大の被害者になるのは子どもである。

 
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小学校における時間割の柔軟な編成は,教える側の都合に合わせた劣悪な学習環境を生む原因となる

 45分授業を15分×3にわけて実施する初任者の授業を指導したことがあるが,じっくりと参観した上で,さまざまな問題点を発見し,安易な実施を避けるように指示した経験がある。

 以前にも書いたことだが,総合的な学習の時間が「補習」のために運用されているような実態があった(今もやっているところがあるかもしれない)。

 15分でできることと言えば,漢字や計算のテスト程度のことである。

 ある学校では,実際に漢字を書いたり計算をしている時間よりも,採点を待つ時間の方が長くて,無駄が多すぎると指摘したことがあった。

 これが,次期指導要領では英会話練習に費やされることになるかもしれない。

 担任がほとんどすべての教科を担当する小学校の場合は,週ごとの計画ではなく,自分の都合でいくらでも時間を延ばしたり縮めたりすることができる。

 子どもにはテストばかりやらせて,自分は管理職試験の勉強をしていた教師をこの目で見たこともあった。

 最もひどいのはティームティーチングのはずなのに,自分の机で事務作業をずっとしている問題教師の現場をおさえたこともある。

 時間割はこのように柔軟にというよりは,自分勝手に操作されて実施されているケースもあり,もし文科省が弾力的な時間運用を勧めるようなことになると,ますます悪用の頻度が高まるおそれがある。

 15分×3という方法は,英語指導をするにしても,できるだけ避けるべきである・・・というのが小学校の教育現場を見たことがある私の強い思いである。

 都道府県や市区町村の教育委員会では,文科省が言ったことに反論することはないから,むしろ「こういう方法がありますよ」と宣伝しにかかるおそれがある。

 そもそもなぜ単位時間が45分であるのか,その根拠すら曖昧になるような施策は,ただでさえ問題が多い小学校での教育の基盤を破壊するおそれがあることを,できたら多くの方に知っておいていただきたい。


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子どもはどのような教師の悪習を敏感に感じ取って嫌うのか?

 偉そうに小学校教育に関する著書を出されているが,学校現場では子どもの目の前で他のクラスの教師の批判を平気で口にする先生がいらっしゃる。

 教師集団全体への信頼感を獲得できないで中学校に上がってくる子どもは,中学校に入っていきなり不適応を起こしやすい。こういう大事なことは,小学校の先生が書いている本には登場しない。小学校によっては,学級の楽園(無法地帯)があるだけで,学年集団の結束が欠如しているところが多く,公立の中学校ではだからこそ「組体操が欠かせない」などという発想になってしまうのである。

 この学級の子どもが中学校でどういう事態に陥っているかの具体的なレポートを付録で読めるようにプレゼントしてあげたい・・・というのはただの厭味である。

 先生のお書きになっている本の趣旨は,「どうしたら小学生を思い通りに動かせるようになるか」であるが,頭の良い教え子たちは,本にわざわざ書かなくても「先生はこうすることを望んでいるのだろう」としっかり読んで行動する習性がついている。

 このブログでは,過去にも「操作主義的な教師の習性」の問題点を何度か指摘してきているが,自主的判断にせまられる場面が多くなる中学校で,こういう教師の教え子たちは何もできなくなってしまうから,気の毒ではあるがおもしろい。

 教師の顔色をうかがいながら生活する習慣を身につけた子どもたちを陰から観察していると,やがて「開放される悦び」というか,「自分を取り戻すことのうれしさ」を全身で表現できる時期が来るから,私たちは救われた気持ちになるのである。

 教師が授業中にいつも「指導案」「教科書」「原稿」「資料」を見ながら進めているのを体験した方はいらっしゃるだろうか。

 「え?そんなの当たり前じゃない?」と思う人がもしかしたら多いかもしれないが,私は中学校でそういう教師に出会ったことがない。高校では資料が多くなるので,そちらに目を落とす時間が長くなるが,中学校では基本的に教師と子どもはアイコンタクトをとりながら授業を進めている。

 常に生徒を見てくれている教師は,わずかなサインも見逃さないぞというメッセージを送ってくれているように思える。

 小さなつぶやきが耳に届き,その反応にリアクションを返してくれることのうれしさを感じた人はいないだろうか。

 教師は授業をする上で,単元の目標というものを持っている。

 そして本時の課題があり,目標がある。その目標を達成するための指導の展開をあらかじめ考えておき,資料を用意したり,重要な発問を書いたカードをつくっておいたりして,授業に臨み,理想的にはしっかりとしたまとめの時間をとって,生徒が理解できたかどうかを確かめて授業を終えるという通常の流れがある。

