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自分が学んで本当に楽しいと思えることを教えられる幸せ

 昔と違って,教育実習で学校現場に来る学生や若い先生たちには,多くの「遠慮」がある。

 これでいいのか,誤っていないか,適切なことを言っているかなど,

 とても心配で仕方がないような雰囲気のある人が多い。

 「アクティブ・ラーニング」を進めたいが,子どもたちが予想もしなかった反応をどんどんすうようになる。

 それに対する適切な応対というか指導ができるか不安だ,という声もよく聞かれる。

 教師が「遠慮」がちに授業を進めているうちは,学習内容というのは子どもの身に入っていかないような気がする。

 昔は,明らかに間違っている内容でも堂々と語る「図々しい」教師が若い人にも多かった。

 よほどいい加減な・・・というか,大学でろくな勉強をしなかった人だろうな,という教師が大きな顔をすることができた時代があった。

 今は,そんな「はったり」教師は現場に立ちにくくなっている。

 ここのところ,いくつの論文もどきに目を通しているが,大学院の論文らしきものの中にも,明らかな誤りがすぐにたくさん見つかる。

 こういう論文でも,一応「業績」になってしまうのが大学という場所らしい。

 私の言葉で表現すれば,「逆コンピテンシー業績」であるはずだ。

 日本語としてよく練られていないために何を言いたいのかよくわからない論文も少なくない。

 何か偉そうなことを書いているようでも,現場ではほとんど経験がなさそうな雰囲気が漂ってくる。

 言葉の意味そのものが非常に曖昧なものが多い社会系の論文の質は,だれがどのように担保しているのか,全く不明である。

 大学は今でもそれで成り立つところらしいが,公立学校の現場はもはやそんな隙は見せられない。

 学校の先生が教えた「まちがい」「うそ」を,塾の先生がきちんと正してくれてしまうような時代である。

 「確からしさ」への不安というのは,こういう情勢を背景としたものと考えてよいだろうが,

 子どもにとって何が許容できるマイナスで,何が取り返しのつかないマイナスかというと,

 知識が曖昧だったり,いい加減なものしか身につかない場合は,どうせすぐに忘れてしまうようなものだから,マイナス度はたいしたことない。

 しかし,いかにもつまらなさそうに,機械的に,不安そうに授業を進める教師の態度こそが,子どもに限りない悪影響を与えていると私は考えている。

 はったりでも堂々としていた方が,グローバル社会で生きていくにはよほどためになる。

 そういう姿を学校で見続けることができるのであれば,自分自身が同じように生きることがしやすくなる。

 子どもは大人の似なくてもよいところほど似やすいものである。


 大学生や若い教師は,学習を本当の意味で楽しまないといけない。

 学習そのものを楽しもうとする姿勢こそが,子どもによい影響を与えてくれる。

 楽しんで学んだことを,同じように教えて「楽しさ」を子どもと共有できるような教師が増えてほしい。


 子どもだけがわいわいやっている姿を見るだけで楽しそうにしている教師は邪魔にならなくてよいが,

 そういう大人に自らなろうと思う子どもはいるまい。いてもいなくても同じだから。

 そういう教師になれたときには,すでに定年退職間近になってしまっていることだろう。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より