偉そうに小学校教育に関する著書を出されているが,学校現場では子どもの目の前で他のクラスの教師の批判を平気で口にする先生がいらっしゃる。
教師集団全体への信頼感を獲得できないで中学校に上がってくる子どもは,中学校に入っていきなり不適応を起こしやすい。こういう大事なことは,小学校の先生が書いている本には登場しない。小学校によっては,学級の楽園(無法地帯)があるだけで,学年集団の結束が欠如しているところが多く,公立の中学校ではだからこそ「組体操が欠かせない」などという発想になってしまうのである。
この学級の子どもが中学校でどういう事態に陥っているかの具体的なレポートを付録で読めるようにプレゼントしてあげたい・・・というのはただの厭味である。
先生のお書きになっている本の趣旨は,「どうしたら小学生を思い通りに動かせるようになるか」であるが,頭の良い教え子たちは,本にわざわざ書かなくても「先生はこうすることを望んでいるのだろう」としっかり読んで行動する習性がついている。
このブログでは,過去にも「操作主義的な教師の習性」の問題点を何度か指摘してきているが,自主的判断にせまられる場面が多くなる中学校で,こういう教師の教え子たちは何もできなくなってしまうから,気の毒ではあるがおもしろい。
教師の顔色をうかがいながら生活する習慣を身につけた子どもたちを陰から観察していると,やがて「開放される悦び」というか,「自分を取り戻すことのうれしさ」を全身で表現できる時期が来るから,私たちは救われた気持ちになるのである。
教師が授業中にいつも「指導案」「教科書」「原稿」「資料」を見ながら進めているのを体験した方はいらっしゃるだろうか。
「え?そんなの当たり前じゃない?」と思う人がもしかしたら多いかもしれないが,私は中学校でそういう教師に出会ったことがない。高校では資料が多くなるので,そちらに目を落とす時間が長くなるが,中学校では基本的に教師と子どもはアイコンタクトをとりながら授業を進めている。
常に生徒を見てくれている教師は,わずかなサインも見逃さないぞというメッセージを送ってくれているように思える。
小さなつぶやきが耳に届き,その反応にリアクションを返してくれることのうれしさを感じた人はいないだろうか。
教師は授業をする上で,単元の目標というものを持っている。
そして本時の課題があり,目標がある。その目標を達成するための指導の展開をあらかじめ考えておき,資料を用意したり,重要な発問を書いたカードをつくっておいたりして,授業に臨み,理想的にはしっかりとしたまとめの時間をとって,生徒が理解できたかどうかを確かめて授業を終えるという通常の流れがある。
これを記すのが「指導案」であるが,なかなか授業は予定通りにいくとは限らない。
というか,授業研究をしている先生にとっては,予定通りに授業が進むことほど「つまらない」ものはない。
教師の話も脱線するし,子どもの興味も脱線していく。
ただその先が教科の本質とマッチしている限り,無理矢理軌道修正をすることなく,授業は流れに任せるのが普通である。
進度を乱さないことがすべてである塾と学校の違いはここにある。
子どもが嫌う教師の例は,わざわざ紹介するまでもないが,
「自分」の予定を決めておき,子どもが何を質問しようと無視して,「自分」だけのペースで授業を進めて終わって職員室に帰っていくタイプである。
子どもにとっては,その時間に寝ていても,教師の「仕事」には影響しないので,何の支障もない。
別に先生に「悪い」とも思えないだろう。教師はこちら側の理解度がどうなっているかにはほとんど関心がないのだから。
よく,「どのレベルの生徒に合わせて授業は進めるのですか」という質問を受けるが,
それは授業によっていくらでも変化するとしか言いようがない。
そもそも「どのレベル」とは,学力の高い低いを言っているのか,知識の量の多い少ないを言っているのか,学習意欲の高い低いを言っているのかわからない。
レベルの高い発言が出てきたら,それをかみ砕くようにレベルを下げることもあるし,
逆にレベルの低い発言しか出てこなかったら,「もしこう言われたらどう?」と高いレベルの問いへ引きつけることもある。
授業は生きものである。
考え得るすべての対応を指導案にしようとしていたら,そのために1年以上授業ができなくなる場合もある。
テストのできが悪かったとき,こういうことを言う教師はいなかっただろうか。
「こんなことは,授業で教えたはずです!」
この教師にとっての「教えた」という言葉の意味は,(自分が)「言葉を発した」とほぼ同じである。
「教える」ことの意味がわからない教師に習う子どもは不幸である。




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