 これを記すのが「指導案」であるが,なかなか授業は予定通りにいくとは限らない。

 というか,授業研究をしている先生にとっては,予定通りに授業が進むことほど「つまらない」ものはない。


 教師の話も脱線するし,子どもの興味も脱線していく。

 ただその先が教科の本質とマッチしている限り,無理矢理軌道修正をすることなく,授業は流れに任せるのが普通である。

 進度を乱さないことがすべてである塾と学校の違いはここにある。

 子どもが嫌う教師の例は,わざわざ紹介するまでもないが,

 「自分」の予定を決めておき,子どもが何を質問しようと無視して,「自分」だけのペースで授業を進めて終わって職員室に帰っていくタイプである。

 子どもにとっては,その時間に寝ていても,教師の「仕事」には影響しないので,何の支障もない。

 別に先生に「悪い」とも思えないだろう。教師はこちら側の理解度がどうなっているかにはほとんど関心がないのだから。

 よく,「どのレベルの生徒に合わせて授業は進めるのですか」という質問を受けるが,

 それは授業によっていくらでも変化するとしか言いようがない。

 そもそも「どのレベル」とは,学力の高い低いを言っているのか,知識の量の多い少ないを言っているのか,学習意欲の高い低いを言っているのかわからない。

 レベルの高い発言が出てきたら,それをかみ砕くようにレベルを下げることもあるし,

 逆にレベルの低い発言しか出てこなかったら,「もしこう言われたらどう?」と高いレベルの問いへ引きつけることもある。

 授業は生きものである。

 考え得るすべての対応を指導案にしようとしていたら,そのために1年以上授業ができなくなる場合もある。


 テストのできが悪かったとき,こういうことを言う教師はいなかっただろうか。

 「こんなことは,授業で教えたはずです!」

 この教師にとっての「教えた」という言葉の意味は,(自分が)「言葉を発した」とほぼ同じである。

 「教える」ことの意味がわからない教師に習う子どもは不幸である。

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なぜ指導案が書ける実習生の授業が下手で,指導案が書けない実習生の方が授業が上手なのか?

 一方的な知識注入の教え込み授業の指導案など,すぐにできてしまう。

 「指導書」の丸写しでも,一応の指導案になる。

 私の学校の教育実習では,よく表題のような現象が起こる。

 指導案が書けないのは私の学校の卒業生で,指導案が書けるが授業が上手く成立しない他校の卒業生である。

 なぜ指導案も書けないのに,授業が成立し,子どもの学力も定着してしまうのか。

 指導案が書けているのに,授業が途中で破綻してしまうのはなぜか。

 それは,第一に,授業とは,フローチャートで示せるような単純なものではないということである。

 フローチャートで示せるようなものは,コンピュータでも代用可能だから,プレゼンソフトのスライドを順番に見せていけばよい。

 せいぜい3パターンくらい用意しておけば足りるだろう。

 しかし,授業では子どもが思いも寄らないところでつまずいたり,意外な質問を発したりしてくる。


 「想定外」の動きの場合は,当然ながら,指導案には書かれていない。

 指導案絶対主義的な指導を行う教師もいるかもしれないが,

 その教師が教えた子どもたちは,フローチャートのような授業に慣らされているから,同じような授業をしても成立する仕組みになっている。「自主的な学び」をしないようにしつけられている子どもたちなら,指導案だけが頼りでも授業は成立するように見えてしまう。

 私の学校の卒業生は,授業中によく「想定外」の状況に出会った経験があり,その対処法を自ら学ぶことを通して体得していることが多い。

 というより,むしろ授業のペースを乱す張本人が教育実習に来た方が,授業は格段におもしろくなる。

 一斉授業であるにもかかわらず,全員がしっかり頭を使い,ああでもない,こうでもない,これなら納得できるのではないか,いいやそうじゃない,こういう見方こそが正しいはずだ,いやいやそうではない・・・全員を巻きこんだ議論に発展する経験を子ども時代にしていれば,教師になっても一向に慌てる必要はない。

 しっかり子どもたちに発言し,それを受け止めていくことが教師の仕事となる。


 交通整理は難しいものだが,それはベテランでも同じ。

 指導案が書けただけで満足している学生は,子どもたちのあまりの

 「学習意欲の高さ」に,自分自身の勉強不足を身にしみて感じてしまう。

 こういう経験は貴重である。

 コミュニケーション能力のある人,実践をしている人が書いている教育論と,そうではない人が書いている教育論の違いは一目瞭然だろう。

 一般的な原則や法則から少しでもはずれた人間を除外する教師などに,

 アクティブ・ラーニングを進める能力はないことだけは確かである。


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校長の言葉の「重さ」と「軽さ」~「2人産め」と言われた子どもはどう思ったか?~

 公立学校の校長の上司は市区町村の教育長である。

 任用の権限を握っているのは都道府県教育委員会だが,学校を設置しているのは市区町村だから。

 校長は,出張が多いと言われるが,市区町村で実施している定例の校長会があり,

 教育長は毎月校長と顔を合わせているはずである。

 教員の服務事故の報告は毎回行われるが,管理職の問題が報告されるのはまれである。

 「2人産め」発言の校長は,口頭での注意にも従わなかったはずだから,適切な判断力を欠いているとみなされ,軽い処分ではすまされないと思われる。


 学校現場からすると,校長の集会等での発言は,どれくらいの重みがあると考えられているだろうか。

 私が接していたのは人間的に魅力のある校長ばかりだったが,やはり中には子どもと同じようなレベルで

 「またどうでもいい自分の過去の話ばかりしているな」と思う人もいた。

 校長とは授業等での接点がない子どもたちにとって,校長の言葉がどれだけ心に響くかはわからない。

 「早く終われよ」という気持ちで聞かされている子どもも多いだろう。


 他の方はどうかわからないが,多くの学校の校長先生の話というのは,生徒にとっては,

 担任のきれい事のお説教に並んで,どうでもいいものの代名詞のようなものだろう。

 だから「2人産め」と言われても,子どもにとっては「はあ?」ですむ。

 ただ,これが教育委員会に報告されてしまうと,「はあ?」ではすまされない。

 学校の隠れた教育目標に,「女子は結婚して子どもを2人以上産むものだと決意させる」なんてものがあったらたまらない。

 
 再任用で校長職を続けているこの人物の普段の言葉に「重み」があったら,それなりの影響力もあるかもしれない。

 ただ,今時の中学生には,「大人の発言のおかしいと思う点を批判する能力」を身につける教育が行われているものと信じたい。

 「主権者教育」という,上から目線の「おしつけ民主主義」的な言葉があるが,まずは「大人の言動に疑問が投げかけられる子どもが育っているかどうか」を問うてみてもいいだろう。

 ぜひ,該当校の子どもの声を聞いてみたい。

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どんなに偏差値が高い学校でも,1学年に200人いたら,200番の生徒がいる

 校内の偏差値が低いある高校生が,ある塾に通って,有名大学に進学した,という話は,調べてみたら,

 もともと偏差値が高い高校の校内偏差値が低い人物だった,という話がある。

 どんなに偏差値が高い学校でも,成績が下位の生徒がいる。

 得点順に並べたら,200人いれば必ず200番がいる。

 最下位の200番と中位の100番の生徒の得点差が数点違い・・・なんていうことはない。

 1クラス15人くらいで運営する塾の中でならありうるかもしれないが。

 どんなに偏差値が低い学校でも,必ず校内順位が1位の生徒はいる。

 成績だけで見た場合に限っても,どちらの方が子どもにとって幸せか,本人にも簡単には説明できないだろう。

 ~という有名校の生徒という「看板」に,どれだけの意味があるか。

 塾と同じように内容を先取りして学習している学校の授業に,どれだけの意味があるのか。

 成績下位の子どもたちがどのような苦悩を抱えて学校や塾での生活を送っているのか。

 この子どもたちは将来,どのような立ち位置を社会で見つけていくのか。

 取り越し苦労であってほしいが,どうしても気になってしまう。

 ある有名国立小学校の保護者が,面談で,「こんな成績では困るから,塾に通わせた方がいい」と言われたそうだ。

 あきれて言葉も出ない。


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塾歴社会と「勉強嫌い」の子どもたち

 読書編で鉄緑会での講師経験のある教え子の話を書いたが,

 ここでは「塾漬け」の子どもたちの気の毒さにもふれておきたいと思う。

 以前から,「塾の宿題が多くて学校の宿題ができない」という子どもが目につき始めてはいた。

 最近は,「塾の宿題をする時間がないから学校では宿題を出さないでくれ」という親まで登場している。

 学校より塾の宿題を優先するため,学校での提出物が滞り,そのために低い成績をとっている子どもがいる。

 高校や大学の入試で内申点が加味されない仕組みであれば,別に学校でよい成績をとる必要はない。

 だから提出物をいっさい出さずに,学校の成績が低くなったとしても,行きたい高校や大学に進学することに成功しさえすれば,それでかまわないと思う子どもがいても不思議ではないが,一応,プライドが邪魔をするらしい。

 親にも子どもにも,「本当はもっといい成績をとれる人間なんだ」という自負がある。

 ここのところ,自分が所属している組織がもっている論理ではなく,あくまでも自分だけの論理を傲慢に主張する人間が増えてきているのは確かだろう。

 アスペルガーでも何でも,とりあえず「その人が考えていることを尊重する」ゆとりが周囲にある社会というのは決して悪いものではないが,親も含めて,「将来きっと痛い目に遭うだろう」という危惧を抱かせてくれる子どもが増えている。

 昼休みや放課後に,鉄緑会の宿題を図書室でやっている子どもをたまに見かけるが,いかにもつまらなさそうにやっている。授業での態度も同じである。もちろん,そうでない生徒もいるが。
 
 私は決まってそういう子どもに「将来の希望は何?」という質問をすることにしているが,決まって「まだない」と答える。

 そんなことを考えるよりも,東大に入ることがまずは第一なのである。

 京大の副学長も,「勉強嫌いな学生が増えた」ことをどこかの記事で述べていたが,中学校2,3年生が高校の内容を学習してしまえば,実際の高校の授業では新たに学べる楽しさなどは一切ない。高校は「復習」する場となる。

 テストでよい点をとることだけが目的ならば,その方が効率がよい。

 だから入試対策の王道とは,前倒しの学習である,と読書編では書いた。

 あまり自分で書いていても気分はよくないが,北京ダックの食材のようなものである。

 野菜の促成栽培くらいに思っておけばよいのだろうか。

 勉強が嫌いになった先に待っているものは何だろうか。

 どんな塾でも,合格するのはその塾に所属している上位のわずかな生徒たちである。

 ある中学受験の塾の東京校の小6は,20クラスあるという。

 塾は絶対にクラス別の合格者数を公開しないだろう。

 受ける前から合格か不合格かの判定はかなりの「精度」で可能になっていると思われる。

 その「精度」が低い中学校の受験は,塾が勧めないという証言も得ている。

 塾歴社会の「勝ち組」の中にも,上層ではなく下層社会があることを忘れてはならない。

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PDCAサイクルが学校でうまく機能しない理由

 PDCAサイクルを重視した学校運営,教科指導等を経営目標としている学校の中には,それがうまく機能していないところもあるだろう。

 その理由と考えられることのうちの1つをここで指摘しておきたい。

 それは,「Question」の欠如である。

 PDCAサイクルは短期,中期,長期の計画・実践の見直しのために行うわけだが,そもそも「前年踏襲型」の学校には縁のない話である。

 組体操を延々と続けることも,「伝統だから」「続いているから」というのが「続けている」理由で,もちろん「生徒に達成感を味わわせることの大切さ」も見いだせるのだが,組体操でしかそれが得られないわけではないはずである。

 子どもたちがいかに「ひよわ」になっているかもよくよくわかっていて,怪我のリスクが高まっているにもかかわらず,あえて「つよさ」を求める場合には,死を覚悟で臨ませる,という気概も無視はできないが・・。

 「新たなプランづくり」をしようという発想がない学校には,そもそもPDCAサイクルを意識する文化はないのである。

 それもこれも,計画,実行,評価,改善の各段階で,しっかり立ち止まって「なぜ?」とか「おや?」とか「違和感がある」とかいった「Question」を大切にする文化がないことが背景にある。

 そしてさらにその背景には,「時間的,精神的余裕がない」ことがある。ただこれは,教育者としては言ってはならない言い訳である。

 私の初任校では,学年の会議にそれはそれは長い時間を要したが,いつもと同じ行事計画を検討するだけでも,多くの「意見」「提案」が出された。その背景には,「過去の反省」があり,今年の子どもたちの実態を踏まえての「対応策」がある。

 「これでいいのか?」「これでいいと思ってやっているのだが,どこかおかしい」「何が足りないのか」「何が過剰なのか」といった「疑問」を教師たちは常に持ち続けていた。

 時間をかけるべきところで,しっかり時間をかけることも教師にとっては大切である。

 若い先生方には,ぜひ私と同じような経験をさせてあげてほしい。

 一つ前の記事で,

>PDCAサイクルは有名だが,PDQCAサイクル,PDCQAサイクル,QPDCAサイクルなどと名称を変えて,「質問」「疑問」を大切にする文化を共有していきたい。

 と書いた理由を記しておいた。 

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「主力」の異動による学校の教育力低下を避ける方法

 間もなく新学期が始まる。

 新学期に向けて,戦々恐々としている小中学校があるはずである。

 今まで「学校を支えていた」と周囲が認める「主力」の教員が異動してしまうことがわかっている場合。

 一言で「主力」といっても,様々な「能力」で学校を動かしていた人がいる。

 教員の管理職のパイプ役。

 制度的には「主幹」という新しい職がそれを担うべきだが,実質的なパイプ役,調整役は他にいる場合もある。

 生活指導の支柱的存在。

 ただ厳しいだけでなく,生徒からの信頼もあつく,「この先生に言われたら仕方ない」と思われているような存在。

 生徒にとっての心の支えとなっている存在。

 養護教諭の場合もあるし,副担任を長くつとめている「やさしい先生」がこれにあたる。

 成績処理等,ICTに詳しい人。

 コンピュータに詳しいからといって,何でもその人におしつけていると,いなくなったときにお手上げになる場合がある。

 これらの「主力」が抜けるとき,「抜ける人に匹敵する能力をもっている教員」の転入を管理職が教育委員会に求めるのだが,教員異動はそう簡単にはいかない。

 残った教員の中で,「主力」の役割を継げる人がいることが望ましい。

 人材育成は,「主力」の側にとっての大切な「任務」でもあるのだが,児童生徒の指導以外に,教員の人材育成も計画的・意図的にすすめることは可能なのだろうか。

 この点で最も余裕があり,かつ,それを行うべき立場であるのは「管理職」である。

 だから,教育委員会の側として,「管理職」を評価することは簡単。

 力のある人を自分の学校から異動させ,それより力が劣る人を他校からもらって,学校の機能が維持できている管理職は,管理職としての能力が高いと評価できる。

 もちろん,「学ぶ姿勢を大切にする」学校文化も大切である。

 子どもに「教え込もう」という意図が強い学校のうち,「自ら学ぼう」とする意欲を育てられていないところでは,教員自身も「自ら学ぼう」とする気持ちが乏しいことが多い。

 よく,「新採の教員で有望かどうかは,質問の数が多いかどうかでわかる」といわれる。

 黙って指示されたことしかしない,または最初から自己流で行動する,こういう教員の方が圧倒的に多いかもしれないが,こういう場面ではどのように指示をしたらよいのか,こういう場面では何をしてはいけないのかなど,若いうちに習得しておかないと,ベテランになっても「指導力の乏しい」教員になってしまう。

 「質問文化」は,子どもも,教員も,同じようにもっていることが望ましい文化である。

 PDCAサイクルは有名だが,PDQCAサイクル,PDCQAサイクル,QPDCAサイクルなどと名称を変えて,「質問」「疑問」を大切にする文化を共有していきたい。

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中3自殺の中学校【調査報告書】から学ぶべきこと

 高校入試は,心が大きく揺れ動き,自分でもコントロールが難しくなる15歳にとって,非常に大きなプレッシャーになるものである。

 だからこそ「ゆとり」の中で生きる力を重視する教育の大切さが叫ばれ,公立の「中高一貫校」が全国に誕生することになった。

 公立の「中高一貫校」で実施されている「適性検査」は,実質的に「学力検査」よりも高度で,「塾での指導が高得点に直結しやすい」特殊な「試験問題」になってしまった。
 
 「受験時期の前倒し」は,負担をかける場所が小学校に移っただけのように見えるが,吸収力の高い小学生にとっては,「能力を高めるよい機会」になっているという考え方もある。


 さて,本題に戻す。テーマは広島での中3自殺である。

 【調査報告書】には,全国の中学校への警鐘として読んでもらいたい箇所がある。

 「荒れた学校」には特に。

 規律を重視した生活指導,ルールを破った者は推薦しない,という進路指導のどこに落とし穴があるのか。


 生活指導で「厳しい」学校を落ち着かせるには,「厳しい」生活指導で,という考え方は正しいのか,間違っているのか。


 生徒が多くの問題行動を起こすのは,「厳しい生活指導をしなかったから」なのか?


 「先生はどうせ聞いてくれない」という「あきらめ」を中学生に抱かせるのが「生活指導」なのか?


 生活指導では,ときに「押さえる」べきときがある。

 「いじめ」や「暴力」がそれにあたる。もちろん,「暴力」を「暴力」で「押さえつける」ということではない。

 「押さえ」がきく教師ばかりでないのは仕方がない。


 「指導の一貫性が大事」だからといって,すべての教師が闇雲に「押さえ」にかかると,生徒は思いもかけない突発的というか暴発的な行動にでることがある。

 これは,教師の側が原因で引き起こされる,教師にとっても生徒にとっても「災難」とよぶべきものである。
 
 
 まだ15歳の春のイメージなど全くわかない小学校7年生たちが,仮に問題行動を起こしたとして,これが原因で「学校推薦が受けられない」というペナルティが科せられる中学校は,「教育機関」ではないことが明白である。

 「問題行動前科者」には,「推薦資格」は与えられない。

 このことだけでも「教育の場」と言えるかどうかが議論になり得るのだが,

 
 自殺をしてしまった中3生徒は,「該当者」ではなかったのに,生活指導の担当者が記録の訂正を怠ったために「該当者」扱いされてしまったという。


 死を選んでしまうほどの生徒の絶望感を3年もかけてじっくりと育ててしまった中学校の生活指導,進路指導はどのようなものだったのか。

 調査報告書に書かれている「指導体制」の杜撰さは,他の学校でもいくらでもありうるものである。

 
 今後,校長の肩に過去にないほどの重圧がかかってくる時代になるだろう。

 
 だれも管理職になる気がなくなる学校現場を救えるのはだれか。

 
 現職の管理職はもちろんだが,「調査報告書」を読んで,二度と悲劇を繰り返さないという強い意思がもてる人が少しでも増えてくれることを祈りたい。

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よい本,授業,学習とは何か?

 学年末の成績処理関係の事務作業で忙しい時期である。やらなければならないことはたくさんあるが,ついつい,生徒に書いてもらった「授業の感想」などを読んでしまう。

 1人に対して返答を書く時間を1分としても,200分以上・・・4時間の作業を覚悟しなければならない。

 感想を読むと,とりあえず自分が生徒に伝えるべきだと考えていたことは,しっかりと伝わったのだと安心できる。

 教師は生徒の評価をしなければならないのだが,同時に生徒からも厳しい評価を受けている立場でもある。

 あえて感想を書かせるときに,それが「心にもないこと」である可能性は排除できないが,どのような力がついたか,を問うことで,お世辞で誤魔化す余地をなくすことができる。

 教師が自分の役割をいったん終えることができた,と実感することができるのが今の時期である。

 よい授業とは何か?

 生徒にとって,ためになる学習とは何か?

 読書編の方で,「よい本」の定義としてとてもしっくりくる解説が冒頭でなされている新書本のご紹介をしたい。

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Minecraftでの建築技術対戦

 Minecraftというゲームに初めて取組む10歳と60歳では,

 どちらがより魅力的な世界をつくりあげることができるだろうか。

 60歳の人には,世界を旅したり,仕事や趣味を通して多くの人やモノに出会った経験があり,

 10歳の小学生にはそれらが決定的に欠けている。

 それなのに・・・・。

 私には娘のつくっているような建物をつくる気力はない。

 起伏の激しい広大な世界の,どこに何をどのようにつくるか。

 娘はあっという間に決断し,「自分の世界」をつくりあげることができる。

 建造物の破壊は指先一つでおわり,いくらでも再建が可能である。

 試しにつくってみては,壊したり手直ししたり,自由自在にデザインしている。

 空間認識が最も育ちやすい時期に取り組むと,その後の脳の発達にもよい影響が出るのではないかと期待してしまう。

 ICTは,大人を超える子どもをつくれるということを信じたくない大人がいることはよくわかる。

 もちろん,経験は最大の武器だが,大人というのは経験しない方がよかったこともたくさん持っている悲しい生きものである。

 いかに幸福な人生を送っているか,不幸な人生を送ってきたかは,書かれている文章を読めばよく伝わってくる。

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原稿を見ずに発表することを義務にする

 アクティブ・ラーニングの授業だと聞いて言ってみたら,

 子どもたちは手元の原稿を丸ごと棒読みしているだけで,

 他の子どもたちは自分の原稿を見ながら読む練習をしていた,

 という悲惨なものだった。

 お金を出して参観しに来た立場から言うと,詐欺にあったようなものである。

 孤独な生徒たちの朗読の時間に付き合わされるのに,なぜお金を払う必要があるのか。

 
 先日,ある発表会に参加して,子どもたちのアンケートを読んで気づいたのだが,

 私の学校の生徒だけが原稿を見ずに発表していた,というコメントがあった。

 
 他にもそういう学校があったが,それは「暗記していたことを読んだ」もので,

 「発表とはいえない」という認識だったのかもしれない。


 日本でも中国でも,大きな大会では教員だけでなく,首相も原稿を一字一句間違えずに読むことが求められる。

 「原稿を配布して終わりでいいのでは」とだれでも思うことだが,「式典の挨拶」のような感覚でとらえればよいのだろうか。

 
 ただ,式典の挨拶と,学習発表の場面では,性質が異なる。

 
 原稿を読んでいるだけでは,本当にわかっていることを話しているのかどうか,わからない。


 教育実習生の授業が,これと同じような状況になることもある。

 内容がわかっていない人が話す内容は,内容を知らない人が聞くとよくわからない,ということが多い。

 それに不規則的な質問や発言に対応できない。

 卒論の口頭試問のようなかたちが最も厳しく力がつく言語活動と言えるのかもしれない。 


 次回は,「原稿を見ながら読むことを禁止する」というルールをつくってみようかと考えてみたが,

 参加校が減ったら困るのでやめておこう。


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塾に情報を提供することで,学校と塾が共栄するシステム

 ある学校群への進学実績がよい塾は,より多くの生徒を集めることができる。

 そうやって集めた生徒たちが,その学校群を大勢受験する。

 多くは淘汰されてしまうが,実績が上がって,その学校群をめざそうとする子どもが増える。

 学校と塾が共栄する仕組みをつくるのは簡単である。

 学校が塾へたくさんの情報を漏らす。

 その塾に通った子どもが有利になる。

 そういえば,私が昔受けに行った試験問題を解説していた人は,

 ある有名私立中の先生だった。

 塾の問題をつくっている人が,入試問題もつくっていれば,それは成果も上がりやすいだろう。

 学校も塾も儲かるWin-Winの関係の中で,増える教育費にあえぐ家庭が増えていく。

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子どもについていけない教師たち

 本日,ある私立大学附属の小学校に勤務されている先生にお話をうかがうと,

 とうとう小学生のICT活用力が,苦手な教師のそれを上回る事態になっていることを知りました。

 特に今後懸念されるのは,小学校でICTを使いこなしている子どもが中学校に進学したときに,さらに能力を伸ばす教育が保障できるのか,ということだそうです。

 一貫校の強みのように見える連携は,見方を変えると

 上級校の教師の弱みが露見するほどの能力をもった生徒がそろうということである。

 だれもがよく知っているとは言いがたい,

 ICT,ESD,GISなどの教育の連携,架け橋となる人をしっかり確保し,実践している学校は素晴らしい。

 機動力の高さは,失敗をなかったことにできるほどの早い変化への対応力と読み替えることができる。

 子どもに求めている力が自分についてない教師をいたずらに責めるわけにもいかない。

 それほど子どもの適応力は優れている,ということである。

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負け続ける戦略 ~中国に負けることの意義~

 日中戦争が泥沼化し,長期化する中で,太平洋戦争が始まった。

 この間,中国には「負け続ける戦略の意義」を唱える人がいた。

 中国は日本に負け続けていた方がよい。

 必ず国際的に日本が孤立する日が来る。

 日本に中国が痛めつけられ続けることで,日本は

 アメリカ,イギリス,ソ連を完全に敵にまわし,

 それぞれの国との戦争が始まれば,日本は敗れることになるだろう・・・。

 
 スポーツの世界でも,いまだに韓国では,日韓戦(韓日戦)に勝つことに異常な執着があるという。

 スポーツの政治利用は,今に始まったことではないが,そもそも国対抗での大会があることが,政府にとっては都合がよい。

 もし日本が中国との試合に負け続けるようになると,どのような政治的効果が生まれるだろうか。

 日本側からすると。

中国側からすると。

 日本が中国に負け続けると,中国の人が日本を今以上に嫌いになることはないのではないか。

 逆のことは,「日本憎し」の感情をかきたてることになる。

  
 オリンピックの場合には,そもそもこのような感情を生み出すことが目的の「国際的行事」ではない。

 「オリンピック精神」を子どもたちに教える教育が,東京都などを中心にして開始されることになる。

 どのような教育内容になるのか,そろそろ新聞紙上でも特集が組まれることになるだろう。

 「勝った」「負けた」「メダルをいくつとった」がすべてではない人間の精神の高潔さが尊ばれる教育はどのようにしたら可能だろうか。

 五輪の出場切符を獲得できなかった監督はクビ,という「結果がすべて」という動きは,「教育」の世界が目指しているものとは完全に正反対のものである。

 もし五輪に出場したら,どれくらいのスポンサーがついて,経済効果が何億円で・・・という話をされると,「要は金儲けのためにみんなやっている」ことがバレバレになってしまう。

 世の中には,「非道徳的」「反道徳的」なことに充ち満ちている。

 こういうことに批判的な道徳の授業をつくると,「反政府」的な思想をもたせることになっていく。

 政府主導で「道徳の教科化」を進めているが,自分で自分のクビを締めていく結果になることも想定しているだろうか。


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国民不名誉症 ~頑張っても負けたら価値がなくなるのが「オリンピック精神」か?~

 かつて国民栄誉賞を受け取ったなでしこジャパンが,

 リオ五輪のアジア最終予選の戦績がふるわず,五輪出場が絶望的になっている。

 イチローが国民栄誉賞の受賞を辞退した理由は,

 「モチベーションが下がる」というものだった。

 国民栄誉賞は内閣が支持率を上げるための道具だと解説している人もいるが,

 さすがに「拒否できる人」は相当限られていると思われる。

 イチローが現役を続行できる理由は,それだけのパフォーマンスが維持できているからである。

 なでしこジャパンのパフォーマンスが落ちているのかどうかはわからないが,

 五輪出場ができないという「不名誉」なことになると,

 すぐに「責任問題」が浮上する。

 選手は悪くない。監督が悪い。

 どこかに「責任」を負わせることで,モヤモヤを払拭させようとする国民性は

 「国民不名誉症」と名付けてもよいのではないか。

 
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実践を語る人とただの「べき論」だけを語る人

 社会科の研究会での講師を依頼されるときは,

 「ぜひ実践の話をお願いしたい」という条件がついている。

 「理論を聞いてもあまり参考にならない」

 「理論の話をしている人の中には,絶対に授業をしたことがないなとわかってしまう人がいる」

 という声を耳にすることが多い。

 「実践を通して体得した自分なりの理論」を語れるのがベストなのだろうが,

 それはすべて「相手」=「生徒」あっての話である。

 だから,他の教師の実践の話を聞きながら,自分ではどのような実践にしようか,

 どうアイデアをちょうだいするか,自分の教えている生徒に合わせてどうアレンジしようか,

 と考えるのが研究会を実施する目的であることが望ましいのだろう。

 より魅力的な実践の提案をすることが,

 「理論派」への望ましい挑戦方法ということになる。

 
 実践的な能力が高い教員を採用するための問題の事例を紹介する。

 もしあなた(教員採用試験受験者)が社会科の授業で,「富山ブラック」を教材化するとしたら,どのような方法が考えられるか。

 地理か,歴史か,公民か。

 単元の目標は何か。

 どのような力を見つけることができるか。

 どんな問題(テスト)で,力がついたかどうかを確かめるか。


 私なら,ドラえもんの「鍋奉行」の話と,ある理由で大量の残飯問題が発生した中学校での給食の問題を題材にしながら,「東日本」と「西日本」の違いなどを考えさせる地理の授業にしたい。


 「べき論」発想の人には対応不可能な問題だろう。
 
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他人を平気で嘘つき呼ばわりできる人

 ある生徒が,「小学校ではみんな平気で嘘をついていた」と言いました。

 理由を問うと,「先生はみんなを信じてくれていたから」だそうです。

 教師は子どもを信じていてくれる存在なのだから,堂々と嘘をついて,自分の悪事を認めなければよい。

 「心の教育」「道徳」の悪用パターンです。

 「人は人を信ずるべきだ」・・・・「あっそう,じゃ,いくらでも嘘がつけるね」・・・・

 子どもたちは「人から信用されること,信頼されることの大切さ」を学ぶことなく,少なくとも6年間の学校生活を送ってしまったということです。

 小学生たちは,教師による「心にもない嘘」もよく見抜いています。

 たいしたことないことですぐ褒める教師を見ながら。

 「本心じゃない」というのがばれている。だから,褒められてもうれしくない。


 一度「嘘をついていたこと」「平気で嘘がつけること」「嘘をつくことが当然であること」がばれてしまった以上は,教師は子どもを,子どもは教師を信用することはできない・・・・というわけにもいきません。


 生活指導場面の経験を重ねると,中学生はどういうときに,どういう風な嘘をつくかがわかってきます。

 嘘の証拠がつかめる(他の人には違うことを言っていたなど)場合もあれば,つかめない場合もある。

 「いつかは嘘をつかないで自分に正直になれる日が来る」ことを信じて,指導を続けていくわけです。


 こういう指導を重ねた教師なら,他人を平気で嘘つき呼ばわりできる人間は教師に向かないことがわかります。

 もし何かが嘘というのであれば,その証拠を示さないといけません。

 真実が何かを示す必要があるのです。

 でもそれは,非常に難しいことでもあります。

 証拠を示さずに,「嘘だ」「嘘だ」と言っても何も始まりません。


 そういえば,裁判所の悪口も書いていた人がいました。

 司法を嘘つき呼ばわりするような経緯を想像するのはそれほど難しいわけではありませんが,

 それも単なる想像です。

 人を嘘つきだと糾弾できる人間の脳内物質・・・アドレナリンの出方をコントロールするのは,

 「望ましい基本的生活習慣と人間関係づくり」しかありません。

 学校に通うのが一番の治療方法です。


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才能が大きく開花する前の時期・段階を大切にしたい

 昨日の夜の情報番組で,久しぶりに卒業生と再会できた。

 中学校時代は自分のやりたいことが思う存分できたわけではない生徒だったが,きっとそのときに溜め込んだエネルギーを全部発散しているところなのだろう。

 人のために役に立ちたいという情熱をもっていても,周囲の環境がそれを許さない場合もある。

 人から支持されないというつらい経験を中学校時代に味わえたからこそ,おしつけがましくない,

 本当に人から求められる仕事ができる人間に成長してくれたことがよくわかる。

 中学校や高校で目立つ活躍ができなかった生徒の方が,大学や社会人として大きく成長してくれている姿を見るのはとてもうれしい。

 つらい経験をバネにしているからこそ,より高いところに手が届いているのだと信じたい。

 今の中学生たちを見る目も変えさせてくれる,素晴らしい活躍である。

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他人になりすまして自分のブログにコメントを入れる人

 村に溢れる匿名のブログ記事の内容に対して,どれだけ信頼を寄せてくれる読者がいるかはわからないが,世の中の動きの背景に何があるか,あらゆることの可能性を排除しない主義の人ならば,あらゆる文章にそれなりの価値が生まれる。

 一見するとどうでもよい記事でも,なぜこの人はこれほどまでに情熱をかけて,リアクションのない相手をこき下ろし続けるのか,そのエネルギーの源泉は何なのかを想像することは,身近にいる「困った人」の扱いの参考になる可能性がある。

 ほとんど内容のない自分の記事に対して,他人になりすまして自分をほめるコメントを書き込む人。

 「治療法」としての効果があり,だれにも迷惑をかけない行為であって,それで本人の攻撃性が弱まれば,むしろ周囲は助かる・・・。

 ただ,「嘘は許されない」という価値観を最優先すれば,「そんな人間の存在自体が許せない」という「怒りの誘発・刺激剤」になってしまう。

 アドレナリンを出すことが「生きがい」「生きている実感がわく」状態になる人にとって,人を怒らせることは,次に自分が逆ギレするための「エサまき」になっている。

 昔,歳をとると怒りっぽくなる,という人がいた。

 わがままな年寄りを大目に見てやってくれ,という趣旨の発言だったと思うが,孤独で怒りっぽい老人は本当に手がつけられない。

 ただコンピュータに向かって悪口を書いているだけですんでいるうちは,それでよしとするしかあるまい。

 「不良老人」になっていく団塊の世代が増えて,いずれ刑務所か老人ホームかわからない施設が増えていってしまうことだけは避けたいものである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より